
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
復元された城

これだけ身の回りにVR(Virtual Reality 仮想現実)が溢れる時代になると、疑似体験というものが当たり前になってくる。アミューズメント・パークでも現実体験に近いアトラクションが考案され、そのリアリティ度の高さによって人気のあるなしが決まる。
だがVRによるアトラクションは、決められた枠組みの中で誰もが同じ体験をするだけで、様々な角度から、それぞれの目的に応じて楽しむことはできない。
その点、現実世界の復元施設は時間と空間という枠組みを取り去り、個々の目的に応じた楽しみ方ができる。
昨今は何の建築物もない中世城郭も大ブームになってきているが、ほんの10年ほど前までは、模擬天守もなく、ただ土をこねただけの城など見向きもされなかった。そこで各地の自治体が考えたのが、しっかりした時代考証を元にして中世城郭を復元しようという試みである。
こうした中、静岡県浜松市の高根城、長野県千曲市の荒砥城、愛知県豊田市の足助城、そして本稿で取り上げる茨城県坂東市の逆井城などでは、うるさいマニアも黙らせてしまう良質の復元がなされている。
昭和の頃、ただ観光客だけを引き寄せたいがために、全く考証などしていない鉄筋コンクリート造りの天守を建てた自治体や企業があるが、それが今は負の遺産になり、各自治体に重くのしかかっていることを考えると、こうした誠実な復元と公園化は好感が持てる。
例えば、埼玉県秩父郡長瀞町の天神山城などは、模擬天守を造ったはいいが、客が来なくて運営会社が倒産し、今は山頂に廃墟と化した鉄筋の天守が残り、たいへん危険な状態となっている。
そうした中でも、日本城郭史学会が中心となって行われた逆井城の復元は、良心的な復元の嚆矢であり、「よくぞここまでやってくれた」と言わせるものがある。
逆井城に着くと、大手正面の駐車場から、土塁上の二層の物見櫓、城門、土塀、平櫓、井楼櫓などが見渡せ、中世古城ファンなら誰でも興奮してくるだろう。中に入ると公園化がなされており、関宿城の移築城門、同時代の主殿と庭園、発掘調査を元に復元された二階門と木橋、築山の上に建てられた観音堂などが見学できる。
逆井城の顔とも言える物見櫓は、底辺が5・5m四方の大入母屋の上に望楼櫓が載る形式で、二層3階になっており、外壁には下見板張りを採用している。礎石などの位置から大きさは確かなようだが、外観は同時代史料などを元に慎重に復元されたという。
逆井城のもう一つの顔とも言える井楼櫓は、饅頭などを蒸す蒸籠と同じように、井形に組んだ方形材を4本柱の支柱にはめ込むラーメン構造をしており、見た目よりも堅固なものだ。この井楼櫓については、西ヶ谷恭弘氏から、軌道の上を車輪によって移動していく「車井楼」だったのではないかという指摘がなされているが、現地を見る限り、その可能性は大いにあると思う。
「車井楼」は戦国時代末期、寄手側の攻城兵器として使われたという伝承はあるが、城方の防御用施設として使われた例は聞いたことがない。だが、寄手の攻撃によって危うくなった箇所に移動して、その部分の防御力を補強することができれば、これほど効果的な防御施設はないだろう。
主殿とそれに付随する枯山水庭園は、茨城県潮来市にある堀之内大台城の発掘成果を元に復元されたもので、寝殿造りが簡素化された主殿形式を取っている。
関宿城の移築城門は明治6年(1873)に廃城となった時のもので、いったん地元の名士宅に移築されていたものを、さらに移築したという。この門は薬医門形式で江戸後期のものである。しかし関宿城唯一の現存建築物であり、極めて貴重なものだ。
観音堂も移築建築だが、天正16年(1588)の棟札が出てきており、逆井城と同時代のものだという。
こうした建築物のすべては逆井城にあったものではないが、できる限り同時代のものを移築ないしは復元しており、この城址公園を造る時に中心になった猿島町教育委員会(現在は坂東市)の真摯な姿勢は評価できる。
また復元遺構のほかにも、北条氏の城になってから造られた「比高二重土塁」(内側の土塁が外側のものよりも高くなっている二重土塁)はもとより、多くの土塁や堀といった土の城ならではの遺構が見られる。
なおこの城は、厳密には逆井氏時代の城を逆井城、北条氏の城となってからは飯沼城と呼ばれるが、混乱を避けるために、本稿では逆井城で統一する。
逆井城の位置と歴史

この城は、飯沼の畔にある標高20mの段丘の先端部に築かれている。厳密には河岸段丘上に築かれた台地城となるが、ほぼ平城と考えていいだろう。
城の北から北東にかけて飯沼が、西側には人工的に水を引き入れた蓮沼(浮島沼)が広がっていたが、陸続きの南や東も泥湿地で、後ろ堅固の極めて攻めにくい城だったと想像できる。
飯沼は古代には鬼怒川水系の河川だったが、地震か何かで流路がふさがれ、沼になったと言われている。現在、飯沼は干拓され、一部が西仁連川として残っているが、干拓地は新田となり、長さ30㎞、幅1㎞にわたって飯沼の痕跡をとどめている。
この城は小山氏の流れを汲む逆井常宗が、享徳年間(1452〜1455)に築城したとされるが、伝承の域を出ていない。ただこの人物は、当時の記録から実在が確認できているので、頭から否定することはできない。
確かに、下野・常陸両国の境目にあたる要地にある城なので、古河公方陣営の逆井氏が、古河の東を守るために築いたとしてもおかしくはない。
常宗の孫の常繁が当主の天文5年(1536)、北条氏康の重臣・大道寺盛昌が逆井城に攻め寄せて落城に追い込んだという伝承がある。
この時、常繁は討ち死にし、その妻は釣鐘をかぶって城内の池に飛び込んだという。だがこの頃、北条氏は駿河今川氏の内訌に介入しており(花蔵の乱)、突然、常陸国まで兵を送るとは考えにくい。つまりこの話は伝承にすぎないか年代比定が誤って伝わったものと思われる。おそらく逆井氏の滅亡は永禄年間(1558〜1570)で、攻め寄せたのは、大道寺盛昌の息子の周勝か孫の政繁だと考えられる。それにしても、釣鐘をかぶって身投げすること自体、その重量からして不可能だろう(城内の池を探ったが、釣鐘は出てきていないという)。
いずれにせよ関東全土の制圧を目指す北条氏にとって、ようやく切り取った常陸国西部に拠点城を築く必要があった。そこで天正5年(1577)初頭から逆井城を飯沼城と改名して普請作事が始まる。おそらく逆井氏の逆井城は、現在も城内で古城と呼ばれている周辺だけだったはずなので、城域は5倍以上に広がったことになる。
築城にあたって、城将となった玉縄北条氏繁が本拠の相模国の藤沢から大鋸挽きの職人を呼び寄せているので、普請作事はかなり大規模なものになったはずだ。
逆井城が創築された天正5年は、上杉謙信の関東越山がなく、北条氏の常陸国への侵攻が強まった年である。ところが下総国の有力国衆である結城晴朝が佐竹義重に寝返ったため、侵攻が一時的に停滞する。
北条氏四代当主の氏政は関宿・栗橋・逆井城を拠点として結城城攻めを開始し、7月には外曲輪を攻略し、300人の敵を討ち取った。この時は落城に至らなかったものの、結城氏に相当の痛手を負わせることには成功した。
玉縄北条氏繁はこの城で病没し、その跡を嫡男の氏舜が継いだ。しかし北条家中における玉縄北条氏の位置付けは次第に低下し、常陸国への関与もほとんど見られなくなる。
ちなみに逆井城では、何層にもわたって空堀内に炭と焦土層が見つかっている。これは敵の夜襲を警戒してのもので、おそらく空堀内に何カ所も枯木を積み上げておき、物音がする度に櫓上から火矢を射て堀底を照らしたのだろう。
こうした痕跡はほかの城ではあまり聞かないが、城の夜間警戒法の一つとして、この城だけで編み出されたものなのかもしれない。地層の調査から、こうした焼け跡は小田原合戦が行われた天正18年(1590)のものまであったという。すなわち築城から14年余にわたって、逆井城は常に最前線の「戦う城」だったのだ。
しかし小田原合戦での攻防戦の記録はなく、どのような経緯で豊臣方の手に落ちたかは定かでない。結局、北条氏の滅亡と共に逆井城は廃城とされ、長い眠りに就くことになる。
逆井城の縄張り

この城は、北の飯沼を背にした台地先端部に一曲輪(本曲輪)を置き、それを取り巻くように二曲輪を配置させるという構造をしている。二曲輪は広大だったが、現況では公園化にあたって中央部分が抉られているため、本来の姿は分かりにくい。
東二曲輪の外側には、外構や三曲輪と呼ばれる曲輪がある。三曲輪は東二曲輪とは空堀を隔てた外側にあり、狭小な曲輪である。その南にある外構は曲輪というより、緊張が高まった時の増援兵の駐屯地と考えた方がよく、堀や土塁で囲まれていた痕跡はないようだ。
一曲輪は東西60m、南北80mで面積は4475㎡なので、さほど大きくはないが、これに二曲輪を足すと東西180m、南北320mもの広さになり、推定面積も5万7600㎡に達する。この城の中核部分である一曲輪と東西二曲輪を合わせると、北条氏の最前線拠点城としては十分な大きさである。
また、南西にある状付山、南東の八幡神社、東の金久曽といった出城群を城域に含めると、まさに北条氏の主要支城である鉢形・玉縄・滝山諸城にも匹敵する広さとなる。
城は常駐できる防御兵力を考慮して、その規模や縄張りを決めるため、天正5年の北条氏が、平時でも数千単位の兵力を、逆井城に駐屯させられたと推定できる。本拠の小田原から遠い常陸国の最前線拠点でありながら、これだけの規模の城を築いてしまう北条氏の力は、われわれが思っていた以上に大きかったのかもしれない。
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