
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
駿河国と今川家

歴史上、「海道一の弓取り」と呼ばれた男は今川義元と徳川家康の2人しかいない。この2人に共通しているのは、駿河・遠江・三河の三国を領有していたことだ。この三国に共通しているのは、海道すなわち東海道が貫通しているという一点に尽きる。
つまり戦国時代、東国と畿内を結ぶ東海道を押さえることは、比類なき武勇の証しだったことになる。
とくに駿河国は、戦国時代前期に強勢を誇った今川氏の本国として、応仁・文明の乱によって荒れ果てた京都から逃れてきた公家や文化人たちの安息の地となり、その中心の駿府は、「小京都」と呼ばれるほど繁栄した。
しかし駿河国は、後に豊臣秀吉が行った太閤検地(1582年頃〜1598年頃)によると、15万石の米しか取れない生産性の低い国だった。ちなみに遠江国は25・5万石で三河国は29万石となる。つまり今川義元が当主だった最盛期でも、今川氏の領国は三国合算で70万石にしかならなかったことになる。これは、武田信玄の最盛期の120万石や北条氏政の最盛期の200万石以上と比べても低すぎる。
では駿河国は、どうしてそれほど豊かだったのだろう。
その秘密は金山の開発にあると言われる。だがそれよりも、日本の大動脈である東海道を押さえていたことで、そこを通る商品の運上金や関税が莫大なものに上っていたことの方が大きかった。つまり「海道一の弓取り」とは富裕の証明でもあったのだ。
今川氏の本拠である駿府館は甲斐武田氏の躑躅ヶ崎館同様、単郭を基本にした方形居館だったらしく(江戸時代、その上に駿府城が築かれたため、現在は痕跡さえ残っていない)、一見、防御に気を使っていないように思われる。それは今川領国が極めて安定していたことの証左でもあるが、実際は駿府館を中心にした城郭網が築かれており、その防御力は決して低いものではなかった。
具体的に言うと、東に愛宕山砦と瀬名砦、北東に賤機山城と北砦、北西に建穂寺と小瀬戸城、西に丸子城、南西に水軍拠点でもある持舟城(用宗城)、南に久能山城という具合に支城や砦が密に配されており、駿府館に通じるすべての街道が、それらの支城群によって押さえられていた。
この中で、最も重要な西方の守りを担っていたのが丸子城である。
ちなみに当時の東海道は宇津ノ谷峠を越えてくるので、丸子城は極めて重要な位置にあった。
丸子城の位置と歴史

駿河国には安倍川という大河が流れており、その東岸に駿府がある。つまり安倍川は駿府の西の外堀の役割を果たしていた。その安倍川の西岸、駿府館の西方1里半(6㎞)にあるのが丸子城である。つまり丸子城は駿府西方の防衛の要だった。
ちなみに丸子とは「まりこ」と読む。つまり東海道五十三次で有名な鞠子宿はここになる。東海道の宿の中で最も小さなこの宿は「とろろ」が名物で、松尾芭蕉も「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」という句を詠んでいる。
この城の山麓(北麓)にあたる丸子宿の最奥部・泉ヶ谷には、南北朝時代に書かれた連歌師・柴屋軒宗長の草庵・柴屋軒があったが、今は吐月峰柴屋寺となっている。
この城の創築に関しては不明だが、『宇津山記』には、「宇津の山には齋藤加賀守安元の先祖からの居館があり」と記されており、応永年間(1394〜1428)には、この城のある一帯を所領とする国人齋藤氏が、今川氏の要請に応じて物見櫓程度のものを築いていた可能性がある。
その後、義忠―氏親―氏輝―義元―氏真と続く今川氏の全盛時代に、なぜかこの城の記録は見えなくなる。唯一、文明8年(1476)2月に今川義忠が討ち死にを遂げることで始まる家督争いで、伊勢宗瑞(後の北条早雲)によって、幼い氏親とその母の北川殿(早雲の姉か妹)が丸子谷に匿われていたという記録はあるが、その時も丸子城が使われた形跡はない。
家督争いに打ち勝った氏親が今川家当主となった後も、丸子城は齋藤氏か別の家臣に守らせていたとは思われるが、記録を欠くためはっきりしない。
その後の記録によると、永禄11年(1568)、今川氏真を駿河国から追い出した武田信玄が、宿老筆頭の山県昌景に2500の兵を付けて丸子城を守らせたとある。これは氏真が遠江国の懸河城に逃れたことで、徳川家康と手を組み、駿河回復を図ってくることを危惧してのことだと思われる。
またこの時、武田氏によって新規に取り立てられたという指摘もある。確かに全城域が、武田氏のトータルな思想に貫かれた遺構に覆われ、今川氏時代の痕跡は定かでない。それを思うと、今川氏時代は物見のための小砦が置かれていただけかもしれない。
天正10年(1582)の武田氏滅亡時にも落城の記録はないが、武田勢が持舟城から落去したという記録はあるため、隣接する丸子城には守備兵を置いていなかったか、持舟城の守備兵と共に甲斐国に退去したのだろう。
その後、駿河国は徳川家康のものとなるが、家康の関東移封に伴って廃城となった。
これにより丸子城は、遺構を完存状態にしたまま現在に至る。
縄張りと遺構

丸子城は、標高132mの三角山の尾根先端部に築かれた山城である。この尾根は北西から南東に延び、さらにその南東には丸子川が流れており、北東と南西が断崖になっているため、宇津ノ谷峠越えの細道を通ってきた寄手は、たとえ兵力が豊富であっても兵の展開がしにくく、攻めるに難い城だった。
ちなみに、この城の遺構の大部分が徳川氏の手になるものという説もあるが、私はそうは思わない。まず諏訪原城(牧野城)と違って、この城の普請作事の記録が『松平家忠日記』に出てこない。さらに遺構には、武田氏の城で多用される堀切、土塁、切岸、竪堀、横堀、桝形、馬出、喰違虎口、武者隠し、馬蹄段といった土の城を代表するパーツが、すべてと言っていいほどそろっているからだ。
それでは城に入っていこう。
東端の匠宿から西に向かって山を登っていくと、駐屯地(外曲輪)という看板が出てくる。ここは稲荷神社のある曲輪だが、外曲輪や駐屯地というよりも、拡張途中で中断された曲輪(ないしは出城)の可能性がある。城内に十分な空間のある丸子城なので、いかに雑兵だろうと、わざわざ何の防御も施されていない曲輪に駐屯させることはないだろう。
さらに尾根道を登っていくと三日月堀が見えてくる。この三日月堀は南端から東へと逆L字を描くように伸びており、半円以上の円を描いている。
その三日月堀に囲まれた角馬出状の大手曲輪(東曲輪)には、南端の土橋から入るようになっている。その南は崖になっており、斜面には竪堀も落としてあるので容易には回り込めない。
大手曲輪から北曲輪に向かうと、土塁に囲まれた方形の曲輪が出現する(ここは北曲輪の東端部とされて名称はない)。ここには内桝形虎口状の空間があるが、大手曲輪と合わせて「重ね馬出」という考え方もできる。
今川氏時代の丸子城は、大手曲輪と北曲輪を含めた一帯だけだったという説がある。だが北曲輪からの眺望はよくないので、ここだけでは物見城の役割を果たせない。
北曲輪周辺の見どころの一つに大堀切がある。これは北曲輪の北端の尾根を断ち切ったもので、ここから南が城域になる。
北曲輪は尾根伝いに逆L字状に南西に折れていき、右手に横堀が見えてくる。これが、この城の最大の見どころとなる東西に延びる長さ300mの横堀である。
ここでいったん横堀に下りてみると、途中に三日月堀を伴う半円形堡塁に出合う(虎口と連動していないので馬出ではない)。この堡塁は北西の崖をよじ登ってくる寄手を防ぐと同時に、万が一、横堀に侵入された際、城側と連携して両側から堀底の敵を叩くという役割を担っている。
いったん北曲輪に戻り、南に進むと三曲輪に出る。この三曲輪の先には堀切が入り、それとつながった横堀を隔てた北西側に、先ほど説明した丸馬出がある。
さらに南西に進んでいくと、三曲輪から堀切を隔てて長方形の二曲輪に、さらに南に進むと本曲輪に出る。
二曲輪からは丸子城下から駿府方面、さらに駿河湾が見渡せる。今川氏親が丸子谷に匿われていた時は、ここに常時、物見を置いて駿府方面を眺めさせていたのだろう。二曲輪と本曲輪の間には堀切が入れられ、さらに直角に2度曲がった虎口が設けられているので、侵入は容易ではない。
本曲輪は南北70m、東西38mほどの規模で、こうした山城にしては広い。この平場が取れるだけでも、この山を城にする価値があったと思われる。
本曲輪周辺で、とくに注目いただきたいのは西側の防備である。本曲輪から西に下りていくと、堀を隔てて逆L字形の馬出(堡塁)に出る。さらに堀を隔てて三日月堀を伴った丸馬出(大鑪曲輪と呼ばれる半円形堡塁)が設けられている。これが武田流築城術の特徴の一つと言われる「重ね馬出」である。
大井川上流部の小長谷城にも重ね馬出があり、この城の創築が天正9年(1581)ということから考えると、武田氏がたどり着いた結論の一つが、「虎口を守る最強のパーツは重ね馬出」だったのかもしれない。
武田氏は地形に応じて馬出を並べたり、重ねたりすることで、極めて厳重な縄張りを構築している。丸子城の本曲輪西側斜面の場合は、西側先端の丸馬出をその頭上から逆L字形の馬出が援護し、さらにそれを本曲輪から援護するという防御法を取っている。同様の防御構造が本曲輪の東側にも見られるが、こちらは傾斜が急なためか、「重ね馬出」というよりも馬蹄段構造になっている。
またこの城には、本曲輪や「重ね馬出」を取り巻くように竪堀が縦横無尽に走り、中でも本曲輪から西に延びる大竪堀は山麓の谷底まで続いており、優に300mはある。これは、あえて緩斜面に竪堀を落とすことで敵をここに誘引し、その上部の「重ね馬出」で、キルゾーンを形成しようという意図からだろう。
今川義元、武田信玄、そして徳川家康といった名だたる武将たちが西の防御壁と恃んだ丸子城は、「いかに敵の血を吸い取るか」という作意に溢れた「土の名城」である。
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