多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、山梨県「岩殿城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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「武田氏の三名城」の一つ

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室町時代末期の甲斐国は大きく3つの地域に分かれており、それぞれに領主が割拠していた。国中と呼ばれる甲府盆地を押さえる武田氏、富士川流域の河内を押さえる穴山氏、富士山北麓にあたる桂川流域の郡内(大月市、都留市、上野原市、南北都留郡一帯)を押さえる小山田氏である。三氏とも独立傾向は強かったが、信玄の父の信虎は実力で穴山・小山田両氏を従属させた。

小山田氏は武田氏とは同族ではなく、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、源頼朝が鎌倉幕府を開く前から郡内地方に根を下ろしていたと言われている。

永正年間(1504〜1521)末頃、小山田信有は国中を平定した武田信虎の妹を嫡男の信有(同名)に嫁がせ、武田家との連携を深めていく。その後、信虎が信玄に放逐されてからは、いっそう従属的関係となり、武田勢の先兵として、その領国拡大に多大な貢献をしていく。だが武田家の滅亡に際して土壇場で裏切り(異説あり)、最後は信長によって一族そろって処刑され、血脈を断たれることになる。

その治める郡内地方は、秩父山地、御坂山地、丹沢山地などに囲まれており、その中心の大月宿は、桂川沿いに町場が形成されたことで細長い形をしている。

ここには、相模国の小田原から甲斐国へと続く甲州道、武蔵国から笹子峠を越えて甲斐国へ向かう小仏道、奥秩父から雁坂峠を越えて甲斐国に入る秩父道、箱根西麓から須走・山中湖を経て甲斐国へとつながる富士道などの主要街道が交差する交通の要衝となっており、甲斐国の東を守る要地であった。

その大月宿からほど近い岩殿山の上に、岩殿城(岩殿山城とも)はある。

岩殿山は中央自動車道からも見上げられるので、ご存じの方も多いと思われるが、全長110mという巨大な裸岩の鏡岩が、大地からせり上がる波のようにそそり立っている。

この城は、その鏡岩のある標高634mにも及ぶ岩殿山の山頂に築かれた典型的山城である。城の南は桂川が深さ70mの渓谷を成し、東は北西から南東に流れる葛野川が自然の大外堀を形成し、西と北は獣も登れぬほどに切り立つ断崖絶壁となっている。

それゆえ『甲陽軍鑑』では、駿河国の久能山城と上野国の岩櫃城と共に「(武田氏の)三大名城」に数えられていた。

天正10年(1582)、織田信長の侵攻作戦によって武田氏が滅亡の危機に瀕した時、家臣の真田昌幸が上州岩櫃城での籠城を勧めたにもかかわらず、当主の勝頼は小山田信茂の勧めに応じて岩殿城に向かうことにした。しかし変心した信茂によって笹子峠を封鎖され、致し方なく天目山麓田野の地まで逃げていくが、織田勢に追いつかれて勝頼は討ち死にし、武田氏は滅亡する。

皮肉なことに武田氏滅亡の3カ月後、信長は本能寺で横死するので、勝頼が岩殿城に籠もっていれば、武田氏は滅亡の危機を乗り越えられた可能性が高い。

ただし一言付け加えると、小山田氏には400年に及ぶ郡内の領主としての立場があり、最後の当主となった信茂は、自滅に近い形で衰勢に陥った勝頼に忠節を尽くすよりも、郡内を戦火から救うことを選んだにすぎない。すなわち信茂は、郡内の領民や寺社のために裏切者の汚名をかぶったと言えるだろう。

かくして籠城戦は行われなかったものの、岩殿城は難攻不落などという言葉が生易しいほどの大要害だった。それは自然地形に恵まれているだけでなく、山麓部から山頂部まで考え抜かれた防御構想に貫かれていたからだ。

岩殿城の築城者と城主は誰か

image by PIXTA / 46079125

明治12年(1879)、後の二百三高地の戦いで山地攻防戦の厳しさを知ることになる乃木希典将軍がこの城に登り、「兎も登れぬ城なり」と感嘆したという岩殿城は、峻険を絵に描いたような山城だった。

これまで岩殿城は、谷村館を本拠とする小山田氏の詰城だったとされてきたが、武田信虎の時代、武田氏によって造られたという説が急浮上してきた。

その理由として、この辺りは小山田氏の勢力圏としては北端であり、周辺地域から小山田氏の発給文書が見つかっていないこと。その逆に、武田氏の城番にかかわる文書が出てきたことが挙げられている。こうした城主不明の番城は、東国の境目の城ではよく見られることで、不自然ではないということも論拠の一つだ。

しかも谷村館から岩殿城までは12㎞もあり(直線で8・6㎞)、詰城としては距離が遠すぎる上、大月宿は相模国からの国中(甲府盆地)への途次にあたり、小山田氏よりも武田氏にとって、領国防衛の生命線だったことから、武田氏の城ではないかと言われるようになった。

しかし岩殿山麓にある七社権現(円通寺の一部)の記録に、小山田氏が「当郡守護」とあり、また寄進状などにも小山田氏当主の名があること、さらに城下に小山田氏の家臣屋敷や、信虎時代の小山田家当主だった出羽守信有の妾宅が存在していたという記録もあり、小山田氏が築城し、ある時期まで使用していたという説も否定できない。

最近は、小山田氏の持ち城だが、国境を接する北条氏との関係が悪化した時期のみ、武田氏から城番衆を出してもらっていたという説が定説となりつつある。

岩殿城の山麓防御構想

image by PIXTA / 10304464

岩殿山の南東麓には大同元年(806)開基の天台宗円通寺があり、岩殿山は古くから信仰の山として地域の人々から崇められてきた。円通寺は京都の聖護院を本寺とする本山派修験の東国の中心であり、明治頃まで多数の堂塔伽藍が軒を連ねていた。

この城の城下町に相当するのは円通寺の門前町の岩殿村と、その南東の桂川河畔の強瀬村の2つである。強瀬村には「御所」や「馬場」といった山麓居館があったことを示唆する小字名があり、武田氏か小山田氏関連の武士の居住地だったとされている。

戦国時代当時、この強瀬村が周辺で唯一の桂川の渡し場であり、南から迫った寄手は、ここを渡らないと岩殿城に近づけなかった。だが渡河できたとしても、対岸では要塞化された円通寺を出撃してきた城方の攻撃を受けたはずだ。

寄手は円通寺からの攻撃をかいくぐりつつ、北方に向かわされることになるが、少し行くと切通しが造られており、頭上からの攻撃を受けることになる。しかも円通寺などから出撃した兵が背後から迫ってくるので、寄手は切通しを通過せざるを得なくなる。つまりここには、キルゾーンが形成されているのだ。切通しを突破しても、その北には新宮出丸という砦があり、そこからも攻撃を受けることになる。

また、桂川の北方の葛野川の東岸の大島村から葛野川を渡河しようとしても、裏砦と呼ばれた宝林寺があるため、先にここを制圧せねばならない。裏砦を落として葛野川を渡河できても、対岸では円通寺から出撃した兵が待っている。

ここで渡河せず、秩父道を北に向かい、浅川村で渡河することもできる。だが渡ったとしても、対岸には堀沢と呼ばれる深さ20m、幅30mの竪堀があり、そこを突破せねばならない。ここは畑倉村と呼ばれ、こちらにある東光寺や武家屋敷が戦時には砦に変わり、寄手を悩ますことになる。

東光寺は岩殿城山麓防衛網の最北端に位置するが、山麓部の最高所にあたり、葛野川流域を一望の下に見渡すことができた。おそらく山麓防衛の指揮所とされていたのだろう。

葛野川を畑倉に渡った寄手が仮に東光寺を制圧し、西から南下する形で城に接近しようとすると、大沢堀と呼ばれる深さ70m、幅100mに及ぶ自然地形に阻まれる。

最後に西方から寄手が接近してきた場合だが、この城の西方の浅利村の頭上には、「稚児落とし」や「兜岩」といった岩殿山山頂部の名勝があることからも分かるように、峻険に過ぎて登攀は不可能である。

このように岩殿城は、山麓部にも幾重もの防御施設がちりばめられており、籠城戦の際には相当の威力を発揮したと思われる。

また、この周辺の集落には、かつて土蔵が多かったらしく、伝承によると、武田氏に命じられて造らされたという。おそらく土蔵群は兵糧などの貯蔵庫だろう。それが本当なら、勝頼は危機に陥った際、初めから岩殿城に籠もるつもりでいたのではないだろうか。それを思えば、小山田氏に離反されて笹子峠を封鎖されたのは、痛恨事だったに違いない。

岩殿城の中核部

image by PIXTA / 46217856

山麓防衛網を突破できた寄手は、ようやく大手門に達する。ここは岩殿山の西麓にあたるが、ここからつづら折れの細道を30分ほど登っていくと、「揚城戸」と呼ばれる岩盤をうがった切通しに出る。ここの道幅は1mほどしかなく、左側は断崖絶壁なので、寄手はここで足止めを食らう。

それでも「揚城戸」を突破してさらに登っていくと、今度は緩やかな尾根道に出る。ここには物見台や馬屋と呼ばれる曲輪がある。

さらに進んでいくと兵舎跡や馬場と呼ばれる曲輪に出る。ここは岩殿城内で最も広い曲輪で、2500㎡もあり、300人もの兵が駐屯できたという。これだけ峻険な山の上に、これほど広い平場があるというのも驚きだが、これが地選の理由になったのかもしれない。

さらに東に進むと、蔵屋敷と呼ばれる平場に出る。ここには武器弾薬や食料が貯蔵されていたという伝承がある。蔵屋敷という名が残っていることも、万が一の際、勝頼が籠城するつもりでいたという仮説の裏付けになる。

続いて三曲輪、二曲輪、本曲輪といったこの城の中核部へと入っていく。ここには物見台や狼煙台が設置されていたとされるが、今はテレビ電波の中継施設が鎮座しており、雰囲気を壊している。

本丸付近には、亀ヶ池と呼ばれる井戸跡が2つ並んである。これだけ高い山にもかかわらず、井戸が2つもあることに驚かされるが、調査の結果、それぞれ1日で1200リットルもの水がわき出しており、一度も枯れたことがないという。こうした点も、この城が長期籠城戦に耐えうる条件を満たしている。

この城は、縄張り的には山頂のスペースを区切った連郭式山城にすぎないが、自然地形に頼ることなく、寄手の侵入路を限定して死地に誘導するとか、要所に小さな曲輪や土塁を設けて寄手の進撃を阻むといった小技が多く施されている。

世に難攻不落と呼ばれる城は多いが、峻険な自然地形に人知の及ぶ限りの工夫が凝らされていたという点において、岩殿城こそ最強の山城と言っていいだろう。

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歴史歴史作家の城めぐり

山麓部の防衛まで考え抜かれた大要害「岩殿城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #36】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、山梨県「岩殿城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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「武田氏の三名城」の一つ

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室町時代末期の甲斐国は大きく3つの地域に分かれており、それぞれに領主が割拠していた。国中と呼ばれる甲府盆地を押さえる武田氏、富士川流域の河内を押さえる穴山氏、富士山北麓にあたる桂川流域の郡内(大月市、都留市、上野原市、南北都留郡一帯)を押さえる小山田氏である。三氏とも独立傾向は強かったが、信玄の父の信虎は実力で穴山・小山田両氏を従属させた。

小山田氏は武田氏とは同族ではなく、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、源頼朝が鎌倉幕府を開く前から郡内地方に根を下ろしていたと言われている。

永正年間(1504〜1521)末頃、小山田信有は国中を平定した武田信虎の妹を嫡男の信有(同名)に嫁がせ、武田家との連携を深めていく。その後、信虎が信玄に放逐されてからは、いっそう従属的関係となり、武田勢の先兵として、その領国拡大に多大な貢献をしていく。だが武田家の滅亡に際して土壇場で裏切り(異説あり)、最後は信長によって一族そろって処刑され、血脈を断たれることになる。

その治める郡内地方は、秩父山地、御坂山地、丹沢山地などに囲まれており、その中心の大月宿は、桂川沿いに町場が形成されたことで細長い形をしている。

ここには、相模国の小田原から甲斐国へと続く甲州道、武蔵国から笹子峠を越えて甲斐国へ向かう小仏道、奥秩父から雁坂峠を越えて甲斐国に入る秩父道、箱根西麓から須走・山中湖を経て甲斐国へとつながる富士道などの主要街道が交差する交通の要衝となっており、甲斐国の東を守る要地であった。

その大月宿からほど近い岩殿山の上に、岩殿城(岩殿山城とも)はある。

岩殿山は中央自動車道からも見上げられるので、ご存じの方も多いと思われるが、全長110mという巨大な裸岩の鏡岩が、大地からせり上がる波のようにそそり立っている。

この城は、その鏡岩のある標高634mにも及ぶ岩殿山の山頂に築かれた典型的山城である。城の南は桂川が深さ70mの渓谷を成し、東は北西から南東に流れる葛野川が自然の大外堀を形成し、西と北は獣も登れぬほどに切り立つ断崖絶壁となっている。

それゆえ『甲陽軍鑑』では、駿河国の久能山城と上野国の岩櫃城と共に「(武田氏の)三大名城」に数えられていた。

天正10年(1582)、織田信長の侵攻作戦によって武田氏が滅亡の危機に瀕した時、家臣の真田昌幸が上州岩櫃城での籠城を勧めたにもかかわらず、当主の勝頼は小山田信茂の勧めに応じて岩殿城に向かうことにした。しかし変心した信茂によって笹子峠を封鎖され、致し方なく天目山麓田野の地まで逃げていくが、織田勢に追いつかれて勝頼は討ち死にし、武田氏は滅亡する。

皮肉なことに武田氏滅亡の3カ月後、信長は本能寺で横死するので、勝頼が岩殿城に籠もっていれば、武田氏は滅亡の危機を乗り越えられた可能性が高い。

ただし一言付け加えると、小山田氏には400年に及ぶ郡内の領主としての立場があり、最後の当主となった信茂は、自滅に近い形で衰勢に陥った勝頼に忠節を尽くすよりも、郡内を戦火から救うことを選んだにすぎない。すなわち信茂は、郡内の領民や寺社のために裏切者の汚名をかぶったと言えるだろう。

かくして籠城戦は行われなかったものの、岩殿城は難攻不落などという言葉が生易しいほどの大要害だった。それは自然地形に恵まれているだけでなく、山麓部から山頂部まで考え抜かれた防御構想に貫かれていたからだ。

岩殿城の築城者と城主は誰か

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明治12年(1879)、後の二百三高地の戦いで山地攻防戦の厳しさを知ることになる乃木希典将軍がこの城に登り、「兎も登れぬ城なり」と感嘆したという岩殿城は、峻険を絵に描いたような山城だった。

これまで岩殿城は、谷村館を本拠とする小山田氏の詰城だったとされてきたが、武田信虎の時代、武田氏によって造られたという説が急浮上してきた。

その理由として、この辺りは小山田氏の勢力圏としては北端であり、周辺地域から小山田氏の発給文書が見つかっていないこと。その逆に、武田氏の城番にかかわる文書が出てきたことが挙げられている。こうした城主不明の番城は、東国の境目の城ではよく見られることで、不自然ではないということも論拠の一つだ。

しかも谷村館から岩殿城までは12㎞もあり(直線で8・6㎞)、詰城としては距離が遠すぎる上、大月宿は相模国からの国中(甲府盆地)への途次にあたり、小山田氏よりも武田氏にとって、領国防衛の生命線だったことから、武田氏の城ではないかと言われるようになった。

しかし岩殿山麓にある七社権現(円通寺の一部)の記録に、小山田氏が「当郡守護」とあり、また寄進状などにも小山田氏当主の名があること、さらに城下に小山田氏の家臣屋敷や、信虎時代の小山田家当主だった出羽守信有の妾宅が存在していたという記録もあり、小山田氏が築城し、ある時期まで使用していたという説も否定できない。

最近は、小山田氏の持ち城だが、国境を接する北条氏との関係が悪化した時期のみ、武田氏から城番衆を出してもらっていたという説が定説となりつつある。

岩殿城の山麓防御構想

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岩殿山の南東麓には大同元年(806)開基の天台宗円通寺があり、岩殿山は古くから信仰の山として地域の人々から崇められてきた。円通寺は京都の聖護院を本寺とする本山派修験の東国の中心であり、明治頃まで多数の堂塔伽藍が軒を連ねていた。

この城の城下町に相当するのは円通寺の門前町の岩殿村と、その南東の桂川河畔の強瀬村の2つである。強瀬村には「御所」や「馬場」といった山麓居館があったことを示唆する小字名があり、武田氏か小山田氏関連の武士の居住地だったとされている。

戦国時代当時、この強瀬村が周辺で唯一の桂川の渡し場であり、南から迫った寄手は、ここを渡らないと岩殿城に近づけなかった。だが渡河できたとしても、対岸では要塞化された円通寺を出撃してきた城方の攻撃を受けたはずだ。

寄手は円通寺からの攻撃をかいくぐりつつ、北方に向かわされることになるが、少し行くと切通しが造られており、頭上からの攻撃を受けることになる。しかも円通寺などから出撃した兵が背後から迫ってくるので、寄手は切通しを通過せざるを得なくなる。つまりここには、キルゾーンが形成されているのだ。切通しを突破しても、その北には新宮出丸という砦があり、そこからも攻撃を受けることになる。

また、桂川の北方の葛野川の東岸の大島村から葛野川を渡河しようとしても、裏砦と呼ばれた宝林寺があるため、先にここを制圧せねばならない。裏砦を落として葛野川を渡河できても、対岸では円通寺から出撃した兵が待っている。

ここで渡河せず、秩父道を北に向かい、浅川村で渡河することもできる。だが渡ったとしても、対岸には堀沢と呼ばれる深さ20m、幅30mの竪堀があり、そこを突破せねばならない。ここは畑倉村と呼ばれ、こちらにある東光寺や武家屋敷が戦時には砦に変わり、寄手を悩ますことになる。

東光寺は岩殿城山麓防衛網の最北端に位置するが、山麓部の最高所にあたり、葛野川流域を一望の下に見渡すことができた。おそらく山麓防衛の指揮所とされていたのだろう。

葛野川を畑倉に渡った寄手が仮に東光寺を制圧し、西から南下する形で城に接近しようとすると、大沢堀と呼ばれる深さ70m、幅100mに及ぶ自然地形に阻まれる。

最後に西方から寄手が接近してきた場合だが、この城の西方の浅利村の頭上には、「稚児落とし」や「兜岩」といった岩殿山山頂部の名勝があることからも分かるように、峻険に過ぎて登攀は不可能である。

このように岩殿城は、山麓部にも幾重もの防御施設がちりばめられており、籠城戦の際には相当の威力を発揮したと思われる。

また、この周辺の集落には、かつて土蔵が多かったらしく、伝承によると、武田氏に命じられて造らされたという。おそらく土蔵群は兵糧などの貯蔵庫だろう。それが本当なら、勝頼は危機に陥った際、初めから岩殿城に籠もるつもりでいたのではないだろうか。それを思えば、小山田氏に離反されて笹子峠を封鎖されたのは、痛恨事だったに違いない。

岩殿城の中核部

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山麓防衛網を突破できた寄手は、ようやく大手門に達する。ここは岩殿山の西麓にあたるが、ここからつづら折れの細道を30分ほど登っていくと、「揚城戸」と呼ばれる岩盤をうがった切通しに出る。ここの道幅は1mほどしかなく、左側は断崖絶壁なので、寄手はここで足止めを食らう。

それでも「揚城戸」を突破してさらに登っていくと、今度は緩やかな尾根道に出る。ここには物見台や馬屋と呼ばれる曲輪がある。

さらに進んでいくと兵舎跡や馬場と呼ばれる曲輪に出る。ここは岩殿城内で最も広い曲輪で、2500㎡もあり、300人もの兵が駐屯できたという。これだけ峻険な山の上に、これほど広い平場があるというのも驚きだが、これが地選の理由になったのかもしれない。

さらに東に進むと、蔵屋敷と呼ばれる平場に出る。ここには武器弾薬や食料が貯蔵されていたという伝承がある。蔵屋敷という名が残っていることも、万が一の際、勝頼が籠城するつもりでいたという仮説の裏付けになる。

続いて三曲輪、二曲輪、本曲輪といったこの城の中核部へと入っていく。ここには物見台や狼煙台が設置されていたとされるが、今はテレビ電波の中継施設が鎮座しており、雰囲気を壊している。

本丸付近には、亀ヶ池と呼ばれる井戸跡が2つ並んである。これだけ高い山にもかかわらず、井戸が2つもあることに驚かされるが、調査の結果、それぞれ1日で1200リットルもの水がわき出しており、一度も枯れたことがないという。こうした点も、この城が長期籠城戦に耐えうる条件を満たしている。

この城は、縄張り的には山頂のスペースを区切った連郭式山城にすぎないが、自然地形に頼ることなく、寄手の侵入路を限定して死地に誘導するとか、要所に小さな曲輪や土塁を設けて寄手の進撃を阻むといった小技が多く施されている。

世に難攻不落と呼ばれる城は多いが、峻険な自然地形に人知の及ぶ限りの工夫が凝らされていたという点において、岩殿城こそ最強の山城と言っていいだろう。

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