今日は島原の乱について勉強していきます。江戸時代の大きな戦いと言えば幕末を連想するかもしれないが、実は初期において日本の歴史上で最大規模の戦いが起こっている。

それが1637年に勃発した悲劇の戦いとされる島原の乱であり、奴隷のように扱われて生活に苦しむ貧しい農民達が戦いを挑んだのです。そんな島原の乱について、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から島原の乱をわかりやすくまとめた。

事の始まり 島原藩

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キリシタンの地・島原藩

島原の乱が起こったのは文字どおり長崎県の島原市です。島原を治めていた有馬晴信はキリシタン大名であり、そのため多くの領民がキリスト教を信仰していました。キリシタンの領主とキリシタンの領民、キリスト教を信仰する者にとって島原はさぞかし居心地の良い土地だったことでしょう。

そんな中、島原は所領代えによって有馬晴信が去ってその代わりとして松倉重政が治めることになり、これが島原の領民にとって地獄の始まりとなるのでした。松倉重政は島原に入ると島原城を新築、さらに幕府に忠誠を示すために江戸城改築の負担も行い、そのため財政は苦しくなってしまいます

何しろ、島原城の新築も江戸城の改築も島原藩(江戸時代の初期は日野江藩と呼んでいた)の石高には見合わない費用がかかっていますからね。そこで松倉重政は農民達に対して限界を超えるほどの年貢を徴収、さらに城の工事においても領民達を酷使したのです。

弾圧と税で苦しむ領民達

さらに松倉重政は幕府の指摘に沿ってキリシタンを弾圧、キリシタンの多い島原藩にとってまさにそれは地獄でした。年貢を納められない者、キリシタン、いずれも凄惨な拷問の上に処刑されていきます。島原藩の領民達は信仰していたキリスト教を禁止され、さらに飢えに苦しむ日々を送っていたのです。

そんな残酷な政治を行っていた松倉重政が1630年に急逝、後を継いで2代目の藩主となったのが息子の松倉勝家でした。しかし松倉勝家は父以上に残酷で、あらゆるものに税を課して領民の財産を摂取、藩主が代わっても地獄の毎日がかわることはなかったのです

また、その当時は天候の不安定さから頻繁に飢饉が起こりました。しかし、松倉勝家はそれでも年貢の税率を下げなかったため、年貢を納められない領民の中には村を捨てて逃げ出す者も少なくなかったようです。これが、江戸時代初期の島原藩の領民達の暮らしの現実でした。

江戸時代のキリスト教

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豊臣秀吉も出していた禁教令

宗教の信仰や布教を禁止する禁教令は、江戸時代以前の1587年と1596年に豊臣秀吉が既に出していました。その目的としては複数の諸説があり、例えば「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図る」、「九州で行われていた日本人の奴隷売買を禁止させる」などが挙げられています。

最も、当時の禁教令はそれほど厳しいものではなく、キリシタンに対しても処罰を行うようなことはありませんでした。江戸時代が始まったばかりの頃もそれは同様で、禁教令が出されても布教活動は行われ、幕府もそれを黙認していたのです。そんな状況をかえるきっかけとなったのが士農工商の制度でした。

江戸時代になると人々の権利や自由を身分で分けるようになり、武士・農民・職人・商人の士農工商、さらにはその下に「えたひにん」と呼ばれる権利も自由もない差別対象となっている人までいたのです。一方、キリスト教の教えでは「全ての人が平等」と教えられていました。

士農工商の身分制度を否定するキリスト教の教え

士農工商の身分制度を作ったのは幕府でしたが、日本では「全ての人が平等」と教えられるキリスト教が広まっており、その教えは幕府の作った身分制度を否定することになります。そのため幕府は態度を硬化、身分制度に反発する者が現れることを危惧して今一度禁教令を出すことにしました。

今度は豊臣秀吉が出したような甘い禁教令ではなく弾圧するための禁教令であり、これが1612年の慶長の禁教令です。この慶長の禁教令が出されたのをきっかけにキリスト教への弾圧は強くなり、日本の各地では多くのキリシタンが処刑されました。

それも残酷な方法による処刑であり、1622年の元和の大殉教では長崎で55人ものキリシタンが火刑と斬首によって処刑されています。元和の大殉教は日本の殉教事件でも有名なほど大きな事件で、しかもこの事件後、幕府のキリシタンへの弾圧は弱まるどころかむしろ強くなっていったのです。

島原の乱の勃発

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一揆軍の総大将・天草四郎

島原藩の領民達の苦しい生活は限界に近く、そのため一揆を起こして現状を打開しようと考えます。しかし、密かに反乱の計画を立てるものの藩主率いる勢力に勝利するのは現実的に考えて難しく、それにはリーダーの存在が必要不可欠でした。

そこで選ばれたのが天草四郎で、彼は当時16歳の少年です。天草四郎は生まれながらにしてカリスマ性があったとされており、学問に親しんでいたことから教養もあり、また経済的にも恵まれた立場にある人物、さらに海面を歩くなどの様々な奇跡を起こしたとすら言われていました。

しかも彼はキリシタン……島原藩の領民達のリーダーになるにはうってつけの人物だったのです。こうして天草四郎が総大将となった一揆軍は決意を固めて行動を起こし、キリシタン達は代官所にて代官・林兵左衛門を殺害、1637年の12月11日のこの時に島原の乱が勃発します。

肥後天草でのさらなる一揆

一揆軍の進撃を知った島原藩はただちに討伐軍を結成、深江村にて一揆軍と戦うものの、兵の疲労を考えて島原城に一旦戻ります。領民達の不満が余程限界に達していたのか、一揆軍の勢いはすさまじく、そのため討伐軍は島原城に籠城して守りを固める作戦に出ました。

一方、一揆軍は島原城を落とすのは難しいと判断したのか、城下町を焼き払って略奪を行った末に引き上げます。一揆の鎮圧は難しく、討伐軍は一揆に加わっていない領民に武器を渡して一揆鎮圧の加勢を求めますが、武器を手にした領民は逆に一揆軍を支持して加勢する者もいました

一揆の勢いは止まらず島原半島西北部にまで拡大、さらにこの勢いに乗ったのか、数日後には肥後天草でも一揆が勃発します。島原・天草の両一揆軍は旧主・有馬家の居城だった廃城・原城址で合流して篭城、その数は実に37000人程にも膨れ上がっていました。

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島原の乱 皆殺しの結末

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一揆軍を甘く見た幕府

篭城した島原・天草の一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪ってきた武器や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えます。 さて、島原の乱の勃発を知った幕府は一揆を鎮圧させるため、徳川将軍の親衛隊を務めていた板倉重昌を現地に派遣、討伐軍を率いて一揆軍が籠城する原城を包囲しました。

しかし原城の守りは堅く、繰り返しの総攻撃もことごとく跳ね返され退却を余儀なくされます。最も、当初幕府はこの一揆を甘く見ていたようで、そもそも板倉重昌では権威的にも討伐軍の諸侯を従わせることができなかったのです。このため、討伐軍は軍としての統率が取れていない状態でした

統率の取れない板倉重昌の討伐軍では一致団結した一揆軍には敵わず、この事態を重く見た幕府は本腰をあげて一揆鎮圧に乗り出します。今度は老中・松平信綱を派遣、手柄を奪われることを危惧した板倉重昌は突撃するもやはり敗北、これで板倉重昌は戦死しました

島原の乱の鎮圧

幕府はさらに水野勝成小笠原忠真に出陣を命じて増援を送ります。これによって松平信綱率いる討伐軍の軍勢は12万人以上にまで拡大、原城を完全に包囲しました。さらに原城に潜入した部隊が一揆軍の現状を把握、兵糧が残り少ないことを確認したため兵糧攻めの作戦に転じます。

もはや海の海藻を食料とするしかないほど兵糧の尽きた一揆軍、やがて討伐軍は会議において幕府の威信にかけた総攻撃を決意、圧倒的兵力をもって一揆軍の鎮圧に乗り出しました。兵糧攻めの効果によって弾薬も食料も尽きかけていた一揆軍にもう反撃する術はありません。

こうして一揆軍は鎮圧され、籠城していた者は天草四郎も含めて皆殺しにされました。この一揆の勢いを幕府は危惧、キリシタンが集まればいずれこのような一揆が再び起こると考えた幕府は、島原の乱以降、禁教策をより強化することにしたのです。さらに廃城を破壊して反乱の拠点に利用できないようにもしました。

島原の乱 その後の日本

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鎖国の始まり

1637年の12月に起こった島原の乱は1638年の4月まで続きました。島原の乱が終わってその後、島原の乱が起こるきっかけとなった松倉勝家は幕府に取り調べを受けた末、厳しい年貢の取り立てや拷問の事実が発覚して処分されます。島原の乱の勃発を招いたとして、松倉勝家は藩主を降ろされて斬首されました

また、天草で一揆が勃発した件においても天草を領有していた寺沢堅高が責任を問われ、その領地を没収される処分を受けます。寺沢堅高は処刑されなかったものの、後に精神に異常をきたしてしまい自害しました。さらに、この一件が理由で幕府はポルトガルとの国交を断絶したのです

1639年、ポルトガルとの国交を断絶したことでポルトガル船の入港は禁止され、これが日本の対外政策である鎖国の始まりとなりました。以後日本の鎖国体制は続いていき、それが終わったのは200年以上も先となる1854年のこと、日米和親条約が締結された時です。

キリスト教の信仰と反乱を危惧する幕府

また、島原の乱が起こった原因の一つにキリスト教徒……つまりキリシタンの暴動があったことを幕府は挙げており、そのためキリスト教をこれまで以上に弾圧するようになります。これはやはり、「全ての人が平等」というキリスト教の教えが幕府にとって問題だったのでしょう。

士農工商の身分を制度する幕府にとって、キリスト教の信仰が深まれば庶民の不満が高まり、今回の島原の乱のようなキリシタンによる反乱が起こるかもしれないからです。そこで幕府は、イエス・キリストや聖母マリアが描かれた板を踏ませる踏み絵を行いました。

また、キリシタンを発見して密告した者には報酬を出すなど、キリスト教の弾圧に尽力したのです。とは言え、それでも日本からキリスト教を完全に断絶することはできず、特に島原や天草にはまだまだ多くの隠れキリシタン達が存在していたとされています

江戸時代の歴史は幕末が全てではない

島原の乱は領民と討伐軍といった勢力の構図が分かりやすく、戦いの流れも複雑ではありません。このため江戸時代の事件の中でも覚えやすく、流れを追っていけばその悲しさから感情移入すらできるでしょう。

江戸時代の歴史を学ぶとなるとどうしても幕末中心になりがちですが、鎖国のきっかけとなったなどの点からも、江戸時代初期に起こった島原の乱は歴史の流れを掴むためにも絶対に覚えておきましょう。

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悪政に反発した悲しき戦い!「島原の乱」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は島原の乱について勉強していきます。江戸時代の大きな戦いと言えば幕末を連想するかもしれないが、実は初期において日本の歴史上で最大規模の戦いが起こっている。

それが1637年に勃発した悲劇の戦いとされる島原の乱であり、奴隷のように扱われて生活に苦しむ貧しい農民達が戦いを挑んだのです。そんな島原の乱について、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から島原の乱をわかりやすくまとめた。

事の始まり 島原藩

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キリシタンの地・島原藩

島原の乱が起こったのは文字どおり長崎県の島原市です。島原を治めていた有馬晴信はキリシタン大名であり、そのため多くの領民がキリスト教を信仰していました。キリシタンの領主とキリシタンの領民、キリスト教を信仰する者にとって島原はさぞかし居心地の良い土地だったことでしょう。

そんな中、島原は所領代えによって有馬晴信が去ってその代わりとして松倉重政が治めることになり、これが島原の領民にとって地獄の始まりとなるのでした。松倉重政は島原に入ると島原城を新築、さらに幕府に忠誠を示すために江戸城改築の負担も行い、そのため財政は苦しくなってしまいます

何しろ、島原城の新築も江戸城の改築も島原藩(江戸時代の初期は日野江藩と呼んでいた)の石高には見合わない費用がかかっていますからね。そこで松倉重政は農民達に対して限界を超えるほどの年貢を徴収、さらに城の工事においても領民達を酷使したのです。

弾圧と税で苦しむ領民達

さらに松倉重政は幕府の指摘に沿ってキリシタンを弾圧、キリシタンの多い島原藩にとってまさにそれは地獄でした。年貢を納められない者、キリシタン、いずれも凄惨な拷問の上に処刑されていきます。島原藩の領民達は信仰していたキリスト教を禁止され、さらに飢えに苦しむ日々を送っていたのです。

そんな残酷な政治を行っていた松倉重政が1630年に急逝、後を継いで2代目の藩主となったのが息子の松倉勝家でした。しかし松倉勝家は父以上に残酷で、あらゆるものに税を課して領民の財産を摂取、藩主が代わっても地獄の毎日がかわることはなかったのです

また、その当時は天候の不安定さから頻繁に飢饉が起こりました。しかし、松倉勝家はそれでも年貢の税率を下げなかったため、年貢を納められない領民の中には村を捨てて逃げ出す者も少なくなかったようです。これが、江戸時代初期の島原藩の領民達の暮らしの現実でした。

江戸時代のキリスト教

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