多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、静岡県「下田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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戦国時代の水軍と軍船

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水軍城といえば、比較的小さな城をイメージしがちではないだろうか。だがそれは、瀬戸内海に跋扈していた海賊たちの根城に当てはまることで、太平洋に面した広大な領国を持つ北条氏の水軍城とは、規模も構造も根本から違ってくる。

そもそも水軍は源平時代からあった。壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率いて平家水軍と戦った熊野三山の別当・湛増などは、その典型だろう。

だが当時の水軍は荘園の作物を輸送したり、漁業に従事して糊口を凌いだりしており、合戦に駆り出されることはおろか、海賊働きの機会さえ、さほど多くはなかったはずだ。

ところが海を制することが、様々な意味で勢力争いを有利に運ぶことが分かってきた室町時代初期には、水軍を編成する国人も現れ始めた。

『太平記』を読むと、瀬戸内海は陸路よりも海路で移動することが多くなっていたと分かる。足利尊氏の九州落ちの際にも、少弐頼尚や大友氏泰といった九州国人が軍船を連ねて兵庫津に駆け付けなかったら、尊氏や直義は討ち死にを遂げ、室町時代はなかったかもしれない。

その後、戦国時代初期には小早船や関船と呼ばれる快速の軍船が造られ、戦国時代中盤には、巨大な上に武装を強化した安宅船が出現する。

この安宅船こそ究極の軍船で、ほぼ同時代に書かれた『菅流船軍秘伝書』には「安宅ほど自由で要害もよく、風波にも強いものはない」と絶賛している。この「海上の城」は、攻撃力・防御力・耐波性のどれを取っても最強の船だった。

また軍記物の記載だが、毛利・大友などの西国大名はもとより、東国でも武田・北条両氏などは、安宅船を中心に関船や小早船を周囲に配した艦隊を編成するようになっていた。

これにより戦国大名は、兵員、武器、兵糧、馬などを迅速に戦場近くまで送れるようになり、その輸送を成功させようとする側と、阻止しようという側という形で、海戦が勃発するようになる。

天正4年(1576)と6年(1578)の2度にわたって大坂湾を舞台にして行われた水軍戦などは典型だろう。これは石山本願寺に兵糧を入れようとした毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍の間で行われ、第1戦は毛利水軍が勝ったものの、第2戦は鉄甲船(舷側に鉄を張りめぐらせた安宅船)を擁した織田水軍(実質的には九鬼水軍)が勝ち、天下の趨勢が決まるという重要な戦いだった。

北条水軍の戦いと安宅船の大型化

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『北条五代記』によると天正9年(1581)、北条水軍は駿河湾で武田水軍と戦った。

この時、北条方には10隻の安宅船があり、関船しか持たない武田水軍に対して、戦いを優位に進めたという。

ここで言う安宅船は50挺立ての「小安宅」と呼ばれる船で、全長は22〜24m、最大幅は5・5〜6・4mだった。

しかし元亀4年(1573)に信長が琵琶湖に浮かべた100挺立ての安宅船は、長さ54・5m、幅12・7mもあり、おおよそ倍の大きさになっていた。さらに天正年間後半、長宗我部元親が造った大黒丸という大安宅船は、18端帆、200挺櫓、大筒2門という途方もない大きさで(全長や全幅は不明)、北条氏の安宅船の約4倍もあった。

このように安宅船の造船技術、とくに大型化は日進月歩で、それに見合った水軍城が必要になっていたはずだ。

下田城の話に入る前に、まず北条水軍の歴史を紐解いてみよう。

北条氏初代の早雲が今川氏の家臣だった頃は、今川水軍を借りて西伊豆に上陸するなどしていた北条氏だったが、相模に進出し、三浦一族を滅ぼし、その水軍を吸収することで自立していく。

早雲から二代氏綱にかけては、相模湾と江戸湾の西半分を縄張りにしていた。しかし駿河国駿東郡を手中にした天文5年(1536)頃から、北条氏は西伊豆の安全保障のために水軍力を強化していく。すなわち志摩国から招聘した梶原氏を北条家船手大将の座に就け、土肥の富永氏庶流、江梨の鈴木氏、三津の松下氏らをその配下に組み込み、組織的な体制を布こうとした。

駿河湾に面する西伊豆には、北条方船手衆の小砦が、網の目のように張りめぐらされている。伊豆半島南端から記していくと、妻良・子浦・雲見・松崎・田子・安良里・宇久須・高谷・八木沢丸山・戸田・江梨・三津・長浜・獅子浜などだ。

これらの水軍城は、諸浦に蟠踞する海賊国人たちの拠点城だったが、すべてが北条傘下に入るや、風よけの入江から船造りを伴う拠点港まで、様々な役割を与えられていった。安良里や長浜などの大規模拠点には、船大工はもとより、金具や船釘など船金物を造る船鍛冶や鋳物師までいたという。

天正16年(1588)、豊臣軍の侵攻が必須と見た北条氏は、箱根路の山中城や伊豆半島北端の韮山城から、東南端の下田城までの長大な防衛線を構築し、海陸の城を駆使した巨大な防波堤を築こうとした。

水軍城の強化も重要課題となり、この時に長浜・八木沢丸山(新規築造)・下田の3城が戦略拠点とされ、ほかの城は放棄同然の状態に置かれたと思われる。

伊豆半島東南端という豊臣水軍の相模湾への進出を阻む位置にある下田城は、同年に大改修が行われ、それまでの海賊城から本格的な水軍城へと生まれ変わった。

天正18年(1590)、いよいよ小田原合戦が勃発する。3月初旬、長浜・八木沢丸山両城など西伊豆のすべての城を制圧した豊臣水軍は下田城に迫った(包囲開始は3月下旬だと推定される)。

豊臣水軍は、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆、長宗我部元親、本多重次、安国寺恵瓊らに率いられた精鋭で、その兵船は1000、兵は1万4000を数えた。

下田城を預けられた伊豆奥郡代の清水康英は、敵水軍の威容を見て籠城に徹することにした。すなわち敵水軍の撃滅など眼中になく、敵水軍を引き付けることで、小田原の船留(海上封鎖)を少しでも手薄にさせようというのだ。しかしこの意見に同調しない梶原景宗などは、さっさと小田原に退去してしまい、また江戸水軍を率いて入っていた江戸朝忠は、出撃して華々しい討ち死にを遂げたという。このように足並みのそろわないまま籠城戦が開始されたので、下田城に籠もる兵力は600足らずになったという。

一方、下田城に惣懸りするよりも、包囲した方が得策と考えた豊臣秀吉は、脇坂・安国寺両水軍だけを残し、ほかの水軍を小田原の海上封鎖に回した。

包囲開始後も、海陸双方で小競り合いが繰り広げられたが、それらの詳細は記録にない。

そして4月下旬、清水康英は勧告に従い、下田城を開城した。戦力差から一方的に押される中、約50日も戦い抜いたのは下田城の抗堪力によるところが大だろう。

城を出た清水康英は河津の寺で謹慎後、天正19年(1591)に死去した。しかし結城秀康に仕えた嫡男の政勝は、康英の武名によって1000石を賜った。

その後、結城家を出た清水氏は、小田原に戻って商人として成功する。江戸時代にも小田原宿で本陣と脇本陣を営み、平成17年(2005)頃まで脇本陣は旅館として営業していた。筆者も宿泊したことがある。

北条氏滅亡後、下田城には徳川家家臣の戸田忠次が5000石で入封するが、関ヶ原合戦後に転封となり、以後、下田は天領とされ、下田町奉行が統治することになる。しかし戸田氏も下田町奉行も下田城に手を加えた様子はなく、遺構のすべては、北条氏時代のものと思われる。

下田城の構造

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この城は伊豆半島の東南端の下田にあり(北端は石廊崎)、下田港を守るために造られている。城の場所は下田湾の南端にある直径800mほどの円形に近い鵜島半島で、ここには入江がいくつかあり、水軍城としてはうってつけの場所だった。

縄張りは舟入(船着場)のある入江を守ることを主眼としており、とくに稲生沢川の河口付近にある入江に近づく敵に対して、いかに効果的な抗戦ができるかに注力されている。といっても半島状の山に城を築いたも同然なので、曲輪はどれも細長い上に小さく、本曲輪でも東西12m、南北30mしかない。

つまりこの城は、入江を守るための典型的な防塁型山城で、守備隊が長く駐屯することを想定しておらず、居住性を無視し、一時的に敵の侵攻を凌ぐことだけを目的にしていたと考えられる。

その縄張りだが、標高と比高が69mの主郭から三方に延びる細長い稜線上に曲輪が広がっている。この稜線が痩せ尾根なので、すべてに土塁を築くことが困難で、曲輪の下段に堀をうがち、それに障子(障壁)を入れることで、障子堀にして防御性を高めようとしている。

この障子堀は谷地形に連なる西側と南西側にあり、背後から、すなわち西と南西からの敵を想定しており、北側の入江を守ろうという意図が色濃く反映されている。また、すべての堀に障子が施されているわけではないことから、極めて短期間に普請が施されたと思われる。もしかすると籠城戦が始まってからも、何らかの補強が行われていた可能性さえある。

こうしたことから想定すると、この城が「半造作」や「急普請」なのは明らかで、とにかく防御上、必要かつ重要な箇所から手を付け、その後は普請を放棄したような気がする。

その理由としては、障子堀が一部にしか施されていない上、尾根によっては丁寧に竪堀を入れているものがある一方、全くないものもあるからだ。

下田城は、北条氏には珍しくトータルな設計思想が不在な城だが、豊臣水軍の来襲を想定し、できる限りの手を尽くそうとしていることが感じられる城である。

北条氏が滅亡する少し前の天正16年(1588)、豊臣秀吉は「刀狩令」と共に「海上賊船禁止令」を出し、海賊の取り締まりを強化した。これにより日本の沿岸を自由気ままに走り回り、交易や略奪に従事していた海賊の時代は終わりを迎える。以後、海賊たちは諸大名の船手衆となり、飼いならされていくことになる。

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歴史歴史作家の城めぐり

太平洋を睥睨する巨大水軍城「下田城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #44】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、静岡県「下田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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戦国時代の水軍と軍船

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水軍城といえば、比較的小さな城をイメージしがちではないだろうか。だがそれは、瀬戸内海に跋扈していた海賊たちの根城に当てはまることで、太平洋に面した広大な領国を持つ北条氏の水軍城とは、規模も構造も根本から違ってくる。

そもそも水軍は源平時代からあった。壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率いて平家水軍と戦った熊野三山の別当・湛増などは、その典型だろう。

だが当時の水軍は荘園の作物を輸送したり、漁業に従事して糊口を凌いだりしており、合戦に駆り出されることはおろか、海賊働きの機会さえ、さほど多くはなかったはずだ。

ところが海を制することが、様々な意味で勢力争いを有利に運ぶことが分かってきた室町時代初期には、水軍を編成する国人も現れ始めた。

『太平記』を読むと、瀬戸内海は陸路よりも海路で移動することが多くなっていたと分かる。足利尊氏の九州落ちの際にも、少弐頼尚や大友氏泰といった九州国人が軍船を連ねて兵庫津に駆け付けなかったら、尊氏や直義は討ち死にを遂げ、室町時代はなかったかもしれない。

その後、戦国時代初期には小早船や関船と呼ばれる快速の軍船が造られ、戦国時代中盤には、巨大な上に武装を強化した安宅船が出現する。

この安宅船こそ究極の軍船で、ほぼ同時代に書かれた『菅流船軍秘伝書』には「安宅ほど自由で要害もよく、風波にも強いものはない」と絶賛している。この「海上の城」は、攻撃力・防御力・耐波性のどれを取っても最強の船だった。

また軍記物の記載だが、毛利・大友などの西国大名はもとより、東国でも武田・北条両氏などは、安宅船を中心に関船や小早船を周囲に配した艦隊を編成するようになっていた。

これにより戦国大名は、兵員、武器、兵糧、馬などを迅速に戦場近くまで送れるようになり、その輸送を成功させようとする側と、阻止しようという側という形で、海戦が勃発するようになる。

天正4年(1576)と6年(1578)の2度にわたって大坂湾を舞台にして行われた水軍戦などは典型だろう。これは石山本願寺に兵糧を入れようとした毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍の間で行われ、第1戦は毛利水軍が勝ったものの、第2戦は鉄甲船(舷側に鉄を張りめぐらせた安宅船)を擁した織田水軍(実質的には九鬼水軍)が勝ち、天下の趨勢が決まるという重要な戦いだった。

北条水軍の戦いと安宅船の大型化

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『北条五代記』によると天正9年(1581)、北条水軍は駿河湾で武田水軍と戦った。

この時、北条方には10隻の安宅船があり、関船しか持たない武田水軍に対して、戦いを優位に進めたという。

ここで言う安宅船は50挺立ての「小安宅」と呼ばれる船で、全長は22〜24m、最大幅は5・5〜6・4mだった。

しかし元亀4年(1573)に信長が琵琶湖に浮かべた100挺立ての安宅船は、長さ54・5m、幅12・7mもあり、おおよそ倍の大きさになっていた。さらに天正年間後半、長宗我部元親が造った大黒丸という大安宅船は、18端帆、200挺櫓、大筒2門という途方もない大きさで(全長や全幅は不明)、北条氏の安宅船の約4倍もあった。

このように安宅船の造船技術、とくに大型化は日進月歩で、それに見合った水軍城が必要になっていたはずだ。

下田城の話に入る前に、まず北条水軍の歴史を紐解いてみよう。

北条氏初代の早雲が今川氏の家臣だった頃は、今川水軍を借りて西伊豆に上陸するなどしていた北条氏だったが、相模に進出し、三浦一族を滅ぼし、その水軍を吸収することで自立していく。

早雲から二代氏綱にかけては、相模湾と江戸湾の西半分を縄張りにしていた。しかし駿河国駿東郡を手中にした天文5年(1536)頃から、北条氏は西伊豆の安全保障のために水軍力を強化していく。すなわち志摩国から招聘した梶原氏を北条家船手大将の座に就け、土肥の富永氏庶流、江梨の鈴木氏、三津の松下氏らをその配下に組み込み、組織的な体制を布こうとした。

駿河湾に面する西伊豆には、北条方船手衆の小砦が、網の目のように張りめぐらされている。伊豆半島南端から記していくと、妻良・子浦・雲見・松崎・田子・安良里・宇久須・高谷・八木沢丸山・戸田・江梨・三津・長浜・獅子浜などだ。

これらの水軍城は、諸浦に蟠踞する海賊国人たちの拠点城だったが、すべてが北条傘下に入るや、風よけの入江から船造りを伴う拠点港まで、様々な役割を与えられていった。安良里や長浜などの大規模拠点には、船大工はもとより、金具や船釘など船金物を造る船鍛冶や鋳物師までいたという。

天正16年(1588)、豊臣軍の侵攻が必須と見た北条氏は、箱根路の山中城や伊豆半島北端の韮山城から、東南端の下田城までの長大な防衛線を構築し、海陸の城を駆使した巨大な防波堤を築こうとした。

水軍城の強化も重要課題となり、この時に長浜・八木沢丸山(新規築造)・下田の3城が戦略拠点とされ、ほかの城は放棄同然の状態に置かれたと思われる。

伊豆半島東南端という豊臣水軍の相模湾への進出を阻む位置にある下田城は、同年に大改修が行われ、それまでの海賊城から本格的な水軍城へと生まれ変わった。

天正18年(1590)、いよいよ小田原合戦が勃発する。3月初旬、長浜・八木沢丸山両城など西伊豆のすべての城を制圧した豊臣水軍は下田城に迫った(包囲開始は3月下旬だと推定される)。

豊臣水軍は、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆、長宗我部元親、本多重次、安国寺恵瓊らに率いられた精鋭で、その兵船は1000、兵は1万4000を数えた。

下田城を預けられた伊豆奥郡代の清水康英は、敵水軍の威容を見て籠城に徹することにした。すなわち敵水軍の撃滅など眼中になく、敵水軍を引き付けることで、小田原の船留(海上封鎖)を少しでも手薄にさせようというのだ。しかしこの意見に同調しない梶原景宗などは、さっさと小田原に退去してしまい、また江戸水軍を率いて入っていた江戸朝忠は、出撃して華々しい討ち死にを遂げたという。このように足並みのそろわないまま籠城戦が開始されたので、下田城に籠もる兵力は600足らずになったという。

一方、下田城に惣懸りするよりも、包囲した方が得策と考えた豊臣秀吉は、脇坂・安国寺両水軍だけを残し、ほかの水軍を小田原の海上封鎖に回した。

包囲開始後も、海陸双方で小競り合いが繰り広げられたが、それらの詳細は記録にない。

そして4月下旬、清水康英は勧告に従い、下田城を開城した。戦力差から一方的に押される中、約50日も戦い抜いたのは下田城の抗堪力によるところが大だろう。

城を出た清水康英は河津の寺で謹慎後、天正19年(1591)に死去した。しかし結城秀康に仕えた嫡男の政勝は、康英の武名によって1000石を賜った。

その後、結城家を出た清水氏は、小田原に戻って商人として成功する。江戸時代にも小田原宿で本陣と脇本陣を営み、平成17年(2005)頃まで脇本陣は旅館として営業していた。筆者も宿泊したことがある。

北条氏滅亡後、下田城には徳川家家臣の戸田忠次が5000石で入封するが、関ヶ原合戦後に転封となり、以後、下田は天領とされ、下田町奉行が統治することになる。しかし戸田氏も下田町奉行も下田城に手を加えた様子はなく、遺構のすべては、北条氏時代のものと思われる。

下田城の構造

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この城は伊豆半島の東南端の下田にあり(北端は石廊崎)、下田港を守るために造られている。城の場所は下田湾の南端にある直径800mほどの円形に近い鵜島半島で、ここには入江がいくつかあり、水軍城としてはうってつけの場所だった。

縄張りは舟入(船着場)のある入江を守ることを主眼としており、とくに稲生沢川の河口付近にある入江に近づく敵に対して、いかに効果的な抗戦ができるかに注力されている。といっても半島状の山に城を築いたも同然なので、曲輪はどれも細長い上に小さく、本曲輪でも東西12m、南北30mしかない。

つまりこの城は、入江を守るための典型的な防塁型山城で、守備隊が長く駐屯することを想定しておらず、居住性を無視し、一時的に敵の侵攻を凌ぐことだけを目的にしていたと考えられる。

その縄張りだが、標高と比高が69mの主郭から三方に延びる細長い稜線上に曲輪が広がっている。この稜線が痩せ尾根なので、すべてに土塁を築くことが困難で、曲輪の下段に堀をうがち、それに障子(障壁)を入れることで、障子堀にして防御性を高めようとしている。

この障子堀は谷地形に連なる西側と南西側にあり、背後から、すなわち西と南西からの敵を想定しており、北側の入江を守ろうという意図が色濃く反映されている。また、すべての堀に障子が施されているわけではないことから、極めて短期間に普請が施されたと思われる。もしかすると籠城戦が始まってからも、何らかの補強が行われていた可能性さえある。

こうしたことから想定すると、この城が「半造作」や「急普請」なのは明らかで、とにかく防御上、必要かつ重要な箇所から手を付け、その後は普請を放棄したような気がする。

その理由としては、障子堀が一部にしか施されていない上、尾根によっては丁寧に竪堀を入れているものがある一方、全くないものもあるからだ。

下田城は、北条氏には珍しくトータルな設計思想が不在な城だが、豊臣水軍の来襲を想定し、できる限りの手を尽くそうとしていることが感じられる城である。

北条氏が滅亡する少し前の天正16年(1588)、豊臣秀吉は「刀狩令」と共に「海上賊船禁止令」を出し、海賊の取り締まりを強化した。これにより日本の沿岸を自由気ままに走り回り、交易や略奪に従事していた海賊の時代は終わりを迎える。以後、海賊たちは諸大名の船手衆となり、飼いならされていくことになる。

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