多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、茨城県「石神城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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石神城の歴史

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茨城県北部を流れる一級河川の久慈川は、茨城・栃木・福島三県の境にある八溝山を水源とし、茨城県に入ってからは大子町から常陸大宮市を経て、日立市と東海村の間から太平洋に注いでいる。

久慈川の河口付近の流路は、江戸時代中頃に大規模な改変が行われたことで、現在は直線になっているが、かつては大きく蛇行していた。その頃の絵図によると、久慈川は河口付近でうねるように5度も曲がり、ようやく河口に達していた。

その河口付近の河岸段丘上に石神城はある。

城に入っていく前に、その歴史について触れておこう。

北関東の有力国人である小山氏・結城氏・佐野氏同様、平将門退治で名を挙げた藤原秀郷を祖とする小野崎氏は、秀郷から数えて四代通延の時、佐都西郡小野崎郷(常陸太田市)に住み着き小野崎という姓を名乗る。だが、すぐに久慈郡の佐竹郷に移り、太田城を築いて本拠とした。しかし平安時代末期、義光流源氏の佐竹氏が伊勢平氏に味方して台頭してくると、服属を余儀なくされて小野崎郷に戻された。

貞和4年(1348)、10代通胤の時、小野崎氏は多賀郡十王町に本拠を移して櫛形城を築いたが、その子の通春は建徳元年(1370)、同地の山尾に城を築いて移った。

その後、 佐竹氏が源頼朝に敵対して没落すると、小野崎氏は勢力を回復し、山尾氏(惣領家)、次弟通房の石神氏、三弟通業の額田氏の三氏へと分かれていく。

三氏は「小野崎三家」と呼ばれ、常陸国北部に一大勢力を築いていく。その勢力は侮り難く、頼朝に赦免されて復活を遂げた佐竹氏の家督争いにも介入し、どさくさに紛れて自領を拡大することまでした。

15世紀前半、石神城は「石上城」として初めて文書に登場するので、築城者は石神氏初代の通房と考えていいだろう。

応永14年(1407)、佐竹義人(山内上杉家からの婿養子)が一族の山入与義と家督をめぐって争い(山入の乱)、常陸国を二分する戦いが始まると、山尾氏と石神氏は佐竹氏に、額田氏は山入氏に味方する。

ところが佐竹氏の家督争いは、あっけない幕切れを迎える。応永29年(1422)、鎌倉にいた山入与義は謀反を疑われ、関東公方の足利持氏から追討を受けて敗死したのだ。

これにより常陸国の山入一派は額田城で籠城戦を展開するが、応永30年(1423)、関東公方の支援を受けた佐竹義人の攻撃を受けて額田城は落城し、額田氏は滅亡した。

だが、その名跡を山尾氏の者が継ぐことで額田小野崎氏は存続し、「石神城合戦」と呼ばれる戦いが勃発する。この戦いは永享4年(1432)、永享の乱すなわち関東公方と関東管領山内上杉氏の戦いが常陸国にまで波及し、額田氏の残党に奪われていた石神城を、佐竹氏の支援を受けた石神氏が奪還したという合戦だ。

戦国時代に入ると、佐竹氏の勢力が一段と強くなり、その一方で小野崎氏内部では惣領家が衰え、石神氏も額田氏との所領争いを抱えるなどして振るわなくなる。

天文4年(1535)から天文15年(1546)まで「石神兵乱」ないしは「額田石神合戦」と呼ばれる紛争が勃発したが、額田氏が佐竹氏の後援を得てからは孤立し、「石神没落」という事態を招いてしまう。だがその後、石神氏は赦免され、領地の返還と石神城への帰還が認められる。しかし石神氏は次第に独立性を失い、佐竹氏の家臣化が進んでいった。

一方、天正18年(1590)、佐竹義宣は豊臣秀吉から常陸一国および下野国の一部を安堵され、敵対勢力や独立国人の一掃に乗り出す。義宣は額田氏を「異心あり」として攻め、翌年には額田城を落城させている。額田氏は伊達氏を頼って落ちていった。

慶長7年(1602)、佐竹氏が常陸国54万石から出羽国秋田20万石へと移封されることになり、石神氏も秋田に移ることになる。この時、石神城も廃城となった。

秋田に移った石神氏は常陸時代の禄高900石を400石に減らされたが、久保田藩佐竹家の家臣として江戸時代を生き抜くことになる。

石神城の構造

image by PIXTA / 42441950

石神城は、常陸国北部に張り出す那珂台地が、北東に延びていく台地の先端部に築かれている。その先端部すなわち北東端は急崖になっており、南側には谷が南西に向かって切れ込み、隣接する別の台地との間を遮断している。北側にも谷が西に向かって走っているが、こちらは水田地帯ないしは湿地帯となっていたので、視界は開けていた。

江戸時代中期の流路変更まで、久慈川は城の東側の直下を北東へと流れていたので、標高19m、比高15m~17mほどの平山城であるにもかかわらず、石神城は要害と呼んで差し支えない地形に築かれていた。

その縄張りだが、東から遠見城(二曲輪)、御城(本曲輪)、城の内(三曲輪)、そして現在では田畑や住宅で分かりにくくなっているが、四曲輪と五曲輪という外郭が続く連郭式となっていた。

東端の遠見城は、その名称からも分かる通り、物見櫓が設けられていたと思われる。ここはこの城の曲輪で最も狭く、東西30m、南北95mという形をしている。久慈川方面から城に取り付こうとする寄手を撃退する目的で造られた曲輪だと思われるが、台地先端部ということもあり、平時には物見の役割を果たしていたのだろう。遠見城とその西の御城の間は、土橋の痕跡がないことから木橋によって連絡されていたらしい。

一説に、この遠見城が本曲輪にあたるのではないかという説もある。この曲輪の土塁が御城側に向かって造られており、また遠見城と御城との間に築かれた逆コの字状の堀と土塁が、遠見城の独立性を高いものにしているという。極めて正論だが、時代によって本曲輪の位置が変わったとも考えられる。

遠見城の西に隣接する御城は、その名の通り、長らく本曲輪だとされてきた。東西100m、南北125mで不整台形をしており、北端部では遠見城を取り巻くようになっている。虎口は西側の土塁中央部に設けられ、喰い違いとなっている。御城と城の内の間の堀は土塁天端までの比高差が7~8mもあり、この城の見どころの一つである。ただし現在、見られる土橋は、この城が使われていた当時は存在していなかったことが確認されている(木橋だったのだろう)。

城の内と呼ばれる三曲輪は東西90m、南北148mで、この台地の根元となる西側が長い底辺となる台形をしている。

御城と城の内の堀と土塁は、横矢が掛かるようになっている。ただしこの城の横矢掛かりは中途半端なものなので、小川か小さな水路などの自然地形を利用したのではないかという説もある。

ここまでが石神城の中核部だが、その遺構保存状況は茨城県内の中世城郭の中でも屈指のもので、一見の価値がある。

四曲輪は東西200m、南北150mの広さで別名北郭とも呼ばれ、先代の隠居所のような使い方がなされていたらしい。この曲輪は、中核部の北側にある隣り合う台地の先端部に築かれているが、この台地は東側先端部が切断されたように削れているので、本城域のある台地よりも引っ込んだ位置にある。

五曲輪は、三曲輪の西方に広がる東西460m、南北430mの広大な曲輪である。現在は宅地となっており、その広さは実感できない。

五曲輪の西端部には、台地を分断するかのように南北に総延長900mの土塁と1300mの堀が延びており(現在は一部のみ残存)、五曲輪以東が城内だと明確に分かるようになっている。五曲輪には、石神内宿と呼ばれる家臣団の居住区兼城下町もあるので、この堀と土塁は惣構の役割を果たしていたのだろう。

この長大な堀と土塁の中央部には、小字西表と呼ばれる場所があり、大手門だと推定されている。そこからさらに南へ150mほど行くと、西木戸と呼ばれる虎口も確認されている。

城内から1㎞ほど北西には石神外宿と呼ばれる宿があるが、ここは久慈川の渡し場として発展した宿町で、往時は大きな町場を形成していたらしい。つまりこの城は、水運へのアクセスという点でも優れていたことになる。

石神城の発掘調査

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石神城では、数度にわたる発掘調査が行われている。その結果、15世紀から16世紀末頃までの遺物が出土した。つまり戦国時代に使われた城だということがはっきりしたのだ。

一連の発掘調査では、数カ所で改修の痕跡も出てきており、築城と改修は主に3段階に分けて考えることができるという。

第1期は15世紀から16世紀の後半とされ、石神城が使用された歴史の大半を占める。この時期は遠見城と御城だけが城域で、石神氏が遠見城に居住し、御城は地域住民の避難所だったという説がある。石神氏と額田氏との間で争われた「石神兵乱」の折、石神氏は押され気味だったので、地域住民と共に籠城することが多かったのかもしれない。

第2期aは16世紀の第4四半期で、前述した佐竹義宣の額田城攻めの際、石神城は策源地にされたが、この時、佐竹氏の大規模な改修を受けたらしく、現在見られる三曲輪をはじめとした外曲輪が造られた。これにより石神城は、大名権力を背景にした織豊期城郭へと変貌を遂げる。この時、石神内宿を取り込んだ惣構が造られ、また本曲輪が御城にされた可能性もある。

第2期bも16世紀の第4四半期で、慶長7年(1602)の佐竹氏の移封に伴う廃城寸前、佐竹氏が虎口などの改修を行って防御性を高め、城下の整備を進めた痕跡がある。だがこの頃は、実質的な城としての機能は失われており、城の中核部は空き地化していた。おそらく関ケ原合戦後、上杉景勝との通牒を疑われた佐竹義宣が、万が一の徳川勢来襲に備えたものと推定できる。国人と民の城という中世的な城から、佐竹氏による大名権力の城へと変貌し、さらに宿だけが繁栄し、城は使われなくなるという平和な時代へと移行していく石神城の姿こそ、地域の歴史を考える上で格好の教材だろう。なおこの城の中核部は現在、石神城址公園として整備されているので、とても見学しやすくなっている。

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歴史歴史作家の城めぐり

時代の要請と共に変貌してく城の姿「石神城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #33】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、茨城県「石神城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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石神城の歴史

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茨城県北部を流れる一級河川の久慈川は、茨城・栃木・福島三県の境にある八溝山を水源とし、茨城県に入ってからは大子町から常陸大宮市を経て、日立市と東海村の間から太平洋に注いでいる。

久慈川の河口付近の流路は、江戸時代中頃に大規模な改変が行われたことで、現在は直線になっているが、かつては大きく蛇行していた。その頃の絵図によると、久慈川は河口付近でうねるように5度も曲がり、ようやく河口に達していた。

その河口付近の河岸段丘上に石神城はある。

城に入っていく前に、その歴史について触れておこう。

北関東の有力国人である小山氏・結城氏・佐野氏同様、平将門退治で名を挙げた藤原秀郷を祖とする小野崎氏は、秀郷から数えて四代通延の時、佐都西郡小野崎郷(常陸太田市)に住み着き小野崎という姓を名乗る。だが、すぐに久慈郡の佐竹郷に移り、太田城を築いて本拠とした。しかし平安時代末期、義光流源氏の佐竹氏が伊勢平氏に味方して台頭してくると、服属を余儀なくされて小野崎郷に戻された。

貞和4年(1348)、10代通胤の時、小野崎氏は多賀郡十王町に本拠を移して櫛形城を築いたが、その子の通春は建徳元年(1370)、同地の山尾に城を築いて移った。

その後、 佐竹氏が源頼朝に敵対して没落すると、小野崎氏は勢力を回復し、山尾氏(惣領家)、次弟通房の石神氏、三弟通業の額田氏の三氏へと分かれていく。

三氏は「小野崎三家」と呼ばれ、常陸国北部に一大勢力を築いていく。その勢力は侮り難く、頼朝に赦免されて復活を遂げた佐竹氏の家督争いにも介入し、どさくさに紛れて自領を拡大することまでした。

15世紀前半、石神城は「石上城」として初めて文書に登場するので、築城者は石神氏初代の通房と考えていいだろう。

応永14年(1407)、佐竹義人(山内上杉家からの婿養子)が一族の山入与義と家督をめぐって争い(山入の乱)、常陸国を二分する戦いが始まると、山尾氏と石神氏は佐竹氏に、額田氏は山入氏に味方する。

ところが佐竹氏の家督争いは、あっけない幕切れを迎える。応永29年(1422)、鎌倉にいた山入与義は謀反を疑われ、関東公方の足利持氏から追討を受けて敗死したのだ。

これにより常陸国の山入一派は額田城で籠城戦を展開するが、応永30年(1423)、関東公方の支援を受けた佐竹義人の攻撃を受けて額田城は落城し、額田氏は滅亡した。

だが、その名跡を山尾氏の者が継ぐことで額田小野崎氏は存続し、「石神城合戦」と呼ばれる戦いが勃発する。この戦いは永享4年(1432)、永享の乱すなわち関東公方と関東管領山内上杉氏の戦いが常陸国にまで波及し、額田氏の残党に奪われていた石神城を、佐竹氏の支援を受けた石神氏が奪還したという合戦だ。

戦国時代に入ると、佐竹氏の勢力が一段と強くなり、その一方で小野崎氏内部では惣領家が衰え、石神氏も額田氏との所領争いを抱えるなどして振るわなくなる。

天文4年(1535)から天文15年(1546)まで「石神兵乱」ないしは「額田石神合戦」と呼ばれる紛争が勃発したが、額田氏が佐竹氏の後援を得てからは孤立し、「石神没落」という事態を招いてしまう。だがその後、石神氏は赦免され、領地の返還と石神城への帰還が認められる。しかし石神氏は次第に独立性を失い、佐竹氏の家臣化が進んでいった。

一方、天正18年(1590)、佐竹義宣は豊臣秀吉から常陸一国および下野国の一部を安堵され、敵対勢力や独立国人の一掃に乗り出す。義宣は額田氏を「異心あり」として攻め、翌年には額田城を落城させている。額田氏は伊達氏を頼って落ちていった。

慶長7年(1602)、佐竹氏が常陸国54万石から出羽国秋田20万石へと移封されることになり、石神氏も秋田に移ることになる。この時、石神城も廃城となった。

秋田に移った石神氏は常陸時代の禄高900石を400石に減らされたが、久保田藩佐竹家の家臣として江戸時代を生き抜くことになる。

石神城の構造

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石神城は、常陸国北部に張り出す那珂台地が、北東に延びていく台地の先端部に築かれている。その先端部すなわち北東端は急崖になっており、南側には谷が南西に向かって切れ込み、隣接する別の台地との間を遮断している。北側にも谷が西に向かって走っているが、こちらは水田地帯ないしは湿地帯となっていたので、視界は開けていた。

江戸時代中期の流路変更まで、久慈川は城の東側の直下を北東へと流れていたので、標高19m、比高15m~17mほどの平山城であるにもかかわらず、石神城は要害と呼んで差し支えない地形に築かれていた。

その縄張りだが、東から遠見城(二曲輪)、御城(本曲輪)、城の内(三曲輪)、そして現在では田畑や住宅で分かりにくくなっているが、四曲輪と五曲輪という外郭が続く連郭式となっていた。

東端の遠見城は、その名称からも分かる通り、物見櫓が設けられていたと思われる。ここはこの城の曲輪で最も狭く、東西30m、南北95mという形をしている。久慈川方面から城に取り付こうとする寄手を撃退する目的で造られた曲輪だと思われるが、台地先端部ということもあり、平時には物見の役割を果たしていたのだろう。遠見城とその西の御城の間は、土橋の痕跡がないことから木橋によって連絡されていたらしい。

一説に、この遠見城が本曲輪にあたるのではないかという説もある。この曲輪の土塁が御城側に向かって造られており、また遠見城と御城との間に築かれた逆コの字状の堀と土塁が、遠見城の独立性を高いものにしているという。極めて正論だが、時代によって本曲輪の位置が変わったとも考えられる。

遠見城の西に隣接する御城は、その名の通り、長らく本曲輪だとされてきた。東西100m、南北125mで不整台形をしており、北端部では遠見城を取り巻くようになっている。虎口は西側の土塁中央部に設けられ、喰い違いとなっている。御城と城の内の間の堀は土塁天端までの比高差が7~8mもあり、この城の見どころの一つである。ただし現在、見られる土橋は、この城が使われていた当時は存在していなかったことが確認されている(木橋だったのだろう)。

城の内と呼ばれる三曲輪は東西90m、南北148mで、この台地の根元となる西側が長い底辺となる台形をしている。

御城と城の内の堀と土塁は、横矢が掛かるようになっている。ただしこの城の横矢掛かりは中途半端なものなので、小川か小さな水路などの自然地形を利用したのではないかという説もある。

ここまでが石神城の中核部だが、その遺構保存状況は茨城県内の中世城郭の中でも屈指のもので、一見の価値がある。

四曲輪は東西200m、南北150mの広さで別名北郭とも呼ばれ、先代の隠居所のような使い方がなされていたらしい。この曲輪は、中核部の北側にある隣り合う台地の先端部に築かれているが、この台地は東側先端部が切断されたように削れているので、本城域のある台地よりも引っ込んだ位置にある。

五曲輪は、三曲輪の西方に広がる東西460m、南北430mの広大な曲輪である。現在は宅地となっており、その広さは実感できない。

五曲輪の西端部には、台地を分断するかのように南北に総延長900mの土塁と1300mの堀が延びており(現在は一部のみ残存)、五曲輪以東が城内だと明確に分かるようになっている。五曲輪には、石神内宿と呼ばれる家臣団の居住区兼城下町もあるので、この堀と土塁は惣構の役割を果たしていたのだろう。

この長大な堀と土塁の中央部には、小字西表と呼ばれる場所があり、大手門だと推定されている。そこからさらに南へ150mほど行くと、西木戸と呼ばれる虎口も確認されている。

城内から1㎞ほど北西には石神外宿と呼ばれる宿があるが、ここは久慈川の渡し場として発展した宿町で、往時は大きな町場を形成していたらしい。つまりこの城は、水運へのアクセスという点でも優れていたことになる。

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石神城では、数度にわたる発掘調査が行われている。その結果、15世紀から16世紀末頃までの遺物が出土した。つまり戦国時代に使われた城だということがはっきりしたのだ。

一連の発掘調査では、数カ所で改修の痕跡も出てきており、築城と改修は主に3段階に分けて考えることができるという。

第1期は15世紀から16世紀の後半とされ、石神城が使用された歴史の大半を占める。この時期は遠見城と御城だけが城域で、石神氏が遠見城に居住し、御城は地域住民の避難所だったという説がある。石神氏と額田氏との間で争われた「石神兵乱」の折、石神氏は押され気味だったので、地域住民と共に籠城することが多かったのかもしれない。

第2期aは16世紀の第4四半期で、前述した佐竹義宣の額田城攻めの際、石神城は策源地にされたが、この時、佐竹氏の大規模な改修を受けたらしく、現在見られる三曲輪をはじめとした外曲輪が造られた。これにより石神城は、大名権力を背景にした織豊期城郭へと変貌を遂げる。この時、石神内宿を取り込んだ惣構が造られ、また本曲輪が御城にされた可能性もある。

第2期bも16世紀の第4四半期で、慶長7年(1602)の佐竹氏の移封に伴う廃城寸前、佐竹氏が虎口などの改修を行って防御性を高め、城下の整備を進めた痕跡がある。だがこの頃は、実質的な城としての機能は失われており、城の中核部は空き地化していた。おそらく関ケ原合戦後、上杉景勝との通牒を疑われた佐竹義宣が、万が一の徳川勢来襲に備えたものと推定できる。国人と民の城という中世的な城から、佐竹氏による大名権力の城へと変貌し、さらに宿だけが繁栄し、城は使われなくなるという平和な時代へと移行していく石神城の姿こそ、地域の歴史を考える上で格好の教材だろう。なおこの城の中核部は現在、石神城址公園として整備されているので、とても見学しやすくなっている。

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