例えば「鎖国=外国と一切交流しない」のイメージがあるかもしれないが、実はそのイメージは間違っている。鎖国とは何か、なぜ行われたのか、鎖国の全てを詳しく知るため日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から鎖国をわかりやすくまとめた。
鎖国の意味
鎖国とは、スペイン・ポルトガル人の来航や日本人の東南アジアへの出入国を禁止して、貿易の管理・統制・制限を目的として行った江戸時代の対外政策です。ただ、幕府としては外国との交友と完全に閉鎖したわけではなく、またそれを望んだわけでもありません。
例えば、鎖国が行われた後も日本は特定の国との貿易を続けており、長崎ではオランダと清、薩摩藩では琉球王国、対馬藩では朝鮮、松前藩ではアイヌと貿易を行っていました。鎖国政策のもと、外国のために設けられたこれら4つの窓口を四口と呼ぶこともあります。
さて、「スペイン・ポルトガル人の来航を禁止」という点から、幕府はこの二つの国に対しては警戒が強いことが分かりますね。実際、これらの国との交流を絶つのが鎖国の目的の一つであり、これは1637年に起こった大規模な一揆である島原の乱の教訓によるものと考えられます。
日本におけるキリスト教の浸透
時は遡って1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に訪れたのをきっかけに、スペインやポルトガルの宣教師によるキリスト教の布教活動が広まっていきました。その広まりは庶民だけでなく大名にまで及び、キリシタン大名と呼ばれる人物まで現れたほどです。
この状況に対して、豊臣秀吉は1857年に禁教令を出します。最も、その目的は宣教師の国外退去であり、それと関係ない外国人の出入りは自由にしていましたし、個人がキリスト教を信仰することも許されていました。そもそもこの時の禁教令はそれほど厳しいものではなかったのです。
これはバテレン追放令とも呼ばれたもので、バテレンとは宣教師を意味します。このバテレン追放令は厳しくなかったことから、制限がついているものの依然活動は可能であり、禁教令が出されながらも宣教師達は活動を続けていました。このため、以降もキリスト教は日本に広まっていったのです。
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身分制度を訴える幕府と平等を訴えるキリスト教
徳川家康が幕府を開いて江戸時代が始まると、士農工商の身分制度が確立しました。正確には豊臣秀吉が兵農分離を行い、武士と農民との身分・地域的な分離政策の過程で成立しつつありましたが、これを確立させたのが江戸幕府だったのです。また、商人の下には穢多・非人(えた・ひにん)と呼ばれる差別的扱いを受ける者もいました。
この身分制度の確立において幕府にとって厄介な存在だったのがキリスト教で、なぜならキリスト教の教えは「全ての人が平等」というものだったからです。「全ての人が平等」……それは身分制度を否定する教えともとれますから、キリスト教徒が増えれば幕府に反発する者が大勢現れる可能性がありました。
ではキリスト教をこれ以上広めないためにはどうすれば良いのか?……それには布教活動を行う国を遮断する必要があり、その布教活動を行う国というのがスペインとポルトガルだったのです。つまり、鎖国を行った目的の根底には「キリスト教の排除」があったということになります。
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