多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、静岡県「諏訪原城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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戦国大名とドクトリン

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国家には盛衰がある。戦国大名も同じで、勃興期には侵略型ドクトリンを貫けるが、危機に陥った時、防衛型ドクトリンにいち早く転じられるか否かが、家と領国を長く保てるかどうかの分岐点になる。

元亀4年(1573)4月、武田信玄が没することで武田家を率いることになった勝頼は、侵略型ドクトリンを継承し、徳川領の併呑を目指した。

天正2年(1574)2月、まず勝頼は織田方の最前線に位置する苗木・明知両城を攻略すると、飯羽間、高山、櫛原、神箆など18城を落として東美濃を制圧した。

この作戦には、仮想敵の織田信長を威嚇すると同時に、東山道と飯田街道を遮断し、信長と家康の領国を分断するという目的があった。つまり東美濃制圧作戦は、後の東遠江侵攻のための布石だったのだ。

そして5月、2万5000の大軍を率いて甲斐を出陣した勝頼は、大井川と天竜川の間にある高天神城に攻め寄せた。

この前年に、高天神城包囲陣の兵站補給のために築かれたのが諏訪原城である。

侵略型ドクトリンを継承しつつも、信玄のような上洛ないしは美濃攻略ではなく、勝頼は徳川領の東からの侵食(遠江国の領国化)という現実的な作戦に移行した。その布石が天正元年(1573)の諏訪原城の構築であり、その成果が高天神城の奪取だった。

一方、家康は勝頼の狙いが美濃全土の制圧だと思い込んだ。それゆえ奥三河に兵を集めていたが、裏をかかれた形になってしまった。しかも信長は、再三にわたる家康の後詰要請に応じてくれず、6月、高天神城は降伏開城した。

勝頼としては高天神城を足掛かりとして東海道沿いに攻め上り、懸河城から浜松城までを攻め取るつもりでいた。だがこの時点で、織田・徳川連合は14カ国で9万6000に上る兵力を擁し、遠征軍として編制可能な兵力は7万2000に及ぶ。

一方、武田方は甲斐、信濃、駿河、東遠江、西上野、東美濃、それに飛騨2郡を領国とし、総兵力は3万4000。越後の抑えにも兵を割かねばならないので、遠征となれば兵力は2万になる。そのため信長を刺激しすぎると、石山本願寺や長島一向一揆征伐を後回しにした上、上杉謙信と結んで甲信の地に攻め入ることも考えられた。

そのため当面、高天神城を維持し、東遠江の領国化を目指すという方針を取ったのだ。

だが高天神城は武田領国の西に突出しすぎており、また北方にある徳川方の懸河城から兵糧強奪の兵を繰り出されるので、瞬く間に維持が困難となった。そのため高天神城への兵站補給を容易にし、懸河城を牽制するという目的のために、諏訪原城の存在意義が高まっていく。

位置と特徴

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静岡県島田市菊川にある諏訪原城は、駿河国と遠江国の国境付近に築かれている。両国には東海道が貫いているが、その間を隔てているのが大井川である。

東海道は東の島田と西の金谷の間で大井川を渡っているが、東から行った場合、すぐに標高200mの牧ノ原台地を上らねばならない。つまり東から見た場合、牧ノ原台地が壁のように立ちはだかり、西から見た場合、牧ノ原台地は大井川を背にした「後ろ堅固」の要害になる。

諏訪原城は、東海道が牧ノ原台地に上がってすぐの北側の崖際に築かれている。つまり平時は街道管制拠点と兵站補給基地として機能させ、攻撃を受けた際には要害性を生かして時間を稼ぎ、味方の来援を待つというわけだ。

ちなみに東海道を西に向かえば、徳川方の拠点城である懸河城が、また途中で分岐した道を南下すると、高天神城に通じている。つまり諏訪原城は、両城を攻略する際に絶好の位置にあった。

しかも諏訪原城は牧ノ原台地の最も狭い部分に築かれているため、寄手は兵力があっても十分に展開できない。つまり織田・徳川連合軍が攻め寄せてきても、時間を稼ぎやすい地形にあるのだ。

だがこれだけでは、城を守ることができても敵に痛手を与えることはできない。万が一、味方の後詰が来ない、ないしは遅れた場合、諏訪原城は単独で敵を撃退せねばならなくなる。そのために採用されたのが、複数の巨大な馬出である(後述)。

諏訪原城は兵站基地としての役割が大だったため、一つひとつの曲輪が大きく取られている。兵站基地には多くの兵員を駐屯させるため、また十分な物資を置くための広いスペースが必要になるからだ。

その縄張りは、牧ノ原台地の先端部を本曲輪とし、その前面に巨大な空堀を掘り、その外側に二曲輪と三曲輪を配すというシンプルなものだ(二・三曲輪は北・中・南曲輪という区分けもされている)。本曲輪と二・三曲輪間の内堀も巨大なので(幅20m、深さ10m)、奇襲を受けて二・三曲輪が落とされても、本曲輪だけで籠城できる造りとなっている。

二・三曲輪は地続きになっており、曲輪の途中まで伸びる土塁で仕切られている。同じ高さの曲輪内に土塁を設けるのは、どちらかが落とされても一方で防御できるからだ。

二・三曲輪の外側には、丸馬出が3つと角馬出が2つある。それぞれの馬出の外側には堀が掘られているが、3つの丸馬出の外側は巨大な三日月堀となっている。仮にどこかの馬出(虎口)がピンチになっても、隣接する馬出から兵を出撃させて援護するというのが、この城の防御プランだ。

すなわち、すべての馬出を同時攻撃できるほどの大軍でない限り、この防御法は有効なはずだ。仮に寄手が大軍を擁していようと、背後に全軍を展開できる地積がないため、限られた兵力しか城攻めに投入できない。そのため、馬出一つを取るために多大な損耗を強いられる。

おそらく徳川家の支配下に入ってからだと思うが、城域を拡大して寄手の展開をさらに困難にすべく、堀と土塁に囲繞された外曲輪が造られ、その前面に丸馬出と三日月堀が設けられた。これでは、寄手の後陣は台地の斜面に展開するしかなくなる。

虎口を守る工夫

image by PIXTA / 33182264

虎口とは曲輪の出入口のことだ。城の曲輪は土塁・堀・切岸といった障害物によって守られているが、そうした防御線に虎口という穴を開けるのは、曲輪への出入りという利便性のために当然のように思える。しかし守ることだけを考えるなら、防御線に穴を開けず、堀に木橋を架け、土塁に梯子を掛け、人員の通行や物資の搬入を行えばよい。また敵が攻め寄せてくることが確実になった時に、虎口をふさいでしまえばよい。

それでも虎口を設けるのは、戦闘時に兵が迅速に出入り(撤収と逆襲)できるようにするための出入口が必要だからだ。つまり守りに徹するだけでは、敵を追い払うのは容易でないのだ。

城というのは、虎口の攻防によって落城が決まるケースが多い。それだけ虎口は重要で、侵入阻止・収容・出撃という3要素を最も合理的に満たすための工夫を施さねばならない。

その発展過程を見ると、蔀や「かざし」を使って城内の動きを見せないようにすることに始まり、喰違虎口によって敵の侵入経路を制限する方法、土塁を屈曲させて虎口の左右に横矢を掛ける方法、桝形によって死地(キルゾーン)を形成するといった工夫など、様々な防御法が編み出されていった。それは段階的発展というよりも、並行的に発展していったと考えた方がよい。そうした中でも、その有用性から急速に浸透し、多くの城で採用されたものが馬出である。

馬出とは虎口から堀を渡った外側の対岸に、土塁や堀で守られた小空間を造り、そこに兵を入れて虎口を守るというものだ。また守るだけでなく、寄手が攻勢限界点に達した時、逆襲を仕掛けて積極的に寄手を撃退するという方法も取れる。

しかも左右に出撃口を備えているものもあり、正面から来る敵を左右から出撃して挟撃することもできるし、敵の攻撃が左右どちらかに偏れば、逆方向の出撃口から突出して敵の側背を突くこともできる。そうした際には、馬出の土塁から鉄砲や弓矢で援護できるので、有効な逆襲が可能になる。つまり馬出とは、侵入阻止・収容・出撃という3要素を満たした究極の防御施設なのだ(最強の近世城郭・江戸城の搦手にも設けられていた)。

とくに武田氏は馬出を好んで用いた。武田氏は侵略型ドクトリンを戦術レベルまで浸透させた結果、馬出の多用という防御法にたどり着いたのかもしれない。

誤ったドクトリンの犠牲となった城

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天正3年(1575)5月、長篠の合戦で大敗を喫した武田氏は、各戦線での後退を余儀なくされた。すなわち徳川領遠江への攻勢を取るための拠点として築かれた諏訪原城は、その存在意義を著しく低下させたのだ。

攻勢に転じた徳川勢は二俣城と犬居城を落とすと、諏訪原城へ攻撃を仕掛けてきた。この時の戦いの詳細は伝わっていないが、8月末には籠城衆が放火した上、自落(放棄)したのは間違いない。

以後、諏訪原城は徳川氏の城となり、名称も牧野城と改められる。攻守ところを変え、諏訪原城は武田領駿河国侵攻のための策源地となったのだ。一時は、家康によって駿河国回復を目指す今川氏真が入ったこともあった。

これにより高天神城は孤立したが、勝頼は新たな補給線を確立した。それが田中―小山―滝堺―相良―比木―天ヶ谷と続く駿河湾沿いの諸城による兵站線である。だがこの兵站線も、家康が高天神城を完全包囲することで存在意義をなくし、天正9年(1581)3月、高天神城は落城する。

高天神城の失陥により、武田氏の勢力は遠江国から駆逐され、翌天正10年(1582)3月、織田・徳川・北条連合軍の同時侵攻を受け、武田氏は滅亡する。

勝頼の敗因は防衛型ドクトリンに転じられず、最後に残った財力と兵力を上野国攻略に投入し、その結果、高天神城を見捨てた形になったことだろう。

もし長篠合戦の大敗後、勝頼がドクトリンを防衛型に変更し、あえて高天神城から籠城衆を撤収させ、大井川の線を守ることに徹していれば、その後も武田氏は命脈を保っていた可能性が高い(武田氏滅亡の3カ月後に本能寺の変が勃発する)。その点からすると、諏訪原城は勝頼の間違ったドクトリンを象徴する城となってしまったのだ。

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歴史歴史作家の城めぐり

巨大な丸馬出に隠された盛衰の分岐点「諏訪原城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #43】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、静岡県「諏訪原城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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戦国大名とドクトリン

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国家には盛衰がある。戦国大名も同じで、勃興期には侵略型ドクトリンを貫けるが、危機に陥った時、防衛型ドクトリンにいち早く転じられるか否かが、家と領国を長く保てるかどうかの分岐点になる。

元亀4年(1573)4月、武田信玄が没することで武田家を率いることになった勝頼は、侵略型ドクトリンを継承し、徳川領の併呑を目指した。

天正2年(1574)2月、まず勝頼は織田方の最前線に位置する苗木・明知両城を攻略すると、飯羽間、高山、櫛原、神箆など18城を落として東美濃を制圧した。

この作戦には、仮想敵の織田信長を威嚇すると同時に、東山道と飯田街道を遮断し、信長と家康の領国を分断するという目的があった。つまり東美濃制圧作戦は、後の東遠江侵攻のための布石だったのだ。

そして5月、2万5000の大軍を率いて甲斐を出陣した勝頼は、大井川と天竜川の間にある高天神城に攻め寄せた。

この前年に、高天神城包囲陣の兵站補給のために築かれたのが諏訪原城である。

侵略型ドクトリンを継承しつつも、信玄のような上洛ないしは美濃攻略ではなく、勝頼は徳川領の東からの侵食(遠江国の領国化)という現実的な作戦に移行した。その布石が天正元年(1573)の諏訪原城の構築であり、その成果が高天神城の奪取だった。

一方、家康は勝頼の狙いが美濃全土の制圧だと思い込んだ。それゆえ奥三河に兵を集めていたが、裏をかかれた形になってしまった。しかも信長は、再三にわたる家康の後詰要請に応じてくれず、6月、高天神城は降伏開城した。

勝頼としては高天神城を足掛かりとして東海道沿いに攻め上り、懸河城から浜松城までを攻め取るつもりでいた。だがこの時点で、織田・徳川連合は14カ国で9万6000に上る兵力を擁し、遠征軍として編制可能な兵力は7万2000に及ぶ。

一方、武田方は甲斐、信濃、駿河、東遠江、西上野、東美濃、それに飛騨2郡を領国とし、総兵力は3万4000。越後の抑えにも兵を割かねばならないので、遠征となれば兵力は2万になる。そのため信長を刺激しすぎると、石山本願寺や長島一向一揆征伐を後回しにした上、上杉謙信と結んで甲信の地に攻め入ることも考えられた。

そのため当面、高天神城を維持し、東遠江の領国化を目指すという方針を取ったのだ。

だが高天神城は武田領国の西に突出しすぎており、また北方にある徳川方の懸河城から兵糧強奪の兵を繰り出されるので、瞬く間に維持が困難となった。そのため高天神城への兵站補給を容易にし、懸河城を牽制するという目的のために、諏訪原城の存在意義が高まっていく。

位置と特徴

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静岡県島田市菊川にある諏訪原城は、駿河国と遠江国の国境付近に築かれている。両国には東海道が貫いているが、その間を隔てているのが大井川である。

東海道は東の島田と西の金谷の間で大井川を渡っているが、東から行った場合、すぐに標高200mの牧ノ原台地を上らねばならない。つまり東から見た場合、牧ノ原台地が壁のように立ちはだかり、西から見た場合、牧ノ原台地は大井川を背にした「後ろ堅固」の要害になる。

諏訪原城は、東海道が牧ノ原台地に上がってすぐの北側の崖際に築かれている。つまり平時は街道管制拠点と兵站補給基地として機能させ、攻撃を受けた際には要害性を生かして時間を稼ぎ、味方の来援を待つというわけだ。

ちなみに東海道を西に向かえば、徳川方の拠点城である懸河城が、また途中で分岐した道を南下すると、高天神城に通じている。つまり諏訪原城は、両城を攻略する際に絶好の位置にあった。

しかも諏訪原城は牧ノ原台地の最も狭い部分に築かれているため、寄手は兵力があっても十分に展開できない。つまり織田・徳川連合軍が攻め寄せてきても、時間を稼ぎやすい地形にあるのだ。

だがこれだけでは、城を守ることができても敵に痛手を与えることはできない。万が一、味方の後詰が来ない、ないしは遅れた場合、諏訪原城は単独で敵を撃退せねばならなくなる。そのために採用されたのが、複数の巨大な馬出である(後述)。

諏訪原城は兵站基地としての役割が大だったため、一つひとつの曲輪が大きく取られている。兵站基地には多くの兵員を駐屯させるため、また十分な物資を置くための広いスペースが必要になるからだ。

その縄張りは、牧ノ原台地の先端部を本曲輪とし、その前面に巨大な空堀を掘り、その外側に二曲輪と三曲輪を配すというシンプルなものだ(二・三曲輪は北・中・南曲輪という区分けもされている)。本曲輪と二・三曲輪間の内堀も巨大なので(幅20m、深さ10m)、奇襲を受けて二・三曲輪が落とされても、本曲輪だけで籠城できる造りとなっている。

二・三曲輪は地続きになっており、曲輪の途中まで伸びる土塁で仕切られている。同じ高さの曲輪内に土塁を設けるのは、どちらかが落とされても一方で防御できるからだ。

二・三曲輪の外側には、丸馬出が3つと角馬出が2つある。それぞれの馬出の外側には堀が掘られているが、3つの丸馬出の外側は巨大な三日月堀となっている。仮にどこかの馬出(虎口)がピンチになっても、隣接する馬出から兵を出撃させて援護するというのが、この城の防御プランだ。

すなわち、すべての馬出を同時攻撃できるほどの大軍でない限り、この防御法は有効なはずだ。仮に寄手が大軍を擁していようと、背後に全軍を展開できる地積がないため、限られた兵力しか城攻めに投入できない。そのため、馬出一つを取るために多大な損耗を強いられる。

おそらく徳川家の支配下に入ってからだと思うが、城域を拡大して寄手の展開をさらに困難にすべく、堀と土塁に囲繞された外曲輪が造られ、その前面に丸馬出と三日月堀が設けられた。これでは、寄手の後陣は台地の斜面に展開するしかなくなる。

虎口を守る工夫

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虎口とは曲輪の出入口のことだ。城の曲輪は土塁・堀・切岸といった障害物によって守られているが、そうした防御線に虎口という穴を開けるのは、曲輪への出入りという利便性のために当然のように思える。しかし守ることだけを考えるなら、防御線に穴を開けず、堀に木橋を架け、土塁に梯子を掛け、人員の通行や物資の搬入を行えばよい。また敵が攻め寄せてくることが確実になった時に、虎口をふさいでしまえばよい。

それでも虎口を設けるのは、戦闘時に兵が迅速に出入り(撤収と逆襲)できるようにするための出入口が必要だからだ。つまり守りに徹するだけでは、敵を追い払うのは容易でないのだ。

城というのは、虎口の攻防によって落城が決まるケースが多い。それだけ虎口は重要で、侵入阻止・収容・出撃という3要素を最も合理的に満たすための工夫を施さねばならない。

その発展過程を見ると、蔀や「かざし」を使って城内の動きを見せないようにすることに始まり、喰違虎口によって敵の侵入経路を制限する方法、土塁を屈曲させて虎口の左右に横矢を掛ける方法、桝形によって死地(キルゾーン)を形成するといった工夫など、様々な防御法が編み出されていった。それは段階的発展というよりも、並行的に発展していったと考えた方がよい。そうした中でも、その有用性から急速に浸透し、多くの城で採用されたものが馬出である。

馬出とは虎口から堀を渡った外側の対岸に、土塁や堀で守られた小空間を造り、そこに兵を入れて虎口を守るというものだ。また守るだけでなく、寄手が攻勢限界点に達した時、逆襲を仕掛けて積極的に寄手を撃退するという方法も取れる。

しかも左右に出撃口を備えているものもあり、正面から来る敵を左右から出撃して挟撃することもできるし、敵の攻撃が左右どちらかに偏れば、逆方向の出撃口から突出して敵の側背を突くこともできる。そうした際には、馬出の土塁から鉄砲や弓矢で援護できるので、有効な逆襲が可能になる。つまり馬出とは、侵入阻止・収容・出撃という3要素を満たした究極の防御施設なのだ(最強の近世城郭・江戸城の搦手にも設けられていた)。

とくに武田氏は馬出を好んで用いた。武田氏は侵略型ドクトリンを戦術レベルまで浸透させた結果、馬出の多用という防御法にたどり着いたのかもしれない。

誤ったドクトリンの犠牲となった城

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天正3年(1575)5月、長篠の合戦で大敗を喫した武田氏は、各戦線での後退を余儀なくされた。すなわち徳川領遠江への攻勢を取るための拠点として築かれた諏訪原城は、その存在意義を著しく低下させたのだ。

攻勢に転じた徳川勢は二俣城と犬居城を落とすと、諏訪原城へ攻撃を仕掛けてきた。この時の戦いの詳細は伝わっていないが、8月末には籠城衆が放火した上、自落(放棄)したのは間違いない。

以後、諏訪原城は徳川氏の城となり、名称も牧野城と改められる。攻守ところを変え、諏訪原城は武田領駿河国侵攻のための策源地となったのだ。一時は、家康によって駿河国回復を目指す今川氏真が入ったこともあった。

これにより高天神城は孤立したが、勝頼は新たな補給線を確立した。それが田中―小山―滝堺―相良―比木―天ヶ谷と続く駿河湾沿いの諸城による兵站線である。だがこの兵站線も、家康が高天神城を完全包囲することで存在意義をなくし、天正9年(1581)3月、高天神城は落城する。

高天神城の失陥により、武田氏の勢力は遠江国から駆逐され、翌天正10年(1582)3月、織田・徳川・北条連合軍の同時侵攻を受け、武田氏は滅亡する。

勝頼の敗因は防衛型ドクトリンに転じられず、最後に残った財力と兵力を上野国攻略に投入し、その結果、高天神城を見捨てた形になったことだろう。

もし長篠合戦の大敗後、勝頼がドクトリンを防衛型に変更し、あえて高天神城から籠城衆を撤収させ、大井川の線を守ることに徹していれば、その後も武田氏は命脈を保っていた可能性が高い(武田氏滅亡の3カ月後に本能寺の変が勃発する)。その点からすると、諏訪原城は勝頼の間違ったドクトリンを象徴する城となってしまったのだ。

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