教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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伊東潤(著),西股総生(監修)
北条早雲と興国寺城の歴史
かつては伊勢の素浪人から国持大名にのし上がり、下剋上の象徴と考えられていた北条早雲(伊勢新九郎盛時・早雲庵宗瑞)だったが、ここにきて急速に研究が進み、伊勢本家の分家にあたる備中伊勢氏の出身だということが明らかになってきた。
父親は備中伊勢氏当主の伊勢盛定で、室町幕府八代将軍義政の申次衆をしていた。盛定は義政の独裁政治を支えた政所執事・伊勢貞親(義弟にあたる)の側近として幕府の政治の中枢を担った一人で、駿河守護職の今川義忠に、自らの娘(北川殿)を輿入れさせるほどの大物だった。
早雲の母親は本家の貞国(貞親の父)の娘で、幕府政所執事の貞親から見た場合、外甥ということになる。
その生年も、従来の永享4年(1432)説に疑義が呈され、康正2年(1456)説が有力になってきている。かつての定説より24歳も若返ったことになり、駿河に下向してきてからの積極果敢な行動力も、この年齢ならうなずける。
備中国の荏原荘で少年時代を過ごした早雲は、応仁元年(1467)頃、伊勢に滞在する足利義視に仕えたとされる。康正2年誕生説を取れば、わずか12歳である。その後、いったん記録が途絶えるが、28歳の文明15年(1483)には、9代将軍義尚の申次衆になっている。
長享元年(1487)、32歳になった早雲は駿河国に下向し、駿河今川氏の家督争いに介入し、今川氏の実質的当主だった小鹿範満を討ち取った。そして外甥の竜王丸(後の氏親)に駿河今川氏の家督を取らせ、さらに駿河守護職に就任させた。
この時の功により富士下方12郷を拝領した早雲は、本拠を興国寺という古刹のある地に定めた(善得寺城という説もある)。
それまでは石脇城という普請半ばの城に食客として滞在していたことを考えると、異例の出頭である。このことから軍記物の記載にある通り、早雲が小鹿範満討伐の司令官的立場にあったと分かる。
小鹿範満を討った早雲の次なる狙いは伊豆だった。つまり興国寺城は伊豆進出の策源地として築かれたことになる。
その頃、伊豆は義母と異母弟を殺して二代堀越公方の座に着いた足利茶々丸が、韮山の堀越御所に居座っていた。茶々丸の背後には関東管領・山内上杉顕定がおり、その配下の伊豆国人たちが茶々丸を支えていた。
明応2年(1493)7月、ひそかに興国寺城を発した早雲は、清水湊から船を使って伊豆半島西岸に上陸し、茶々丸のいる堀越御所に攻め寄せた。隙を突かれた茶々丸は中伊豆方面に逃走するものの、茶々丸を支持する国人たちを掃討した早雲は、伊豆全土の制圧に成功する。
当初、北条氏(当時は伊勢氏)の城だった興国寺城だが、天文18年(1549)に今川氏の城となり、永禄12年(1569)の今川氏滅亡後、いったん北条氏の手に戻る。しかし武田氏との間で争奪戦が始まり、和睦によって武田氏の城となった。
その間の大きな事件としては、永禄11年(1568)、今川氏からこの城を奪った武田勢を北条勢が追い落とした戦いや、元亀元年(1570)の信玄による興国寺城攻撃などが挙げられるが、どの戦いも詳しい戦況は伝わっていない。
天正10年(1582)の武田氏滅亡により、興国寺城は徳川氏の城になる。しかし天正18年(1590)に家康が関東に移封されると、秀吉の家臣の中村一氏が15万石で駿河に入部し、その持ち城となる。
関ヶ原合戦後は再び徳川氏の城になり、家康の家臣で、「どちへんなし(どちらにも偏らない=頑固者)の三郎兵衛」という異名を持つ天野康景が1万石で配された。ところが家臣の不始末から康景は改易に処され、慶長12年(1607)に廃城となる。
この事件は、徳川家の直轄地を管理する駿河代官から、康景の家臣が些細な諍いから代官領の農民を斬殺した廉で訴えがあり、康景は公儀から家臣を差し出すよう命じられた。だが、それに納得できない康景は、家臣を差し出さずに逐電してしまう。その後、康景の消息は途絶える。それでも康景は、家臣を庇うために1万石を棒に振った「どちへんなし」として、後世まで語り継がれることになる。
結局、興国寺城は北条、今川、北条、武田、徳川、豊臣、徳川とめまぐるしく城主が変わる希有な城となった。
興国寺城の位置と概要
駿河国(静岡県の東半分)は北方から山々が張り出した地形になっており、舌状台地地形が多い。小鹿範満を倒して早雲が得た所領も、北方から愛鷹山の支尾根がいくつも張り出している地で、多くの舌状台地があった。早雲はその中の一つの篠山と呼ばれる台地に目を付け、長享元年(1487)頃、興国寺城の普請作事を開始する。
数多い台地の中で、早雲がこの台地に目を付けた理由は、台地の先端部が蓮池という湿地に囲われており、天然の要害地形だったからだと思われる。これで背後の尾根を掘り切れば、要害性が極めて高くなると思ったのだろう。こうした城の地選方法を心得ていることだけでも、早雲が並々ならぬ人物だったと分かる。
ちなみにこの城は東海道に面してはいないが、三の丸の前を東西に走る根方街道と東海道を結ぶ竹田街道が城下を通っており、城から1㎞ほど南を走る東海道へのアクセスも容易だった。
この城は舌状台地の背後を掘り切っていることからも分かる通り、その先端部まで幾重にも曲輪を設けた連郭式という縄張りを取っている。早雲没後も、北条氏はこうした舌状台地状の地形に好んで城を造るが、その典型例として小田原城が挙げられる。つまり興国寺城は、北条氏の城の原型になったと言えるだろう。
曲輪の配置は、尾根の根元にあたる北から北の丸(外郭)、大堀切を隔てて本丸、二の丸、三の丸という順序で、北から南に下る形で平地(蓮池)に至る。北限があいまいだが、この4つの曲輪が本城部分とされており、南北330m、東西130mほどの長方形を成している。
さらに北の丸の東にある台地基部の削平地を隔て、並行して走る舌状台地には、一城別郭形式で清水曲輪(東曲輪)という出城が築かれている。こちらは、いくつかの曲輪が段上に連なり、外堀も備えている上、発掘調査によって堀切や掘立柱の跡なども見つかっているので、出城なのは間違いない。興国寺城見学の折には、ぜひ足を延ばしてほしい。
また西側の谷津を挟んで同様の舌状台地上に本法寺があった。西曲輪とも言えるこの寺は城の扱いをされていないが、土塁や空堀も残っていることから、明らかに出城だろう。
ちなみに興国寺城は、平成7年(1995)に国の史跡に指定され、現在も静岡県沼津市による発掘調査が続いている。この調査が終わった後は史跡公園として整備される予定となっている。
興国寺城本城域部分の縄張り
それでは本城域の細部について説明していこう。
北の丸は、東西80m、南北45mの大きさで、北側に土塁が築かれている。そこには空堀もあったが、今は痕跡を残す程度だ。この堀から北側は新幹線工事によって台地が切断されてしまったので、尾根続きになる背後の山々との間に、どのような防御施設が造られていたかは不明となってしまった。
この城の一番の見どころは、北の丸と本丸の間の大空堀だが、これは本丸土塁上から計測すると、深さ20m、上端の幅30m、堀底幅は15mという巨大なもので、一見の価値がある。ここからは発掘調査によって障子堀も検出されている。
何年か前に行った折、かなり深くまでトレンチ(発掘調査)していたのに出会ったが、その時に担当している方に質問したところ、生活の痕跡らしき物は出てきていないという。また大空堀は、廃城の10年くらい前に掘られたのではないかとも言っていた。天守台や石垣も、天野康景時代の遺構だと推定できるとのことだった。しかし、ここで掘り切らないと城としての体を成さず、大空堀の原型は早雲の時代にできていたのではないだろうか。
本丸の大土塁は、本丸からの高さが10mほどあり、こちらも巨大さでは引けを取らない。
これだけの盛り土をするのは極めて難しいので、おそらく小高い丘を土塁状に切り崩したものと思われる。
この土塁の中央部には、天守台と呼ばれる小さな曲輪(300㎡)があるが、台の大きさからすると、せいぜい三層の櫓が限界なので、天守と呼ぶのは微妙だろう。しかしこの天守台は、北側に「張り出し」となっており、敵に対してうまく横矢が掛かるようにしてある。また天守台の石垣は荒々しい野面積みとなっており、戦国時代の息吹を今に伝えている。
大土塁は本丸を囲むように「コの字型」に北から東西へと伸びており、縦土塁(登り土塁)的な形状を見せている。
本丸の広さは土塁の内側で、東西60m南北50mあり、早雲の頃の本丸としては、これでも広い方だったと思われる。
本丸と二の丸の間には、かつて幅11mの堀があったと言われるが、現在はなくなっている。本丸の南東端には「石火矢場」と呼ばれる少し高くなった場所があり、こちらも「張り出し」となっている。
ちなみに最新の定説によると、中村一氏期に城域の変更と拡張がなされたというが、早雲の時代にも尾根先端部まで曲輪はあったはずだ。
二の丸と三の丸の境には、西向きに大手口があり、二の丸側に桝形虎口が築かれていたが、今はなくなっている。
二の丸は桝形虎口から三の丸につながっている。現在、三の丸部分も県が買収して城域となったが、かつてはガソリンスタンドや宅地があったことから、遺構として残っているものはない。
三の丸はこの城で最も広大な曲輪だったが、前記の理由からその面積は不明である。東南隅に東大手口があり、馬出状の曲輪まであったというが定かなことは分かっていない。
ちなみに、城の遺構のすべてを戦国後期以降のものとする風潮はいかがなものだろうか。この城では、早雲時代の城域が本丸までという説もあるが、城としての機能を考えると、台地の先端部まで曲輪がなければおかしいはずだ。早雲の時代でも、三の丸まで城域があったと考える方が自然ではないだろうか。
いずれにしてもこの城は、北条氏創業の城として堂々たる威容を誇っているので、ぜひ一度は行っていただきたい。
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