
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
まれにみる短命な城

第2次大戦末期、日本海軍の技術を結集し、当時としては最新鋭かつ最大の航空母艦が就航した。「信濃」である。「信濃」は戦局の悪化に伴い、大和型戦艦の三番艦を空母に設計変更したほど日本海軍の輿望を担っていた。だが不沈空母と謳われた「信濃」は、最終艤装を行うべく横須賀から呉へと回航される途中、米国潜水艦の攻撃を受け、遠州灘で沈没してしまう。
竣工から10日、出港から17時間という世界海軍史上、最も短命な軍艦として、「信濃」はその名を戦史に刻まれることになった。
空母「信濃」を思う時、私は武田勝頼と新府城を思い出さずにはいられない。「信濃」と新府城に共通しているのは、その巨大さもさることながら、持っている機能を全く生かせず、無念の最後を遂げたことだ。
そこに様々な事情があるとはいえ、空母「信濃」同様、最新鋭の技術を結集し、最高の機能を持った城の場合、その悲劇性はさらに際立つ。
結論から言うと、武田勝頼が新府城に在城したのは、わずか68日だった。つまり新府城は、68日間だけ城主が在城し、戦闘用の城としては遂に使われず、勝頼自らの手によって焼かれることになる。
武田家が心血を傾けて造られた新府城とはいかなるものだったのか。本稿では、新府城の概要から、勝頼はなぜ、この城を生かせなかったのかにまで迫っていきたいと思う。
武田勝頼の厳しい立場

天正3年(1575)5月、武田勝頼は三河国の長篠で織田・徳川連合軍の前に惨敗を喫し、それまでの攻勢から守勢に転じることになる。
これに対抗すべく天正5年(1577)正月、勝頼は北条氏政の妹を正室に迎え、北条氏との同盟を強化し、東側の脅威を取り除いた。だが天正6年(1578)3月、上杉謙信の死をきっかけに勃発した御館の乱に介入し、北条氏と手切れとなってしまう。これにより北方の上杉景勝を除き、周囲は敵ばかりとなる。
ここで勝頼の取った戦略は、遠江・美濃の両戦線は現状維持で、北条領の上野戦線での領国拡大を目指すというものだった。
積極策を取ったのはいいが、武田家のリソース(財力や兵力など)にも限りがある。信玄の上洛作戦のために資金の大半を使い果たしてしまった武田家は、交易や検地などで新たな財源の確保に努めねばならなかったが、勝頼は内政をあまり顧みることなく、軍事行動によって敵領国の収奪に向かうことしかできなかった。さらに金山の枯渇が、それに追い打ちを掛ける。
一方、ライバルの織田信長は堺や大坂を押さえて経済的な優位を確立し、また領国も拡大の一途をたどっており、武田氏との国力の差は開くばかりだった。その焦りが長篠合戦を生み、さらにその敗戦後は、織田家との差が付きすぎてしまったがゆえに、領国の外縁部を放棄する縮小戦略を取れなかった。
しかし上野国を勝頼に席巻された北条氏政も黙っていない。氏政は家康を通じて信長と同盟を結び、家康と共に武田領国を東西から攻め立てて勝頼を東奔西走させた。
そうした中、領国の安定を図るためには強固な城を築く必要があることに、ようやく勝頼は気づいた。城は領主の勢威の象徴であり、それがあるだけで国人たちの離反は減り、民心も安定する。おそらく北条氏の小田原城を念頭に置いていたのだろう。
だが、天正9年(1581)3月には家康によって高天神城が落とされ、同年8月には氏政によって長久保城が落城した。これにより、遠江・駿河両国の要衝を落とされた勝頼は苦境に陥る。
新府城の位置

新府城のある韮崎の地は、甲斐一国で見た場合は西に偏っているが、信濃・駿河・西上野を包含する武田領国全体から見れば中心に位置する。この地は交通の要衝でもあり、北西に進めば信濃国の諏訪郡に至り、そこから高遠に出れば、天竜川沿いに三州街道を南下し、伊那谷経由で遠江・三河両国への進出が可能になる。
また諏訪から北に進めば信濃国の深志に至り、佐久往還を北に進めば、同佐久郡に出られる。佐久から上野国へは中山道を使えばすぐである。さらに城の下を流れる釜無川の流れに乗れば、富士川に合流するので、容易に駿河国の駿府に向かえる。むろん、駿信往還を使えば陸路でも駿府に出られる。
要害という点からしても、七里岩の急崖上であれば防御上の心配は少ない。
七里岩は八ヶ岳南麓から南東の甲府盆地に向かって、7里にわたってV字型に細くなっていく台地で、その突端近くの南西台地上に築かれたのが新府城である。
新府城のある七里岩上は、釜無川に面する西側は比高129mもの急崖の上、東側にも釜無川支流の塩川が流れており、こちらも比高は70mほどある。台地の傾斜は南側の韮崎方面に向かって落ちているので、南から攻撃しようとしても低地からなので、多大な困難を伴う。唯一、北側から攻められやすいが、釜無川と塩川の分岐点があるため、渡河しにくい上、北半里のところに長塁と能見城という支城を築くことで、新府城の前衛とした。つまり新府城の西は釜無川、東は塩川、南は台地突端なので、地続きの北側に外郭線さえ築けば、小田原城同様の大外郭を築くことができるのだ。
ただしこの長塁と能見城は、虎口の形態などから、天正壬午の乱の際に徳川家康が築いたという説もあるので付記しておく。
このように新府城が築かれた七里岩台地上は、武田氏の本拠にふさわしい利便性と要害性を併せ持つ理想的な地であった。
新府城の縄張り

新府城は天正9年の正月末頃から着工し、8カ月の工期を経て9月に完成した。むろん城に完成はないので、ひとまず勝頼一家が入城し、生活できる状態になったということだ。
新府城の築かれた七里岩の台地上には、「西の森」と呼ばれていた小さな丘があり、その山頂を削平して本丸とし、西側に二の丸、南側に西三の丸と東三の丸を配するという縄張りである。
三の丸は、広大な削平地を土塁で東西に二分して2つの曲輪としたものだが、何のために二分されたのかは分かっていない。おそらく平時のことも想定し、勝頼のいる御主殿(ケ)と執務所(ハレ)を分けていたのかもしれない。
大手は南東に築かれており、ここには内桝形、丸馬出、三日月堀がセットになった堅固な虎口が築かれている。
攻撃型防御の役割を果たす丸馬出と、敵が侵入してきた時に防戦しやすい内桝形が連なる形状は、諏訪原城や大島城にも見られ、武田氏が幾多の経験から効果的だと判断した組み合わせなのだろう。
搦手の北側から東側にかけては、堀と土塁を伴う長大な帯曲輪が築かれており、北側には鬼の角のように西出郭と東出郭と呼ばれる出構が造られている。
これは外縁部を守る堀の中に半島のような陣地を設けたもので、横矢掛りのように、堀を渡ろうとする敵を側面から攻撃できる。
搦手の北西には乾門がある。こちらは釜無川の断崖に接するように築かれ、こちらも内桝形、丸馬出、三日月堀がセットになった堅固な構えとなっている(現在、遺構は煙滅)。
こうしたことから勝頼は、虎口や自分の生活空間といった最重点箇所だけを仕上げた状態で入城を急いだ形跡がある。『甲陽軍鑑』に「半造作」(建設途中)という言葉が出てくるように、未完成ながらも早急に本拠を移すことで、武田氏の勢威が衰えていないことを周囲に示す必要があったのだ。
だが兵舎や櫓などの建築物が未完成だったのは明らかで、籠城ができる状態にあったかどうかは不明である。
武田家の最期

新府城に移り、天正10年の正月を祝ったのも束の間、勝頼の許に驚くべき情報が入ってくる。武田領国の西端を担う木曾谷の木曾義昌が離反したのだ。怒った勝頼は、すぐさま討伐軍を差し向けるが、木曾谷は道も険しく雪も深いため、容易に侵攻できない。
一方、木曾義昌が寝返ってきたのを契機として、織田信長は武田領への侵攻を決意する。信長は嫡男の信忠を総大将として出陣させ、信濃国南部の伊那谷に侵入させる。
これに驚いた下伊那の諸城では、自落や降伏開城が相次ぎ、2月14日には飯田城が戦わずして自落した。一方、勝頼は16日、鳥居峠を突破して木曾谷への侵入を図ろうとするが、木曾勢の激しい抵抗に遭って頓挫する。
翌17日には伊那谷の要衝・大島城が戦わずして自落した。また家康も同時に駿河国への侵攻を開始し、21日には駿府を占領した。
諏訪まで出陣していた勝頼は、各戦線が崩壊しかかっているのに気づき、28日、新府城に撤退する。武田家が滅亡に近づいていることは、兵にもわかったらしく、諏訪を出た時は7000〜8000ほどいた兵が、新府城に着いた時は1000ほどに減っていたという。
3月2日、伊那谷最大の拠点である高遠城が落城し、勝頼の庶弟である仁科盛信が自刃した。
この情報は敗勢の武田方にさらなる衝撃を与えた。勝頼としては、高遠城が長期の籠城戦を展開している間に、新府城の普請作事を急がせるつもりでいたからだ。
この時の新府城は「半造作」で、櫓一つもない有様だったので、とても籠城戦には耐えられない。となれば、いずれかの要害に籠もって時間を稼ぐしかない。
この時、真田昌幸は上州岩櫃城に勝頼一行を迎えると主張したが、小山田信茂が甲斐国東部の郡内にある岩殿城での籠城戦を勧めたので、勝頼は岩殿城に向かうことにした。
3日、勝頼は新府城に火をかけて逃避行を開始する。かくして武田家の最後の威光とも言える新府城は、劫火に焼かれてその短い生涯を閉じた。
11日、勝頼は天目山麓田野の地で織田方に捕捉され、最期を遂げることになる。新府城を焼いた時、勝頼は最後の望みを絶たれ、すでに再起する気力もなかったのだろう。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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