歴史歴史作家の城めぐり

武田家の伊那谷防衛線を担った城「大島城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #40】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「大島城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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大島城の歴史

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大島城のある南信濃の地形を大雑把に記すと、信濃国の中央付近にある諏訪湖を起点とし、伊那谷(長さ80㎞)が南に延び、木曾谷(長さ60㎞)が南西に延びて、それぞれ遠江国と美濃国に至る。伊那谷と甲斐国の間には赤石山脈が、伊那谷と木曾谷の間には木曾山脈が連なっている。

つまり南信濃を領有する者は、この2つの谷を攻め上ってくる敵を、いかに拘束し、いかに撃退するかを念頭に置いた防御構想を考えておかねばならない。とくに伊那谷は、幅が広く(5〜10㎞)、天竜川が中央を貫通しているため、木曾谷に比べて防御は困難な地形となっている。

その伊那谷のほぼ中央付近に位置する大島城は、天竜川の右岸つまり西側に築かれている。さらにその西には三州街道が天竜川と並行して走っているため、平時の大島城は、天竜川の河川流通と三州街道の陸上輸送の双方を管制する役割を担っていた。

天竜川には、いくつもの河岸段丘が折り重なるように連なっているが、大島城のある古町段丘の最南端は、半島のように川に飛び出しており、天竜川の流路まで変えてしまっている。これが大島という地名の由来となるわけだが、城を築くには「後ろ堅固」の理想的な地形と言えるだろう。

すなわち城の東側は天竜川なので攻撃される心配がなく、南北も大半は氾濫原や湿原なので、攻撃を受けるとしたら西側の台地続きだけとなる。

さらに川の中に突出している地形のため、最高所からは南西10㎞ほどにある飯田城付近まで見渡せる。

それでは大島城の歴史について見ていこう。

元々この城は、この地域に根を張る国人・大島氏の支城の一つだった。この時の大島城は現在の本丸だけだったとされるが、大島氏の支城という位置付けからすれば当然だろう。

そこに侵攻してきたのが武田信玄である。

天文24年(1555)、信濃国領有を目指す武田信玄が伊那谷を制圧する。その時に降伏してきた大島氏からこの城を取り上げた信玄は、日向玄徳斎宗英を物主(城代)として入れた。

信玄の構想は伊那谷を二分割し、上伊那は高遠城、下伊那は飯田城を統治拠点にしたことだ。大島城は飯田城に近いので、その支援拠点という位置付けだろう。この時、二の丸とその前衛の丸馬出が造られた。

元亀2年(1571)、信玄は西上作戦をにらんで、伊那郡代の秋山虎繁に大島城の拡張を命じる。これにより、現在見られる大島城が完成する。

信玄は、この城を三河侵攻および西上作戦の策源地として、また織田・徳川連合軍に対して劣勢に陥った場合の防御拠点としても考えていたのだろう。そして、その心配は当たることになる。

天正10年(1582)正月、木曾谷を所領とする木曾義昌が武田方から離反したのを契機として、織田信長の甲州征伐が始まった。

織田勢が伊那谷を北上してくるのは確実なので、当主の武田勝頼は、国境の滝沢要害に下条信氏を、松尾城に小笠原信嶺を、飯田城に保科や坂西ら伊那国人衆を配し、さらに大島城を伊那谷防衛の要とし、信玄の弟の逍遥軒信綱(信廉)らを加勢として入れた。これにより大島城は、総兵力1000で織田勢を迎え撃つことになった。

勝頼としては、大島城が敵を拘束している間に後詰勢を送り、一気に退勢を挽回しようとしていたに違いない。

しかし2月初旬、伊那谷に侵攻を始めた織田勢の前に、大島城以南の武田方諸城は戦わずして降伏開城し、17日には敵が大島城に迫ってきた。

大島城の前衛となっていた飯田城が一戦も交えず降伏開城したのは、籠城兵たちに不安をもたらした。これにより、まず外曲輪に避難していた地下人(農民ら非戦闘員)1000人が建物に火を放って逃げ出した。

籠城戦における自焼は降伏時の作法であり、これによって追撃の矛先を弱めようという狙いがある。ただ地下人たちを非難してばかりもいられない。大島城の外曲輪は、三の丸大馬出の前面に当たる天神平と呼ばれる一帯になると思われ、敵の来襲時、ここは真っ先に攻撃を受ける。これでは逃げ出さない方がおかしい。

城兵たちが外曲輪の鎮火で走り回っている間、逍遥軒が密かに城から脱出する。これを知った籠城衆は慌てふためき、われ先にと逃げ出した。最後には玄徳斎も城を後にし、大島城は戦わずして織田方の手に落ちた。

このドミノ倒しのような現象の発端となった地下人たちの逃走について、武田氏研究の泰斗である平山優氏は、その著書『武田氏滅亡』(角川選書)の中で、領民たちは常々「武田氏が課した重税や、賞罰の不公平などを不満としていた」と記しているが、勝頼の諏訪大社造営事業や新府城の築城が、領民たちに相当の負担を強いていたのだろう。概して武田領の農民たちは、織田勢に協力的である。

これは幕末の会津戦争における会津領の領民たちと同じで、平時の善政がいかに大切かを教えてくれている。

結局、城を築くのに理想的な地形が、地下人を外曲輪に収容したがゆえに、逆に落城を早めてしまうという皮肉な結果を生んだ。言うなれば、戦時の地下人の避難場所や心理状態を考慮していなかったことが、自落を誘発したのだ。

かくして大島城を無血で接収した織田勢は北上を続け、高遠城を落城に追い込み、その勢いで武田氏を滅亡させた。

その後、信長の国割によって伊那郡を拝領した毛利秀頼が大島城に入ったが、2カ月後に勃発する本能寺の変に際し、秀頼は全軍を率いて上洛の途に就き、城は放棄された。

その後、徳川家康の支配下に置かれるものの、一時的にも使用された記録はなく、そのまま廃城になったと思われる。

丸馬出の防御構想

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城にとって最大の弱点が、城の出入口に当たる虎口なのはご存じの通りだが、人の出入りや物資の搬入のためだけだったら、堀には木橋を、土塁には梯子を掛けて通行すればよいし、虎口を造っておいても、戦時にはふさげばいいだろう。だがそうしないのは、城には迅速な兵の出し入れが必要だからだ。つまり城の虎口は、逆襲と退却(収容)のために必須の施設なのだ。

全く逆襲せずに籠城戦を貫徹するためには、城外の味方から後詰勢を派遣してもらわねばならない。だが何らかの事情で派遣されてこない場合もある。その時には自力で寄手(包囲軍)を撃退せねばならない。そのためには、まとまった兵力を一気に放出する必要がある。その一方、寄手を撤退させるほどの損害を与えられなかった場合、迅速に味方を撤収させねばならない。

つまり虎口には、侵入阻止・出撃・収容という矛盾した目的を実現するために必要な機能が求められる。その矛盾を解消した施設が桝形や馬出なのだ。

桝形とは土塁などで三方を囲んだ方形空間、馬出とは虎口前面に設けられた区画のことで、原則として虎口との間に堀が横たわっているため、背後には橋がある。

馬出の利点は多い。まず馬出は虎口前の堀の対岸に設けられるので、馬出が制圧されても、城方は集中砲火を浴びせられる。また馬出は城門を隠しているので、寄手に逆襲のタイミングを摑ませない上、左右後方が開いている構造なので、どちらから城方が突出してくるか寄手に覚らせない効果もある。このように馬出は、侵入阻止・出撃・収容の3点を満たす理想的な虎口前施設なのだ。

とくに武田氏は丸馬出を好み、多くの城に築いているが、その中でも大島城の巨大丸馬出と三日月堀は、馬出というものの機能の優位性を堂々と主張しているかのようだ。

大島城の構造と防御思想

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大島城が3期に分かれた築城の歴史を持つことはすでに述べたが、それぞれの普請が一つの城として完結しているのが、よく分かる。

本丸は、その前面の大堀切から分かるように独立性が高く、それだけで一つの城になっている。

当初、本丸だけだった大島城は、その後、二の丸とその前衛の不整形の馬出、さらに三の丸とその前衛の丸馬出と増築されていくわけだが、こうした拡張は、武田氏の支配下に置かれて守備兵の増員が可能になったほかにも理由がある。

すなわち、この城は本丸部分を除いた二の丸や三の丸が、地続きの西方よりも低いという弱みがあるので、それをカバーするために城域を拡張し、丸馬出や三日月堀で防御力を高めねばならなかったのだ。その結果、強靭な多重防御構造を持つ大島城が生まれた。

とくに三の丸前面の丸馬出と三日月堀で寄手を防ぎながら、その北に設けられた伏兵曲輪から突出した城方によって寄手を撃退するという方法は、武田氏ならではの積極的な防御思想の表れであろう。

ここで凄いのは、三の丸前の丸馬出が台地の中心点からずれていることだ。つまり北の方が南よりも丸馬出の火力密度が低く、兵の展開がしやすくなっている。そうなれば寄手は自然、北に寄っていくだろう。その時、頃合いを見て伏兵曲輪から伏兵が飛び出せば、敵は混乱に陥る。それに乗じて丸馬出から逆襲部隊が出撃することで、敵を撃退するという防御構想なのだ。

寄手が多大な犠牲を払いつつ丸馬出か伏兵曲輪を制圧しても、今度は三の丸からの攻撃に晒され、立ち往生せざるを得ない。それでも三の丸を制圧し、二の丸を攻撃しようとすると、今度はその前面にある不整形の馬出から攻撃される。仮にそれを制圧しても、今度は二の丸から猛射を受けるわけだ。これが多重防御構造である。

何とか二の丸まで制圧できたとしても、今度は眼前に大堀切が出現する。この堀切の傾斜は緩やかだが、上辺部の幅は優に50mあり、深さも15〜20mはある。この大堀切を越えて本丸を攻略するとなると、相当の出血を覚悟せねばならない。

また城の北にある天竜川の船着場から侵入することも可能だが、井戸曲輪を経て到達するのは本丸と二の丸の間の大堀切なので、そこで双方からの攻撃に晒される。

隙を見せるようにしてキルゾーンに誘導し、寄手に大きな損害を与えるという防御法は伏兵曲輪と同じだ。こうした「肉を切らせて骨を断つ」防御構想は、武田氏の城ではよく見られる。

大島城は、味方の後詰がなくても自力で敵を撃退できる強靭な構造を持つ城だった。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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