

今回は藤原北家が登場した背景と事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/kei
10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は平安時代の名家、藤原北家をわかりやすくまとめた。
功臣の血統
奈良時代から平安時代中期にかけて、政治の実権を握っていたのは藤原氏でした。藤原北家は、藤原氏の一派なのですが、その系譜は飛鳥時代まで遡れます。
中臣鎌足=藤原鎌足

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中大兄皇子らを支えて権臣・蘇我氏を排除し、大化の改新を進めた功労者は、中臣鎌足ですね。中臣鎌足は死に臨んで中大兄皇子(天智天皇)からそれまでの功労に報いる意味で、新たに「藤原」の姓を与えられました。
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重臣・藤原不比等
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鎌足の次男である藤原不比等は、律令制度の完成形である法律書の大宝律令の編纂を行った人物として知られています。
第40代天武天皇の子である草壁皇子に出仕したことが縁で大臣となりましたが、後に皇室に接近。草壁皇子の孫である第45代聖武天皇へ自らの娘である光明子を嫁がせ、外戚として奈良時代の朝廷の重鎮となりました

光明子は、初の人臣皇后と言われている。それまでは、皇族から皇后が選ばれていたのだ。ひょっとしたら、平成上皇における平民出身皇后の立后と同じくらいのインパクトで受け止められたのかもしれない。不比等が娘を皇后としたことは、藤原氏などの貴族が皇室と婚姻関係を結ぶ前例となった。後の摂関政治の典型ができたと言ってもよい。
藤原四家
藤原氏は、不比等の子から以下の4つの家系に分かれます。
・藤原南家
不比等の長男・藤原武智麻呂(むちまろ)の系譜。
西暦764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱以降、振るわず。
・藤原北家
不比等の次男・藤原房前(ふささき)の系譜。
・藤原式家
不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の系譜。
西暦810年の藤原薬子の変以降、振るわず。
・藤原京家
不比等の四男・藤原麻呂(まろ)の系譜。
西暦782年の氷上川継の乱以降、振るわず。
藤原氏の栄達は藤原北家から
そのうちの1つ、藤原北家が平安時代を通して最も栄えることになります。9世紀に藤原北家より出た藤原良房が、西暦866年に第56代清和天皇の外祖父として、天皇家以外の臣下の中では初めて摂政に就任。以来、代々の天皇と婚姻関係を継続することにより、藤原氏が摂政・関白の地位や上位の高官職を独占していくこととなりました。
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