歴史歴史作家の城めぐり

中継基地としての役割を担った丸いお城「田中城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #47】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、静岡県「田中城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

城における角と丸

image by PIXTA / 22560450

江戸時代の軍学書には、「(城は)円形の徳、角形の損」と書かれたものがある。だが、本当に城は丸い方がよいのだろうか。確かに甲州武田氏は丸い馬出が有効と信じ、多くの城で丸い馬出と三日月堀を築いている。

こうした築城思想は馬出に限らずで、武田氏の考える城の理想的な形状としては、「後ろ堅固」の地に扇を広げたような半円の城を築くことにあった。

その典型が、遠江国の大井川西岸に築かれた諏訪原城で、台地の突端に主郭を置き、そこから放射線状に曲輪を広げていき、虎口に丸馬出と三日月堀を築くという扇型のような縄張りを取っている。こうすると塁線が半円を描くようになり、曲輪から死角がなくなり、鉄砲や矢といった飛び道具で寄手の侵入を防ぐ際に有効に働く。

その一方、白兵戦に移った際には、防御上の不利は否めない。それゆえ武田氏の最末期に造られた新府城などは、二カ所に丸馬出はあるものの、塁線は直線を基調としたプランになっている。新府城の搦手を守る特徴的な出構も、円形というより長方形を成していることから、最終的に武田氏は鉄砲や焔硝が不足し、白兵戦を想定した構えを採用せざるを得なくなったのかもしれない。

円形の曲輪は平時の使い勝手も悪い。建築物を建てる場所も一定以上、塁線から遠ざけねばならず、天守や高櫓を築いても、その能力が十分に発揮できない。

それゆえ武田氏のライバルの北条氏などは、塁線を直線的に取り、白兵戦等に備えては、「横矢掛り」と呼ばれる塁線の折れを採用することで、半円形の城のメリットも取り入れていった。これは近世城郭の大半が、直線的な塁線に屈曲を入れていることからも、ご理解いただけると思う(塁線が曲線だと、石垣が崩れやすいという理由もある)。

上野国の名胡桃城は、武田氏、真田氏、北条氏とめまぐるしく城主が替わったが、その都度、縄張りが改変を受けている。真田氏は武田氏時代の丸馬出を拡大して三曲輪とし、その前面に新たな丸馬出を築いたが、北条氏時代には、それを無理に角馬出に変えている。画一的な防御態勢を布こうとしていた北条氏にとって、丸馬出を受け入れるわけにはいかなかったのだろう。

かくして丸と角の優位性争いは角に軍配が上がった、と思われがちだが、駿河国の平地に出現した丸い城が、意外な抗堪力を持っていたことで、必ずしも角が優位とは言えなくなった。それは冒頭の軍学書の言葉にも表れている。

その丸い城こそ田中城である。

田中城の歴史

image by PIXTA / 50621411

田中城は静岡県藤枝市にある平城である。戦国時代、静岡県は駿河国・遠江国・伊豆国の三国に分かれていたのは周知の通りだが、田中城は、今川氏の本拠の駿府から14㎞ほど南西の平野部にあり、この時代から、今川氏の本拠・駿府の西方を守るという役割を担っていた。

当初、田中城は徳一色城と呼ばれ、国人の駿河一色氏の居城だった。創築年代は定かでないが、おそらく単郭の居館から出発し、その後、一色氏が途絶えたか衰えたかして、今川氏の番城扱いになったと思われる。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川氏が衰勢に陥り、永禄11年(1568)11月、武田信玄の駿河国侵攻が始まる。この時、今川氏傘下の国人・長谷川正長が籠った城として、田中城は歴史の表舞台に登場する。しかし正長は武田勢の威容を見て驚き、戦わずして本拠の遠江国へと退いていった。ちなみに長谷川正長は、『鬼平犯科帳』で有名な火付盗賊改の頭である長谷川平蔵の先祖にあたる。

これにより無血入城を果たした信玄は、田中城を見て「これだけ堅固な城に追加普請は要らない」と言ったとされる。かくして田中城は武田氏のものとなり、大規模な修築が施される(信玄の言葉とは矛盾するが)。その後、山県昌景をはじめとした在番将が置かれたので、武田氏の直轄城とされたようだ。

元亀4年(1573)の信玄の死後、家督を継いだ勝頼は積極的に徳川領国への侵攻を開始し、翌年には遠江東部の要衝・高天神城を攻略する。これにより高天神城が武田方の最前線拠点となり、田中城は中継拠点としての役割を担うことになる。

城には、最前線拠点への兵站線維持という役割が課されることがある。つまり補充兵員はもとより、武器弾薬、食料、日用品といった必要物資を送り続けるのだ。

ところが、天正3年(1575)5月の長篠合戦によって事態は一変する。この戦いに大敗した武田氏は衰勢に陥り、遠江国の諸城も維持するのが難しくなってきた。

8月、攻勢に転じた徳川方により、諏訪原城が落城し、駿府館(実質的には江尻城)―田中城―小山城―諏訪原城―高天神城という東海道を軸とした兵站補給ルートの一部が破壊された。そのため高天神城は孤立を余儀なくされる。

勝頼に長期的展望があれば、ここで遠江国の拠点、すなわち高天神城や小山城を放棄し、駿河国との境にあたる大井川の線まで引くべきだった。だがそれをしなかったため、田中城から高天神城への補給は途絶えがちになる。

その結果、天正9年(1581)3月、高天神城は壮絶な落城を遂げた。食料が尽きたことで城兵が包囲陣に突撃し、大半が討ち取られたのだ。これにより翌年、織田・徳川連合軍の武田領侵攻作戦が始まる。

この時、田中城は信州国人の依田信蕃が守っていたが、背後の駿府を守る穴山信君が寝返ったので、致し方なく城を明け渡して家康に投降する。その後、武田氏が滅亡したのは周知の通りである。

『甲陽軍鑑』や『松平家忠日記』によると、歴史上、田中城での攻防戦が全くなかったわけではないが、寄手と城方が死力を尽くした大攻防戦は、ついぞ行われずに終わった。

かくして駿河国は家康のものとなるが、小田原合戦で北条氏が滅亡した後は、豊臣系大名の中村一氏の領国となる。それも束の間、関ケ原合戦の後には家康の所有に戻り、田中城には譜代の酒井忠利が田中藩1万石として入った。この時、惣構(大外郭)が築かれ、亀甲型だった城が、ほぼ円形に見えるようになった。

家康は晩年、藤枝周辺の地をいたく気に入り、田中御殿と呼ばれるようになった田中城に滞在しながら鷹狩を楽しむようになった。ところが元和2年(1616)、この城に滞在中、鯛の天婦羅を食べて食あたりを起こし、75歳で没する。

その後、田中城は、駿府の西を守る番城的な性格が強くなり、城主も頻繁に替わり、12氏21代を数えることになる。

田中城の構造

image by PIXTA / 53597824

田中城のあった駿河国西部の「山西」と呼ばれた地域は、湿地帯に覆われ、城を築きにくい地だった。だが東海道が近くを通っており、また散在する微高地の集落を結んだ交通路が四通八達していた。そのため国人の一色氏は、その中にあった低丘陵の頂に一重の堀だけの方形居館を築いた。これが田中城の始まりになる。

後に本曲輪となるこの居館の敷地は、南北56m、東西46mという狭小なもので、駿河一色氏の勢力が、土豪や地侍の域を出ていなかった証しになる。

一色氏から城を引き継いだ今川氏は、単郭の居館の周囲にもう一重の堀を築き、二重堀にした。これで本曲輪を取り巻くように二曲輪ができたが、まだ円形にはなっていない。

その縄張りが亀甲型(準円形)に見えるようになるのは、武田氏時代である。信玄股肱の馬場信春によって、三曲輪の東西南北の虎口と、二曲輪の南北2カ所の虎口に馬出と三日月堀が造られ、堀も二重から三重にされた。ちなみに一つの城で合計6カ所も馬出と三日月堀があるのは、管見ながらほかに例を見ない。

東西南北の四カ所に造られた虎口のうち、大手口は武田氏の勢力圏に向いた東の平島口とされた。こちらは比較的安全なので、丸馬出と三日月堀は一重である。また仮想敵である徳川氏の正面にあたる西の清水口の前面には、姥ヶ池という水源地が広がっており、攻撃され難いことから、こちらも一重である。

一方、北の藤枝口と南の新宿口の前面には、微高地が続いており、寄手にとって攻めやすい。そのため丸馬出と三日月堀が二重に施されている。

武田氏は敵の攻め口を南北の虎口と想定し、敵の攻め口を南北の虎口と想定し、そのどちらかを攻められた場合、東西の虎口から逆襲を仕掛けて寄手を追い払うという戦法を想定していたのではないだろうか。

このように武田氏は、丸い城における定型的な防御法を編み出していた。むろんそれをやるなら、後ろ堅固の地に半円の縄張りが望ましい。だが田中城のような平地では、それができない。それゆえ「それなら扇を背中合わせにしてしまえ」となり、丸い城になったのではないかと言われている。

これこそ武田流築城術の到達点であり、武田氏の平城の最終完成形だった。

さらに江戸期に円形の惣構(大外郭)が構築されることで、本曲輪、二曲輪、三曲輪が同心円状に広がる完全円形の城が完成する。この時、大手口も藤枝宿に通じた北の藤枝口に変えられた。

田中城は江戸時代を通して使われていたが、城主がよく替わったこと、本曲輪が狭すぎること、徳川氏にとって駿河国が安全圏となったことなどを理由に、天守が築かれることはなかった。

また石垣についても、櫓門のある桝形の一部に石積みがある以外は見られず、江戸時代を通して土の城だった。

とは言うものの、「信玄公が築いた甲州流の城」として、軍学者がよく訪れて絵図を盛んに描き、それが今日まで残っている。

昭和31年に撮られた空撮写真を見ると、田中城の遺構は完存状態である。だがその後、宅地開発が急速に進み、今では、わずかな遺構が見られるだけだ。

それでも藤枝市や地元の方々のご尽力により、下屋敷跡に造られた「史跡田中城下屋敷」には、本丸櫓、中間部屋、茶室、農家などが移築または再現されている。これらの施設を見学し、往時に思いを馳せてほしい。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
Share:
jun-ito