今日は日米修好通商条約について勉強していきます。1858年に締結された日米修好通商条約は、幕末において日本の歴史に大きな影響をもたらした条約です。

知ってのとおり、江戸時代の幕末になると幕府の権威が失われていくが、日米修好通商条約の締結がそうさせたと言っても過言ではない。その流れを分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日米修好通商条約をわかりやすくまとめた。

鎖国の終わりとハリスの通商条約締結の主張

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日米和親条約による鎖国の終わり

日本は1639年にポルトガル船の入港を禁止して以降、200年以上にもわたって対外政策として外国船の来航を規制する鎖国体制を維持してきました。分かりやすく言えば外国の交流を避けていたのですが、そんな日本の鎖国の歴史が終わるきっかけとなったのが1853年のペリーの黒船来航です。

大統領の国書を渡す目的で日本に来航したペリー、国書にはアメリカが日本と国交を結ぶことを望んでいる旨が記されており、そのため翌1854年に日米和親条約が締結、下田と箱館の港が開港されました。これで日本は長く続けてきた鎖国の歴史を終えることになります。

さて、日米和親条約が締結されたことで日本初の総領事としてタウンゼント・ハリスが1856年に下田に赴任、下田奉行との会見を行いました。ハリスはこの当初から日本と通商条約を結ぶことを計画していましたが、それに対して日本は合意せず、むしろ消極的な態度を取ります。

通商条約締結のための勅許の問題

ハリスを下田に駐在させることを決めたものの、日本とアメリカの溝は相当深く、と言うより日本がアメリカとの交流を望んでいなかったのです。ただ、一歩も引かないハリスの主張から条約の締結はやむを得ないと判断、そのため対応にあたっていた幕府の老中・堀田正睦は通商条約の締結を計画しました。

しかしそれには世論を納得させる必要がありますし、何より勅許……すなわち天皇の許可が必要です。確かに、この頃の日本は幕府が政権を握っていましたが、正確には朝廷に政治を任されている立場であり、外国との条約の締結は天皇に無断で幕府の独断で行えるものではありません。

そこで1858年、堀田正睦はこの件について全権を任せていた幕府の目付・岩瀬忠震を伴って勅許を得るため入京するものの、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が座り込みの抗議を受けました。これは廷臣八十八卿列参事件と呼ばれています。

日米修好通商条約の締結

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勅許を拒否する孝明天皇とハリスの説得

廷臣八十八卿列参事件で堀田正睦らに抗議した公家は攘夷派で、攘夷とは外国を排除する思想です。外国を排除する思想を持っている以上、ハリスとの通商条約の締結を反対するのは当然ですからね。ここで問題だったのは、当時の天皇・孝明天皇もまた攘夷の思想を持っていたことです

このため孝明天皇は勅許を拒否、しかし、諦めないハリスは幕府に「アロー号事件をきっかけに清と戦争中のイギリスやフランスが日本を侵略しようとするかもしれない。それを防ぐには、日本とアメリカが友好関係になって通商条約を結ぶしかない」と説得しました。

イギリスやフランスの艦隊が攻めてきたら日本は侵略されてしまうでしょう。説得力のあるハリスの言葉に、幕府の最高首脳部(幕閣)の大半がアメリカとの通商条約をいち早く締結させるべきと考えてます。そしてその頃、幕府の大老に井伊直弼が就任しました。

井伊直弼の考えを無視して行われた即時調印

大老とは老中の上に立つ最高職で、将軍の補佐役でもありました。井伊直弼は条約締結に対して勅許は絶対に必要と指示、勅許を得られないなら条約締結の調印は延期するべきという考えを老中達に伝えます。しかし、老中達の多くは条約締結に対して即時調印すべきと考えていたのです。

井伊直弼は「勅許を得るまで調印延期の努力をせよ」と指示します。これに対して交渉担当にあたっていた井上清直が「やむを得ない場合は調印しても良いか?」と質問、井伊直弼が「その場合は仕方ないだろう」とうっかり答えてしまったのが問題でした。

井上清直は井伊直弼の回答を「状況次第では即時調印を許可する」と解釈、ハリスの説得をまんまと受け入れた彼は岩瀬忠震と共にハリスの元に赴き、井伊直弼の考えを無視して条約締結に即時調印してしまったのです。これに関わった者達は、条約締結の数日後に老中免職や左遷などの処分を受けました。

\次のページで「日米修好通商条約に対する不満」を解説!/

日米修好通商条約に対する不満

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不満1. 領事裁判権の取り決め

そもそも、日米修好通商条約の締結はなぜ日本にとって問題だったのでしょうか。その理由は簡単で、条約の内容が日本にとって不利なものだったからです。このため、日米修好通商条約は不平等条約とされ、だからこそ無勅許で条約に調印した幕府や井伊直弼が批判されたのです。

そこで、条約の内容について少し見てみましょう。まず「さらなる港の開港」で、現在の下田と箱館に加えて神奈川、長崎、新潟、兵庫、江戸、大阪の港が開港することになりました。これは、今後他国が日本と貿易するための準備に等しいものでしょう。

次に「領事裁判権の取り決め」、これは日本で犯罪を犯した外国人を法律で裁く際、日本ではなくその外国人の国で裁くというものです。これは日本にとって不満であり、なぜなら日本で重罪を犯しても大した罰を受けずにすんでしまう可能性があるからですね。

不満2. 関税自主権の放棄

「関税自主権の放棄」、これも日本にとって不満でしょう。関税自主権というのは、物を輸入する時につけられる関税の税率を決める権利です。関税自主権の放棄により、他国の商品を日本が輸入して売る場合、その商品に対する関税額を日本で決めることができなくなります。

そうするとどうなるか?……簡単に言えば、他国の製品が日本のものより安い値段で入ってくるようになり、日本の製品が売れなくなってしまうのです。このため、関税自主権の放棄は日本の産業の衰退を招く恐れがあり、それ以前に売る側の稼ぎにも影響してしまうでしょう。

こうした点から、日米修好通商条約は日本に不利で不平等な条約とされています。日米修好通商条約の締結後、日本は外国・外国人に対して、またこの不平等条約をこともあろうに無勅許で条約に調印した井伊直弼をはじめとする幕府に対して不満が高まっていきました。

日米修好通商条約を無勅許で調印した代償

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安政の大獄の発生

不平等な日米修好通商条約の締結は、当時の日本からすれば外国や外国人を嫌う充分な理由になりました。また孝明天皇も外国を嫌う攘夷の思想を持っていたことから、世間では幕府ではなく天皇が政治を行って排外するべきという尊王攘夷の思想が生まれます。

イコールそれは反幕府とも受け取れる思想であり、同時に無勅許で条約に調印した幕府に対する批判でもありました。この状況に危機感を持った井伊直弼は無理やりな弾圧で攘夷派の者達を黙らせようと判断、これが1858年から行われた安政の大獄です。

井伊直弼は尊王攘夷派を次々と捉えて処罰、西郷隆盛、一橋慶喜(後の徳川慶喜)、吉田松陰らも逮捕され、吉田松陰に至っては老中の暗殺計画が発覚したため処刑されました。こうして、井伊直弼は弾圧によって荒れる尊王攘夷派を抑えようとしましたが、それが自身の命取りにもなってしまうのでした。

桜田門外の変の発生

安政の大獄によって、確かに尊王攘夷派は井伊直弼や幕府を怖れたことでしょう。しかしそれ以上に不満が高まり、密かに井伊直弼の暗殺が企てられるようになります。幕府はその情報を掴むものの当の井伊直弼は深刻に考えず、そのためとうとう事件が起こりました。

1860年、江戸城桜田門外にて水戸藩を脱藩した者達が井伊直弼を襲撃したのです。桜田門外で起こった事件からこれを桜田門外の変と呼び、この事件で井伊直弼は殺害され、1858年から続いていた安政の大獄は、主導者の死という思わぬ形で終わることになりました。

幕府の最高職である大老が、脱藩した浪士に暗殺されたことは世間に衝撃を与えるでしょう。幕府もそれを危惧して隠蔽しようとしますが、何しろ白昼の大名行列中に起こった事件だったため病死と公表するもののすぐにウソが発覚、井伊直弼が殺害された事実は日本中に広まってしまいました。

攘夷から倒幕へ

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攘夷の過激化と限界

安政の大獄が終わったことで尊王攘夷派は堂々と思想を広められるようになり、そのため一部では攘夷活動が過激化していきました。開国していたため既に日本には多くの外国人が訪れていましたが、過激な攘夷派はそんな外国人達を次々と攻撃します。

しかし、外国も日本人の攻撃に黙ってはおらず、1862年に生麦事件を起こした薩摩藩はイギリスと対立して翌年に薩英戦争が起こりました。また、外国船への砲撃を繰り返していた長州藩は1864年に下関戦争とも呼ばれる四国艦隊下関砲撃事件によって大敗してしまいます。

薩摩藩も長州藩も数多く存在する藩の中で力のある大きな藩でしたが、それでも戦いを通じて外国の軍事力の高さを思い知らされることになり、そのため攘夷が不可能であることを悟ったのです。それは、尊王攘夷の思想に限界を感じた瞬間でした。

\次のページで「倒幕ムードの加速と幕府の終わり」を解説!/

倒幕ムードの加速と幕府の終わり

尊王攘夷が不可能とは言え、日本で最も尊ぶ存在が天皇であることに変わりありません。そして攘夷が不可能とは言え、外国と対等に渡り合えなければ開国した日本に未来はなく、そのためには日本が今よりもっと強くなる必要があるのです

そんな考えから生まれた新たな考え、それが倒幕であり、頼りにならない幕府を倒して天皇中心の新しい政治が行われる日本にしようという考えが広まっていきました。こうして日本では倒幕ムードが生まれ、徐々にそれは加速していったのです。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代……これまでずっと日本は幕府が政治の権力を握っていました。しかし江戸時代の幕末、倒幕ムードの末に将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われ、さらに戊辰戦争が起こったことによって日本の幕府の歴史は幕を閉じたのです。

日米修好通商条約は倒幕ムードを引き起こしたきっかけ

幕末では倒幕ムードが加速していき、やがてそれは実現して幕府の時代は終わりました。しかし、倒幕ムードが加速したからにはそれだけ多くの人が幕府に不満を持っていたからでしょう。

では、なぜ幕府はそこまで不満を抱かれることになったのか?……そのきっかけとなったのが日米修好通商条約の締結です。日本の歴史が動くきっかけとなったこの条約は、幕末を学ぶ上で絶対に抑えておきましょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

日本の歴史を動かした不平等条約!「日米修好通商条約」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

日米修好通商条約に対する不満

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不満1. 領事裁判権の取り決め

そもそも、日米修好通商条約の締結はなぜ日本にとって問題だったのでしょうか。その理由は簡単で、条約の内容が日本にとって不利なものだったからです。このため、日米修好通商条約は不平等条約とされ、だからこそ無勅許で条約に調印した幕府や井伊直弼が批判されたのです。

そこで、条約の内容について少し見てみましょう。まず「さらなる港の開港」で、現在の下田と箱館に加えて神奈川、長崎、新潟、兵庫、江戸、大阪の港が開港することになりました。これは、今後他国が日本と貿易するための準備に等しいものでしょう。

次に「領事裁判権の取り決め」、これは日本で犯罪を犯した外国人を法律で裁く際、日本ではなくその外国人の国で裁くというものです。これは日本にとって不満であり、なぜなら日本で重罪を犯しても大した罰を受けずにすんでしまう可能性があるからですね。

不満2. 関税自主権の放棄

「関税自主権の放棄」、これも日本にとって不満でしょう。関税自主権というのは、物を輸入する時につけられる関税の税率を決める権利です。関税自主権の放棄により、他国の商品を日本が輸入して売る場合、その商品に対する関税額を日本で決めることができなくなります。

そうするとどうなるか?……簡単に言えば、他国の製品が日本のものより安い値段で入ってくるようになり、日本の製品が売れなくなってしまうのです。このため、関税自主権の放棄は日本の産業の衰退を招く恐れがあり、それ以前に売る側の稼ぎにも影響してしまうでしょう。

こうした点から、日米修好通商条約は日本に不利で不平等な条約とされています。日米修好通商条約の締結後、日本は外国・外国人に対して、またこの不平等条約をこともあろうに無勅許で条約に調印した井伊直弼をはじめとする幕府に対して不満が高まっていきました。

日米修好通商条約を無勅許で調印した代償

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安政の大獄の発生

不平等な日米修好通商条約の締結は、当時の日本からすれば外国や外国人を嫌う充分な理由になりました。また孝明天皇も外国を嫌う攘夷の思想を持っていたことから、世間では幕府ではなく天皇が政治を行って排外するべきという尊王攘夷の思想が生まれます。

イコールそれは反幕府とも受け取れる思想であり、同時に無勅許で条約に調印した幕府に対する批判でもありました。この状況に危機感を持った井伊直弼は無理やりな弾圧で攘夷派の者達を黙らせようと判断、これが1858年から行われた安政の大獄です。

井伊直弼は尊王攘夷派を次々と捉えて処罰、西郷隆盛、一橋慶喜(後の徳川慶喜)、吉田松陰らも逮捕され、吉田松陰に至っては老中の暗殺計画が発覚したため処刑されました。こうして、井伊直弼は弾圧によって荒れる尊王攘夷派を抑えようとしましたが、それが自身の命取りにもなってしまうのでした。

桜田門外の変の発生

安政の大獄によって、確かに尊王攘夷派は井伊直弼や幕府を怖れたことでしょう。しかしそれ以上に不満が高まり、密かに井伊直弼の暗殺が企てられるようになります。幕府はその情報を掴むものの当の井伊直弼は深刻に考えず、そのためとうとう事件が起こりました。

1860年、江戸城桜田門外にて水戸藩を脱藩した者達が井伊直弼を襲撃したのです。桜田門外で起こった事件からこれを桜田門外の変と呼び、この事件で井伊直弼は殺害され、1858年から続いていた安政の大獄は、主導者の死という思わぬ形で終わることになりました。

幕府の最高職である大老が、脱藩した浪士に暗殺されたことは世間に衝撃を与えるでしょう。幕府もそれを危惧して隠蔽しようとしますが、何しろ白昼の大名行列中に起こった事件だったため病死と公表するもののすぐにウソが発覚、井伊直弼が殺害された事実は日本中に広まってしまいました。

攘夷から倒幕へ

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攘夷の過激化と限界

安政の大獄が終わったことで尊王攘夷派は堂々と思想を広められるようになり、そのため一部では攘夷活動が過激化していきました。開国していたため既に日本には多くの外国人が訪れていましたが、過激な攘夷派はそんな外国人達を次々と攻撃します。

しかし、外国も日本人の攻撃に黙ってはおらず、1862年に生麦事件を起こした薩摩藩はイギリスと対立して翌年に薩英戦争が起こりました。また、外国船への砲撃を繰り返していた長州藩は1864年に下関戦争とも呼ばれる四国艦隊下関砲撃事件によって大敗してしまいます。

薩摩藩も長州藩も数多く存在する藩の中で力のある大きな藩でしたが、それでも戦いを通じて外国の軍事力の高さを思い知らされることになり、そのため攘夷が不可能であることを悟ったのです。それは、尊王攘夷の思想に限界を感じた瞬間でした。

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