多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「上田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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神算鬼謀の人

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武田信玄の最もよき弟子といえば、敵方にあってその戦法をよく学び、また武田家滅亡後、多くの旧臣を召し抱えて信玄の教えを継承した徳川家康だろうが、信玄の直弟子といえば、まず真田昌幸の名が浮かぶ。

古代から信濃に土着した海野氏の流れを汲む真田氏は、天文年間(1532〜1555)半ば、当主幸綱の時に武田氏に臣従し、以後、武田氏の滅亡まで忠節を尽くした。

昌幸は幸綱の三男として天文16年(1547)に生まれた。兄が2人いたため家督を継ぐ可能性が低く、人質同然に信玄の許に預けられる。だが少年時代から優秀だったらしく、甲斐の名族・武藤氏に養子入りさせられ、武藤喜兵衛と名乗った。信玄の奥近習衆の一人として日々、信玄の謦咳に接した昌幸は、その知識を吸収していく。

信玄の死後、昌幸は後継となった勝頼の腹心となるが、天正3年(1575)の長篠の戦いで兄2人が討ち死にを遂げることで、真田家の家督を継ぐ。

その後、勝頼の上州侵攻作戦でも活躍し、実力で切り取った吾妻領と沼田領を勝頼から与えられている。これにより昌幸は、本拠の信州上田平から鳥居峠を越えて上州に入り、吾妻街道沿いに岩櫃・沼田両城まで所有することになる。ただし昌幸は甲府にいることも多く、勝頼の新府城の創築にも、普請奉行としてかかわっている。

ところが天正10年(1582)、織田・徳川連合軍の武田領への侵攻が始まる。昌幸は本拠に戻り、織田方の攻撃を待つ形になるが、本能寺の変によって九死に一生を得るや、徳川・北条・上杉といった巨大勢力の間で臣従と離反を繰り返し、生き残りに成功する。

真田領は、信州上田領3・8万石に自力で切り取った上州の吾妻領と沼田領2・7万石を足しても、6・5万石にしかならないが、巨大勢力がぶつかり合う戦国時代後半戦を、昌幸は調略と駆け引きを主たる武器にして生き残っていく。

そうした最中の天正11年(1583)、徳川傘下となった昌幸は上田城の構築を開始する。この地は尼ヶ淵(海士淵)と呼ばれ、かつて小泉氏という国人の小さな居館城があったが、昌幸は「守り戦」に適した地だと見抜き、城を築くことにした。

この時、敵対する上杉方の北信国衆が、上田城の北西3㎞の位置にある虚空蔵山に集結しており、緊張の高まる中での築城となった。

実は当初、昌幸は上田城を本拠にするつもりはなく、あくまで上杉方の抑えとする境目の城として築いた。そのため徳川方の全面的な支援を受けて築城されたという説や、実は真田氏の城ではなく、徳川方の北信濃侵攻部隊を収容する城だったという説まである。

城の構造については後述するが、いかに昌幸の地選が慧眼だったかは、後に証明される。

第1次・第2次上田合戦

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徳川・北条間で争われた武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」も終息し、両者の間で国分けが行われた。この時、徳川傘下だった真田氏は、徳川・北条両氏の「甲斐・信濃両国は徳川領、上野国は北条領」という和睦条件の煽りを食らい、家康から吾妻・沼田領を北条氏に差し出すよう命じられる。むろん家康からは、同等の石高の所領を信州で与えると約束された。

だが昌幸は家康を信じておらず、吾妻・沼田領を明け渡さない。この間、徳川傘下を脱することにした昌幸は、ひそかに上杉景勝と通じ、さらに中央の豊臣秀吉にも使者を送って誼を通じようとした。

結局、上杉傘下に転じた昌幸に怒った家康が軍勢を差し向け、第1次上田合戦(神川合戦)が勃発する。

昌幸は後に秀吉から「表裏比興の者」と呼ばれるように、信義に欠ける人物だったという評価もあるが、当時の国人が自領から分離されれば、瞬く間に勢力の弱体化を招く。それを考えれば、替地を承諾しなかったのは至極当然だった。

天正13年(1585)閏8月、家康は7000の大軍を送るが、昌幸の奇策に翻弄され、わずか2000の真田勢の前に完敗する。

以下は『真田軍記』や『加沢記』といった軍記物の記述になるが、昌幸は迎撃部隊を二手に分けて、自らは上田城に腰を据え、長男の信之に500の兵を率いさせて砥石城に配した。

攻め寄せてきた徳川勢を上田城から出撃した部隊が神川河畔で迎撃するが、すぐに撤退を始める。つられて渡河前進する徳川勢を、昌幸は二の丸まで引き入れて反撃に転じると、信之の部隊に横撃させ、散々に打ち破った。

この時、敗走する徳川勢の多くが神川の濁流にのみ込まれて命を落としたという。結局、徳川方はこの戦いで2000の死傷者を出してしまう。おそらく戦力差から来る油断と、周辺の地形を調べていなかったのが徳川方の敗因だろう。

昌幸の築いた当時の上田城は、本丸と二の丸しかなかったので、まさに捨て身の戦法を取ったわけだが、城に引き付けて反転逆襲に転じるところなどは、後に大坂の陣で活躍する次男信繁(幸村)に引き継がれていく戦法でもある。

なぜこうした捨て身の戦法が取れたのだろうか。実は、昌幸は上田城の放棄も視野に入れていたのだ。

上田平の背後には、砥石城、伊勢崎城、矢沢城で作られた防衛線があり、さらに真田谷を経て真田氏館、真田山城、松尾城といった後背地の城郭群も控えている。それゆえ上田城を失っても、山間の地に敵を引き込み、山城群を拠点にして山戦(ゲリラ戦)を展開することで、敵兵力の漸減を企図していたのだ。さらに最悪の場合には吾妻街道を通って上州に後退し、捲土重来を期すことも考えていたに違いない。

幸いにして、緒戦で徳川方が崩れてくれたおかげで上田城を守りきれたが、昌幸が敗勢に陥った際のシナリオも練っていたのは、その城郭配置を見れば歴然だろう。

家康は再度の攻撃に備えて援軍を送ろうとするが、天正13年11月、秀吉の調略によって家康股肱の老臣・石川数正が寝返り、真田攻めどころではなくなった。

すでに同年10月、昌幸は豊臣家の寄子大名となっており、家康が真田氏を攻撃することは、秀吉との対決を意味する。

結局、翌天正14年(1586)2月、家康は秀吉に臣従する。

これを知った北条氏も豊臣政権への臣従を決定し、臣従する条件として、吾妻・沼田領の全面返還を秀吉に訴え、裁定を仰いだ。そこで秀吉は3分の2を北条領とし、利根川以西の名胡桃領を昌幸のものとした。

北条氏もこれを了承し、上州戦線は安定したかと思えたのも束の間、北条方の一将が名胡桃城を乗っ取ることで、秀吉の怒りを買い、小田原合戦が勃発する。

結局、昌幸の思惑通りに北条氏は滅び、真田氏は豊臣政権下でも重きを成すようになる。

豊臣大名となった昌幸は、天正18年(1590)から慶長2年(1597)頃にかけて上田城の大改修を実施する。これは、上田城を織豊系城郭へと変貌させた大規模な普請作事だったと言われるが、記録が欠落しており、その内容は全く分からない。

ただし、秀吉の許可がなければ使用できなかった菊・桐紋を金箔瓦に使用していたことは遺物から判明しており、真田氏が豊臣大名化を果たしたことを証明している。

この時の上田城の詳細は、平山優氏の『真田信之 父の知略に勝った決断力』(PHP新書)に詳しい。

ところが秀吉が没することで家康が天下取りへと動き出し、慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が勃発する。この時、西軍に付いた昌幸は、中山道を西上する徳川秀忠率いる3万5000の大軍を上田城で迎え撃つ。第2次上田合戦である。この時は小競り合いだけだったが、わずか2500の兵で大軍に立ち向かおうとした昌幸の度胸は並ではない。

しかし関ヶ原で西軍が敗れたため、昌幸と次男の信繁は紀州九度山に配流となり、上田城は東軍に付いた長男信之のものとなる。その後、真田氏は松代に移封され、代わって仙石氏が入るが、その後は大きな事件もなく幕末を迎える。

上田城の構造と見どころ

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第1次上田合戦で徳川勢を撃退したことから、「難攻不落」というイメージを抱かれがちな上田城だが、縄張り自体はさほど技巧が凝らされたものではない。真田昌幸の築城時は本丸と二の丸だけの構造で、慶長期の大改修でも、三の丸と惣構が増設されたにすぎない。今、われわれが見ている上田城は、真田信之が松代に移封された後に入部した仙石氏が、創築に近いほど手を入れたものである。

上田城のある上田平は、千曲川水運と北国街道を同時に掌握できる要衝の地であり、北の矢出沢川と南の千曲川の造り出す河岸段丘上にある上田城は、最奥部の南が最も高所になり、すぐに切り立った崖になっているという「後ろ堅固」の理想的な立地にあった。

仙石氏の上田城は、最も高所となる南端に築かれた本丸の北側前面に二の丸を、本丸と二の丸の東方に三の丸を配し、また西側の搦手になる小泉曲輪を配し、それぞれの間に水堀を配すことで、本丸を中心にして同心円を描くような曲輪の配置になっている。

この城の東側は台地続きなので、一見脆弱に思われるが、そこも蛭沢川や泥湿地が広がり、容易には兵を展開できないようになっていた。

本丸は土塁に囲繞されているが、仙石氏の時代は7つの隅櫓と2つの櫓門が立っていたというので、防御性は高かったと思われる。

明治維新で廃城後、このうちの2基の櫓は上田遊郭に払い下げられ、昭和まで使われていた。それが幸いし、2基の櫓は城内に移築復元されている。内部には遊郭で使用された際に、ほぞ穴を変更した痕跡などが残っている。

また千曲川河畔の尼ヶ淵に下りて、ぜひ石垣も見てほしい。これは千曲川の氾濫によって城が削り取られてしまうのを防ぐために積まれた護岸用の石垣だが、何度にもわたって詰まれた痕跡が残り、その苦労のほどが偲ばれる。

さらに、上田城だけでなく上田平一帯を車で走り回っていただくと、昌幸が単体としての城ではなく、上田平全体を城と見立て、敵を迎え撃つ構想だったことが分かってくる。

千曲川、矢出沢川、そして神川の造る三角地帯を回って昌幸の気分になり、どうすれば大軍に一泡吹かせられるか考えるのも一興だろう。

いずれにしても真田昌幸という男は天才だった。幼い頃から信玄の薫陶を受けられたという幸運はあるものの、それを完全に消化し、さらに発展させて実績を挙げ続けた手腕には敬服する。そして、その知識と経験は息子の信繁(幸村)に引き継がれ、「日本一の兵」の名を青史に刻むことになる。

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歴史歴史作家の城めぐり

稀代の策士・真田昌幸が築いた城「上田城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #39】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「上田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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神算鬼謀の人

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武田信玄の最もよき弟子といえば、敵方にあってその戦法をよく学び、また武田家滅亡後、多くの旧臣を召し抱えて信玄の教えを継承した徳川家康だろうが、信玄の直弟子といえば、まず真田昌幸の名が浮かぶ。

古代から信濃に土着した海野氏の流れを汲む真田氏は、天文年間(1532〜1555)半ば、当主幸綱の時に武田氏に臣従し、以後、武田氏の滅亡まで忠節を尽くした。

昌幸は幸綱の三男として天文16年(1547)に生まれた。兄が2人いたため家督を継ぐ可能性が低く、人質同然に信玄の許に預けられる。だが少年時代から優秀だったらしく、甲斐の名族・武藤氏に養子入りさせられ、武藤喜兵衛と名乗った。信玄の奥近習衆の一人として日々、信玄の謦咳に接した昌幸は、その知識を吸収していく。

信玄の死後、昌幸は後継となった勝頼の腹心となるが、天正3年(1575)の長篠の戦いで兄2人が討ち死にを遂げることで、真田家の家督を継ぐ。

その後、勝頼の上州侵攻作戦でも活躍し、実力で切り取った吾妻領と沼田領を勝頼から与えられている。これにより昌幸は、本拠の信州上田平から鳥居峠を越えて上州に入り、吾妻街道沿いに岩櫃・沼田両城まで所有することになる。ただし昌幸は甲府にいることも多く、勝頼の新府城の創築にも、普請奉行としてかかわっている。

ところが天正10年(1582)、織田・徳川連合軍の武田領への侵攻が始まる。昌幸は本拠に戻り、織田方の攻撃を待つ形になるが、本能寺の変によって九死に一生を得るや、徳川・北条・上杉といった巨大勢力の間で臣従と離反を繰り返し、生き残りに成功する。

真田領は、信州上田領3・8万石に自力で切り取った上州の吾妻領と沼田領2・7万石を足しても、6・5万石にしかならないが、巨大勢力がぶつかり合う戦国時代後半戦を、昌幸は調略と駆け引きを主たる武器にして生き残っていく。

そうした最中の天正11年(1583)、徳川傘下となった昌幸は上田城の構築を開始する。この地は尼ヶ淵(海士淵)と呼ばれ、かつて小泉氏という国人の小さな居館城があったが、昌幸は「守り戦」に適した地だと見抜き、城を築くことにした。

この時、敵対する上杉方の北信国衆が、上田城の北西3㎞の位置にある虚空蔵山に集結しており、緊張の高まる中での築城となった。

実は当初、昌幸は上田城を本拠にするつもりはなく、あくまで上杉方の抑えとする境目の城として築いた。そのため徳川方の全面的な支援を受けて築城されたという説や、実は真田氏の城ではなく、徳川方の北信濃侵攻部隊を収容する城だったという説まである。

城の構造については後述するが、いかに昌幸の地選が慧眼だったかは、後に証明される。

第1次・第2次上田合戦

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徳川・北条間で争われた武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」も終息し、両者の間で国分けが行われた。この時、徳川傘下だった真田氏は、徳川・北条両氏の「甲斐・信濃両国は徳川領、上野国は北条領」という和睦条件の煽りを食らい、家康から吾妻・沼田領を北条氏に差し出すよう命じられる。むろん家康からは、同等の石高の所領を信州で与えると約束された。

だが昌幸は家康を信じておらず、吾妻・沼田領を明け渡さない。この間、徳川傘下を脱することにした昌幸は、ひそかに上杉景勝と通じ、さらに中央の豊臣秀吉にも使者を送って誼を通じようとした。

結局、上杉傘下に転じた昌幸に怒った家康が軍勢を差し向け、第1次上田合戦(神川合戦)が勃発する。

昌幸は後に秀吉から「表裏比興の者」と呼ばれるように、信義に欠ける人物だったという評価もあるが、当時の国人が自領から分離されれば、瞬く間に勢力の弱体化を招く。それを考えれば、替地を承諾しなかったのは至極当然だった。

天正13年(1585)閏8月、家康は7000の大軍を送るが、昌幸の奇策に翻弄され、わずか2000の真田勢の前に完敗する。

以下は『真田軍記』や『加沢記』といった軍記物の記述になるが、昌幸は迎撃部隊を二手に分けて、自らは上田城に腰を据え、長男の信之に500の兵を率いさせて砥石城に配した。

攻め寄せてきた徳川勢を上田城から出撃した部隊が神川河畔で迎撃するが、すぐに撤退を始める。つられて渡河前進する徳川勢を、昌幸は二の丸まで引き入れて反撃に転じると、信之の部隊に横撃させ、散々に打ち破った。

この時、敗走する徳川勢の多くが神川の濁流にのみ込まれて命を落としたという。結局、徳川方はこの戦いで2000の死傷者を出してしまう。おそらく戦力差から来る油断と、周辺の地形を調べていなかったのが徳川方の敗因だろう。

昌幸の築いた当時の上田城は、本丸と二の丸しかなかったので、まさに捨て身の戦法を取ったわけだが、城に引き付けて反転逆襲に転じるところなどは、後に大坂の陣で活躍する次男信繁(幸村)に引き継がれていく戦法でもある。

なぜこうした捨て身の戦法が取れたのだろうか。実は、昌幸は上田城の放棄も視野に入れていたのだ。

上田平の背後には、砥石城、伊勢崎城、矢沢城で作られた防衛線があり、さらに真田谷を経て真田氏館、真田山城、松尾城といった後背地の城郭群も控えている。それゆえ上田城を失っても、山間の地に敵を引き込み、山城群を拠点にして山戦(ゲリラ戦)を展開することで、敵兵力の漸減を企図していたのだ。さらに最悪の場合には吾妻街道を通って上州に後退し、捲土重来を期すことも考えていたに違いない。

幸いにして、緒戦で徳川方が崩れてくれたおかげで上田城を守りきれたが、昌幸が敗勢に陥った際のシナリオも練っていたのは、その城郭配置を見れば歴然だろう。

家康は再度の攻撃に備えて援軍を送ろうとするが、天正13年11月、秀吉の調略によって家康股肱の老臣・石川数正が寝返り、真田攻めどころではなくなった。

すでに同年10月、昌幸は豊臣家の寄子大名となっており、家康が真田氏を攻撃することは、秀吉との対決を意味する。

結局、翌天正14年(1586)2月、家康は秀吉に臣従する。

これを知った北条氏も豊臣政権への臣従を決定し、臣従する条件として、吾妻・沼田領の全面返還を秀吉に訴え、裁定を仰いだ。そこで秀吉は3分の2を北条領とし、利根川以西の名胡桃領を昌幸のものとした。

北条氏もこれを了承し、上州戦線は安定したかと思えたのも束の間、北条方の一将が名胡桃城を乗っ取ることで、秀吉の怒りを買い、小田原合戦が勃発する。

結局、昌幸の思惑通りに北条氏は滅び、真田氏は豊臣政権下でも重きを成すようになる。

豊臣大名となった昌幸は、天正18年(1590)から慶長2年(1597)頃にかけて上田城の大改修を実施する。これは、上田城を織豊系城郭へと変貌させた大規模な普請作事だったと言われるが、記録が欠落しており、その内容は全く分からない。

ただし、秀吉の許可がなければ使用できなかった菊・桐紋を金箔瓦に使用していたことは遺物から判明しており、真田氏が豊臣大名化を果たしたことを証明している。

この時の上田城の詳細は、平山優氏の『真田信之 父の知略に勝った決断力』(PHP新書)に詳しい。

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しかし関ヶ原で西軍が敗れたため、昌幸と次男の信繁は紀州九度山に配流となり、上田城は東軍に付いた長男信之のものとなる。その後、真田氏は松代に移封され、代わって仙石氏が入るが、その後は大きな事件もなく幕末を迎える。

上田城の構造と見どころ

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第1次上田合戦で徳川勢を撃退したことから、「難攻不落」というイメージを抱かれがちな上田城だが、縄張り自体はさほど技巧が凝らされたものではない。真田昌幸の築城時は本丸と二の丸だけの構造で、慶長期の大改修でも、三の丸と惣構が増設されたにすぎない。今、われわれが見ている上田城は、真田信之が松代に移封された後に入部した仙石氏が、創築に近いほど手を入れたものである。

上田城のある上田平は、千曲川水運と北国街道を同時に掌握できる要衝の地であり、北の矢出沢川と南の千曲川の造り出す河岸段丘上にある上田城は、最奥部の南が最も高所になり、すぐに切り立った崖になっているという「後ろ堅固」の理想的な立地にあった。

仙石氏の上田城は、最も高所となる南端に築かれた本丸の北側前面に二の丸を、本丸と二の丸の東方に三の丸を配し、また西側の搦手になる小泉曲輪を配し、それぞれの間に水堀を配すことで、本丸を中心にして同心円を描くような曲輪の配置になっている。

この城の東側は台地続きなので、一見脆弱に思われるが、そこも蛭沢川や泥湿地が広がり、容易には兵を展開できないようになっていた。

本丸は土塁に囲繞されているが、仙石氏の時代は7つの隅櫓と2つの櫓門が立っていたというので、防御性は高かったと思われる。

明治維新で廃城後、このうちの2基の櫓は上田遊郭に払い下げられ、昭和まで使われていた。それが幸いし、2基の櫓は城内に移築復元されている。内部には遊郭で使用された際に、ほぞ穴を変更した痕跡などが残っている。

また千曲川河畔の尼ヶ淵に下りて、ぜひ石垣も見てほしい。これは千曲川の氾濫によって城が削り取られてしまうのを防ぐために積まれた護岸用の石垣だが、何度にもわたって詰まれた痕跡が残り、その苦労のほどが偲ばれる。

さらに、上田城だけでなく上田平一帯を車で走り回っていただくと、昌幸が単体としての城ではなく、上田平全体を城と見立て、敵を迎え撃つ構想だったことが分かってくる。

千曲川、矢出沢川、そして神川の造る三角地帯を回って昌幸の気分になり、どうすれば大軍に一泡吹かせられるか考えるのも一興だろう。

いずれにしても真田昌幸という男は天才だった。幼い頃から信玄の薫陶を受けられたという幸運はあるものの、それを完全に消化し、さらに発展させて実績を挙げ続けた手腕には敬服する。そして、その知識と経験は息子の信繁(幸村)に引き継がれ、「日本一の兵」の名を青史に刻むことになる。

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