多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、茨城県「小幡城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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小幡城の特徴と位置

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「あなたの最も好きな城はどこか」と問われて、すぐに回答するのは難しい。城には歴史的背景と様々な要素が絡み合い、とても一言で「どこが好き」とは言えないからだ。

だが「縄張りが好きな城はどこか」と問われれば「関東だけに限定するのなら、滝山城、杉山城、小幡城」と即答できる。この三城は甲乙付け難く、どれも縄張りの巧妙さでは拮抗しているからだ。

またこの三城は遺構の保存状態も良好で、険しい山城でもないので見学もしやすく、お城ファンならずとも一度は訪れてほしい城である。

だが、この三城にも一長一短はある。

滝山城は公園化されていることから、遺構の保存状態は杉山・小幡の二城に劣り、杉山城は「箱庭的名城」と呼ばれていることからも分かるように、滝山・小幡の二城に比べてスケールが小さい。つまり、この2点を完全に満たす小幡城こそ、中世城郭ファンが満足する理想の城と言えるだろう(少し強引だが)。

茨城県中央部の茨城町にある小幡城は、汽水湖で知られる涸沼から伸びてきた低湿地に面した比高10mほどの舌状台地先端部に築かれた平山城である。城の東には、寛政川が台地を回るように流れており、外堀の役割を果たしている。

この地の北西900mには、常陸国の国府である石岡から水戸に通じる陸前浜海道が通っており、小幡城の城下町の小幡宿は、石岡と水戸の中継地として賑わっていた。

そのためこの城のある場所は交通の要衝と言ってよく、常陸国南部の国人たちの争奪戦の場となったのもうなずける。

小幡城の歴史

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小幡城の創築については諸説ある。一つは鎌倉時代、この地を治めていた小田氏によって方形居館が築かれていたというもの。もちろん伝承にすぎず、何の裏付けもない。

もう一つは応永24年(1417)、国人の大掾義幹によって築かれたというものだ。ただし義幹の名は大掾氏の系図になく、謎の人物とされている。つまり「創築者も創築の経緯も不明」と言っていいだろう。

その後、この一帯は江戸氏の支配下となる。茨城町から水戸にかけては江戸氏によって築かれた城が数多くあり、それらの多くは大規模な土木量を投下して築かれている。小幡城もその例に漏れないことから、江戸氏の手が大幅に入っていたと考えられる。

戦国時代の常陸国南部は、大掾氏、江戸氏、小田氏の勢力が角逐する場であった。それを前提に小幡城の歴史を見ていこう。

天文元年(1532)、水戸から常陸国の南部方面へと勢力を拡大しつつあった江戸通泰は、この地を押さえていた小国人の小幡義清を謀殺し、小幡城を奪取した。これにより小幡城は、江戸氏勢力圏の最南端に位置することになり、石岡を本拠とする大掾氏に対する境目の城(最前線の城)になった。そのため江戸氏は小幡城に大規模な改修を施した。

その後、江戸氏は小幡城を支城とし、当番制で家臣を入れていたという記録が残っている(江戸氏の本拠は水戸城)。

天正18年(1590)の小田原合戦は、関東の諸国人にも大きな地殻変動を起こした。いち早く秀吉と誼を通じていた佐竹義重・義宣父子は、秀吉から常陸一国54万石の領有を認められる。これにより官軍のような立場となった佐竹勢は大掾氏と江戸氏を滅ぼし、10城18砦を立て続けに攻略することで、常陸国南部に深く根を下ろしていた両氏の末葉までをも一掃した。

以後、12年間にわたって、小幡城は佐竹氏の管理下に置かれることになるが、その間に何らかの改修が行われたという痕跡も記録もない。おそらく位置的に利用価値がなくなったので捨て城としたのだろう。そして慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封によって、そのまま廃城となった。

小幡城の縄張り

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舌状台地上に築かれた城の大半は、先端部に主郭を配して縦深陣と後ろ堅固という2つの要素を併せ持たせようとするが(典型例は信州大島城)、小幡城の場合、主郭が曲輪群の中心にあり、主郭の周囲を曲輪群が囲む輪郭式という縄張りを取っている。主要な曲輪は7つあり、それぞれの連携性は極めて高い。

主郭は台地中央部に置かれ、東西80m南北50mという不整形な矩形をしている。主郭の周囲は高土塁と深い堀に囲まれ、極めて求心力が強い縄張りとなっている。

主郭の虎口は南側に付けられ、土橋を隔てて六曲輪につながっている。

全体の曲輪配置は、主郭の東に三曲輪と五曲輪が、西に二曲輪と外郭(七曲輪)が、南には六曲輪が配され、さらに主郭の北側には二重空堀が横たわり、それを隔てる土塁が屏風のように東西に走っている。さらにその外側に土塁と堀を配し、ようやく四輪となる。

それでは見学順路に沿って小幡城を見ていくことにしよう。

まず車を止めて鬱蒼とした丘に近づいていくと、2つの堀底道が現れる。ここが見学ルートの起点となる。位置的には城の北東端で、四曲輪と五曲輪の間にあたる。

小幡城の場合、主要な曲輪を土橋で連結させており、堀底道を主体とした導線設計にはなっていない。しかし寄手は攻略を焦るあまり、堀底道に入ってしまう可能性が高いので、その前提で話を進めていく。

2つの堀底道のどちらでもいいので進んでいくと、すぐに2つの堀底道をつなぐ通路に出る。これでは堀底道を2つにした意味がないと思うなかれ、この接続路は後世に造られたもので、この城が使われていた当時は、2つの堀底道は最後まで交わらずに続いていた。

起点に戻り、北側(右手側)の堀底道を進んでいくと、すぐに分岐があり、四曲輪を中に挟む形で、北側の道と南側の道に分かれる。この2つの堀底道も最後まで交わらないが、双方共に主郭に近づくことはできず、頭上からの攻撃を延々と浴びせられた末、行き止まりとなる。

では、入口に戻って東側(左手側)の道を進んだらどうだろう。まず東側の五曲輪から寄手を遮るように西に延びる土塁に行く手を阻まれる。これを通過すると、堀底道は三方に分かれる。最も東側の道を選ぶと、五曲輪と三曲輪の間を通ることになり、双方から集中砲火を浴びせられた末、行き止まりとなる。中央の道を選ぶと、三曲輪と主郭からの攻撃を受けながらも、何とか南の主郭虎口に到達できる。また西側に向かう道を選ぶと二曲輪と主郭から攻撃を受けるものの、同じ主郭虎口に反対側から到達できる。

つまり、この2つの堀底道を行くことが正解と言えば正解だが、主郭の虎口に至るまでに相当の損耗を強いられるのは間違いない。豊臣勢のような巨大勢力ならまだしも、国人の兵力では、とても攻略できないはずだ。

ここまでで、いかにこの城が迷路のようになっているかがお分かりいただけただろう。

この城の築城家は、寄手を城内に誘い込んで8〜10mもある高土塁で視界を遮り、堀底道の中を迷走させるという防御法を考えたのだろう。まさに寄手の血を吸うキルゾーンを、これでもかというほど配していくことに心血を注いでいるのだ。

つまり城の中に寄手を入れないことを主眼とする城が大半の中、この城は城の中に寄手を入れてしまっても、いかようにも対応できるようにしているのだ。

こうした発想の城は意外に少なく、江戸氏のほかの城にも類例がない。おそらく江戸氏の築城担当者は、この城が大掾氏と国境を接する地にありながら要害地形でないことから、考え抜いた縄張りを描いたのだろう。

続いてパーツを見ていこう。

主郭の北側にある二重堀の間に築かれた高土塁には、この城独自の工夫として、土塁の中央部に凹状の道が付けられている。この道は、上にいる兵がかがめば下からは見えない深さがある。つまり堀底道にいる寄手から土塁上の兵を見せないことによって、土塁上を安心して移動させることを念頭に置いている。

また四曲輪が二曲輪の外縁部まで伸びている部分の二重空堀を挟んだ土塁2カ所は、上辺部分に厚みがあり、曲輪状になっている。南側のものは直結している土橋を守るための外桝形的な役割を果たしており、北側のものは土橋と直結してはいないものの、土橋を渡ってくる敵を側面から攻撃できるようになっている。

このほかにも細部に至るまで、横矢掛りや折れ歪みといった工夫が凝らされており、築城者は城郭攻防戦の豊富な経験があったのだろう。

この城では、平成18年(2006)から発掘調査が続けられている。調査の重点は、城の中核部の西側の平地にある外郭(七曲輪)だが、ここからも15世紀半ばから近世に至るまでの遺構や遺物が検出されている(井戸跡や掘立柱)。とくに外郭を区画する幅7m、深さ3mの堀が発見されたことで、城域が丘部分だけでなく平地にまで広がっていたと分かってきた。この外郭は、国境の緊張が高まった際に援軍を一時的に駐屯させるために造られていたのだろう。

さらに小幡城から半径1㎞内には、土塁と空堀の遺構が点在している。とくに北側の堀と土塁は1㎞を超える長大なもので、堀幅は4mで深さは2〜2・5mある。中核部の堀と土塁に比べれば小さいが、西側だけでなく北側にも、外郭と惣構が造られていたことは興味深い。

また南側にも「小幡山ノ崎外囲い」「小幡千貫桜西堀切」「同東堀切」といった遺構が発見されており、そこまでを城域に含めると、小幡城は惣構を有する巨大城郭だったことになる。

同じ常陸国にある額田城や石神城なども、最終的には城下町や宿町を取り込んだ惣構を有していることから、小幡城も同様の惣構が造られたことは十分に考えられる。

これまで惣構は経済的負担が計り知れず、また近隣農民の協力も必要なので、支配力の強い戦国大名が、統治の浸透した地域にだけに築けるものと思われてきた。だが戦国時代も終盤になり、巨大勢力から自領を守るために、国人たちが領土拡張よりも防衛に重点を置いた方針を取るのは、自然の成り行きだったのだろう。

土で造られた名城が目白押しの関東でも、これだけ巨大で、なおかつ緻密に考え尽くされた遺構を持つ城はほかにない。とくに寄手の侵入路となる空堀を複雑に屈曲させ、敵を行き止まりに追い込んで殲滅させようという築城構想は、いかに戦国時代が過酷だったかを実感させてくれる。

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歴史歴史作家の城めぐり

巧緻を極めた中世城郭の最高傑作「小幡城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #32】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、茨城県「小幡城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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小幡城の特徴と位置

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「あなたの最も好きな城はどこか」と問われて、すぐに回答するのは難しい。城には歴史的背景と様々な要素が絡み合い、とても一言で「どこが好き」とは言えないからだ。

だが「縄張りが好きな城はどこか」と問われれば「関東だけに限定するのなら、滝山城、杉山城、小幡城」と即答できる。この三城は甲乙付け難く、どれも縄張りの巧妙さでは拮抗しているからだ。

またこの三城は遺構の保存状態も良好で、険しい山城でもないので見学もしやすく、お城ファンならずとも一度は訪れてほしい城である。

だが、この三城にも一長一短はある。

滝山城は公園化されていることから、遺構の保存状態は杉山・小幡の二城に劣り、杉山城は「箱庭的名城」と呼ばれていることからも分かるように、滝山・小幡の二城に比べてスケールが小さい。つまり、この2点を完全に満たす小幡城こそ、中世城郭ファンが満足する理想の城と言えるだろう(少し強引だが)。

茨城県中央部の茨城町にある小幡城は、汽水湖で知られる涸沼から伸びてきた低湿地に面した比高10mほどの舌状台地先端部に築かれた平山城である。城の東には、寛政川が台地を回るように流れており、外堀の役割を果たしている。

この地の北西900mには、常陸国の国府である石岡から水戸に通じる陸前浜海道が通っており、小幡城の城下町の小幡宿は、石岡と水戸の中継地として賑わっていた。

そのためこの城のある場所は交通の要衝と言ってよく、常陸国南部の国人たちの争奪戦の場となったのもうなずける。

小幡城の歴史

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小幡城の創築については諸説ある。一つは鎌倉時代、この地を治めていた小田氏によって方形居館が築かれていたというもの。もちろん伝承にすぎず、何の裏付けもない。

もう一つは応永24年(1417)、国人の大掾義幹によって築かれたというものだ。ただし義幹の名は大掾氏の系図になく、謎の人物とされている。つまり「創築者も創築の経緯も不明」と言っていいだろう。

その後、この一帯は江戸氏の支配下となる。茨城町から水戸にかけては江戸氏によって築かれた城が数多くあり、それらの多くは大規模な土木量を投下して築かれている。小幡城もその例に漏れないことから、江戸氏の手が大幅に入っていたと考えられる。

戦国時代の常陸国南部は、大掾氏、江戸氏、小田氏の勢力が角逐する場であった。それを前提に小幡城の歴史を見ていこう。

天文元年(1532)、水戸から常陸国の南部方面へと勢力を拡大しつつあった江戸通泰は、この地を押さえていた小国人の小幡義清を謀殺し、小幡城を奪取した。これにより小幡城は、江戸氏勢力圏の最南端に位置することになり、石岡を本拠とする大掾氏に対する境目の城(最前線の城)になった。そのため江戸氏は小幡城に大規模な改修を施した。

その後、江戸氏は小幡城を支城とし、当番制で家臣を入れていたという記録が残っている(江戸氏の本拠は水戸城)。

天正18年(1590)の小田原合戦は、関東の諸国人にも大きな地殻変動を起こした。いち早く秀吉と誼を通じていた佐竹義重・義宣父子は、秀吉から常陸一国54万石の領有を認められる。これにより官軍のような立場となった佐竹勢は大掾氏と江戸氏を滅ぼし、10城18砦を立て続けに攻略することで、常陸国南部に深く根を下ろしていた両氏の末葉までをも一掃した。

以後、12年間にわたって、小幡城は佐竹氏の管理下に置かれることになるが、その間に何らかの改修が行われたという痕跡も記録もない。おそらく位置的に利用価値がなくなったので捨て城としたのだろう。そして慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封によって、そのまま廃城となった。

小幡城の縄張り

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舌状台地上に築かれた城の大半は、先端部に主郭を配して縦深陣と後ろ堅固という2つの要素を併せ持たせようとするが(典型例は信州大島城)、小幡城の場合、主郭が曲輪群の中心にあり、主郭の周囲を曲輪群が囲む輪郭式という縄張りを取っている。主要な曲輪は7つあり、それぞれの連携性は極めて高い。

主郭は台地中央部に置かれ、東西80m南北50mという不整形な矩形をしている。主郭の周囲は高土塁と深い堀に囲まれ、極めて求心力が強い縄張りとなっている。

主郭の虎口は南側に付けられ、土橋を隔てて六曲輪につながっている。

全体の曲輪配置は、主郭の東に三曲輪と五曲輪が、西に二曲輪と外郭(七曲輪)が、南には六曲輪が配され、さらに主郭の北側には二重空堀が横たわり、それを隔てる土塁が屏風のように東西に走っている。さらにその外側に土塁と堀を配し、ようやく四輪となる。

それでは見学順路に沿って小幡城を見ていくことにしよう。

まず車を止めて鬱蒼とした丘に近づいていくと、2つの堀底道が現れる。ここが見学ルートの起点となる。位置的には城の北東端で、四曲輪と五曲輪の間にあたる。

小幡城の場合、主要な曲輪を土橋で連結させており、堀底道を主体とした導線設計にはなっていない。しかし寄手は攻略を焦るあまり、堀底道に入ってしまう可能性が高いので、その前提で話を進めていく。

2つの堀底道のどちらでもいいので進んでいくと、すぐに2つの堀底道をつなぐ通路に出る。これでは堀底道を2つにした意味がないと思うなかれ、この接続路は後世に造られたもので、この城が使われていた当時は、2つの堀底道は最後まで交わらずに続いていた。

起点に戻り、北側(右手側)の堀底道を進んでいくと、すぐに分岐があり、四曲輪を中に挟む形で、北側の道と南側の道に分かれる。この2つの堀底道も最後まで交わらないが、双方共に主郭に近づくことはできず、頭上からの攻撃を延々と浴びせられた末、行き止まりとなる。

では、入口に戻って東側(左手側)の道を進んだらどうだろう。まず東側の五曲輪から寄手を遮るように西に延びる土塁に行く手を阻まれる。これを通過すると、堀底道は三方に分かれる。最も東側の道を選ぶと、五曲輪と三曲輪の間を通ることになり、双方から集中砲火を浴びせられた末、行き止まりとなる。中央の道を選ぶと、三曲輪と主郭からの攻撃を受けながらも、何とか南の主郭虎口に到達できる。また西側に向かう道を選ぶと二曲輪と主郭から攻撃を受けるものの、同じ主郭虎口に反対側から到達できる。

つまり、この2つの堀底道を行くことが正解と言えば正解だが、主郭の虎口に至るまでに相当の損耗を強いられるのは間違いない。豊臣勢のような巨大勢力ならまだしも、国人の兵力では、とても攻略できないはずだ。

ここまでで、いかにこの城が迷路のようになっているかがお分かりいただけただろう。

この城の築城家は、寄手を城内に誘い込んで8〜10mもある高土塁で視界を遮り、堀底道の中を迷走させるという防御法を考えたのだろう。まさに寄手の血を吸うキルゾーンを、これでもかというほど配していくことに心血を注いでいるのだ。

つまり城の中に寄手を入れないことを主眼とする城が大半の中、この城は城の中に寄手を入れてしまっても、いかようにも対応できるようにしているのだ。

こうした発想の城は意外に少なく、江戸氏のほかの城にも類例がない。おそらく江戸氏の築城担当者は、この城が大掾氏と国境を接する地にありながら要害地形でないことから、考え抜いた縄張りを描いたのだろう。

続いてパーツを見ていこう。

主郭の北側にある二重堀の間に築かれた高土塁には、この城独自の工夫として、土塁の中央部に凹状の道が付けられている。この道は、上にいる兵がかがめば下からは見えない深さがある。つまり堀底道にいる寄手から土塁上の兵を見せないことによって、土塁上を安心して移動させることを念頭に置いている。

また四曲輪が二曲輪の外縁部まで伸びている部分の二重空堀を挟んだ土塁2カ所は、上辺部分に厚みがあり、曲輪状になっている。南側のものは直結している土橋を守るための外桝形的な役割を果たしており、北側のものは土橋と直結してはいないものの、土橋を渡ってくる敵を側面から攻撃できるようになっている。

このほかにも細部に至るまで、横矢掛りや折れ歪みといった工夫が凝らされており、築城者は城郭攻防戦の豊富な経験があったのだろう。

この城では、平成18年(2006)から発掘調査が続けられている。調査の重点は、城の中核部の西側の平地にある外郭(七曲輪)だが、ここからも15世紀半ばから近世に至るまでの遺構や遺物が検出されている(井戸跡や掘立柱)。とくに外郭を区画する幅7m、深さ3mの堀が発見されたことで、城域が丘部分だけでなく平地にまで広がっていたと分かってきた。この外郭は、国境の緊張が高まった際に援軍を一時的に駐屯させるために造られていたのだろう。

さらに小幡城から半径1㎞内には、土塁と空堀の遺構が点在している。とくに北側の堀と土塁は1㎞を超える長大なもので、堀幅は4mで深さは2〜2・5mある。中核部の堀と土塁に比べれば小さいが、西側だけでなく北側にも、外郭と惣構が造られていたことは興味深い。

また南側にも「小幡山ノ崎外囲い」「小幡千貫桜西堀切」「同東堀切」といった遺構が発見されており、そこまでを城域に含めると、小幡城は惣構を有する巨大城郭だったことになる。

同じ常陸国にある額田城や石神城なども、最終的には城下町や宿町を取り込んだ惣構を有していることから、小幡城も同様の惣構が造られたことは十分に考えられる。

これまで惣構は経済的負担が計り知れず、また近隣農民の協力も必要なので、支配力の強い戦国大名が、統治の浸透した地域にだけに築けるものと思われてきた。だが戦国時代も終盤になり、巨大勢力から自領を守るために、国人たちが領土拡張よりも防衛に重点を置いた方針を取るのは、自然の成り行きだったのだろう。

土で造られた名城が目白押しの関東でも、これだけ巨大で、なおかつ緻密に考え尽くされた遺構を持つ城はほかにない。とくに寄手の侵入路となる空堀を複雑に屈曲させ、敵を行き止まりに追い込んで殲滅させようという築城構想は、いかに戦国時代が過酷だったかを実感させてくれる。

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