幕末日本史歴史江戸時代

日本の歴史を動かした不平等条約!「日米修好通商条約」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は日米修好通商条約について勉強していくぞ。1858年に締結された日米修好通商条約は、幕末において日本の歴史に大きな影響をもたらした条約だ。

知ってのとおり、江戸時代の幕末になると幕府の権威が失われていくが、日米修好通商条約の締結がそうさせたと言っても過言ではない。その流れを分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日米修好通商条約をわかりやすくまとめた。

鎖国の終わりとハリスの通商条約締結の主張

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日米和親条約による鎖国の終わり

日本は1639年にポルトガル船の入港を禁止して以降、200年以上にもわたって対外政策として外国船の来航を規制する鎖国体制を維持してきました。分かりやすく言えば外国の交流を避けていたのですが、そんな日本の鎖国の歴史が終わるきっかけとなったのが1853年のペリーの黒船来航です。

大統領の国書を渡す目的で日本に来航したペリー、国書にはアメリカが日本と国交を結ぶことを望んでいる旨が記されており、そのため翌1854年に日米和親条約が締結、下田と箱館の港が開港されました。これで日本は長く続けてきた鎖国の歴史を終えることになります。

さて、日米和親条約が締結されたことで日本初の総領事としてタウンゼント・ハリスが1856年に下田に赴任、下田奉行との会見を行いました。ハリスはこの当初から日本と通商条約を結ぶことを計画していましたが、それに対して日本は合意せず、むしろ消極的な態度を取ります。

通商条約締結のための勅許の問題

ハリスを下田に駐在させることを決めたものの、日本とアメリカの溝は相当深く、と言うより日本がアメリカとの交流を望んでいなかったのです。ただ、一歩も引かないハリスの主張から条約の締結はやむを得ないと判断、そのため対応にあたっていた幕府の老中・堀田正睦は通商条約の締結を計画しました。

しかしそれには世論を納得させる必要がありますし、何より勅許……すなわち天皇の許可が必要です。確かに、この頃の日本は幕府が政権を握っていましたが、正確には朝廷に政治を任されている立場であり、外国との条約の締結は天皇に無断で幕府の独断で行えるものではありません。

そこで1858年、堀田正睦はこの件について全権を任せていた幕府の目付・岩瀬忠震を伴って勅許を得るため入京するものの、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が座り込みの抗議を受けました。これは廷臣八十八卿列参事件と呼ばれています。

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鎖国体制に終止符を打った日本に対して、アメリカのハリスは通商条約の締結を要求した。これに幕府が対応するが、条約締結には勅許が必要であり、そのため堀田正睦らは上京したのだ。ところろが公家に抗議を受けてしまった。

日米修好通商条約の締結

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勅許を拒否する孝明天皇とハリスの説得

廷臣八十八卿列参事件で堀田正睦らに抗議した公家は攘夷派で、攘夷とは外国を排除する思想です。外国を排除する思想を持っている以上、ハリスとの通商条約の締結を反対するのは当然ですからね。ここで問題だったのは、当時の天皇・孝明天皇もまた攘夷の思想を持っていたことです

このため孝明天皇は勅許を拒否、しかし、諦めないハリスは幕府に「アロー号事件をきっかけに清と戦争中のイギリスやフランスが日本を侵略しようとするかもしれない。それを防ぐには、日本とアメリカが友好関係になって通商条約を結ぶしかない」と説得しました。

イギリスやフランスの艦隊が攻めてきたら日本は侵略されてしまうでしょう。説得力のあるハリスの言葉に、幕府の最高首脳部(幕閣)の大半がアメリカとの通商条約をいち早く締結させるべきと考えてます。そしてその頃、幕府の大老に井伊直弼が就任しました。

井伊直弼の考えを無視して行われた即時調印

大老とは老中の上に立つ最高職で、将軍の補佐役でもありました。井伊直弼は条約締結に対して勅許は絶対に必要と指示、勅許を得られないなら条約締結の調印は延期するべきという考えを老中達に伝えます。しかし、老中達の多くは条約締結に対して即時調印すべきと考えていたのです。

井伊直弼は「勅許を得るまで調印延期の努力をせよ」と指示します。これに対して交渉担当にあたっていた井上清直が「やむを得ない場合は調印しても良いか?」と質問、井伊直弼が「その場合は仕方ないだろう」とうっかり答えてしまったのが問題でした。

井上清直は井伊直弼の回答を「状況次第では即時調印を許可する」と解釈、ハリスの説得をまんまと受け入れた彼は岩瀬忠震と共にハリスの元に赴き、井伊直弼の考えを無視して条約締結に即時調印してしまったのです。これに関わった者達は、条約締結の数日後に老中免職や左遷などの処分を受けました。

\次のページで「日米修好通商条約に対する不満」を解説!/

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