歴史歴史作家の城めぐり

真田家の強さの一端を担った一城別郭の城「戸石城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #42】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「戸石城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
ID: ↑パーツ内本文:0文字

一城別郭とは何か

image by PIXTA / 35973393

一城別郭という城郭用語がある。簡単に言うと、「独立性の高い二つ以上の中心を持つ城」のことだが、ネットなどでは誤用も目立つので、この機会に整理しておきたい。

まず一城別郭は本城と支城の関係とは違う。本城と支城は距離の離れた城どうしで使うが、一城別郭という用語は、二つ以上の中心的曲輪が近接している場合に使われる。

また別城一郭という言葉がある(らしい)。これは、二つの城が連携して防御態勢を布いている城に使われることが多い。しかし二つの城は一郭ではないので、極めて混乱を招きやすい用語だろう。

「常山の蛇勢」の構えは、すでに山中城や本佐倉城で書いたが、同じような事例として、群馬県高崎市が市のホームページに箕輪城と鷹留城について、「常山の蛇勢」の故事を挙げて別城一郭と呼んでいる。だが山中城と本佐倉城は、二つの蛇の頭部分がほぼつながっているか、分断されていると解釈してもいいほど極めて近接しており、5㎞も離れている箕輪城と鷹留城の関係とは違う。この二つの城は本城と支城である。

では一城別郭の典型例だが、よく挙げられるのが遠州高天神城である。確かに城の中心部が東峰と西峰に分かれ、双方共にほぼ同等の規模である。また双方をつなぐ尾根があり、籠城戦の際には、支援し合うことも不可能ではない。

だが、一つの城で二つのほぼ同等の中心があり、それぞれ独立性の高い城は、それほどあるわけではない。調べてみたが有名な城ではないので、あえて城名は挙げないでおく。

とはいうものの、同じ山や尾根に築かれた城で、本城や中核部と道だけでつながっている砦のようなものも、一城別郭と呼んでいいのではないだろうか。

有名な城で例を挙げると、小谷城、韮山城、臼井城などが、まず思い浮かぶ。これらの城は大規模な中核部と同じ山、ないしは尾根続きの山に複数の砦がある。だがその間には道はあっても曲輪はなく、明らかに別の城と言えるはずだ。

さて、今回ご紹介する戸石城は、この一城別郭という概念が複雑に絡み合った城なので、そこを分かりやすく説明していきたいと思う。

ID: ↑パーツ内本文:869文字

戸石城の位置と構造

image by PIXTA / 35973390

戸石城は、北方から張り出す太郎山山系の東端の尾根筋が、手を伸ばすように南に下っていく位置にあり、付近で唯一、南西の上田平や上田原、北東の真田郷、さらに南方の海野平方面への眺望が開けている場所に築かれている。

また北信濃の交通を管制する位置にあり、北東に行けば鳥居峠を越えて上州へ、北へ行けば地蔵峠を越えて川中島へ、西に行けば上田を経て松本平へ、南東に行けば小諸へと通じている。すなわち戸石城は、北信の交通の要衝に築かれた城と言える。

この城の構成だが、北から桝形城、本城、砥石城(戸石城ではない)、そして谷を隔てた西の峰の米山城から成る複合型山城である。

なお、この城全体の呼び名が戸石城とも砥石城とも言われているが、この城の一つを構成する砥石城(こちらは戸石城とは言わない)があるので極めてややこしい。そこで本稿では、城郭群全体を戸石城、戸石城の中にある一つの城を砥石城と呼ぶことにする。

さて、冒頭の一城別郭の話に戻るが、まずこの城の中核部は三城に分類される。中でも本城の規模は突出して大きく、しかも本城は北の桝形城と南の砥石城とは尾根続きなので、一つの城と言えないこともない。だが本城と南北の両城との距離が100m以上も離れていること、その間が堀切で分断されていることなどを考えると、桝形・砥石の両城が本城に付随する一曲輪とも言い難い。そこで一城別郭となるわけだが、米山城だけは深い谷を隔てた別峰にあるので、出城とか支城と呼んだ方が適切だろう。

また近くの別の尾根筋には、東に飯縄城、西に花見城と柏山城、さらに南東の別の峰には伊勢崎城といった小城があり、こちらは明らかに支城である。

つまり戸石城は、これらの城や砦を包含した東太郎山城郭群と呼ぶべきものなのだ。

戸石城の周囲の地形は、東側山麓には神川が断崖を成し、その城側を川に並行するよう旧松代街道が走っている。一方、城の西側には矢出沢川や蛇沢川が流れており、いくつかの深い谷を形成している。北側は尾根を伝っていくと東太郎山の山頂へと続いている。米山城を前衛とする南面も、登攀するには峻険なので攻撃は容易でない。つまり戸石城は難攻不落と呼ぶにふさわしい城なのだ。

この城の東山麓の谷間には、幅8mもある堀切を伴った内小屋と呼ばれる平場がある。この周辺は、真田昌幸の書状に伊勢山という名で出てきており、天正11年(1583)に昌幸が上田城を築くまでの一時期、ここに居住していたとされる。つまり、この堀切から北が城域と考えていいだろう。

また旧松代街道沿いに南に下ると、戦時には出城機能を担ったはずの陽泰寺があり、さらに南には伊勢山の集落がある。この集落を守るように、その東の低い尾根筋に飯縄城と呼ばれる小さな砦が造られている。また集落の南には伊勢山城もある。

こうしたことから、旧松代街道沿いに、南から伊勢山集落―陽泰寺-内小屋を経て、街道を外れて西に折れ(「登城ルート」と書かれた看板がある)、本城に至るコースが大手道だと分かる。

攻撃する場合も、この大手道に沿って攻め上る以外に手はなく、隘路なので相応の損害を覚悟しないと攻略は難しかっただろう。

それでは個々の城を見ていこう。

まず北端の桝形城だが、ここからは烏帽子岳西麓の真田郷方面の眺望が開けており、真田本城はもとより、松尾古城や天白城といった真田氏の支城群まで見渡せる。この桝形城が戸石城の最高所で、標高は825mもある。曲輪は尾根伝いに三つあり、その間は掘り切られている。

桝形城を尾根伝いに100mほど下ると本城に至る。本城の背後、すなわち北端は大規模な堀切で仕切られており、北方からの侵入も警戒していたと分かる。ここは複数の帯曲輪が本曲輪を囲むように配置されており、この城で最も堅固な構えを有している。

本城の西の守りは、西斜面に造られた福沢出丸と呼ばれる小曲輪が担っており、本城の北側に付けられた堀切を下っていくと着けるようになっている。この出丸をさらに西に下ると、西側山麓の金剛寺集落に出る。つまり西側からの攻撃にも配慮して、福沢出丸を造っておいたのだろう。

本曲輪に戻って、その南端部を100mほど下ると砥石城に着く。こちらは南方を一望の下に見渡せ、物見台の役割を果たしていた。

さらに南西に向かって300mほど尾根道を下っていくと、鞍部を経由して米山城に着く。ここは南北に3段に連なる曲輪があり、砥石城ほどではないが眺望も利く。

戸石城は、旧松代街道すなわち伊勢山集落―陽泰寺-内小屋を守ることを主目的にしていたという説もある。確かに、そのルートを守るための防備は厳重だ。しかし旧松代街道を南から北に攻め上る寄手に対し、山頂の城郭群からは攻撃することができないため、必ずしもそうとは言い切れない。桝形城、本城、砥石城から成る山頂城郭群は、戦時の詰城的役割を果たしていたのだろう。

ID: ↑パーツ内本文:2023文字

戸石城の歴史

image by PIXTA / 54798475

戸石城の築城時期と築城者については不明だが、天文10年(1541)の海野平合戦において、村上義清の陣所として初登場し、以後、義清の東信濃への侵略拠点になっていたと思われる。

『高白斎記』などの比較的確実な記録に登場するのは、天文19年(1550)の武田信玄の戸石城攻めの時だ。この時、城を落とせなかった信玄は撤退を始めるが、村上勢の追撃を食らい、殿軍を担った横田備中守をはじめとして多くの戦死者を出してしまった。これが世に言う「戸石崩れ」である。

それでも翌年、『勝山記』に「戸石の城真田乗取」と記されることから、武田方の手に落ちたと推定できる。すなわち、かつて村上義清によってこの地を追い出され、その後、信玄に仕えるようになった真田幸隆が、何らかの形で城を奪ったに違いない。

結局、戸石城の失陥により、村上義清は自領の防衛がおぼつかなくなり、2里半ほど北西にある本拠の葛尾城を捨てて越後に落去し、上杉謙信を頼ることになる。それが、5度にわたる川中島合戦のきっかけとなった。

問題は、この時の「乗取」という表現だが、当時の使用事例からすると、必ずしも「調略によって戦わずして奪った」とはならず、奇襲でも強襲でも何らかの攻撃を伴っていた可能性がある。ただしこの時の真田氏の動員兵力からすると、単独でこの城を落とすことは困難と考えられるので、調略によって奪い取った可能性は否定できない。

だが戸石城が、すぐに真田幸隆に与えられたわけではなく、信玄は城代として重臣の小山田虎満を入れた。虎満は幸隆の取次(外様家臣に対する寄親・窓口)を務めており、攻略後、共に戸石城に入っていた可能性が高い。

その後、戸石城は全く記録に現れなくなるが、いつの頃からか真田昌幸の持ち城となっており、天正11年(1583)に出された昌幸の「伊勢山にいる」という書状に見えるように、上田城築城に際して、拠点として使われていた。

戸石城が歴史の表舞台に登場するのは、第1次・第2次上田合戦である。

第1次合戦とは天正13年(1585)、上州沼田領の引き渡し問題がこじれ、徳川家康が送ってきた軍勢を真田昌幸が撃破した時のことだ。この時、上田城に襲い掛かった徳川勢を、昌幸長男の真田信之率いる機動打撃部隊が横撃するのだが、その時の出撃拠点として戸石城が登場する。

第2次合戦は慶長5年(1600)で、関ケ原合戦の前哨戦の一つとして上田城をめぐる攻防戦が繰り広げられた。この時、徳川方として出陣した信之は、いち早く戸石城に入り、父昌幸と弟信繁のいる上田城と対峙した(戦闘には参加していない)。おそらく第1次合戦で、戸石城からの横撃が有効だったため、先んじて押さえておいたのだろう。この時、戸石城に真田方の守備兵はいなかった公算が高い。

ID: ↑パーツ内本文:1157文字

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
ID: ↑パーツ内本文:0文字
Share:
jun-ito