歴史歴史作家の城めぐり

川中島合戦の鍵を握った巨大山城「旭山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #41】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「旭山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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旭山城の位置

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川中島合戦とは、北信濃の善光寺平から川中島八幡原周辺を舞台にして、戦国時代を代表する大名の武田信玄と上杉謙信が、5回にわたってぶつかり合った合戦の総称である。とくに第4次合戦は、戦国時代を象徴する大激戦として名を残した。

川中島は、信濃国の北部に広がる善光寺平(現・長野盆地)の南側に広がる沖積平野で、厳密には西から東に流れる犀川の南、南から北に流れる千曲川の西の一帯を指す。

この地には関東と越後国を結ぶ北国街道と、松本から善光寺につながる善光寺往還の分岐点があることから人の行き来が多く、善光寺の前には大規模な門前町もあった。

川中島を取り巻く山地には多くの城が築かれていた。これらの城の大半は、この周辺に所領を持つ国人の詰城として築かれたものだ。とくに千曲川右岸の北東部の山地は、まさに城の密集地帯である。この地は古来、小国人が共存共栄してきた伝統があり、それぞれが小さいながらも城を築き、猫の額のような所領を守ってきた。第4次合戦で謙信が布陣した妻女山も、こうした城の一つだ。

一方、千曲川の対岸にあたる北西部にも城郭群がある。この一帯は、戸隠山系から続く尾根筋が善光寺のすぐ背後まで迫ってきており、多くの城がその尾根先端部に築かれている。その中の一つが旭山城である。

この城は、善光寺のある長野市街地の西に屹立する旭山の山頂付近から中腹にかけて、多くの曲輪が築かれた典型的山城だ。旭山は標高778m、比高360mもあり、長野市街のどこからでも、その山容を見ることができる。

一方、旭山城から裾花川の造る渓谷を隔てた北方1・8㎞には、上杉方の葛山城が築かれている。この城の南には頼朝山城が、その背後には大峰城や枡形城があり、まさに旭山城と対峙する形になっている。

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第2次川中島合戦

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川中島合戦は5度にわたって行われたが、第4次は野戦、第5次はにらみ合いで終わったため、城郭の絡む戦いは第1次から第3次までとなる。

ただし第4次に次ぐ激戦を展開したと言われる第1次が行われた頃は、上杉勢が川中島を越えて東信地方から中信地方に容易に侵攻できたことから、川中島北西部の城郭群はなかったと思われる。

ところが第2次と第3次では、城が大いにかかわってくる。

天文24年(1555)、それまで上杉方だった善光寺別当の栗田鶴寿が、信玄の調略に応じて武田方となった。『妙法寺記』によると、この時、信玄は3000の部隊に弓800張と鉄砲300丁を持たせ、栗田氏の詰城である旭山城に急行させたという。

これに対して謙信は、善光寺の東に隣接する台地上にある横山城に着陣し、「向城」の築城を命じた。これが葛山城である。すでに記したように葛山城は、裾花川を隔てて旭山城と対峙するような位置にある。

謙信は旭山城と葛山城が互いに牽制し合って動きが取れないようにした上で、川中島一帯から武田勢を掃討しようとしていた。

これを聞いた信玄は、木曾谷攻めを中途で切り上げて川中島に急行すると、犀川の南を流れる支流の小島川河畔にある大堀館に入り、犀川の線で上杉勢を押しとどめようとした。

この時、武田方の小屋(旭山城と想定されている)に上杉方の内通者が放火しようとしたが、事前に見つかって未遂に終わっている。

結局、両軍ともに決め手を欠き、対峙は200日に及んだ。そうした状態が長引くと、双方共に厭戦気分が漂い、兵糧も乏しくなる。そのため信玄は、駿河の今川義元に和睦の斡旋を依頼した。

義元の仲介により、双方は和睦条件を話し合うことになった。その結果、「国境を犀川とし、犀川以北の国衆を還住させる」「武田方の旭山城を破却する」という条件で和睦が成立した。

信玄は旭山城を破却した上、川中島一帯を放棄することになったが、言うまでもなく、この状態を長く続けるつもりはない。

ただし「旭山城の破却」については、上杉方立ち合いの下で行われたのか、虎口や石積みの崩壊が見られる。つまり信玄は、この条件を履行したようだ。

城破りや破城は形式的なものから徹底したものまで様々だが、とくに城の弱点でもある虎口の破壊や、復旧が困難な石垣の隅角部の破壊が多い。旭山城の場合も、そうした部分的破壊によって上杉方の検視役に納得してもらったようだ。

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第3次川中島合戦

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弘治元年(1555)に今川義元の仲介で和睦した武田・上杉両氏だったが、平穏な日々は長くは続かなかった。和睦した直後から、信玄は水面下で、川中島周辺の国人たちへの調略や一族内部の分裂工作を始めていたからだ。

一方、上杉家中では重臣層の内部抗争が激しくなり、これに嫌気が差した謙信は隠居を宣言して高野山へと向かってしまう。最終的には重臣たちの説得によって戻ってきたものの、家中は二分され、重臣の大熊氏が離反するなどの混乱を招いた。

この間、信玄は上杉方の葛山城を守る落合一族の分裂を図り、一方から内応の約束を取り付けると、弘治3年(1557)2月、旭山城の向城である葛山城に猛攻を掛け、落城に追い込んだ。この戦いで上杉方の籠城衆はほぼ全滅した。

これにより川中島の情勢は一変し、孤立を恐れた上杉方国人は、所領を捨てて北へ北へと退避を始める。

この一報を受けた謙信は4月、善光寺まで進出し、武田方を犀川以南に追いやると、旭山城を奪取し、城として使用できるまで復旧させた。しかしその後、大規模な衝突は起こらず、双方は城や要害を取り合った末、9月になって謙信の方から撤収することになる。

結果的に信玄が川中島一帯を守り切った形になるが、それを覆すべく謙信主導で行われたのが、大激戦となった第4次合戦である。だがその戦いも含め、以後、旭山城も葛山城も歴史の表舞台に登場することはなかった。

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旭山城の概要と縄張り

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旭山城のある旭山は、西方の戸隠山系から見ればほぼ東端にあたり、尾根先端部が裾花川に向かって突き出た位置にある。山頂からは、北の葛山城、東の長野市街、さらに南の川中島一帯まで見渡せ、絶好の地選だったと分かる。

旭山は深い鞍部によって尾根続きの南西にある富士ノ塔山と隔てられているため、独立した山のように見える。つまり西方や南方の深山から攻められる可能性は低い。

それでも用心深い信玄は、富士ノ塔山に砦を築いて背後を固めている。

また裾花川に面している北方は、巨石が連なる急斜面となっており、登攀など考えようもない。しかも川面から山頂までの比高は400mにも達し、登るだけで命がけである。

善光寺を見下ろす形になる東側も、北側とさして変わらず急峻なので心配は要らない。

結局、この城の攻め口は大手道となっている東南方向だけになる。しかしそこは信玄も心得たもので、ルート上に大黒城と小柴見城という2つの出城を築いている。この大手道は、いったん南西側に迂回し、朝日山観音堂という寺院を経て大手口に達している。つまり観音堂も前衛の砦となる。

城の中核部がある旭山の山頂部は、東西に細長い形状をしており、西側が高く東側が低い。この西側部分に広い平場があったため、ここを主郭とし、東に下るように曲輪を配していったのだろう。

主郭は東西50m、南北40mほどの楕円形に近い曲輪で、四囲に低い土塁がめぐっている。さらに主郭の西面には櫓台とおぼしき土壇があり、櫓が設けられていたと思われる。主郭周辺には石が散乱しており、「城破り(城を破却すること)」の痕跡が残る。

主郭に至る大手道は複雑に屈曲させられており、常に上方から管制されている。こうした細部にもこだわるのが武田の城である。

主郭東側には深さ7m、幅15mの堀切がうがたれ、その向かい側に二曲輪がある。この堀切に土橋は残るが、主郭の虎口は土塁によってふさがれているので、戦時には主郭の土塁上に梯子を掛けて行き来していたのだろう。

二曲輪から東に向かって連なるように三曲輪と四曲輪があり、ここから東は急激な痩せ尾根となっている。そのため曲輪らしい曲輪はなく、堀切や竪堀がいくつか配されているだけとなる。

主郭の北西部には、深さ8m、幅17m、長さ100m超の巨大な堀切が尾根を遮断している。この堀切は西から南にかけて弓状にめぐっており、横堀と思っていいだろう。

この横堀は塹壕のように使う予定だったという説がある。つまり城兵を横一列に並ばせ、大手道をやってくる敵に向かって銃撃するつもりでいたのだ(信玄が300丁の鉄砲を入れたのを思い出してほしい)。こうした塹壕に見立てた山城の横堀は、丸子城や高天神城といった城でも見られるが、鉄砲を多数そろえられる財力と、よく訓練された兵を擁する武田氏だからこそ築けるのだ。城は地形に合わせて縄張りをプランするだけでなく、自軍の持てる力を勘案することも重要だ。

この横堀の周囲には帯曲輪や腰曲輪が段状に連なり、切岸によって登攀を困難にさせている。これらの曲輪も石積みの痕跡が残り、主郭の南にある七曲輪などは、石垣がほぼ完存している。

さらに南西端には小曲輪が段状に連なり、そこに八曲輪と呼ばれる多少広い曲輪が配され、城域は終わる。

また主郭の北方にも、五・六曲輪と呼ばれる比較的広い曲輪があるが、こちらも多くの竪堀が落とされ、防備の厳重さは北西部に劣らない。

傾斜が急峻な山の場合、いくつもの曲輪を重層的に配置するのが基本だが、この城も狭小な段曲輪をいくつも連ね、それを堀切・竪堀・横堀といったパーツで補強し、防御力を高めている。また石積みを使って切岸の崩落を防いでいるのも特徴で、これは信玄が、中長期的にこの城を使い続けるつもりでいたことの証左になろう。

旭山城は「上杉方をこれ以上、南へ侵攻させない」ことを戦略目標とした山城であり、現に謙信は旭山城完成後、自由に東信や中信地域に進むことができなくなっている。

城というのは、確固たる戦略の中で初めて役割を果たす。それを証明している城の一つが旭山城なのだ。

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