今回は、松平春嶽を取り上げるぞ。幕末に活躍した殿様のひとりですが、言われるほど賢かったのか具体的な業績も知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔から幕末が大好きで、勤王佐幕に関係なくほとんどの人に興味津々。例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、松平春嶽について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平春嶽(しゅんがく)は田安家の出身

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春嶽は文政11年9月2日(1828年10月10日)江戸城内の田安屋敷で誕生。
父は御三卿田安徳川家第3代当主徳川斉匡(なりまさ)、徳川治済の五男で11代将軍家斉の異母弟なので、春嶽は11代将軍の甥。母は側室で連以の方、閑院宮家司木村大進政辰の娘です。

越前松平家は親藩で家康の次男で結城秀康の子孫になりますが、春嶽ご本人の血筋はかなり徳川将軍家に近いんですね
幼名は錦之丞、8男(夭折が多く実質は3男)ですが、はやくから伊予松山藩主松平勝善の養子に内定していて、天保8年(1837年)11月25日には正式決定。
子供の頃は勉学に励んでやたらと書きものに紙を消費したので、父から「羊」と言われたそう。

1-2、春嶽、越前福井藩主の急逝で末期養子に

天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主11代家斉の息子の松平斉善(なりさわ)が18歳で突然死去。跡継ぎがいなかったので、福井藩先々代藩主で松平斉承(なりつぐ)の正室松栄院(浅姫、家斉娘で12代将軍家慶異母妹)や、第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶という親戚の話し合いで、9月4日付で急遽春嶽が養子として後継ぎに。10月20日に正式に越前松平家の家督を継承、わずか11歳で福井藩主に
春嶽は12月11日に元服し、将軍家慶の偏諱をもらって慶永(よしなが)に。
天保10年(1839年)2月頃、慶永と肥後熊本藩主細川斉護の娘勇姫との縁談交渉が密かに進行、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認。春嶽は養子先変更で、結婚相手もばたばたと決まったのですね。

2-1、春嶽、藩政改革を始める

春嶽は、11歳で江戸城の田安屋敷を出て江戸市中の越前福井藩の屋敷に入りましたが、当時の越前福井藩には90万両という莫大な借金が。そこで春嶽は天保10年(1839年)2月より、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出して、財政基盤を盤石にすることに努力。そして天保11年(1840年)1月には、藩政の旧守派の中心人物であった家老松平主馬を罷免、以降の藩政は中根雪江らの改革派が主導権を。春嶽は中根や由利公正、橋本左内らの補佐のもとに、財政改革の他に、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を実施することに。

春嶽には中根雪江、由利公正、橋本左内といった有能な補佐がついていたのですが、11歳の春嶽が最初に自らの歳費を半額に切り詰め木綿の服に一汁一菜にするなど倹約につとめることで、家臣たちに模範を示し、側近らを感激させたというのが泣かせます。

2-2、春嶽、16歳で初のお国入り

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春嶽は16歳の時に越前福井の地元に初入国、領地内を視察してまわりました。農民の老婆が稗団子と菜雑炊を食べていると聞き、試食して見たらまずくて食べられない代物にショックを受け(今から見るとヘルシーな健康食ですが、味がなかったそう)領民の苦難を実感、何としても財政改革が必要と心に決めて実行したのでした。
「国が豊かになるにはまず庶民から」と、生糸などの特産品産業を盛り立てて利益をあげて借金を減らしたのですが、こういう姿勢の殿様なので、国元では明治以後も「春嶽さん」と親しみを込めて呼ばれ続けたということ。

そういうわけで、春嶽の藩政改革は着実かつ強固に行われていて、人材の登用、藩政の刷新に努めたうえに西洋砲術などの軍事力の強化、藩校明道館の設立なども実行。西洋医学にも力を入れて種痘の導入なども推進。

3-1、26歳のときに黒船来航

Shungaku Matsudaira.jpg
By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永6年(1853年)、春嶽25歳のとき、アメリカのマシュー・ペリー提督の率いる艦隊が来航。
このとき春嶽は、水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張したのですが、老中の阿部正弘らと交流するうちに開国派に。

3-2、春嶽、将軍継嗣問題で慶喜支持運動するが安政の大獄で蟄居に

この頃、13代将軍家定の継嗣問題について、老中首座の堀田正睦が中心になって、一橋慶喜を将軍に、春嶽を大老とする「一橋派」と、井伊直弼が推す紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」の対立があり、春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押し。しかし井伊直弼が大奥の支持を得て大老となって実権を握り、将軍世子は家茂に。そして幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したので、春嶽は徳川斉昭らとともに江戸城登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居、謹慎の処罰が。

春嶽は、越後糸魚川藩主松平直春の四男の茂昭を養子とし、藩主の座を譲りました。この安政の大獄での強制隠居で、それまでの慶永を春嶽に名乗りを変更。

蟄居中の春嶽
尾張の徳川慶勝は同じ頃、強制隠居中に写真撮影にはまっていましたが、春嶽は家臣の佐々木長淳(ながあつ)が横浜でゲットして組み立ててくれた自転車、「ビラスビイデ独行車(どっこうしゃ)」で邸の馬場を走り回ったりしていたということです。この自転車は木製の三輪仕様の自転車としても初期のもの、明治維新150年を記念して福井で復元されたそう。
蟄居中はのんびり趣味に生きるのが殿様ワールドなんですね。

4-1、春嶽が登用した逸材たち

春嶽は、身分にこだわらずに他人の話をよく聞き、良い物は取り入れる主義。
「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残しているほど。
なので、他藩の優秀な人材も積極的に取り入れています。
春嶽が登用したおもな人材を挙げてみましょう。

4-2、横井小楠(しょうなん)

横井小楠は、熊本藩出身の儒学者。安政4年(1857年)3月に春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れて、福井に招聘。小楠の内諾後、春嶽は舅でもある熊本藩主細川斉護に書状を送って、小楠の福井行きを願い出たのですが、斉護は小楠の実学党による藩校の学風批判などがあって小楠を嫌っているせいか断りました。が、春嶽がしつこく要請してやっと承諾。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行い、春嶽にも助言を。その後、「国是三論」を著し「国是七条」を建策、慶喜が将軍になった後、福井藩に対して「国是十二条」を提出。
尚、小楠を福井藩へ紹介したのは、当時、尊皇攘夷思想運動で頭角を現わしていた小浜藩士の梅田雲浜というのは意外ですね。

4-3、中根雪江

中根は最初の頃は春嶽の教育係として、後に御用掛となり国学を教授。
そして藩政改革にも参与して、全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減の倹約政策などを行いました。笠原白翁(良策)などにも援助を行って、牛痘を普及して天然痘予防を。

4-4、橋本左内

春嶽より6歳年下で、越前福井藩の藩医の家に生まれました。15歳にして「啓発禄」を書き、嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事。父の病気で帰藩し藩医兼藩校明道館学監となってからは、その優秀さが春嶽の目に留まり腹心に。左内は江戸に遊学したときに、水戸の藤田東湖や西郷隆盛と交友があり、西郷隆盛は同年代の左内を特に優秀だと認めていたということ。左内は松平春嶽の補佐として将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立に奔走し、安政の大獄で罪に問われて25歳で処刑。

4-5、由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正は明治後に改名した名前で、福井藩士時代は三岡八郎。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発されて財政学を学び、春嶽に財政手腕を評価されて藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建。春嶽が幕府政事総裁職に就任すると側用人として貢献。しかし長州征伐で、征伐不支持派と薩摩藩や長州藩などの雄藩支持派の提携を画策したものの、支持を得ることができずに蟄居謹慎処分に。謹慎中に、坂本龍馬の来訪で交流を深めたそう。龍馬とは、新政府が取るべき経済政策について話し合ったことが、後に新政府への参画に結びついたということ。尚、「五箇条の御誓文」は、公正が作成した「議事之体大意」が原文

\次のページで「4-6、坂本龍馬に勝海舟を紹介」を解説!/

4-6、坂本龍馬に勝海舟を紹介

春嶽と龍馬の出会いは越前福井藩の記録によると文久2年12月5日だそう。
当時は紹介状もなくいきなり訪問しても相手に会えなかったので、龍馬に紹介状を書いて仲立ちしたのは、龍馬の恩師である千葉道場の千葉定吉か息子の重太郎で、福井藩の剣術指南役という縁からではと言われています。春嶽は一介の土佐浪人の龍馬が気に入り、勝海舟と横井小楠に紹介状まで。勝の12月9日の日記にも龍馬以下3人が来たと記録があります。また春嶽は、神戸の海軍操練所を作る際に龍馬に5千両の資金援助もしたということ。

5-1、春嶽、文久の改革で政事総裁職に

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井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、春嶽は文久2年(1862年)4月には幕政へ復帰を許されることに。 その頃、島津斉彬の死後、弟の島津久光が兵を率いて上洛、政局に積極的に関ってきていて、勅使の大原重徳とともに江戸へ下って、幕府に慶喜を将軍後見職、春嶽を大老にせよと要求。

ということで、文久2年7月9日(1862年8月4日)、春嶽は新設の政事総裁職に就任、将軍後見職となった慶喜とともに京都守護職に会津藩主松平容保の就任を説得、嫌がる容保に会津家家訓を持ち出して強引に押し切り、14代将軍家茂の上洛などの公武合体政策を推進といった文久の改革を実施。春嶽は横井小楠も政治顧問アドバイザーとして重用しました。

5-2、春嶽、調整がうまくいかず政事総裁職を放り出す

翌文久3年(1863年)には上洛するも長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、春嶽や慶喜らの活動は制限されたので、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとし、春嶽はこれに反対。3月2日(4月19日)に政事総裁職の辞表を提出したが受理されないまま京都を離れて越前福井に帰国。このため、3月25日に逼塞処分を受けて政事総裁職を罷免されるはめに。 肝心の春嶽が逃亡してしまい、春嶽の懇望で上洛した島津久光、山内豊信、宇和島藩主伊達宗城(むねなり)も相次いで帰国。京都での将軍家茂の補佐役は、慶喜と容保、老中水野忠精、板倉勝静が残るのみに。

5-3、実現しなかった「挙藩上京計画」

文久3年(1863年)6月、横井小楠主導で進められていた「挙藩上京計画」が福井城中に全藩士を集めて発表されました。この計画は、「天下に大義理を御立通し成され候御趣意」というもので、春嶽と現藩主茂昭をトップに、藩の重臣以下藩の最大兵力を動員、「身を捨て家を捨て国を捨る」「一藩君臣再び国に帰らざる覚悟」。越前を捨てる覚悟の全軍が京都に出兵して首都を制圧。朝廷と幕府どちらにもつかず、政局内の過剰な対立は武力で鎮圧して後に両勢力を合議すること、そして広く才能ある人材を登用して、早急かつ緩やかな改革を推進するとしたものでした。
これは薩摩藩と連携して熊本藩や加賀藩などにも加勢を頼み、孝明天皇も了承済だったと言われています。
越前福井藩の天下掌握のような計画は、特に在京の諸氏諸藩を騒然とさせたものの、肝心の越前福井藩内外の反対派の活動があり、他藩、朝廷、幕府との連携もうまくいかずに決行直前の8月半ばに急遽中止。発案者の横井小楠も熊本へ帰ってしまいました。

なかなか野心的な計画なのに時期早急だったのでしょうか。

5-4、春嶽は参預に任命され上洛したが、結局は体制崩壊に

京都では会津藩と薩摩藩が協力した文久3年(1863年)8月18日の政変で長州藩が追放、禁門の変で長州藩が朝敵となると春嶽は参預に任命されて、諸勢力に促され11月に上洛。しかし肝心の参預会議は、参預諸侯間の意見の不一致で機能せず。朝廷側の中川宮が文久4年2月16日(1864年3月23日)、参預諸侯を自邸に招いて酒席を設けたのに、席上で泥酔した慶喜は中川宮に対して、島津久光、春嶽、伊達宗城のことを「この3人は天下の大愚物、大奸物なので自分と一緒にしないでほしい」と暴言を。この事態に島津久光が激怒して参預会議を見限ってしまい、春嶽や薩摩藩家老小松帯刀らの奔走むなしく、元治元年2月25日(4月1日)に山内容堂が京都を去って、3月9日(4月14日)に慶喜が参預を辞任、体制崩壊。
春嶽は元治元年2月15日(1864年3月22日)には軍事総裁職に転じた容保に代わって京都守護職に就任したが、4月7日には辞職と目まぐるしい事態に。

5-5、春嶽、四侯会議に参加

慶応3年(1867年)、島津久光の要請で西郷隆盛に促され、山内容堂、伊達宗城が相次いで上洛し春嶽も薩摩藩の小松帯刀の説得で四侯会議が。これを朝廷および雄藩連合による合議制にすることを久光は画策。第1回の会合は5月4日(6月6日)に京都の越前藩邸で開かれた後、2週間あまりの間に8度も行われ。四侯の他に朝廷関係者と慶喜らも加わった会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合いが。
春嶽は長州征伐には最後まで反対したものの慶喜が巧みな弁舌で勝利。
尚、この会議での失敗以降、薩摩藩は強硬に倒幕路線に。土佐藩は幕府擁護の姿勢、慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もこれに賛同。
12月9日(1868年1月3日)の王政復古の宣言の前日に、春嶽は朝廷より議定に任命。
春嶽は王政復古後の薩摩、長州軍による討幕運動には賛成しなかったのですが、戊辰戦争では、越前福井藩は薩長主導の明治新政府に加わっていて、江戸無血開城後、上野の彰義隊の討伐に参戦しています。

\次のページで「5-6、春嶽、維新後は明治政府の要職に」を解説!/

5-6、春嶽、維新後は明治政府の要職に

明治2年(1869年)に民部卿と大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍読に。
そして学制改革に取り組み、大学での国学と儒学、行政官と教官の調停を任されることに。尚、この調停は不調に終わり、春嶽は明治3年(1870年)、一切の官職を辞して今度こそ本当の隠居に。
「逸事史補」「幕儀参考」等を執筆して、伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂。

明治23年(1890年)に享年63歳で死去。

6、春嶽の逸話

色々な春嶽の逸話を集めてみました。

6-1、日本最後の銭貨の文字のひとつ宝を書く

幕末期に鋳造発行された貨幣「文久永宝」の文字は、当時幕府上位閣僚のうち能筆とされた3人の筆となっています。「文」字が楷書体のは、若年寄だった小笠原長行筆によるもので「真文(しんぶん)」。草書体の「攵」が老中板倉勝静の筆によるもので「草文(そうぶん)」。そして草書体で「寳」の字が「宝」となっているものが、春嶽の筆によるものです。

6-2、年号制定にもかかわった

「元治」という元号は春嶽が幕府と朝廷を説得して決め、「明治」という元号も春嶽が命名したということです。

6-3、明治後に書いた著書が貴重な史料に

13代家定を「芋公方」と言ったとか人物評に定評のある春嶽ですが、「逸事史補」という著作に同時代人についての寸評などを残していて、貴重な史料となっています。
「世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈公、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語っていたそう。

6-4、日本最初のリンゴ栽培

春嶽は文久2年(1862年)、アメリカから西洋のりんごの苗木を取り寄せ、それを江戸巣鴨の越前邸に植え、接ぎ木して100本以上増やしたそう。その後慶応2年 (1866年)に津軽の旅籠屋 平野慶太郎氏が、春嶽のりんごの枝を接木した苗木2本を江戸で求めて津軽に持ち帰って植樹したのが、青森のりんご栽培の始まりということ。(ただしその数年前、巣鴨近隣の加賀藩下屋敷での栽培記録も存在)。

6-5、春嶽の子孫

春嶽は12人の子供に恵まれましたが、育ったのは娘4人、息子2人で、四男は尾張家を継いだ徳川義親(よしちか)。植物学者などでもあり、戦前はマレー半島で虎狩りをしたので有名ですが、徳川黎明会を作り代々の貴重な美術品などを散逸させず保存し徳川美術館を設立したことでも有名。
三男慶民は、 侍従、宮内大臣、宮内庁初代長官を歴任し、その息子の永芳は自衛官などを務めた後、靖国神社の宮司としてA級戦犯らも合祀したことで有名。

有能な人を見抜いて登用するのが上手だった松平春嶽

春嶽は御三卿の家に生まれたが幼くして越前福井藩主となり、倹約に勤め有能な家臣を登用して藩の財政を立て直し、四賢侯と言われ、将軍継嗣問題運動で一橋慶喜を支持したものの安政の大獄で失脚。そして政事総裁職となりましたが、ブレーンがいないところではあまりぱっとしなかったが、その後も横井小楠を招聘したとか、坂本龍馬を勝海舟に紹介したなど維新に不可欠な才能を見出して周旋に勤めるという才能を発揮、この分野では他に真似ができない立派な業績を治めた殿さまでした。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末4賢侯のひとり「松平春嶽」龍馬と勝を引き合わせた殿様について歴女がわかりやすく解説

今回は、松平春嶽を取り上げるぞ。幕末に活躍した殿様のひとりですが、言われるほど賢かったのか具体的な業績も知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔から幕末が大好きで、勤王佐幕に関係なくほとんどの人に興味津々。例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、松平春嶽について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平春嶽(しゅんがく)は田安家の出身

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春嶽は文政11年9月2日(1828年10月10日)江戸城内の田安屋敷で誕生。
父は御三卿田安徳川家第3代当主徳川斉匡(なりまさ)、徳川治済の五男で11代将軍家斉の異母弟なので、春嶽は11代将軍の甥。母は側室で連以の方、閑院宮家司木村大進政辰の娘です。

越前松平家は親藩で家康の次男で結城秀康の子孫になりますが、春嶽ご本人の血筋はかなり徳川将軍家に近いんですね
幼名は錦之丞、8男(夭折が多く実質は3男)ですが、はやくから伊予松山藩主松平勝善の養子に内定していて、天保8年(1837年)11月25日には正式決定。
子供の頃は勉学に励んでやたらと書きものに紙を消費したので、父から「羊」と言われたそう。

1-2、春嶽、越前福井藩主の急逝で末期養子に

天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主11代家斉の息子の松平斉善(なりさわ)が18歳で突然死去。跡継ぎがいなかったので、福井藩先々代藩主で松平斉承(なりつぐ)の正室松栄院(浅姫、家斉娘で12代将軍家慶異母妹)や、第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶という親戚の話し合いで、9月4日付で急遽春嶽が養子として後継ぎに。10月20日に正式に越前松平家の家督を継承、わずか11歳で福井藩主に
春嶽は12月11日に元服し、将軍家慶の偏諱をもらって慶永(よしなが)に。
天保10年(1839年)2月頃、慶永と肥後熊本藩主細川斉護の娘勇姫との縁談交渉が密かに進行、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認。春嶽は養子先変更で、結婚相手もばたばたと決まったのですね。

2-1、春嶽、藩政改革を始める

春嶽は、11歳で江戸城の田安屋敷を出て江戸市中の越前福井藩の屋敷に入りましたが、当時の越前福井藩には90万両という莫大な借金が。そこで春嶽は天保10年(1839年)2月より、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出して、財政基盤を盤石にすることに努力。そして天保11年(1840年)1月には、藩政の旧守派の中心人物であった家老松平主馬を罷免、以降の藩政は中根雪江らの改革派が主導権を。春嶽は中根や由利公正、橋本左内らの補佐のもとに、財政改革の他に、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を実施することに。

春嶽には中根雪江、由利公正、橋本左内といった有能な補佐がついていたのですが、11歳の春嶽が最初に自らの歳費を半額に切り詰め木綿の服に一汁一菜にするなど倹約につとめることで、家臣たちに模範を示し、側近らを感激させたというのが泣かせます。

2-2、春嶽、16歳で初のお国入り

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春嶽は16歳の時に越前福井の地元に初入国、領地内を視察してまわりました。農民の老婆が稗団子と菜雑炊を食べていると聞き、試食して見たらまずくて食べられない代物にショックを受け(今から見るとヘルシーな健康食ですが、味がなかったそう)領民の苦難を実感、何としても財政改革が必要と心に決めて実行したのでした。
「国が豊かになるにはまず庶民から」と、生糸などの特産品産業を盛り立てて利益をあげて借金を減らしたのですが、こういう姿勢の殿様なので、国元では明治以後も「春嶽さん」と親しみを込めて呼ばれ続けたということ。

そういうわけで、春嶽の藩政改革は着実かつ強固に行われていて、人材の登用、藩政の刷新に努めたうえに西洋砲術などの軍事力の強化、藩校明道館の設立なども実行。西洋医学にも力を入れて種痘の導入なども推進。

3-1、26歳のときに黒船来航

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永6年(1853年)、春嶽25歳のとき、アメリカのマシュー・ペリー提督の率いる艦隊が来航。
このとき春嶽は、水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張したのですが、老中の阿部正弘らと交流するうちに開国派に。

3-2、春嶽、将軍継嗣問題で慶喜支持運動するが安政の大獄で蟄居に

この頃、13代将軍家定の継嗣問題について、老中首座の堀田正睦が中心になって、一橋慶喜を将軍に、春嶽を大老とする「一橋派」と、井伊直弼が推す紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」の対立があり、春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押し。しかし井伊直弼が大奥の支持を得て大老となって実権を握り、将軍世子は家茂に。そして幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したので、春嶽は徳川斉昭らとともに江戸城登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居、謹慎の処罰が。

春嶽は、越後糸魚川藩主松平直春の四男の茂昭を養子とし、藩主の座を譲りました。この安政の大獄での強制隠居で、それまでの慶永を春嶽に名乗りを変更。

蟄居中の春嶽
尾張の徳川慶勝は同じ頃、強制隠居中に写真撮影にはまっていましたが、春嶽は家臣の佐々木長淳(ながあつ)が横浜でゲットして組み立ててくれた自転車、「ビラスビイデ独行車(どっこうしゃ)」で邸の馬場を走り回ったりしていたということです。この自転車は木製の三輪仕様の自転車としても初期のもの、明治維新150年を記念して福井で復元されたそう。
蟄居中はのんびり趣味に生きるのが殿様ワールドなんですね。

4-1、春嶽が登用した逸材たち

春嶽は、身分にこだわらずに他人の話をよく聞き、良い物は取り入れる主義。
「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残しているほど。
なので、他藩の優秀な人材も積極的に取り入れています。
春嶽が登用したおもな人材を挙げてみましょう。

4-2、横井小楠(しょうなん)

横井小楠は、熊本藩出身の儒学者。安政4年(1857年)3月に春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れて、福井に招聘。小楠の内諾後、春嶽は舅でもある熊本藩主細川斉護に書状を送って、小楠の福井行きを願い出たのですが、斉護は小楠の実学党による藩校の学風批判などがあって小楠を嫌っているせいか断りました。が、春嶽がしつこく要請してやっと承諾。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行い、春嶽にも助言を。その後、「国是三論」を著し「国是七条」を建策、慶喜が将軍になった後、福井藩に対して「国是十二条」を提出。
尚、小楠を福井藩へ紹介したのは、当時、尊皇攘夷思想運動で頭角を現わしていた小浜藩士の梅田雲浜というのは意外ですね。

4-3、中根雪江

中根は最初の頃は春嶽の教育係として、後に御用掛となり国学を教授。
そして藩政改革にも参与して、全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減の倹約政策などを行いました。笠原白翁(良策)などにも援助を行って、牛痘を普及して天然痘予防を。

4-4、橋本左内

春嶽より6歳年下で、越前福井藩の藩医の家に生まれました。15歳にして「啓発禄」を書き、嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事。父の病気で帰藩し藩医兼藩校明道館学監となってからは、その優秀さが春嶽の目に留まり腹心に。左内は江戸に遊学したときに、水戸の藤田東湖や西郷隆盛と交友があり、西郷隆盛は同年代の左内を特に優秀だと認めていたということ。左内は松平春嶽の補佐として将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立に奔走し、安政の大獄で罪に問われて25歳で処刑。

4-5、由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正は明治後に改名した名前で、福井藩士時代は三岡八郎。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発されて財政学を学び、春嶽に財政手腕を評価されて藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建。春嶽が幕府政事総裁職に就任すると側用人として貢献。しかし長州征伐で、征伐不支持派と薩摩藩や長州藩などの雄藩支持派の提携を画策したものの、支持を得ることができずに蟄居謹慎処分に。謹慎中に、坂本龍馬の来訪で交流を深めたそう。龍馬とは、新政府が取るべき経済政策について話し合ったことが、後に新政府への参画に結びついたということ。尚、「五箇条の御誓文」は、公正が作成した「議事之体大意」が原文

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