多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「高遠城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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撤退戦略の重要性

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太平洋戦争末期、大日本帝国は本土防衛のために必要な領域を定め、そこだけは死守する方針を立てた。これが絶対防衛圏(国防圏)である。

だが大本営は、絶対防衛圏を死守する戦略も覚悟も持ち合わせておらず、ソロモン諸島やラバウルのように、その外側に位置する島嶼でも、占領している地すべてを守り抜くという方針を維持した。そのため消耗戦に陥り、やがて絶対防衛圏を守る気力も国力をもなくしていくことになる。

それをさかのぼること360年ほど前、同じ状況に陥り、滅亡していった戦国大名がいた。甲州武田氏である。

武田氏滅亡の教訓を生かせなかった大本営の話はさておくとして、戦国時代でも、ドクトリン(政治・外交・軍事における基本原則)や戦略がいかに大切かを、武田家の滅亡は教えてくれる。とくに撤退戦略は重要だ。

撤退戦略とは、例えばAという城を失ったら、Bという城も捨て、Cという川の線まで引くといったことだ。これを事前に決めておくことで、敵の攻勢を最小の損害で防げ、その後の挽回策も迅速に行える。

武田氏の隣国の北条氏では、大軍の侵攻を受けた際、近隣の城に農民を保護・収容した上、拠点城に兵力を集中し、籠城態勢を布くといったことを行っていた。

北条氏は、永禄3年(1560)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄の侵攻を受けた際、領国を放棄するかのように小田原城まで撤退し、籠城戦を完遂した。そのため両者が撤退した後の立ち直りは極めて早かった。

だが武田氏最後の当主勝頼には、撤退戦略など頭の片隅にもなかったに違いない。

戦国最強の侍大将

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私は、武田勝頼こそ戦国時代最強の侍大将だと思っている。勝頼は元服した17歳の時から当主を継いだ28歳まで、信玄の息子でありながら一人の侍大将として戦場を行き来し、赫々たる武功を挙げてきた。

信玄生前の書状にも、「例式四郎、左馬助聊爾故、無紋に城に攻め上り候、まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し(後略)」とある。これは永禄12年(1569)、北条方の駿河国の蒲原城を攻略した際に書かれたもので、「いつものように勝頼と左馬助信豊(勝頼の従兄弟)は考えがないから、無謀に城に攻め寄せてひやひやしていたが、不思議と城を攻略できた」という意味である。

また『甲陽軍鑑』では勝頼を「強すぎたる大将」と呼び、勝頼の側近・安倍宗貞に、「ただ強すぎて今明年の内に討死なさるべきかと存ずる」と案じさせ、勝頼の謀臣・長坂釣閑斎には、「勝頼様の武辺形儀は信玄公よりも謙信公に似ている」と言わせている。

軍記物には、勝頼自ら槍を取って戦ったという記載さえある。

だが、いかに勇猛果敢な武将でも、統治者すなわち大名に向いているとは限らない。しかも信玄の四男にすぎなかった勝頼は、幼い頃、信玄が傘下に収めた信濃国の諏訪家に養子入りさせられ、幼少年時に信玄の薫陶を受けていないのだ。

ところが、信玄と折り合いの悪かった長男義信が自害を強要され、次男は失明し、三男は早世という不幸が重なり、四男で側室腹の勝頼に家督が回ってきた。

元亀3年(1572)、信玄が上洛戦の途上で病没する。これにより勝頼が家督を継いだが、それまで同格の地位にいた勝頼に、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった宿老たちは容易に従おうとしない。彼らは、勝頼の側近たちに武田家の主導権を奪われたくなかったのだ。それゆえ勝頼は実績を積み上げ、当主としての権威を確立せねばならない立場に追い込まれた。

そこで天正2年(1574)正月、東美濃への侵攻を開始し、瞬く間に信長の所有する18城を攻略すると、5月には遠江国の要衝・高天神城を降伏開城させた。

その後も徳川領を荒らしまくり、家康を滅亡寸前まで追い込むものの、天正3年(1575)、織田・徳川連合軍を相手にして戦った長篠合戦で大敗を喫し、それまでの優勢が嘘のように劣勢に陥る。

しかし戦国大名としての手腕が問われるのは、ここからなのだ。

高遠城の地理・歴史・構造

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武田氏の絶対防衛圏にある信州伊那谷には、国人土豪の城が多くある。その中で信玄は、飯田、大島、高遠の3城を拠点城に取り立て、大規模な改修を施した。

遠江国からの侵入経路となる三州街道が通っている伊那谷は、その西隣の木曾谷と並び、武田氏の絶対防衛圏(甲斐・信濃・駿河三国)の西の外縁部に当たっており、とくに高遠城は、最も重要な城である。

高遠城からは、北に行けば杖突峠を越えて諏訪に、西に行けば上伊那を経て木曾に、南下すれば大鹿村に、さらに半里ほど西の上伊那に出てから南下すれば、三州街道を使って遠江国に行ける。すなわち交通の要衝に築かれており、武田氏としては死守しなければならない城だった。

天文10年(1541)、信濃国人の高遠頼継の本拠として、高遠城は歴史の表舞台に登場する。頼継は武田信玄と手を組み、本家の諏訪氏を滅ぼしたが、諏訪領の分配をめぐって信玄と対立して没落させられる。高遠城を手に入れた信玄は、伊那谷支配の拠点城に取り立てた。

永禄5年(1562)、諏訪氏の名跡を継いだ勝頼が城主として入城する。この時、軍師の山本勘助が大幅な改修を施したとされる。

元亀2年(1571)、勝頼は世継ぎとして甲府に呼び戻され、高遠城には信玄の弟の信廉が入る。さらに天正9年(1581)、信廉が大島城に転出することで、最後の城主として仁科盛信が入城した。

その縄張りだが、高遠城は天竜川水系の三峰川と藤沢川の合流点に築かれており、三峰川に面した段丘の先端に本丸を置き、それを守るように、東に二の丸、北東に三の丸、北西に勘介曲輪(勘助ではなく勘介)、そして搦手にあたる南に、小規模な南曲輪と法幢院曲輪(馬出)を配した梯郭式となっている。

河川の合流点によく城が築かれるのは、2つの川の河川交通を掌握できるのと、二面から三面が「後ろ堅固」になるので、残る一面の防御力を高めるだけで、少ない守備兵力でも籠城戦が行えるからだ。高遠城もこのセオリーに則った場所に築かれている。

絶対防衛圏を守れなかった勝頼

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長篠合戦で敗れた後、勝頼はいかなる戦略を取るべきだったのか。

まず考えるべきは、戦線や占領地の拡大ではなく、絶対防衛圏の堅持であろう。長篠合戦後でも、勝頼には北条氏という頼れる同盟国が東方にあり、西方の守りを固めて防衛戦に徹すれば、織田・徳川連合軍の圧力に耐えることもできたはずだ。

しかも天正6年(1578)、越後の上杉謙信が死去することで、北方の脅威が取り除かれた。だが北条家四代当主・氏政の弟にあたる三郎景虎が、謙信の後継者候補として同じ立場の景勝と対峙しているので、越後に侵攻することはできない。

この時、氏政は佐竹義重と鬼怒川を挟んで対峙しており、身動きが取れなかった。そのため妹婿の勝頼に越後に進駐してもらい、景勝を駆逐し、景虎を後継者の座に就けてほしいという依頼をした。

これに喜んだ勝頼は越後に進駐するが、景虎を支援するどころか、景勝に買収されて景虎と断交する。実は信玄の上洛作戦などで多額の戦費を使ったため、勝頼の代に入ってから、武田家の財政は悪化の一途をたどっていたのだ。

当初、氏政は勝頼に翻意を促していたが、天正7年(1579)、景勝との後継者争いに敗れた景虎が自刃することで、勝頼と氏政も手切れとなる。これで勝頼は北方の上杉景勝を除き、周囲は敵ばかりとなってしまった。

しかも怒り狂った勝頼は上野国に乱入し、北条領国を荒らしまくった。だが、国力が衰微しつつあるこの時、領国を広げるのは得策ではない。案の定、手薄になった遠江国の高天神城が孤立し、天正9年(1581)に壮絶な落城を遂げる。高天神城は再三にわたって勝頼に後詰要請をしていたが、勝頼はそれを無視して籠城衆を見殺しにしたのだ。これにより、勝頼の信用は失墜する。

では、勝頼はどうすべきだったのか。

長篠合戦の直後、高天神城への兵站線を維持する諏訪原城が落とされた時点で、遠江国から全面撤退し、大井川以西の城は放棄すべきだったのだ。

長篠合戦から7年後の天正10年(1582)、織田・徳川・北条連合軍の武田領侵攻作戦が始まる。

騎虎の勢いで三州街道を北上する織田軍3万を前にして、伊那谷の飯田城と大島城は戦わずして放棄され、戦の帰趨は高遠城での攻防戦次第になってきた。

だが、仁科盛信に率いられた高遠籠城衆は3000にすぎない。そこで勝頼は、1万の軍勢を率いて新府城を出陣し、諏訪に陣を布いた。迅速に兵を進めれば、高遠城まで1日半から2日ほどの距離である。

ところが突然、勝頼は信州放棄を決定する。宿老の一人である穴山信君の裏切りで駿河戦線が崩壊し、甲斐本国が危うくなったからだ。

敗勢に陥れば兵は逃げ散る。勝頼が新府城に戻った時、付き従う兵は1000ほどになっていた。これでは甲斐一国も守れない。

逃げるしか手がなくなった勝頼は、甲斐国東部で織田軍に追いつかれ、天目山麓田野の地で自刃する。ここに武田氏は滅亡した。

勝頼の敗因は、絶対防衛圏を設定しなかったことにある。諏訪原城失陥後、遠江国から撤退し、甲斐・信濃・駿河三国を死守する方針に転じていれば、兵力の温存が図れ、信用も失墜しなかったはずだ。その一方、絶対防衛圏内の要衝・高遠城は死守するという覚悟があれば、兵が四散することもなかったに違いない。

勝頼にはドクトリン(政治・外交・軍事の基本原則)がなく、その場その場の思いつきで決断を下していた。それが滅亡の坂を転がり落ちる原因となったことに、彼は死ぬまで気づかなかっただろう。

織田信長が本能寺に斃れるのは、武田家が滅亡してから3カ月後のことだった。

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歴史歴史作家の城めぐり

絶対防衛圏の城「高遠城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #38】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、長野県「高遠城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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撤退戦略の重要性

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太平洋戦争末期、大日本帝国は本土防衛のために必要な領域を定め、そこだけは死守する方針を立てた。これが絶対防衛圏(国防圏)である。

だが大本営は、絶対防衛圏を死守する戦略も覚悟も持ち合わせておらず、ソロモン諸島やラバウルのように、その外側に位置する島嶼でも、占領している地すべてを守り抜くという方針を維持した。そのため消耗戦に陥り、やがて絶対防衛圏を守る気力も国力をもなくしていくことになる。

それをさかのぼること360年ほど前、同じ状況に陥り、滅亡していった戦国大名がいた。甲州武田氏である。

武田氏滅亡の教訓を生かせなかった大本営の話はさておくとして、戦国時代でも、ドクトリン(政治・外交・軍事における基本原則)や戦略がいかに大切かを、武田家の滅亡は教えてくれる。とくに撤退戦略は重要だ。

撤退戦略とは、例えばAという城を失ったら、Bという城も捨て、Cという川の線まで引くといったことだ。これを事前に決めておくことで、敵の攻勢を最小の損害で防げ、その後の挽回策も迅速に行える。

武田氏の隣国の北条氏では、大軍の侵攻を受けた際、近隣の城に農民を保護・収容した上、拠点城に兵力を集中し、籠城態勢を布くといったことを行っていた。

北条氏は、永禄3年(1560)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄の侵攻を受けた際、領国を放棄するかのように小田原城まで撤退し、籠城戦を完遂した。そのため両者が撤退した後の立ち直りは極めて早かった。

だが武田氏最後の当主勝頼には、撤退戦略など頭の片隅にもなかったに違いない。

戦国最強の侍大将

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私は、武田勝頼こそ戦国時代最強の侍大将だと思っている。勝頼は元服した17歳の時から当主を継いだ28歳まで、信玄の息子でありながら一人の侍大将として戦場を行き来し、赫々たる武功を挙げてきた。

信玄生前の書状にも、「例式四郎、左馬助聊爾故、無紋に城に攻め上り候、まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し(後略)」とある。これは永禄12年(1569)、北条方の駿河国の蒲原城を攻略した際に書かれたもので、「いつものように勝頼と左馬助信豊(勝頼の従兄弟)は考えがないから、無謀に城に攻め寄せてひやひやしていたが、不思議と城を攻略できた」という意味である。

また『甲陽軍鑑』では勝頼を「強すぎたる大将」と呼び、勝頼の側近・安倍宗貞に、「ただ強すぎて今明年の内に討死なさるべきかと存ずる」と案じさせ、勝頼の謀臣・長坂釣閑斎には、「勝頼様の武辺形儀は信玄公よりも謙信公に似ている」と言わせている。

軍記物には、勝頼自ら槍を取って戦ったという記載さえある。

だが、いかに勇猛果敢な武将でも、統治者すなわち大名に向いているとは限らない。しかも信玄の四男にすぎなかった勝頼は、幼い頃、信玄が傘下に収めた信濃国の諏訪家に養子入りさせられ、幼少年時に信玄の薫陶を受けていないのだ。

ところが、信玄と折り合いの悪かった長男義信が自害を強要され、次男は失明し、三男は早世という不幸が重なり、四男で側室腹の勝頼に家督が回ってきた。

元亀3年(1572)、信玄が上洛戦の途上で病没する。これにより勝頼が家督を継いだが、それまで同格の地位にいた勝頼に、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった宿老たちは容易に従おうとしない。彼らは、勝頼の側近たちに武田家の主導権を奪われたくなかったのだ。それゆえ勝頼は実績を積み上げ、当主としての権威を確立せねばならない立場に追い込まれた。

そこで天正2年(1574)正月、東美濃への侵攻を開始し、瞬く間に信長の所有する18城を攻略すると、5月には遠江国の要衝・高天神城を降伏開城させた。

その後も徳川領を荒らしまくり、家康を滅亡寸前まで追い込むものの、天正3年(1575)、織田・徳川連合軍を相手にして戦った長篠合戦で大敗を喫し、それまでの優勢が嘘のように劣勢に陥る。

しかし戦国大名としての手腕が問われるのは、ここからなのだ。

高遠城の地理・歴史・構造

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武田氏の絶対防衛圏にある信州伊那谷には、国人土豪の城が多くある。その中で信玄は、飯田、大島、高遠の3城を拠点城に取り立て、大規模な改修を施した。

遠江国からの侵入経路となる三州街道が通っている伊那谷は、その西隣の木曾谷と並び、武田氏の絶対防衛圏(甲斐・信濃・駿河三国)の西の外縁部に当たっており、とくに高遠城は、最も重要な城である。

高遠城からは、北に行けば杖突峠を越えて諏訪に、西に行けば上伊那を経て木曾に、南下すれば大鹿村に、さらに半里ほど西の上伊那に出てから南下すれば、三州街道を使って遠江国に行ける。すなわち交通の要衝に築かれており、武田氏としては死守しなければならない城だった。

天文10年(1541)、信濃国人の高遠頼継の本拠として、高遠城は歴史の表舞台に登場する。頼継は武田信玄と手を組み、本家の諏訪氏を滅ぼしたが、諏訪領の分配をめぐって信玄と対立して没落させられる。高遠城を手に入れた信玄は、伊那谷支配の拠点城に取り立てた。

永禄5年(1562)、諏訪氏の名跡を継いだ勝頼が城主として入城する。この時、軍師の山本勘助が大幅な改修を施したとされる。

元亀2年(1571)、勝頼は世継ぎとして甲府に呼び戻され、高遠城には信玄の弟の信廉が入る。さらに天正9年(1581)、信廉が大島城に転出することで、最後の城主として仁科盛信が入城した。

その縄張りだが、高遠城は天竜川水系の三峰川と藤沢川の合流点に築かれており、三峰川に面した段丘の先端に本丸を置き、それを守るように、東に二の丸、北東に三の丸、北西に勘介曲輪(勘助ではなく勘介)、そして搦手にあたる南に、小規模な南曲輪と法幢院曲輪(馬出)を配した梯郭式となっている。

河川の合流点によく城が築かれるのは、2つの川の河川交通を掌握できるのと、二面から三面が「後ろ堅固」になるので、残る一面の防御力を高めるだけで、少ない守備兵力でも籠城戦が行えるからだ。高遠城もこのセオリーに則った場所に築かれている。

絶対防衛圏を守れなかった勝頼

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長篠合戦で敗れた後、勝頼はいかなる戦略を取るべきだったのか。

まず考えるべきは、戦線や占領地の拡大ではなく、絶対防衛圏の堅持であろう。長篠合戦後でも、勝頼には北条氏という頼れる同盟国が東方にあり、西方の守りを固めて防衛戦に徹すれば、織田・徳川連合軍の圧力に耐えることもできたはずだ。

しかも天正6年(1578)、越後の上杉謙信が死去することで、北方の脅威が取り除かれた。だが北条家四代当主・氏政の弟にあたる三郎景虎が、謙信の後継者候補として同じ立場の景勝と対峙しているので、越後に侵攻することはできない。

この時、氏政は佐竹義重と鬼怒川を挟んで対峙しており、身動きが取れなかった。そのため妹婿の勝頼に越後に進駐してもらい、景勝を駆逐し、景虎を後継者の座に就けてほしいという依頼をした。

これに喜んだ勝頼は越後に進駐するが、景虎を支援するどころか、景勝に買収されて景虎と断交する。実は信玄の上洛作戦などで多額の戦費を使ったため、勝頼の代に入ってから、武田家の財政は悪化の一途をたどっていたのだ。

当初、氏政は勝頼に翻意を促していたが、天正7年(1579)、景勝との後継者争いに敗れた景虎が自刃することで、勝頼と氏政も手切れとなる。これで勝頼は北方の上杉景勝を除き、周囲は敵ばかりとなってしまった。

しかも怒り狂った勝頼は上野国に乱入し、北条領国を荒らしまくった。だが、国力が衰微しつつあるこの時、領国を広げるのは得策ではない。案の定、手薄になった遠江国の高天神城が孤立し、天正9年(1581)に壮絶な落城を遂げる。高天神城は再三にわたって勝頼に後詰要請をしていたが、勝頼はそれを無視して籠城衆を見殺しにしたのだ。これにより、勝頼の信用は失墜する。

では、勝頼はどうすべきだったのか。

長篠合戦の直後、高天神城への兵站線を維持する諏訪原城が落とされた時点で、遠江国から全面撤退し、大井川以西の城は放棄すべきだったのだ。

長篠合戦から7年後の天正10年(1582)、織田・徳川・北条連合軍の武田領侵攻作戦が始まる。

騎虎の勢いで三州街道を北上する織田軍3万を前にして、伊那谷の飯田城と大島城は戦わずして放棄され、戦の帰趨は高遠城での攻防戦次第になってきた。

だが、仁科盛信に率いられた高遠籠城衆は3000にすぎない。そこで勝頼は、1万の軍勢を率いて新府城を出陣し、諏訪に陣を布いた。迅速に兵を進めれば、高遠城まで1日半から2日ほどの距離である。

ところが突然、勝頼は信州放棄を決定する。宿老の一人である穴山信君の裏切りで駿河戦線が崩壊し、甲斐本国が危うくなったからだ。

敗勢に陥れば兵は逃げ散る。勝頼が新府城に戻った時、付き従う兵は1000ほどになっていた。これでは甲斐一国も守れない。

逃げるしか手がなくなった勝頼は、甲斐国東部で織田軍に追いつかれ、天目山麓田野の地で自刃する。ここに武田氏は滅亡した。

勝頼の敗因は、絶対防衛圏を設定しなかったことにある。諏訪原城失陥後、遠江国から撤退し、甲斐・信濃・駿河三国を死守する方針に転じていれば、兵力の温存が図れ、信用も失墜しなかったはずだ。その一方、絶対防衛圏内の要衝・高遠城は死守するという覚悟があれば、兵が四散することもなかったに違いない。

勝頼にはドクトリン(政治・外交・軍事の基本原則)がなく、その場その場の思いつきで決断を下していた。それが滅亡の坂を転がり落ちる原因となったことに、彼は死ぬまで気づかなかっただろう。

織田信長が本能寺に斃れるのは、武田家が滅亡してから3カ月後のことだった。

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