教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
額田城の立地と規模
茨城県北部には一級河川の久慈川が北西から東に流れ、太平洋に注いでいる。江戸時代の流路変更によって今の久慈川は直線に近い形になったが、戦国時代には蛇行を繰り返し、多くの河岸段丘を造り出していた。
久慈川や久慈郡のいわれは、この地にやってきた「倭武天皇(ヤマトタケルのすめらみこと)」が河岸段丘の一つを指差し、「鯨の頭のようだ」と言ったからだという(『常陸国風土記』)。それだけ久慈川下流には、河岸段丘が多かったのだろう。
額田城は、久慈川に浸食されて複雑な谷地形が形成された額田台地のうちの一つに築かれている。城のある台地は久慈川南岸(右岸)の標高29m、比高15m程度なので、感覚的には平地とさほど変わらない。
ただし東西1070m(出城を入れると1350m)、南北825mという城域の広さには驚かされる。茨城県下の城では、北条氏の拠点城である逆井城(東西420m、南北300m)、額田城の東方5㎞ほどにある石神城(東西680m、南北430m)などを凌駕する規模で、戦国時代の城としては県下屈指である(木原城や牛久城に匹敵する規模)。
城の中核部は主要な4つの曲輪(本丸、二の丸、三の丸、阿弥陀寺の郭)から成り、外郭がそれらを東西北の三面から取り巻くという構造になる。すなわち平地が広がる北側に厚い郭配置を取っている。
城の南側は急崖となっており、かつて存在した有ヶ池と、それに付随する湿地帯が広がっていた。また外郭を隔てた北には久慈川が流れているため、寄手は兵の展開がしにくい地形となっている。
城とは、寄手が兵の投入や展開を自在にできない地形にこそ築かれるべきで、遠江国の諏訪原城や武蔵国の菅谷城同様、この城も絶妙の地形に築かれている。
額田城の縄張り
この城の本丸は150m四方で、正方形とも楕円形ともつかない形をしている。その東西には自然の谷津が切れ込んでおり、西側の谷津は幅が50mもある。それだけでは安心できなかったのか、さらに周囲に水堀と土塁をめぐらせている。とくに二の丸との間を仕切る堀の幅は15〜21m、深さは8mもある。
いかなる城も本丸の防備が厳重なのは当然だが、ここまで本丸を守ろうという意志が際立っている城も珍しい。やはり3度の落城を経験しているだけあり、城が使われた最末期に補強を重ねたのだろう。
本丸は有ヶ池に向かって緩斜面となっているため、こちらに側にも堀を設け、さらに堀の外側の平場(捨曲輪?)にも、本丸に向き合うような土塁を設けている。本丸に向かって土塁を造るのは、本丸と平場の高低差があるため外側にも土塁を盛らないと、深さが確保できないからだ。また寄手に平場を取られた場合、本丸に対する目隠しにもなる。
本丸の虎口は北側に付けられていたと思われるが、現況からは場所を特定できない。しかし主郭の北西部が小さく出構状になっているので、そこに木橋を架けていたのだろう。虎口の位置が特定できないほど、厳重に土塁がめぐらされているのには驚かされる。
本丸の北側に隣接する二の丸は、東西250m、南北100mの細長い曲輪である。土塁は本丸側を除き3カ所に設けられ、四辺は堀で囲まれている。
二の丸虎口は東と北西の2カ所に付けられているが、東の虎口は土橋を架けた平入りなので、農耕用として後世に付けられたものかもしれない。北西部の虎口も土橋だが、横矢が掛かっており、櫓台らしきものも隣接しているので当時からあったものだろう。
二の丸の北には東西250m、南北170mの三の丸があり、こちらも二の丸側を除いた三方に土塁がめぐらされている。ここまでが城の中核部で、大味だが横矢掛りや櫓台によって厳重に守られている。
その外側には、中核部の3つの曲輪を取り囲むように外郭が築かれている。
広大な外郭は現在、宅地化が進み旧状を想定しにくいが、残存遺構や古写真などを元に復元を試みた地元の研究家によると、外郭は9つの区画に分けられ、小字名などから家臣、商人、職人が集住し、根小屋や宿町を形成していたことが分かってきた。つまり外郭部を取り巻いていた堀と土塁は、惣構の役割を果たしていたことになる。ただし惣構の堀は幅5m、深さ2・5m程度で、たいした横矢も掛かっていない。ここから分かることは、戦国時代終盤になり、外敵の本格的な攻撃を受ける可能性が低くなってから、この惣構が築かれた可能性が高いことだ。
本丸から大きな谷津を隔てた西側には、阿弥陀寺の郭と呼ばれる東西200m、南北450mの広大な曲輪がある。この曲輪は北・東・南の渓谷地形を利用し、唯一地続きの西側に堀をうがつという構造で、西・北両面に土塁をめぐらせている。また西側の土塁は2カ所で開けられており、それぞれ喰違虎口となっている。
ちなみに阿弥陀寺は明徳3年(1392)に、当時の城主だった小野崎従通によってこの地に移され、小野崎氏の守護寺にされたという。つまり戦国時代黎明期には、阿弥陀寺の曲輪が設けられていたことになる。
外曲輪・外郭とは何か
外曲輪・外郭とは城の最も外側の曲輪を指し、外構、惣曲輪、惣構などとも呼ばれる。こうした曲輪は主に平城や平山城にあり、寄手を城の中核部に容易に近づけさせないために築かれる。
外曲輪は、戦国時代が進むほど重要性が増していったはずだ。というのも鉄砲の数が増えて射程が長くなれば、流れ弾に当たるケースも増えるので、中核部にいる人々が射程に入らないようにしておかねばならない。また石火矢や大筒の射程からも、城の中核部を守らねばならない。大坂城の三の丸は、そのための緩衝地帯として築かれ、平時は城下町となっていた(しかし、北西部の淀川の中州から砲撃されてしまう)。
大坂城のような大城郭でない場合、外曲輪には駐屯用の掘っ建て小屋が築かれ、また畑にもなっただろう。これが戦時になると、下級武士や農兵の駐屯地になる。
よく外曲輪に近隣の農民を収容したなどという説もあるが、最前線にあたる場所に戦闘能力も意欲も低い非戦闘員を置くことのメリットは少ないと思う。
軍記物の記述なので定かではないが、信州の大島城では、武田氏が外曲輪に民衆を収容したため、寄手(織田勢)が迫った時、民衆が外曲輪の建築物に火を放って逃げ出してしまい、連鎖的に足軽小者も逃走し、戦わずして城を放棄せざるを得なくなった。これが事実なら、戦闘正面となる外曲輪に民衆を収容してしまったがゆえの失敗だろう。
ちなみに戦国大名は、民衆を労働力という財産の一種と考え、敵が去ると即座に生産活動に復帰させるべく城内に収容していた。こうしないと、農民たちは人足や農奴とされ、敵に連れ去られてしまうからだ。
武蔵国の滝山城の北西端には、山の神曲輪と呼ばれる一帯がある。この曲輪の周囲には竪堀や切岸といった簡易な防御遺構が散見され、何らかの目的で造られたと分かる。研究家によると、ここは民衆の避難場所で、大手口から入らずに行けるようになっていたという。ここで大切なのは、この曲輪が城の外郭部ではなく、想定される寄手の攻撃正面から離れた位置にあることだ。
また小田原城にも同様の避難場所らしき曲輪(百姓曲輪など)があるが、これも大外郭から離れた城の内懐にある。こうしたことから外曲輪は、民衆の収容を目的とした曲輪ではなく、寄手と城の中核部との緩衝地帯の役割を果たしていたと分かるだろう。
それでは額田城の外郭は、いかなる役割を担っていたのか。おそらくここが造られたのは、この城が使用された最末期だろう。戦闘を想定しているわけではなく、久慈川水運の中継基地の役割を担った宿町を、野盗から守るという目的が主だったのではないだろうか。
また石神城と同様、上杉景勝との通牒を疑われた佐竹義宣が関ヶ原合戦後、万が一の徳川勢来襲に備えたものかもしれない。
額田城の歴史
この城は建長年間(1249〜1256)、佐竹家五代当主義重の次男・義直が額田氏を称し、この地に移ってきたことに始まる。
当初は佐竹氏の忠実な分家だった額田氏だが、室町時代中期になると独立傾向を強め、同じく佐竹氏分家の山入氏と手を組み、惣領家と対立していく。しかし応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱で禅秀に与したため、鎌倉公方の足利持氏に与した佐竹惣領家の義人の攻撃を受け、同30年(1423)、額田城は落城を遂げる。これにより170年間続いた佐竹氏系額田氏は滅亡する。
勝者となった義人は、重臣の小野崎通重に城と領地を与えた。これが小野崎氏系額田氏の始まりとなる。ところが通重に子がなかったため、江戸氏から養子をもらい受け、江戸氏系額田氏が発足する。
その後、佐竹氏の重臣として平穏に過ごした額田氏だったが、時代は下って天正16年(1588)、江戸氏家中で分裂があり、額田城に逃げ込んできた重臣の一人を城主の額田照通が匿った。これに怒った江戸氏が額田城に兵を差し向け、これに佐竹惣領家が味方したため、再び額田城は落城した。それでも照通は詫びを入れて額田城復帰を許される。
その後、佐竹義宣は常陸国の旧族一掃に乗り出し、江戸氏や大掾氏らを次々と滅ぼしていく。そして天正19年(1591)、義宣は照通に難癖を付けて額田城に攻め寄せ、落城に追い込んだ。照通は伊達政宗の許に逃れ、後に水戸徳川家に転じて600石取りの家臣となり、江戸時代を生き延びる。
結局、額田城は佐竹氏系額田氏の時に一度、江戸氏系額田氏の時に二度、落城を遂げたことになる。ただし三度とも城攻めの際の詳細な記録はないので、いかなる経緯で落城に至ったのかは定かでない。
さほど歴史ファンでない方は、城をめぐる攻防戦の経緯の大半が記録に残っていると思われがちだが、実際は残っている方が少ない。こうした歴史の大きな流れと関係のない城の記録は、忘れ去られてしまうものなのだ。この城の三度の攻防戦もその例に漏れず、詳細の経緯は伝わっていない。だが一見、堅固に見える額田城だが、三度も落ちたという「実績」からすると、意外にもろい城だったのかもしれない。
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