歴史歴史作家の城めぐり

武田氏三代の盛衰を見てきた居館型城郭「躑躅ヶ崎館」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #35】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、山梨県「躑躅ヶ崎館」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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守護大名から戦国大名へ

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源頼朝による武家政権の樹立以来、日本は武士たちによって明治維新まで統治されてきた。とくに鎌倉幕府の御家人支配は「御恩」と「奉公」を基本とする双務的なもので、優れた「奉公」をした者が、「御恩」を賜れるという仕組みが極めてうまく機能した。この慣習的かつ明文化しにくい仕組みは、室町・江戸の両幕府へと引き継がれ、武家社会(封建制)の根幹を成すものとなっていく。

鎌倉幕府は、優れた「奉公」をした者への見返りとして、知行(所領支配権)を与えるだけでなく、守護と地頭に任命した。

鎌倉時代の守護とは、国単位で設けられた軍事・警察権(動員権)を持つ者のことで、大きな権益が得られた。さらに室町時代には、国内の武士間の紛争介入権と司法執行権を得ることで、配下の地頭や豪族の被官化(家臣化)が進んでいった。

やがて幕府の権力が衰退していくのと反比例するかのように、一部の守護大名の勢力が肥大化していく。しかし応仁の乱以後、守護大名諸家で内訌が頻発し、守護大名自体の力も削がれていく。

こうした中から勃興してきたのが、室町幕府の権力とは切り離された各地の在地勢力、いわゆる国人や土豪である。彼らは自力で所領を獲得し、独自の領域支配を行った。

そうした中、室町時代の守護大名から戦国大名へと、うまく脱皮が図れた家もあった。 駿河の今川氏、越前の朝倉氏(元は守護代)、薩摩の島津氏、陸奥の伊達氏、常陸の佐竹氏などだ。中でも本稿で取り上げる甲斐武田氏は、その代表的存在だろう。

甲斐武田氏の系譜

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大治5年(1130)、新羅三郎義光の子の義清と孫の清光が常陸国の武田郷から甲斐国市河庄に配流されたことで、武田氏の長い歴史は始まる。清光の子で庶腹次男の信義が、常陸以来の武田姓を受け継いで始祖となる(嫡流は逸見氏)。

初代信義は治承4年(1180)の源頼朝の挙兵にもいち早く参加し、鎌倉幕府創建に貢献した。

頼朝挙兵の頃から、甲斐源氏は頼朝にとって最も有力な同盟者であり、半独立的存在でもあった。鎌倉時代初期には、惣領の武田信義が駿河国、安田義定が遠江国、平賀義信が武蔵国、大内惟義が相模国、加賀美遠光が信濃国、安田義資が越後国、石和信光が安芸国の国守(国司の長官)に補任されるほど栄えていく。

ところが頼朝に過度に警戒された甲斐源氏は元暦元年(1184)、惣領家当主の武田信義が駿河国守の座を取り上げられ、息子の一条忠頼も宴席で謀殺されることで衰退が始まる。それとは対照的に、同じ甲斐源氏の平賀義信、石和信光、加賀美遠光らは厚遇されている。頼朝は甲斐源氏の分裂を図っていたのだ。その後、最大勢力を誇っていた安田義定・義資父子も滅ぼされ、残る甲斐源氏は鎌倉幕府体制に組み込まれていった。

室町時代、七代信武は足利尊氏の室町幕府創建を助けて武田家を興隆に導く。しかし応永23年(1416)の上杉禅秀の乱において、十代信満が岳父の禅秀方となり、鎌倉公方足利持氏を支持する逸見有直に敗れてしまう。信満は天目山麓の栖雲寺で自刃する。

しかし幕府は持氏一派の勢力伸張を危惧し、高野山に匿われていた信満嫡男の信重を甲斐国に下向させた。その結果、甲斐国は武田・逸見・穴山の三家、さらに信濃から侵攻した跡部家が入り乱れて争奪戦を展開するようになる。

寛正5年(1464)、ようやく十三代信昌が跡部景家を倒し、甲斐に覇権を打ち立てた。これにより武田家は甲斐国主の座に返り咲く。武田家にとって約50年ぶりの国主復帰であった。

さらに油川信恵との家督争いに勝った十四代信縄が武田家を隆盛に導き、遂に十五代信虎が甲斐国全土を掌握し、石和にあった川田館を甲斐盆地北端の躑躅ヶ崎に移すことになる。

そして十六代信玄は、父信虎が成した甲斐統一という基盤を元に、信濃、駿河、遠江東部、上野西部などを制し、広大な領国を築き上げる。だが信玄も病魔には勝てず天正元年(1573)、上洛戦の途上で力尽きた。

ところが十七代(異説あり)の勝頼は、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田信長と徳川家康に大敗を喫し、一転して衰勢に陥る。勝頼は本拠を躑躅ヶ崎館から新府城へと移すものの、天正10年(1582)、織田信長によって武田氏は滅ぼされた。かくして甲斐武田氏は長い歴史に幕を閉じることになる。

初期の躑躅ヶ崎館

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『甲陽軍鑑』によると、信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言ったとされる。これは、「信玄公は家臣や領民を大切にするので、他国から攻められることがなく、城を造る必要もなかった」などと解釈されてきた。しかし信玄は、いざという時の防衛構想を忘れてはいなかった。

武田家の本拠の躑躅ヶ崎館は、国中と呼ばれる甲府盆地の北の隅にある。躑躅ヶ崎という名は、館の東方にせり出すように伸びている丘陵の名からつけられた。かつて、その地には山躑躅が咲き乱れていたからだという。

この館は、相川と西富士川が作り出した扇状地の扇の要の部分にあり、南西に向かって緩やかに下っていく甲府盆地を睥睨する位置にあった。

館の北方2㎞半には帯那山系の深山が連なり、詰城である要害山城(積翠寺城)が築かれている。さらに館から西2㎞の湯村山には湯村山城が、南2・5㎞には一条小山城(後の甲府城)があり、躑躅ヶ崎館を三方から守っていた。唯一、支城と呼べるもののない東方には、大笠山・夢見山・愛宕山が張り出しており、その尾根沿いに、平時には遊覧の茶堂(休憩所)、戦時には砦に早変りする「亭候」と呼ばれる施設が設けられていた。

すなわち、信玄は国中全域を城と見立て、それぞれの支城と亭候を有機的に連携させて防御するという構想を持っていた。さらに領国全体に棒道を配して外縁部からの援軍も駆け付けやすくした。それゆえ躑躅ヶ崎館自体は、単郭方形の平面を初期形式とする「屋敷城」で事足りたのだ。

それでは初期の躑躅ヶ崎館から、その構造の変遷をたどっていこう。

永正16年(1519)、信玄の父・信虎は、それまでの甲斐源氏の本拠だった石和の川田館を廃し、同年8月に躑躅ヶ崎館の創築を始め、12月に入居している。

極めて短期間に造られた躑躅ヶ崎館だが、発掘調査の結果、この時の館は単郭方形の今あるものよりも小さな曲輪が一つだけで、土塁も低く堀も小さく、室町時代の武家屋敷のようなものだったという。

しかし甲斐を統一した信虎は、館の防御力を高めることよりも、統治体制の確立と商工業都市の建設を急いでいた。すなわち国人たちを統制し、反乱を起こさせないために、まず城下に国人たちを集住させようとしたのだ。石和から移転したのも、国人たちを住まわせる広い地が必要だったからだ。さらに商業の振興を期すべく、条坊制に倣って5本の南北基幹道路と多くの市を設けた。この新都市計画は大成功し、天文17年(1548)には新たに移ってくる者を禁止する触れが出されたほどだった。

しかし、この新都市の主である信虎は、その7年前に息子の信玄に追放され、この繁栄を見ることはなかった。

信玄時代から武田氏滅亡後の躑躅ヶ崎館

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武田信玄期の躑躅ヶ崎館は、信虎の造った単郭を拡大し、スペースのある北西方向へと拡大していった。だが確かな記録として残るのは、信玄の嫡男の義信のために西曲輪を増設したことぐらいだ。それでも発掘調査によると、主郭(東曲輪)が拡張されたのは確かなようで、堀と土塁も大規模になり、今ある館の原型はこの時にできていた。

この主郭部は方形で東西200m、南北190mもあり、足利氏館(2町四方)とほぼ同等の規模である。これは室町幕府の将軍邸や管領邸に倣ったもので、当主になったばかりの信玄は、幕府の権威によって国内を統制しようとしていた。また西曲輪の北にある味噌曲輪と小さな稲荷曲輪も、天文年間(1532〜1555)末期には造られていた。

こうしたことから、信虎時代から信玄時代の初期までは、室町幕府の権威を借りていた武田氏だったが、守護大名から戦国大名へと変貌を遂げる過程で、借り物の権威の衣を脱ぎ捨て、実力だけを頼りとしていったと分かる。

また信玄の晩年か勝頼時代のことになるが、主郭の東側の大手に三日月堀が掘られ、丸馬出で大手を守るようにすると同時に、西曲輪の南北に内桝形を増設した。すでに西曲輪創築時に南面には角馬出が造られているので、かなり防御性が高まったと言えるだろう。

しかし長篠合戦で惨敗することで、長らく隆盛を誇った武田氏の家運は傾く。守勢に立たされた勝頼は、躑躅ヶ崎館では万が一の籠城戦に耐えられないと考え、新たに新府城を築くことにする。

だが新府城がいまだ半造作(建設途中)の天正10年(1582)3月、織田信長の侵攻によって武田氏は滅ぼされる。

皮肉なことだが、新府城創築のために、勝頼が木曾氏に過度な木材の供出を命じたことが、木曾氏の離反を生み、それがきっかけとなって織田氏の侵攻が始まった。つまり武田家のためによかれと思って行った本拠の移転と新府城の創築が、裏目に出てしまったのだ。

武田氏滅亡後、甲斐国は織田家の直轄地となり、この地に入封されたのは、信長直臣の河尻秀隆である。秀隆は岩窪の地に新たな館を築くものの、6月、本能寺の変の煽りを食らって武田家旧臣一揆に襲われて殺される。

その後に勃発した天正壬午の乱を勝ち抜いた徳川家康が新たな甲斐の主となり、平岩親吉を入れるが、家康が豊臣政権に臣従することで関東に移封され、甲斐国には羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長父子が入る。
 
この時期、館は北東方面へと拡張され、無名曲輪と伝御隠居曲輪が造られた。伝御隠居曲輪は、独立した屋敷地を結合したものと言われている。
 
さらに最終段階で主郭の北西隅に天守台が造られ、主郭内も4つの区画に分けられた。さらに西曲輪の南側に梅翁曲輪が創築され、それらを囲むように惣構堀が造られた。
 
かくして方形館から平城としての威容を備えるようになった躑躅ヶ崎館だが、旧式なのは歴然で、羽柴秀勝期以降に甲府城が創築され、甲斐国統治の中心は、そちらへと移っていく。

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