
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
天正壬午の乱

天正10年(1582)は戦国時代でも激動の年だった。まず3月、織田信長によって甲州武田氏が滅ぼされ、6月には、信長が本能寺で横死する。その後、信長の弔い合戦となり、羽柴秀吉が謀反人・明智光秀を破り、天下の帰趨が定まっていく。
武田氏を滅ぼした信長は、武田氏に付き従っていた家臣や国人層の大半を没落させ、旧武田領に直接的な支配秩序を築こうとした。そのため早期に寝返った木曽氏や穴山氏らの所領を除く旧武田領には、直臣の河尻秀隆、森長可、毛利秀頼、滝川一益らを配し、さらに間接支配となるが、忠実な同盟者である徳川家康に駿河一国を与えた。
この時、北条氏は信長の同盟者として出兵し、駿河国駿東郡と上野国西部を支配下に収めた。ところが信長は北条氏に恩賞を与えず、逆に上野一国の支配権を取り上げるという仕打ちで報いた。
しかし北条氏といえども、強大になった信長に対抗することはできない。ところが本能寺の変により、失地回復と勢力拡大の機会を得た北条氏は、上野国回復と甲信制圧に乗り出すことにした。
この時、徳川家康は上洛しており、その生死さえ不明だった。結局、家康は伊賀越えによって三河国に帰り着くことになるが、武田遺領争奪戦で後手に回ったのは否めない事実である。
6月5日、三河国の岡崎に帰国した家康は、まず甲斐国南部の穴山梅雪領の接収に乗り出す。というのも梅雪は家康に同行していたが、家康と別ルートで帰国しようとしていた途次、野盗に襲われて落命していたからだ。
この時の家康は、まだ畿内の信長弔い合戦に参入し、織田家中に対しての発言力を強めようという方針でいたらしい。
だが家康は、次善の策として織田家の同盟者として甲信の地を守り抜く、ないしは手に入れようと考えていた。そのため甲斐府中の河尻秀隆に家臣の本多信俊を送り、今後の事態への対応を協議させた(後に信俊は秀隆によって殺される)。
ところが、北条氏の大軍が上野国を目指して北進しているという報に接し、家康は方針を転換する。というのも畿内に進出してしまうと、甲信の地を北条氏に接収され、駿河・遠江・三河にまたがる家康の領国が危うくなるからだ。
一方、6月17日、北条氏直は武蔵・上野国境の神流川で滝川一益を撃破して上野国を手中に収めると、28日には碓氷峠を越えて信濃国侵入を開始した。小諸城を落として拠点とした氏直は、佐久・小県・諏訪郡を制圧して川中島地方の平定に取り掛かった。
一方、信長横死によって九死に一生を得た形の越後の上杉景勝も、北信濃の制圧に乗り出そうとしていた。謙信時代の恩義から、川中島四郡(更級・埴科・水内・高井)の国人たちは景勝に忠節を誓い、北条氏に付け入る隙を与えなかった。
それでも氏直は、4万3000の大軍を擁して海津城攻略を目指して川中島へと出陣した。だが内応を約束していた海津城主の春日信達が景勝によって殺されることで、力攻めしか手がなくなり、膠着状態に陥る。
ところが景勝も、背後の揚北郡で新発田重家が反旗を翻したことで、信濃制圧をあきらめざるを得なくなる。
この頃、家康は本国三河にとどまり、上方の情勢に神経を尖らせていた。家康が足止めを食らっている間、信濃戦線を支えていたのは信濃国人の依田信蕃で、北条方の後方を攪乱し、北条方となっていた国人たちを調略によって寝返らせていた。北条氏が制圧していた佐久郡も信蕃によって混乱し、その支配基盤は揺らいでいた。
氏直は信蕃の討伐に心血を注いだが失敗し、逆に北条方となっていた諏訪城の諏訪頼忠が徳川勢の先手衆に包囲されることで、そちらに後詰せねばならなくなった。
この時、軍議の席で「それなら甲斐まで兵を進めて徳川方を駆逐しよう」となったに違いない。
北条勢は4万3000の大軍である。諏訪城を囲んでいた徳川方の先手衆を蹴散らし、甲斐府中方面へと向かう途次にある若神子北城に布陣し、かつて武田勝頼が本拠としていた新府城に籠もる徳川方と対峙した。
8月8日、家康がわずか8000の兵で新府城に入ったことを知った氏直は、圧倒的に有利な戦力差から、決戦を挑むことにした(先手衆も含めると徳川勢は1万)。
氏直は若神子北城を本陣とし、かつて武田氏やその国人衆が築いた大小の城に兵を配置した。大豆生田砦・獅子吼城・旭山砦・谷戸城・大坪砦・中丸砦・長坂氏館・中尾塁の諸城・諸砦である。
対する家康は新府城に本陣を置き、その北方の能見城・堂ヶ坂砦・日ノ出砦・白山城・中山砦を確保していた。
先に仕掛けたのは北条方だった。12日、北条氏勝・氏忠率いる別動隊が、甲斐国南方の御坂城を下りて黒駒まで進出した。家康の背後を遮断し、挟撃態勢を布こうというのだ。
だがこの別動隊は、逆に徳川家別動隊の奇襲を受けて大敗を喫する。これにより徳川方の士気は天を衝くばかりになり、28日には最前線の大豆生田砦を落とし、北条方を圧迫し始めた。
北条方不利の知らせは、遠く信濃で上杉景勝の南下を抑えていた真田昌幸の耳にも届き、依田信蕃の調略に昌幸が乗る形で、家康傘下へと寝返った。これにより逆包囲された氏直は和議を申し入れ、家康に甲斐・信濃両国を明け渡すことになる。
家康勝利の要因は、信長存命中から甲信の地の国人衆を手なずけていたことに尽きる。また、どんなに苦しい状況に追い込まれても、依田信蕃が粘り強く戦ったことが挙げられる。
この戦いの結果、武田家旧臣は徳川家中に重きを成し、やがて彼らが家康天下取りの原動力となっていく。
一方、用兵と戦闘能力で武田家旧臣や徳川譜代家臣らよりも劣った一面を見せてしまった北条氏は、後に甘く見られて豊臣軍に攻め込まれ、なすところなく滅亡への道をひた走ることになる。明暗を分けるとは、このことを言うのだろう。
構造的特徴

天正壬午の乱の舞台の一つとなった若神子城は、甲斐源氏の祖とされた新羅三郎こと源義光(八幡太郎義家の末弟)が居館を構えた地とされる。この地は信濃国の諏訪・佐久方面へと続く街道を抑える要衝にあたり、新羅三郎が館を構えたという伝承にもうなずける。
信玄も信濃国に出陣する際には、行きと帰りで幾度となく若神子城を宿営地としているが、その時代には、若神子の北西の八ヶ岳南麓を通る棒道、北の須玉川沿いにある佐久往還、北東の塩川沿いに付けられた穂坂路があり、まさに甲斐と信濃を結ぶ交通の要衝となっていた。
この城は、八ヶ岳南麓の尾根が半島状に突き出した三つの台地の先端部に築かれており、それぞれ深さ50mの谷を経由しないと行き来ができないので、一城別郭と考えてよい。
そのため北から、北城、古城、南城と呼ばれていた。
中央の古城が新羅三郎の館とされ、『甲斐国史』には大城という名で登場する北城が、天正壬午の乱における北条氏直の本陣になったという。
まず中心となる古城だが、比高60mほどの台地先端部に築かれ、北を除く三方が急崖となっているため、北側に堀切を入れれば要害性が高まる。ここでは掘削途中で放棄された障子堀や、北側に古道として使われていた堀切が発掘されており、この城が天正壬午の乱の際に大規模な改変を受けた可能性を示唆している。なお古城は開墾などで遺構の破壊が激しく、当時の縄張りは摑みにくい。
三城の中で最大の面積を持つ北城は、小さな渓谷を隔てて古城の北側の尾根上にあり、比高50mほどの台地上に築かれている。古城同様、北を除く三方が急崖に囲まれているので、防御性は高い。こちらも遺構の破壊は進んでいるが、北の堀切が確認でき、南北400mにわたって遺構が散在している。
北城は北と西に土塁、空堀、竪堀を廃して堅固な造りとしているので、佐久往還や背後の尾根筋を通ってくる敵を想定しているのは明らかだろう。なお北城は「須玉町ふるさと公園」となっており、「つるべ式狼煙台」が復元されている。
南城は比高50mほどの尾根上に築かれている。この尾根は古城の南西にあり、その間は狭い谷となっている。こちらも土砂採取によって遺構は破壊されているが、過去の記録によると、空堀で隔てられた南北二つの曲輪を中心に、複数の腰曲輪、帯曲輪、竪堀などがあったという。
運命の分岐点

本能寺の変に端を発した徳川・北条両軍による武田遺領争奪戦・天正壬午の乱は、黒駒合戦での徳川方の大勝利を境にして、一気に形勢が徳川方に傾き、結果的に家康は、甲信二国を領有することになった。
運命の分岐点は、氏直が家康との決戦を望んだことによる。それまで徳川家とは親密な関係を保ってきた北条家である。まず家康に甲斐一国と信濃南部(木曽郡・伊那郡)の領有を認めることで背後の憂いをなくし、上杉景勝との決戦を優先すべきだった。
4万3000の大軍をもってすれば、さほどの要害ではない海津城を落とすことは容易であろう。それにより、それまでの武田氏に成り代わるように、犀川を境として上杉軍と対峙し、新発田氏をはじめとする揚北衆に景勝の背後を牽制してもらい、川中島四郡の制圧に乗り出すべきだった。
この時、信長の天下統一事業に手を貸していた家康率いる三河武士団は、士気が高い上に経験豊富だったが、上杉家は御館の乱や新発田重家の離反などによって国内が疲弊しており、北条氏の力をもってすれば、上杉家を攻め滅ぼすのは容易だったと思われる。
強敵に当たらず弱敵に当たるのは戦争の基本である。それを忘れて南に進んだことが、北条氏にとって墓穴を掘ることにつながり、その後の真田昌幸による沼田領割譲問題、そして名胡桃城事件を招いてしまったことは否めない事実であろう。
この時、確かな戦略眼を持った武将が氏直の帷幕にいれば、おそらく北条氏は豊臣・徳川両氏の時代も生き残っていたに違いない。
天正壬午の乱における北条氏は、一つの決断ミスが負の連鎖を呼び起こし、その亀裂が次第に広がり、手の施しようがなくなってしまった典型例だと言える。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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