日本史

平安時代の名家「藤原北家」を歴史オタクが5分で解説!事績を追ってみる

よぉ、桜木建二だ。大化の改新を成し遂げた後の日本において、権力を握りつつも政治を安定させたのが有力貴族・藤原氏の流れをくむ名家・藤原北家だ。

今回は藤原北家が登場した背景と事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

kei

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は平安時代の名家、藤原北家をわかりやすくまとめた。

功臣の血統

奈良時代から平安時代中期にかけて、政治の実権を握っていたのは藤原氏でした。藤原北家は、藤原氏の一派なのですが、その系譜は飛鳥時代まで遡れます。

中臣鎌足=藤原鎌足

image by iStockphoto

中大兄皇子らを支えて権臣・蘇我氏を排除し、大化の改新を進めた功労者は、中臣鎌足ですね。中臣鎌足は死に臨んで中大兄皇子(天智天皇)からそれまでの功労に報いる意味で、新たに「藤原」の姓を与えられました。

重臣・藤原不比等

Fujiwara-Fuhito.jpg
パブリック・ドメイン, Link

鎌足の次男である藤原不比等は、律令制度の完成形である法律書の大宝律令の編纂を行った人物として知られています。
第40代天武天皇の子である草壁皇子に出仕したことが縁で大臣となりましたが、後に皇室に接近。草壁皇子の孫である第45代聖武天皇へ自らの娘である光明子を嫁がせ、外戚として奈良時代の朝廷の重鎮となりました

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

光明子は、初の人臣皇后と言われている。それまでは、皇族から皇后が選ばれていたのだ。ひょっとしたら、平成上皇における平民出身皇后の立后と同じくらいのインパクトで受け止められたのかもしれない。不比等が娘を皇后としたことは、藤原氏などの貴族が皇室と婚姻関係を結ぶ前例となった。後の摂関政治の典型ができたと言ってもよい。

藤原四家

藤原氏は、不比等の子から以下の4つの家系に分かれます。

・藤原南家   
   不比等の長男・藤原武智麻呂(むちまろ)の系譜。
   西暦764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱以降、振るわず。

・藤原北家
   不比等の次男・藤原房前(ふささき)の系譜。

・藤原式家
   不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の系譜。
   西暦810年の藤原薬子の変以降、振るわず。

・藤原京家
   不比等の四男・藤原麻呂(まろ)の系譜。
   西暦782年の氷上川継の乱以降、振るわず。

藤原氏の栄達は藤原北家から

そのうちの1つ、藤原北家が平安時代を通して最も栄えることになります。9世紀に藤原北家より出た藤原良房が、西暦866年に第56代清和天皇の外祖父として、天皇家以外の臣下の中では初めて摂政に就任。以来、代々の天皇と婚姻関係を継続することにより、藤原氏が摂政・関白の地位や上位の高官職を独占していくこととなりました。

摂政・関白は天皇並みの権力を持っていた

ところで、聖徳太子は推古天皇の摂政でしたね。摂政・関白はもともと、天皇家出身の者しか任官されない、律令で定めていない官職でした。それが、平安時代中期には常時設置されるようになります。
摂政・関白の執り行う政務の範囲は広く、天皇の発する詔の代筆や諸行事の代行を行う他、朝廷内の人事権の掌握にまで至っていました。要は、天皇に代わって重要な政務を行う臨時官なのです。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

この頃の天皇は幼いケースが多く、政治も経済も世の中をよく知っている大人の貴族が、摂政として補佐する役目を期待された。また、平安時代の貴族は男性が女性の実家に通って住まう通い婚が主流だから、子供も女性である母方の実家で長く暮らすことになる。
幼い子供が政治を行うのは難しい。藤原氏のような貴族から見たら、自分の娘と一緒に実家に住んでいる幼い孫の面倒を見つつ、仕事である朝廷の政治を切り盛りするのはある意味、合理的な仕事の仕方だったのだろう。

血縁関係による権力掌握の仕組み「摂関政治」

藤原氏は、天皇家との姻戚関係を継続することで権力の維持を行いました。すなわち、自分の娘を天皇家に嫁がせ、男の子が生まれれば皇太子・ゆくゆくは天皇とし、自分は新天皇の祖父・外戚として、母系の親権を通して権力を持つ、というもの。
対外的な役職の呼称は、天皇が未成年もしくは女性の時には摂政、青年してからは関白でした。このような藤原氏の権力掌握のスタイルを、摂政・関白から1文字ずつ取って「摂関政治」と呼びます。
大化の改新より前、権臣・蘇我氏も天皇家との間で似たような姻戚関係を進めていましたが、その蘇我氏を倒したはずの功労者の子孫も蘇我氏と同じ権臣になり下がったのは皮肉なことです。

功臣・藤原氏から謀臣・藤原氏へ

藤原氏の権力掌握は、古代における蘇我氏が好んだ暗殺のような血生臭さは無かったものの、陰湿な謀略でした。代表的な事件を2つあげてみます。

安和(あんな)の変 有力貴族と成人天皇を蹴落とす

西暦969年。謀反を計画したとして、皇族に連なる有力貴族であった源高明が失脚させられる事件。なお源高明は第60代醍醐天皇の第10皇子であり、藤原北家から妻を迎えて血縁関係にありました。
安和の変の直前、第62代村上天皇が崩御した当時、後継者となる有力な皇子は3人いました。

・憲平親王(第二皇子・後の冷泉天皇)  母は藤原氏。17歳。
・為平親王(第四皇子)         母は源高明の娘。15歳。
・守平親王(第五皇子・後の円融天皇)  母は藤原氏。8歳。

3人の親王のうち、一番年長の憲平親王が即位して第63代冷泉天皇となったものの、病弱でありまだ子がいなかったため次の天皇となる東宮を決めることになりました。ここで、為平親王にするか守平親王にするかで源高明と藤原氏が対立。
高明の部下である藤原千春と有力な大臣・橘繁延に対して、密告により謀反の嫌疑がかけられたのをきっかけに、責任の追及は高明へ。ついには九州に左遷されてしまいました。すべてが終わった後、東宮は守平親王と決まったものの、事件のわずか5か月後、今度は冷泉天皇も譲位させられることに。守平親王が即位します(円融天皇)。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

安和の変のポイントは、他の有力貴族を実力行使(謀反の噂)によって権力から追い落としたことだが、それ以上に、自分たちと血縁関係が近く、かつ天皇は幼い子供の方が都合がよい、という藤原氏の露骨な思惑が滲み出ている点だ。
事件当時20歳前後の冷泉天皇は、病弱であるという理由から、即位からわずか1年で10歳の弟である守平親王に譲位させられた(病弱なわけではなく、のちに花山天皇をもうけている)。成人となって政治がわかる年頃であるにも関わらずだ。

寛和(かんな)の変 傷心の天皇を誑かす

時は流れて西暦986年。円融天皇の次の代の天皇であり、冷泉天皇が譲位したのちに出来た子、第65代花山天皇の時代。花山天皇は自らが寵愛した女性・藤原忯子が妊娠中に死亡したことにより、この世を悲観して出家を考えるようになっていました。そんな天皇の側近くに仕えて心の動きを読んでいた時の権力者・藤原北家の藤原兼家とその三男・道兼は、兼家の娘・詮子を母とする当時まだ6歳の東宮・懐仁親王を早く天皇の座につけるため、謀略を巡らします。
出家すると寺社で世俗と関係を断ち、仏に仕える身。簡単には元に戻れません。当然、世俗の地位である天皇の座は捨てることになります。
道兼は、自分も一緒に出家するからと言葉巧みに天皇の心を後押し。道兼が天皇を宮殿から連れ出した隙に、父の兼家と長男・道隆に推されて懐仁親王が即位することになります(第66代一条天皇)。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

道兼は一緒に出家したと思うか。いや。奴は見事に天皇を裏切った。
先に天皇を出家させたのち、道兼は「自分の親に出家すると伝えなかったのは心残りなので、説明しに戻る」と言い残したまま戻らなかった。ハメられた天皇は何を思ったのだろう。

藤原北家の全盛期=藤原道長の時代

こうして謀略によって朝廷の実権を握った藤原北家でしたが、藤原家の摂関政治において最も栄えたのは、藤原兼家の子である五男・藤原道長の時代でした。兼家の嫡男・道隆や先ほど述べた寛和の変で花山天皇を騙した三男・道兼らの兄弟が病により倒れたのち、藤原北家の権力を一手に引き継ぐことになります。

運に恵まれた藤氏長者・道長

道長は、彼の努力はもちろんあるとしても、とりわけ運に恵まれた人だと思えます。道隆や道兼ら兄たちがいる中、本来であれば藤原北家の家督を継ぐべき立場になかったのですから。一族の代表者である藤氏長者となった後、さらに幸運なこととして、天皇家三代にわたって婚姻関係を結ぶことにも成功しています。

長女・彰子を第66代一条天皇の后、次女・妍子を第67代三条天皇の后、三女・威子を第68代後一条天皇の后として嫁がせ、一条天皇が即位した西暦986年から自らが病死する西暦1028年までのおよそ40年間にわたり、外戚として権力を保持し続けました。

藤原氏の力の源泉・荘園

image by iStockphoto

藤原北家が天皇家と婚姻関係を結び、政治の実権を握ったのは分かりました。しかし、彼らの強みは政治だけではありませんでした。

荘園。これは彼らの私有地です。ここで生産される農産物は朝廷の管理する公地ではなく、あくまで私有地として国の税収の対象とはなりません。開墾した土地はすべて開墾者の物とするという墾田永年私財法が制定されて後、貴族たちは人を雇い、自分たちの財産として積極的に開墾を進める一方、地方の開墾者から有力貴族・有力寺社へ寄進されるケースも増えていきました。

さらには、朝廷から各地の令制国に派遣された国司の不正や癒着などにより、以下のような特権が付けられた私有地も。

不輸の権  
   本来課されるべき租税が免除される権利


不入の権 
   不正が無いかどうか、役人が立ち入って調べることも出来なくする権利

Phoenix Hall, Byodo-in, November 2016 -01.jpg
By Martin Falbisoner投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

これらの特権を持った荘園の存在とその増加は、次第に朝廷の財政を圧迫していくことになります。

しかし物事には表裏一体で、デメリットがあればメリットもあるもの。これらの特権を使って集められた富をもとに、後世において「国風文化」と呼ばれる独特の文化が花開きます。その一例は以下の通りです。

・国風建築   
   寝殿造という独特の様式で建てられた日本建築。
   藤原道長の建てた法成寺、その子・頼通の建てた平等院鳳凰堂が有名。

・彫刻
   木をパーツにして組み立てる寄木造の技を編み出した定朝と、その作品である
   平等院阿弥陀如来像

・国風文学と仮名文字
   宮中に入った藤原氏の娘など皇后のそば近く仕える女官・女房たちは、中流貴族
   たちの子女であり、その教養力の高さは、紫式部清少納言などの女流作家を
   生み出す一方、彼女らの間の文通で日本独自の文字である仮名文字が広まる。

道長の名歌 藤原氏に心を寄せる朝廷の大臣たち

image by iStockphoto

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

自分の思い通りにならないことは、あの望月のように全く無い。という意味のこの和歌は、藤原道長が三女・威子立后の日・それを祝う宴の席で朝廷の大臣たちの前に詠んだものでした。
和歌を詠めば、返し歌を作って詠むのがルールなのですが、この時、並み居る大臣はこの歌に返歌をせず、全員でこの歌を何度も詠んだ、と伝えられています。朝廷の官僚はみな、道長になびいていたというわけですね。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

一方の天皇は、心中穏やかではなかったようだ。寛和の変で即位し道長の娘と結婚した一条天皇は、密かに自らの日記に以下のように記したという。
「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」
これを天皇の死後、その遺品の中から見つけた道長は、すぐさまその日記を焼き捨てた。藤原一族の専横により、国は乱れている、という意味だと思ったからだ。

権臣・藤原北家の功とは

藤原北家の台頭と権力掌握は、政治的な安定をもたらしました。荘園を通して高めた経済力を背景に、貴族たちが中心となって日本独自の文化も爛熟。

しかし一条天皇の日記にあるように、大化の改新から始めたはずの天皇家を中心とした律令国家体制の足元を揺るがしかねないものであるとみられていました。藤原北家の摂関家に握られた政治と、荘園の増加。この二つの難題を解決することになったのは、荘園改革を行い院政への繋ぎを行った後三条天皇となりますが、これについては次回お話ししましょう。

Share:
kei