日本史

江戸時代に行った幕府の対外政策「鎖国」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は鎖国について勉強していくぞ。例え歴史が不得意でも、鎖国の言葉を聞いたことがある人はほとんどだろう。それくらい鎖国は有名だが、ここで改めてしっかりと覚えていくぞ。

例えば「鎖国=外国と一切交流しない」のイメージがあるかもしれないが、実はそのイメージは間違っている。鎖国とは何か、なぜ行われたのか、鎖国の全てを詳しく知るため日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から鎖国をわかりやすくまとめた。

鎖国の説明とキリスト教の広まり

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鎖国の意味

鎖国とは、スペイン・ポルトガル人の来航や日本人の東南アジアへの出入国を禁止して、貿易の管理・統制・制限を目的として行った江戸時代の対外政策です。ただ、幕府としては外国との交友と完全に閉鎖したわけではなく、またそれを望んだわけでもありません。

例えば、鎖国が行われた後も日本は特定の国との貿易を続けており、長崎ではオランダと清、薩摩藩では琉球王国、対馬藩では朝鮮、松前藩ではアイヌと貿易を行っていました。鎖国政策のもと、外国のために設けられたこれら4つの窓口を四口と呼ぶこともあります。

さて、「スペイン・ポルトガル人の来航を禁止」という点から、幕府はこの二つの国に対しては警戒が強いことが分かりますね。実際、これらの国との交流を絶つのが鎖国の目的の一つであり、これは1637年に起こった大規模な一揆である島原の乱の教訓によるものと考えられます。

日本におけるキリスト教の浸透

時は遡って1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に訪れたのをきっかけに、スペインやポルトガルの宣教師によるキリスト教の布教活動が広まっていきました。その広まりは庶民だけでなく大名にまで及び、キリシタン大名と呼ばれる人物まで現れたほどです。

この状況に対して、豊臣秀吉は1857年に禁教令を出します。最も、その目的は宣教師の国外退去であり、それと関係ない外国人の出入りは自由にしていましたし、個人がキリスト教を信仰することも許されていました。そもそもこの時の禁教令はそれほど厳しいものではなかったのです。

これはバテレン追放令とも呼ばれたもので、バテレンとは宣教師を意味します。このバテレン追放令は厳しくなかったことから、制限がついているものの依然活動は可能であり、禁教令が出されながらも宣教師達は活動を続けていました。このため、以降もキリスト教は日本に広まっていったのです。

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鎖国を行っても日本は特定の国と貿易を続けており、つまり鎖国は外国全てを排除したわけではない。一方でスペインとポルトガルには警戒を示しており、そこには当時の日本のキリスト教の浸透が関わっているのだ。

キリスト教徒による反乱を危惧する幕府

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身分制度を訴える幕府と平等を訴えるキリスト教

徳川家康が幕府を開いて江戸時代が始まると、士農工商の身分制度が確立しました。正確には豊臣秀吉が兵農分離を行い、武士と農民との身分・地域的な分離政策の過程で成立しつつありましたが、これを確立させたのが江戸幕府だったのです。また、商人の下には穢多・非人(えた・ひにん)と呼ばれる差別的扱いを受ける者もいました。

この身分制度の確立において幕府にとって厄介な存在だったのがキリスト教で、なぜならキリスト教の教えは「全ての人が平等」というものだったからです。「全ての人が平等」……それは身分制度を否定する教えともとれますから、キリスト教徒が増えれば幕府に反発する者が大勢現れる可能性がありました。

ではキリスト教をこれ以上広めないためにはどうすれば良いのか?……それには布教活動を行う国を遮断する必要があり、その布教活動を行う国というのがスペインポルトガルだったのです。つまり、鎖国を行った目的の根底には「キリスト教の排除」があったということになります。

島原の乱の再発を怖れた幕府

しかし、いくらキリスト教徒が反発するとは言えあくまでそれは可能性の話ですし、日本を統治する天下の幕府がなぜそこまで反乱を怖れたのでしょうか。それは実際に反乱が起こった前例があるからで、その反乱というのが1637年~1638年にかけて起こった島原の乱です。

最も、島原の乱の原因は藩主の悪政でしたが、反乱が勃発した島原藩の領民の多くがキリスト教徒であり、総大将・天草四郎もまたキリスト教徒でした。最終的に皆殺しという形で反乱を鎮めたものの、そこに至るまで幕府も相当苦戦しており、そのためキリスト教徒によって再び反乱が起こるのを強く怖れたのです

つまり、幕府が鎖国を行う決定的なきっかけとなったのが島原の乱で、1639年……つまり島原の乱が終わった翌年に鎖国が開始されました。また、日本に住むキリスト教徒を取り締まる必要もあるため、幕府は庶民に踏み絵をさせるなどして徹底的なキリスト教の断絶をはかったのです。

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例えば現在の日本に何らかの宗教が広まり、それが日本政府の方針を否定する教えであれば、日本政府はその宗教の浸透に危機感を持つに違いない。幕府はこの例えどおりの状況に直面したため、鎖国によってキリスト教を排除しようとしたのだ。

鎖国のもう一つの目的 貿易の管理・統制・制限

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貿易可能な場所を限定した管理政策

「鎖国=キリスト教の排除」のイメージがありますが、鎖国は貿易の管理・統制・制限も目的としています。キリスト教の排除に比べてこの目的は少々分かりづらいと思うので、簡単に分かりやすく解説しましょう。日本は外国と貿易を行っていましたが、幕府はそれを管理する必要がありました。

とは言え、日本中の商人達が各々好きな場所で好き勝手に外国と貿易してしまえば、とても全て管理することはできなくなってしまうでしょう。それならいっそ外国との貿易を一切禁止にすれば問題は解決しますが、利益がある以上、日本の経済を考えるとそうもいきません。

そこで管理しやすくするため、外国と貿易可能な場所を4つに限定したのです。これが先の項目でも解説した長崎・薩摩藩・対馬藩・松前藩の4つの窓口(四口)であり、必要に応じてそれぞれの窓口に法令を出すなど、鎖国によって外国との貿易を管理しやすくしました。

貿易を認められたオランダ

鎖国が行われる以前までは、日本は元々スペイン・ポルトガルと貿易をしており、江戸時代に入るとさらにオランダとも貿易をするようになりました。しかし、キリスト教の布教に熱心なスペイン・ポルトガルは鎖国によって来航が禁止されます。一方、オランダとの貿易は鎖国を行ってからも継続されていました。

この理由は簡単で、オランダはスペイン・ポルトガルのような布教活動を行っていなかったからです。幕府が鎖国を行ったのは外国が嫌いだからではなくキリスト教の布教を防ぐためで、その点において無害と判断されたオランダは鎖国による来航禁止の対象になりませんでした。

とは言え、日本との交流が認められたのは基本的に貿易のみですし、来航できるのも長崎のみの限定です。また、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移転しますが、オランダ商館の館長は世界の情勢の報告をまとめたオランダ風説書の提出を幕府に求められていました。

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オランダ風説書について少々補足だ。オランダはヨーロッパの中で日本が貿易を行っていた唯一の国となった。だからこそ、ヨーロッパの情勢を知るためにオランダ風説書の提出を求めたのだ。また、オランダ風説書は日本の技術や文化の発展にも役立った。

鎖国の終わりへ

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東南アジア方面への出入国禁止のいきさつ

鎖国が始まる以前、江戸時代の初期には多くの日本人が東南アジアと日本を行き来していました。ただしその目的が貿易だった場合、幕府がそれを許可する証である朱印状をもらわなければなりません。そして、朱印状を持つ者が乗る船を朱印船と呼んでいました。

こうして行われた貿易を朱印船にちなんで朱印船貿易と呼んでおり、朱印船を出すだけで利益を得られることから、幕府もこの朱印船貿易には肯定的な考えをしていたのです。ところが、ある時この朱印船が東南アジアでトラブルに巻き込まれてしまったことから幕府は対応を迫られます。

そこで行ったのがシステムの改善で、老中が奉書を出してそれに基づいて長崎奉行が渡航許可を出す仕組みに変更しました。しかし、外国人が日本の商船を使って密航して日本に入り込む可能性を考えた幕府は、そんな外国人によってキリスト教が広まるのを怖れます。このため、鎖国では日本人の東南アジア方面への出入国を禁止したのです

鎖国の終わり 日米和親条約

こうして鎖国が行われて200年以上経過、江戸時代の後期に入る頃には欧米諸国が日本に近づいてきます。幕府もこれに対して海防強化を行うものの、黒船が日本に来航した時は脅威に感じたことでしょう。これが1853年のペリーによる黒船来航であり、鎖国が終わるきっかけともなった出来事です。

この時ペリーは開国を要求、もちろん内心は拒否したい幕府でしたが、軍事力の高さを感じさせる黒船は幕府を怖れさせるほどの威圧感がありました。結局即答は避けたものの、翌1854年の日米和親条約の締結によってこれまで200年以上続けてきた鎖国を終えることになったのです。

実際には、これまでにも外国人の船がやってきて貿易を求めてくることが幾度となくありました。それでも鎖国体制を貫いてきた日本でしたが、アメリカのペリーの来航においては幕府も従い、下田と箱館の港を開港することにしたのです。そしてこの決断が、幕府自体が終わるきっかけの一つになるのでした。

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キリスト教の禁止、貿易の管理などを理由に行った鎖国は200年以上も続いた。鎖国が終わったのは1853年のペリーの黒船来航がきっかけで、日米和親条約の締結によって鎖国は終わる。そして、鎖国が終わったこの時を機に時代を幕末と呼ぶぞ。

開国後の日本 時代は幕末へ

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攘夷の思想の広まり

鎖国が終わったことで外国との交流が始まり、多くの外国人が日本を訪れるようになりました。では、この状況に対して幕府はともかく庶民はどう思っていたのでしょうか。交流が盛んになると思いきや、実は多くの日本人が外国・外国人を嫌うようになるのです

これには理由があり、日米和親条約を締結した後の1858年に日米修好通商条約が締結されたことが原因でした。この条約は日本にとって不利な不平等条約であり、そのため日本人は外国・外国人に対して悪い印象しか持たなかったのです。また、この条約に対して天皇の許可なく調印した幕府に対しても不満が向けられました。

このため日本では外国・外国人を打ち払う攘夷の思想が広まり、日本で最も偉いとされる天皇も攘夷の思想の持ち主だったのです。一方、批判された幕府は安政の大獄を行って攘夷派の弾圧をはかるものの、それは逆に幕府への不満をより高めることになりました

辿り着いた「倒幕」の結論

攘夷の思想を持つ者の中には過激な者も多く、そのため外国人を攻撃する事件が起こります。しかし外国もそれには黙っておらず、攘夷活動の報復として戦争が起こり、それが薩英戦争下関戦争でした。そして、日本はこうした戦争によって外国の軍事力の高さを思い知ることになります。

外国の軍事力の高さから、攘夷を思想とする者の多くがそれを諦めました。つまり、今の日本の力では外国・外国人を追い払うのは不可能だと悟ったのです。その一方で、日本を統治するはずの幕府は信頼を失い、その権威も徐々に失われつつありました。

そもそも江戸時代の幕藩体制では各藩がある程度自由に政治を行っており、考え方の違いから藩同士の衝突もたびたび起こります。「外国と対等に渡り合うには日本が一つにならなければならない!」……その結果辿り着いた結論が倒幕であり、幕府ではなく天皇を中心とした政治です。こうして、幕末は滅びの運命を辿っていくことになりました。

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鎖国を終えて開国したのはアメリカに要求されたためだった。さらに不平等条約を締結させられたことから、日本では外国・外国人を追い払う攘夷の思想が広まっていった。これが幕末の日本の状態で、やがてその思想は倒幕へと変わっていくのだ。

「鎖国」の呼び名を「幕府の対外政策」へと改定

少しまとめておくと、幕府が鎖国を行うきっかけとなったのは島原の乱で、終えるきっかけとなったのはペリーの黒船来航です。このため、鎖国を学ぶ上ではこれらを先に覚えておくと有利でしょう。

それと、今回のテーマである「鎖国」は今後教科書で使用されなくなる旨が少し前から伝えられており、改定後は「幕府の対外政策」と呼ぶようになるようで、既に改定された教科書もあります。

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