幕末日本史歴史江戸時代

幕末4賢侯のひとり「松平春嶽」龍馬と勝を引き合わせた殿様について歴女がわかりやすく解説

今回は、松平春嶽を取り上げるぞ。幕末に活躍した殿様のひとりですが、言われるほど賢かったのか具体的な業績も知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔から幕末が大好きで、勤王佐幕に関係なくほとんどの人に興味津々。例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、松平春嶽について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平春嶽(しゅんがく)は田安家の出身

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春嶽は文政11年9月2日(1828年10月10日)江戸城内の田安屋敷で誕生。
父は御三卿田安徳川家第3代当主徳川斉匡(なりまさ)、徳川治済の五男で11代将軍家斉の異母弟なので、春嶽は11代将軍の甥。母は側室で連以の方、閑院宮家司木村大進政辰の娘です。

越前松平家は親藩で家康の次男で結城秀康の子孫になりますが、春嶽ご本人の血筋はかなり徳川将軍家に近いんですね
幼名は錦之丞、8男(夭折が多く実質は3男)ですが、はやくから伊予松山藩主松平勝善の養子に内定していて、天保8年(1837年)11月25日には正式決定。
子供の頃は勉学に励んでやたらと書きものに紙を消費したので、父から「羊」と言われたそう。

1-2、春嶽、越前福井藩主の急逝で末期養子に

天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主11代家斉の息子の松平斉善(なりさわ)が18歳で突然死去。跡継ぎがいなかったので、福井藩先々代藩主で松平斉承(なりつぐ)の正室松栄院(浅姫、家斉娘で12代将軍家慶異母妹)や、第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶という親戚の話し合いで、9月4日付で急遽春嶽が養子として後継ぎに。10月20日に正式に越前松平家の家督を継承、わずか11歳で福井藩主に
春嶽は12月11日に元服し、将軍家慶の偏諱をもらって慶永(よしなが)に。
天保10年(1839年)2月頃、慶永と肥後熊本藩主細川斉護の娘勇姫との縁談交渉が密かに進行、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認。春嶽は養子先変更で、結婚相手もばたばたと決まったのですね。

2-1、春嶽、藩政改革を始める

春嶽は、11歳で江戸城の田安屋敷を出て江戸市中の越前福井藩の屋敷に入りましたが、当時の越前福井藩には90万両という莫大な借金が。そこで春嶽は天保10年(1839年)2月より、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出して、財政基盤を盤石にすることに努力。そして天保11年(1840年)1月には、藩政の旧守派の中心人物であった家老松平主馬を罷免、以降の藩政は中根雪江らの改革派が主導権を。春嶽は中根や由利公正、橋本左内らの補佐のもとに、財政改革の他に、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を実施することに。

春嶽には中根雪江、由利公正、橋本左内といった有能な補佐がついていたのですが、11歳の春嶽が最初に自らの歳費を半額に切り詰め木綿の服に一汁一菜にするなど倹約につとめることで、家臣たちに模範を示し、側近らを感激させたというのが泣かせます。

2-2、春嶽、16歳で初のお国入り

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春嶽は16歳の時に越前福井の地元に初入国、領地内を視察してまわりました。農民の老婆が稗団子と菜雑炊を食べていると聞き、試食して見たらまずくて食べられない代物にショックを受け(今から見るとヘルシーな健康食ですが、味がなかったそう)領民の苦難を実感、何としても財政改革が必要と心に決めて実行したのでした。
「国が豊かになるにはまず庶民から」と、生糸などの特産品産業を盛り立てて利益をあげて借金を減らしたのですが、こういう姿勢の殿様なので、国元では明治以後も「春嶽さん」と親しみを込めて呼ばれ続けたということ。

そういうわけで、春嶽の藩政改革は着実かつ強固に行われていて、人材の登用、藩政の刷新に努めたうえに西洋砲術などの軍事力の強化、藩校明道館の設立なども実行。西洋医学にも力を入れて種痘の導入なども推進。

3-1、26歳のときに黒船来航

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永6年(1853年)、春嶽25歳のとき、アメリカのマシュー・ペリー提督の率いる艦隊が来航。
このとき春嶽は、水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張したのですが、老中の阿部正弘らと交流するうちに開国派に。

3-2、春嶽、将軍継嗣問題で慶喜支持運動するが安政の大獄で蟄居に

この頃、13代将軍家定の継嗣問題について、老中首座の堀田正睦が中心になって、一橋慶喜を将軍に、春嶽を大老とする「一橋派」と、井伊直弼が推す紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」の対立があり、春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押し。しかし井伊直弼が大奥の支持を得て大老となって実権を握り、将軍世子は家茂に。そして幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したので、春嶽は徳川斉昭らとともに江戸城登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居、謹慎の処罰が。

春嶽は、越後糸魚川藩主松平直春の四男の茂昭を養子とし、藩主の座を譲りました。この安政の大獄での強制隠居で、それまでの慶永を春嶽に名乗りを変更。

蟄居中の春嶽
尾張の徳川慶勝は同じ頃、強制隠居中に写真撮影にはまっていましたが、春嶽は家臣の佐々木長淳(ながあつ)が横浜でゲットして組み立ててくれた自転車、「ビラスビイデ独行車(どっこうしゃ)」で邸の馬場を走り回ったりしていたということです。この自転車は木製の三輪仕様の自転車としても初期のもの、明治維新150年を記念して福井で復元されたそう。
蟄居中はのんびり趣味に生きるのが殿様ワールドなんですね。

4-1、春嶽が登用した逸材たち

春嶽は、身分にこだわらずに他人の話をよく聞き、良い物は取り入れる主義。
「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残しているほど。
なので、他藩の優秀な人材も積極的に取り入れています。
春嶽が登用したおもな人材を挙げてみましょう。

4-2、横井小楠(しょうなん)

横井小楠は、熊本藩出身の儒学者。安政4年(1857年)3月に春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れて、福井に招聘。小楠の内諾後、春嶽は舅でもある熊本藩主細川斉護に書状を送って、小楠の福井行きを願い出たのですが、斉護は小楠の実学党による藩校の学風批判などがあって小楠を嫌っているせいか断りました。が、春嶽がしつこく要請してやっと承諾。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行い、春嶽にも助言を。その後、「国是三論」を著し「国是七条」を建策、慶喜が将軍になった後、福井藩に対して「国是十二条」を提出。
尚、小楠を福井藩へ紹介したのは、当時、尊皇攘夷思想運動で頭角を現わしていた小浜藩士の梅田雲浜というのは意外ですね。

4-3、中根雪江

中根は最初の頃は春嶽の教育係として、後に御用掛となり国学を教授。
そして藩政改革にも参与して、全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減の倹約政策などを行いました。笠原白翁(良策)などにも援助を行って、牛痘を普及して天然痘予防を。

4-4、橋本左内

春嶽より6歳年下で、越前福井藩の藩医の家に生まれました。15歳にして「啓発禄」を書き、嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事。父の病気で帰藩し藩医兼藩校明道館学監となってからは、その優秀さが春嶽の目に留まり腹心に。左内は江戸に遊学したときに、水戸の藤田東湖や西郷隆盛と交友があり、西郷隆盛は同年代の左内を特に優秀だと認めていたということ。左内は松平春嶽の補佐として将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立に奔走し、安政の大獄で罪に問われて25歳で処刑。

4-5、由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正は明治後に改名した名前で、福井藩士時代は三岡八郎。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発されて財政学を学び、春嶽に財政手腕を評価されて藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建。春嶽が幕府政事総裁職に就任すると側用人として貢献。しかし長州征伐で、征伐不支持派と薩摩藩や長州藩などの雄藩支持派の提携を画策したものの、支持を得ることができずに蟄居謹慎処分に。謹慎中に、坂本龍馬の来訪で交流を深めたそう。龍馬とは、新政府が取るべき経済政策について話し合ったことが、後に新政府への参画に結びついたということ。尚、「五箇条の御誓文」は、公正が作成した「議事之体大意」が原文

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