
島原の乱の再発を怖れた幕府
しかし、いくらキリスト教徒が反発するとは言えあくまでそれは可能性の話ですし、日本を統治する天下の幕府がなぜそこまで反乱を怖れたのでしょうか。それは実際に反乱が起こった前例があるからで、その反乱というのが1637年~1638年にかけて起こった島原の乱です。
最も、島原の乱の原因は藩主の悪政でしたが、反乱が勃発した島原藩の領民の多くがキリスト教徒であり、総大将・天草四郎もまたキリスト教徒でした。最終的に皆殺しという形で反乱を鎮めたものの、そこに至るまで幕府も相当苦戦しており、そのためキリスト教徒によって再び反乱が起こるのを強く怖れたのです。
つまり、幕府が鎖国を行う決定的なきっかけとなったのが島原の乱で、1639年……つまり島原の乱が終わった翌年に鎖国が開始されました。また、日本に住むキリスト教徒を取り締まる必要もあるため、幕府は庶民に踏み絵をさせるなどして徹底的なキリスト教の断絶をはかったのです。
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例えば現在の日本に何らかの宗教が広まり、それが日本政府の方針を否定する教えであれば、日本政府はその宗教の浸透に危機感を持つに違いない。幕府はこの例えどおりの状況に直面したため、鎖国によってキリスト教を排除しようとしたのだ。
貿易可能な場所を限定した管理政策
「鎖国=キリスト教の排除」のイメージがありますが、鎖国は貿易の管理・統制・制限も目的としています。キリスト教の排除に比べてこの目的は少々分かりづらいと思うので、簡単に分かりやすく解説しましょう。日本は外国と貿易を行っていましたが、幕府はそれを管理する必要がありました。
とは言え、日本中の商人達が各々好きな場所で好き勝手に外国と貿易してしまえば、とても全て管理することはできなくなってしまうでしょう。それならいっそ外国との貿易を一切禁止にすれば問題は解決しますが、利益がある以上、日本の経済を考えるとそうもいきません。
そこで管理しやすくするため、外国と貿易可能な場所を4つに限定したのです。これが先の項目でも解説した長崎・薩摩藩・対馬藩・松前藩の4つの窓口(四口)であり、必要に応じてそれぞれの窓口に法令を出すなど、鎖国によって外国との貿易を管理しやすくしました。
貿易を認められたオランダ
鎖国が行われる以前までは、日本は元々スペイン・ポルトガルと貿易をしており、江戸時代に入るとさらにオランダとも貿易をするようになりました。しかし、キリスト教の布教に熱心なスペイン・ポルトガルは鎖国によって来航が禁止されます。一方、オランダとの貿易は鎖国を行ってからも継続されていました。
この理由は簡単で、オランダはスペイン・ポルトガルのような布教活動を行っていなかったからです。幕府が鎖国を行ったのは外国が嫌いだからではなくキリスト教の布教を防ぐためで、その点において無害と判断されたオランダは鎖国による来航禁止の対象になりませんでした。
とは言え、日本との交流が認められたのは基本的に貿易のみですし、来航できるのも長崎のみの限定です。また、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移転しますが、オランダ商館の館長は世界の情勢の報告をまとめたオランダ風説書の提出を幕府に求められていました。

オランダ風説書について少々補足だ。オランダはヨーロッパの中で日本が貿易を行っていた唯一の国となった。だからこそ、ヨーロッパの情勢を知るためにオランダ風説書の提出を求めたのだ。また、オランダ風説書は日本の技術や文化の発展にも役立った。
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