今回は九州豊後の戦国武将、大友宗麟を紹介します。宗麟と言えばキリシタン大名で有名ですが、宗麟以外にもキリストを崇拝していた武将は多くいたんです。大友家と言えば、家臣が優秀なことでも有名ですが、宗麟自身も中々多才な人物として知られているぞ。

まぁ、ここでごちゃごちゃ言うのもあれなんで、戦国武将を語りたくてうずうずしているライター、すのうにバトンタッチして解説してもらうとするか。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。大友家は代々家族間の争いが多かった一族。戦国のお家事情に興味があるライター、すのうが解説していく。

大友義鑑の嫡男として誕生する

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大友義鎮(おおともよししげ/後の大友宗麟)は、享禄3年(1530年)大友家第20代当主・大友義鑑(おおともよしあき)の嫡男として豊後府内(現在の大分市)に誕生。宗麟と名乗るのは出家後となりますが、ここでは宗麟で統一させていただきます。幼名は塩法師丸。元服後、足利義晴の「義」の字を貰い義鎮と名乗りました。元々あまり上手くいっていなかった義鑑と宗麟。大友家は内紛が絶えない一族であり、義鑑は、側室との間に産まれた三男の塩市丸を溺愛します。宗麟の家督継承を認めない義鑑は、塩市丸に家督を譲ろうと画策。こうして、宗麟と義鑑はますます不仲になっていきました。

二階崩れの変が起こる

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大友義鑑は、側室との間に産まれた三男の塩市丸を溺愛し、後継者にしようと考えていました。嫡男である宗麟が邪魔であった義鑑は、宗麟を排除しようと、大友家重臣の、斉藤播磨守(さいとうはりまのかみ)小佐井大和守(こざいやまとのかみ)津久見美作守(つくみみまさかのかみ)田口艦親(たぐちあきちか)に相談を持ちかけます。ところが、四名ともに宗麟に家督を継承するべきと主張。

これに激怒した義鑑は、宗麟の傅役だった入田 親誠(にゅうた ちかざね)と共謀し、播磨守と大和守を殺害。身の危険を感じた美作守と艦親は、大友館を襲撃。二階で就寝していた塩市丸と母親を殺害し、義鑑も瀕死の重傷を負いました。義鑑は、この時の傷が元で二日後に死亡。これが大友家のお家騒動、「二階崩れの変」と呼ばれています。その後、宗麟が家督を継承。大友家第21代当主の座につきました。

キリスト教を手厚く保護、初の総合病院を建設

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天文14年(1545年)宗麟が16歳の時、弟の晴英(後の大内 義長)が南蛮から伝来した鉄砲を試し撃ちしようとした際に弾が暴発。その時、来日していたポルトガル人の手当てを目の当たりにした宗麟は、発展した西洋医療の技術に衝撃を受けます。当時はポルトガルやスペインからイエズス会の宣教師たちが数多く来日。キリスト教を広めるためにやってきた彼らに、大名たちはこぞって接触をはかります。中々手に入らない鉄砲や西洋の美術品など、見るもの全てが珍しい物ばかり。表向きには布教を許し、品物目的に近づく大名が多くいました。当初は宗麟もその中の一人だったのです。しかし、そんな宣教師たちの姿に宗麟自身が惹かれるようになっていきました。

天文20年(1551年)宗麟は、山口で布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招き入れ会見。キリスト教の布教活動を許し、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を派遣しています。翌年から多くのポルトガル人宣教師が豊後府内に来日。こうして豊後府内は南蛮貿易の窓口として栄えていきました。
弘治元年(1555年)宗麟の保護の元行われた布教活動に賛同した、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダは、貧しさから子どもを手放す母親を見て、宗麟の許可を得て乳児院を設立。そして、二年後には、日本初の総合病院(府内病院)を建設し、医師免許を持つアルメイダが外科手術を行い、入院施設を設けるなど、全国から多くの患者を受け入れました。

宗麟の手腕で最盛期を迎えた大友家

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By 土佐光吉か(策彦周良賛) - The Japanese book "Voices from the Past: Historical Sources and Art Treasures (時を超えて語るもの:史料と美術の名宝)", Historiographical Institute The University of Tokyo (東京大学史料編纂所), 2001, パブリック・ドメイン, Link

天文20年(1551年)、周防(現在の山口県)の大内義隆が家臣である陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自刃に追い込まれると、宗麟は隆房と共謀し、弟の晴英(大内義長)を大内家の当主として送り込みます。義隆は、宗麟の母の弟。つまり叔父と甥の間柄でした。長年、大内家と対立していた大友家にとっては、大内家に従属していた北九州・周防・博多方面を支配下に置いたことで、莫大な利益を得るようになります。宗麟は、肥後(現在の熊本県)の菊池 義武(きくち よしたけ/宗麟の伯父)・肥前(現在の佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・毛利に内通した元家臣の高橋鑑種(たかはしあきたね)らを鎮圧しました。

ところが、弘治3年(1557年)弟の義長が毛利元就に攻められ自害。周防方面への影響力を失った大友家は、元就と北九州で対戦し、何とか大内領は確保することに成功します。そして、第13代将軍・足利義輝に、鉄砲や火薬などを献上して将軍家との仲を強化。こうして宗麟は、北九州6ヶ国の守護となり、九州探題(きゅうしゅうたんだい/室町幕府の軍事的出先機関)となりました。

\次のページで「次第に勢力を弱めていく大友家」を解説!/

次第に勢力を弱めていく大友家

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By 不明 - 毛利博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

九州での勢力を拡大していた大友家でしたが、宗麟がキリストの布教を許したことで、キリストに反発する家臣との間で対立。正室であった奈多夫人(なだふじん)も八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基の娘。キリストを保護する宗麟とは、信仰を巡って度々争うようになっていきます。そして、1558年から続く毛利元就との合戦、門司城の戦いに敗戦したことにより出家し、永禄5年(1562年)自らを義鎮から休庵宗麟と称しました。永禄13年(1570年)、肥前の龍造寺隆信との今山の戦いにおいて弟、大友 親貞(おおとも ちかさだ)を失い大敗。肥前への侵攻も危うくなっていきます。

こうして、大友家は徐々にに勢力を弱めていきました。天正4年(1576年)宗麟は家督を嫡男である大友義統(おおともよしむね)に継承。二代政治を行うようになりますが、共同政治の確執もあり親子の仲はあまり良いものではありませんでした。義統自身もかなりの酒豪で、当主の器としての人望には乏しかったようです。しかし、大友家の家臣達は優秀な逸材が多く、雷神と呼ばれた立花道雪や名将と言われた高橋紹運・立花宗茂など、義に厚い家臣の活躍は有名ですね。

理想国家は実現せず、耳川の戦いで敗退

家督を義統に継承し、隠居生活に入った宗麟でしたが、大友家の実権は宗麟が握っていました。天正4年(1576年)には、ポルトガルの宣教師から日本初となる大砲、フランキ砲を輸入。これが敵の国をも崩す威力があるとし「国崩し」と命名されます。天正6年(1578年)7月、宣教師のフランシスコ・カブラルからから洗礼を受け「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式なキリスト教信者となりました。しかし、戦場でも陣中で礼拝するなど、軍の指揮は下がる一方だったのです。

宗麟はこの頃から無鹿(現在の宮崎県延岡市)にキリスト教の理想国家を作る夢を抱き始めていましたmusikaとはラテン語で「音楽」を意味する言葉であり、全ての民がキリストを崇拝し、教会を建て、賛美歌やヴィオラの音色が流れる平和な都市。宗麟はそのためなら手段を選ばず、神社などの仏閣を焼き払うなどの残虐な行為を行います。宗麟のキリスト教信仰が影響し、離反していく家臣も多くいました。同年行われた耳川の戦いで大友軍は島津軍に大敗。元々義統率いる4万の軍勢の士気は乏しく、二万を超える大友軍の死者で耳川は溢れかえったと言われています。この大敗により宗麟は豊後に撤退。理想国家の夢が実現することはありませんでした。

大友家は衰退…宗麟の死

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天正13年(1585年)立花道雪が病死。これを機に、九州で勢いを強めていた島津の軍勢が豊後に侵入を始めます。岩屋城の戦いで、高橋紹運も自刃するなど優秀な家臣を失い、もはや弱体化しつつある大友家の力では勝てる見込みがない…宗麟は意を決して大坂城の豊臣秀吉に謁見し助けを求めました。豊臣傘下となる条件で秀吉からの援護を約束された宗麟は、九州征伐の緒戦となる戸次川の戦いで豊臣軍として参戦

ところが、総大将である讃岐国(現在の香川県)の仙石秀久の敗走により総崩れとなり敗退。臼杵城に籠城していた宗麟にも、島津の軍勢が押し寄せてきます。しかし、宗麟は国崩しを発射、さらには義統隊の救援も加わり臼杵城を守り抜きました。天正15年(1587年)、秀吉による九州征伐が開始されます。20万と言う大軍を迎え撃った島津軍でしたが、圧倒的な兵の数に敗北。豊臣軍の圧勝により、義統には豊後一国が安堵されます。秀吉は宗麟にも日向国を与えようとしますが、統治力をなくしていた宗麟がこれを辞退。この頃から病気を患っていた宗麟は、同年津久見城にて58歳で逝去。病名はチフス(細菌感染症)と言われています。

宗麟亡き後の大友家

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By 落合芳幾 - [1] 東京都立図書館, パブリック・ドメイン, Link

宗麟亡き後の大友家は、義統が文禄・慶長の役(平壌城の戦い)において、小西行長隊から応援要請があったにも関わらず、家臣からの誤報を信じ撤退したことで、秀吉の怒りを買い改易処分となってしまいます。秀吉が亡くなった後、豊臣秀頼によって処分をとかれ、関ケ原の戦いで西軍として復活。しかし、義統の嫡男、大友 義乗(おおとも よしのり)が義統改易後、加藤清正に預けられ、徳川秀忠の家臣となっていたことから、大友家の家臣であった吉弘統幸(よしひろむねゆき)は東軍に味方するべきと強く主張。しかし、義統はこれを却下し西軍に味方します。

結果、東軍勝利で関ケ原の戦いは幕を閉じ、義統は再び流罪となってしまいました。東軍に付いていた義乗はその後、常州筑波郡(現在の茨城県)に3300石の領地を与えられ、大身旗本となります。義乗死後は次男の大友義親が家督を継ぎますが23歳で逝去。跡継ぎがいないことで断絶となりますが、後に高家(こうけ/江戸時代の役職)として再興し、1500石の知行を与えられています。

文化人としての活躍が目立った大友宗麟

大友宗麟は、キリスト教を信仰することで南蛮文化に興味を抱き、総合病院建設など、最先端技術を豊後に取り入れ、さらに演劇や西洋音楽の発祥地とも言われるほど豊後の発展に貢献しました。当時のヨーロッパでは王と称えられ、地図にはBUNGOとJAPAN二つの文字が刻まれるほどであり、織田信長より知名度が高かったと言われています。一時は島津と対抗する勢力を持っていた大友家は、宗麟がキリスト教を信仰することで、反信仰派との対立が悪化。九州6ヶ国を平定するまで勢力を拡大していましたが、島津に押され徐々に衰退の一途を辿るようになります。しかしそんな宗麟を救ったのは、優秀な家臣たちでした。豊州三労と呼ばれた立花道雪・高橋紹運・臼井鑑速(うすきあきはや)は有名ですね。

多くの戦いに参戦した宗麟は、「武士」と言うより文化人として活躍することが多く、茶器を好んで集めたり、さらには蹴鞠の名手とも言われ、その腕前はかなり優秀だったそうです。そんな顔とは裏腹に美貌を好み、家臣の妻でさえも奪う好色癖があったとか。そんな宗麟を義鑑が嫌い、塩市丸に家督を継承させたかったと言われています。キリストを崇拝することで優しい神のようなイメージの宗麟ですが、そんな激しい一面もあったとは驚きですね。理想のキリシタン国家を作る夢は実現しませんでしたが、キリシタン大名として、豊後の発展に貢献した宗麟の偉業は現在でも多くの人に語り継がれています。

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今回は九州豊後の戦国武将、大友宗麟を紹介します。宗麟と言えばキリシタン大名で有名ですが、宗麟以外にもキリストを崇拝していた武将は多くいたんです。大友家と言えば、家臣が優秀なことでも有名ですが、宗麟自身も中々多才な人物として知られているぞ。

まぁ、ここでごちゃごちゃ言うのもあれなんで、戦国武将を語りたくてうずうずしているライター、すのうにバトンタッチして解説してもらうとするか。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。大友家は代々家族間の争いが多かった一族。戦国のお家事情に興味があるライター、すのうが解説していく。

大友義鑑の嫡男として誕生する

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大友義鎮(おおともよししげ/後の大友宗麟)は、享禄3年(1530年)大友家第20代当主・大友義鑑(おおともよしあき)の嫡男として豊後府内(現在の大分市)に誕生。宗麟と名乗るのは出家後となりますが、ここでは宗麟で統一させていただきます。幼名は塩法師丸。元服後、足利義晴の「義」の字を貰い義鎮と名乗りました。元々あまり上手くいっていなかった義鑑と宗麟。大友家は内紛が絶えない一族であり、義鑑は、側室との間に産まれた三男の塩市丸を溺愛します。宗麟の家督継承を認めない義鑑は、塩市丸に家督を譲ろうと画策。こうして、宗麟と義鑑はますます不仲になっていきました。

二階崩れの変が起こる

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大友義鑑は、側室との間に産まれた三男の塩市丸を溺愛し、後継者にしようと考えていました。嫡男である宗麟が邪魔であった義鑑は、宗麟を排除しようと、大友家重臣の、斉藤播磨守(さいとうはりまのかみ)小佐井大和守(こざいやまとのかみ)津久見美作守(つくみみまさかのかみ)田口艦親(たぐちあきちか)に相談を持ちかけます。ところが、四名ともに宗麟に家督を継承するべきと主張。

これに激怒した義鑑は、宗麟の傅役だった入田 親誠(にゅうた ちかざね)と共謀し、播磨守と大和守を殺害。身の危険を感じた美作守と艦親は、大友館を襲撃。二階で就寝していた塩市丸と母親を殺害し、義鑑も瀕死の重傷を負いました。義鑑は、この時の傷が元で二日後に死亡。これが大友家のお家騒動、「二階崩れの変」と呼ばれています。その後、宗麟が家督を継承。大友家第21代当主の座につきました。

キリスト教を手厚く保護、初の総合病院を建設

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天文14年(1545年)宗麟が16歳の時、弟の晴英(後の大内 義長)が南蛮から伝来した鉄砲を試し撃ちしようとした際に弾が暴発。その時、来日していたポルトガル人の手当てを目の当たりにした宗麟は、発展した西洋医療の技術に衝撃を受けます。当時はポルトガルやスペインからイエズス会の宣教師たちが数多く来日。キリスト教を広めるためにやってきた彼らに、大名たちはこぞって接触をはかります。中々手に入らない鉄砲や西洋の美術品など、見るもの全てが珍しい物ばかり。表向きには布教を許し、品物目的に近づく大名が多くいました。当初は宗麟もその中の一人だったのです。しかし、そんな宣教師たちの姿に宗麟自身が惹かれるようになっていきました。

天文20年(1551年)宗麟は、山口で布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招き入れ会見。キリスト教の布教活動を許し、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を派遣しています。翌年から多くのポルトガル人宣教師が豊後府内に来日。こうして豊後府内は南蛮貿易の窓口として栄えていきました。
弘治元年(1555年)宗麟の保護の元行われた布教活動に賛同した、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダは、貧しさから子どもを手放す母親を見て、宗麟の許可を得て乳児院を設立。そして、二年後には、日本初の総合病院(府内病院)を建設し、医師免許を持つアルメイダが外科手術を行い、入院施設を設けるなど、全国から多くの患者を受け入れました。

宗麟の手腕で最盛期を迎えた大友家

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By 土佐光吉か(策彦周良賛) – The Japanese book “Voices from the Past: Historical Sources and Art Treasures (時を超えて語るもの:史料と美術の名宝)”, Historiographical Institute The University of Tokyo (東京大学史料編纂所), 2001, パブリック・ドメイン, Link

天文20年(1551年)、周防(現在の山口県)の大内義隆が家臣である陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自刃に追い込まれると、宗麟は隆房と共謀し、弟の晴英(大内義長)を大内家の当主として送り込みます。義隆は、宗麟の母の弟。つまり叔父と甥の間柄でした。長年、大内家と対立していた大友家にとっては、大内家に従属していた北九州・周防・博多方面を支配下に置いたことで、莫大な利益を得るようになります。宗麟は、肥後(現在の熊本県)の菊池 義武(きくち よしたけ/宗麟の伯父)・肥前(現在の佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・毛利に内通した元家臣の高橋鑑種(たかはしあきたね)らを鎮圧しました。

ところが、弘治3年(1557年)弟の義長が毛利元就に攻められ自害。周防方面への影響力を失った大友家は、元就と北九州で対戦し、何とか大内領は確保することに成功します。そして、第13代将軍・足利義輝に、鉄砲や火薬などを献上して将軍家との仲を強化。こうして宗麟は、北九州6ヶ国の守護となり、九州探題(きゅうしゅうたんだい/室町幕府の軍事的出先機関)となりました。

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