多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「足利氏館」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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室町幕府の権力の象徴「方形居館」

image by PIXTA / 16294862

鎌倉時代末期、一人の男によって籠城戦の有用性が証明される。その男とは、赤坂城や千早城に拠り、手練れの戦闘集団である鎌倉幕府の御家人たちを手玉に取った楠木正成である。

それ以前、城と呼べるものは平地に築かれた居館が基本で、そこは戦闘の場というよりも、開発領主の根拠地(守護所ないしは統治拠点)・倉庫・生活の場という側面が強かった。

敵の攻撃があったとしても討ち入りや喧嘩の域を出ておらず、源頼朝の旗揚げ戦となった山木館襲撃のように、十数人での討ち入りというのが普通だった。つまり鎌倉時代の屋敷は、さほどの防御力を必要としていなかったのだ。

室町時代に入ると、足利将軍家の邸宅である室町殿、別名〝花の御所〟に倣った居館が各地で造られる。足利氏と同型の居館を造り、そこに住むことで、守護や守護代はもとより、実力だけが頼りの国人たちでさえも、室町幕府の権威と権力をわがものとしたのだ。

彼らは中央の公権力や政治秩序に自ら包含されることで、勢力基盤を確固たるものにすると同時に、お墨付きを得ていない勢力の実力行使(いわゆる反乱)を防ごうとした。

こうした居館跡には、一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)、大内氏館(山口県)、大友氏遺跡(大分県)、躑躅ヶ崎館(山梨県)、江馬氏館(岐阜県)といった現在でも復元ないしは公園化されているものがある。これらの遺構は、どれも方形を基本としており、一辺は110mで、その多くが塁濠(土塁と堀)で囲まれていた。

足利氏館の場合、創築は平安時代末期から鎌倉時代初期と想定されるので、こうした例には含まれないが、足利氏は鎌倉幕府を代表する御家人として、その権威と権力を誇示できるだけの居館を造らねばならなかった。それが一辺200mという常の居館の倍の大きさを持つ足利氏館である。

方形居館と固定概念

image by PIXTA / 33182864

固定観念というのは恐ろしいもので、定説とされるものでも、そのルーツをたどると案外、根拠が薄弱だったり、何となくそうなったりしているものが多い。

方形居館についても同様で、平地にある塁濠に囲まれた方形の遺構は、すべてその地を治めていた守護大名や国人が、平時に過ごしていた居館遺構だと決めつけられてきた。

ところが研究者たちの努力により、居館跡とされてきた遺構のすべてが、そうとは言い切れないことが分かってきた。

例えば、一時的な陣であっても塁濠を伴うものはあり、110m四方の塁濠を伴う陣所なら、ある程度の人数を投入すれば、3日ほどで築くことは可能だからだ。これは太田道灌の主君の扇谷上杉定正が、「陣所を築くには3日あれば十分」という文書を残していることからも裏付けられている

居館遺構に関する疑義については、西股総生氏が分布という観点から証明してみせた。実は方形居館の分布には偏りがあり、当たり前のことだが、平野部に多く、山間部や丘陵の多い地域には少ない。だが平野部でも、方形居館跡が密集していたとしたら、「これはおかしい」と思えるのではないだろうか。

西股氏は、埼玉県川越市の下広谷地区に、塁濠のある方形居館遺構の群集があることに目を付け、これを河越合戦が行われた時、寄手となった山内上杉勢の「上戸陣」ではないかと述べている。つまりこれらの遺構群は、居館ではなく陣所、すなわち城攻めのベースキャンプだったというのだ。

また戦国時代の固定観念の一つに、「大名や国人領主は、普段は平地にある居館に住み、有事になると山や丘に造られた詰城に籠った」というものがある。

すなわち平地にある居館は、有事の際の司令部兼防御拠点となる詰城とセットになっていることが多いというのだ。越前国の朝倉氏館と一乗谷城しかり、甲斐国の躑躅ヶ崎館と要害山城しかり、駿河口の今川氏館と賤機山城しかりである。この場合、学術的には居館を「根小屋」、詰城を「根小屋式山城」と呼ぶ。

こうした概念はすでに常識と化しており、私も当然のことだと思ってきた。

ところが静岡県裾野市にある葛山館とその詰城である葛山城に行った時、大きな違和感を抱いた。居館の大きさに比べ、詰城がやけに小さく感じられたのだ。居館は一辺100mで標準サイズだが、詰城は曲輪が狭小で、居館に住んでいる女性や子供まで収容できるとは思えなかった。

歴史を紐解くと、この辺りは武田氏傘下の葛山氏の所領で、北条氏の領国に近い、いわゆる境目の地だった。そこで仮説として導き出したのが、詰城の葛山城は葛山氏のものだが、葛山氏の居館と呼ばれてきたものは、武田氏の策源地(駐屯地兼兵糧蓄積地)だったのではないかというものだ。

ちなみに本稿で取り上げる足利氏館は、室町時代の創築なので詰城はない。だが足利城という戦国期の山城が近くにあるので、混乱を招くことがある。それゆえ足利城についても、後で触れておきたいと思う。

足利氏館の位置と構造

image by PIXTA / 28086898

足尾山地から流れ出る渡良瀬川は、上野・下野両国の境付近を南西へと流れ、途中で南東へと流路を変えながら常陸国の古河で利根川に合流する。

その渡良瀬川の中流域にある足利荘(現在の足利市域)は下野国の南西部にあたり、北に足尾山地、南に関東平野が開ける山地と平野部の接点になる。足利荘は東西にも足尾山地の尾根が伸びているため、三方に山を背負う形になり、また南には渡良瀬川が流れているため、極めて防御性の高い地だった。

12世紀中頃、皇族の荘園として形成された足利荘を預けられていたのは、開発領主の藤姓(藤原姓)足利氏だった。しかし治承・寿永の乱(源平合戦)で平家側に付いたため、源頼朝によって滅ぼされる。その後、足利荘を引き継いだのが源姓足利氏で、足利氏館は二代義兼が12世紀末頃に創築したとされている。

ちなみに足利氏館は現在、鑁阿寺の境内となっているが、鑁阿寺は足利氏館内の持仏堂が発展したもので、三代義氏の時代には、すでに足利氏の菩提寺になっていたという。つまり足利氏館の時代は、鑁阿寺の歴史に比べて極端に短いことになる。だが、そうなると尊氏が本拠を京都にするまで、足利一族はどこに住んでいたのだろう。

その形状だが、四囲を堀と土塁に囲まれた方形居館形式を取っており、専門用語で言うところの「初期平地単濠単郭方形館」となる。

その規模は二町四方という大規模なものだが、東辺180・2m、西辺207・5m、南辺214・8m、北辺220・2mという、極端な不整形を成している点が特徴である。

なぜこれほど不整形になったかは方位の問題と言われるが、研究家筋からも明確な答えは出てきていない。

四囲をめぐる土塁の大きさは底部で8~10m、上辺部で2~2・5m、高さは2~3mにすぎない。これは「下部が厚めで上部が薄め」という初期の土塁構造の典型的特徴を有しているが、版築などの土留技術が未発達だったためだろう。

出入口は四辺の中央部にあり、堀をまたぐ橋と門による平入虎口で、現在見られる橋や門は、室町時代から江戸時代にかけて、ばらばらに造られたものだ。おそらく初期は、どれも櫓門となっていたと考えられるが、鉄砲のない時代でも、その防御力は極めて心もとなかったはずだ。

続いて創築年代の比定だが、昨今は方形居館の発生が、平安時代にまでさかのぼれないとされているため、「典型的な平安時代末期の開発領主の館」とされてきた足利氏館も、鎌倉時代以降のものと考えざるを得なくなってきている(南北朝期以降が妥当)。

ちなみに国指定史跡の足利学校は、足利氏館(鑁阿寺)とは通りを隔てた南東部にある。鎌倉時代初期に造られたという足利学校は、関東における最高学府で、最盛期の天文年間(1532〜1555)には「学徒3000」を誇ったと言われる。フランシスコ・ザビエルも、「日本国中において最も大にして有名な坂東の大学」と本国に書き送っている。

足利学校は足利氏館の2分の1ほどの規模の方形居館形式で、堀や土塁を伴っており、内部にも格子廟、方丈、庫裏、衆寮、書院、庭園などが復元されている。

足利氏館の詰城・足利城

image by PIXTA / 31994940

足利城は、足利市の市街地の北方にそびえる標高246・9mの両崖山の山頂部を主郭とする山城である。

この城は、天喜年間(1053〜1058)に藤姓足利成行が築いたとされてきたが、最新の定説では永正9年(1512)以降に、足利長尾景長の手によるものとされている。

この城は両崖山の山頂から三方に伸びる尾根筋に、いくつかの狭小な曲輪を配しただけの典型的な山城で、曲輪、堀切、井戸があるだけの簡素な構造である。

戦後時代に足利荘を領していたのは、関東管領・山内上杉氏の家臣の足利長尾氏で、六代120年間の間、足利荘の領主として君臨していた。

十六世紀前半、足利長尾氏は、それまで本拠としていた勧農城から足利城に移ったとされるが、足利城は不便な山城のため、本拠は山麓部にあったとされる。現に「足利城古絵図」というものが残っており、城の大手方向にあたる南西部には、居館のようなもの(現在の八雲神社)、家臣団屋敷、寺社、城下町などが広がっている。

足利長尾氏は紆余曲折を経て小田原北条氏の傘下に入っていたが、小田原合戦によって没落を余儀なくされた。同時に足利城も山麓の居館も廃城となったらしい。

この時、足利氏館は鑁阿寺となっていたので戦火を免れることができた。結局、足利氏館は鑁阿寺として、室町から戦国という苛酷な時代を生き延び、今に至ることになる。

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歴史歴史作家の城めぐり

天下人・足利一族の本拠に造られた一大居館城「足利氏館」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #29】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「足利氏館」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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室町幕府の権力の象徴「方形居館」

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鎌倉時代末期、一人の男によって籠城戦の有用性が証明される。その男とは、赤坂城や千早城に拠り、手練れの戦闘集団である鎌倉幕府の御家人たちを手玉に取った楠木正成である。

それ以前、城と呼べるものは平地に築かれた居館が基本で、そこは戦闘の場というよりも、開発領主の根拠地(守護所ないしは統治拠点)・倉庫・生活の場という側面が強かった。

敵の攻撃があったとしても討ち入りや喧嘩の域を出ておらず、源頼朝の旗揚げ戦となった山木館襲撃のように、十数人での討ち入りというのが普通だった。つまり鎌倉時代の屋敷は、さほどの防御力を必要としていなかったのだ。

室町時代に入ると、足利将軍家の邸宅である室町殿、別名〝花の御所〟に倣った居館が各地で造られる。足利氏と同型の居館を造り、そこに住むことで、守護や守護代はもとより、実力だけが頼りの国人たちでさえも、室町幕府の権威と権力をわがものとしたのだ。

彼らは中央の公権力や政治秩序に自ら包含されることで、勢力基盤を確固たるものにすると同時に、お墨付きを得ていない勢力の実力行使(いわゆる反乱)を防ごうとした。

こうした居館跡には、一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)、大内氏館(山口県)、大友氏遺跡(大分県)、躑躅ヶ崎館(山梨県)、江馬氏館(岐阜県)といった現在でも復元ないしは公園化されているものがある。これらの遺構は、どれも方形を基本としており、一辺は110mで、その多くが塁濠(土塁と堀)で囲まれていた。

足利氏館の場合、創築は平安時代末期から鎌倉時代初期と想定されるので、こうした例には含まれないが、足利氏は鎌倉幕府を代表する御家人として、その権威と権力を誇示できるだけの居館を造らねばならなかった。それが一辺200mという常の居館の倍の大きさを持つ足利氏館である。

方形居館と固定概念

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固定観念というのは恐ろしいもので、定説とされるものでも、そのルーツをたどると案外、根拠が薄弱だったり、何となくそうなったりしているものが多い。

方形居館についても同様で、平地にある塁濠に囲まれた方形の遺構は、すべてその地を治めていた守護大名や国人が、平時に過ごしていた居館遺構だと決めつけられてきた。

ところが研究者たちの努力により、居館跡とされてきた遺構のすべてが、そうとは言い切れないことが分かってきた。

例えば、一時的な陣であっても塁濠を伴うものはあり、110m四方の塁濠を伴う陣所なら、ある程度の人数を投入すれば、3日ほどで築くことは可能だからだ。これは太田道灌の主君の扇谷上杉定正が、「陣所を築くには3日あれば十分」という文書を残していることからも裏付けられている

居館遺構に関する疑義については、西股総生氏が分布という観点から証明してみせた。実は方形居館の分布には偏りがあり、当たり前のことだが、平野部に多く、山間部や丘陵の多い地域には少ない。だが平野部でも、方形居館跡が密集していたとしたら、「これはおかしい」と思えるのではないだろうか。

西股氏は、埼玉県川越市の下広谷地区に、塁濠のある方形居館遺構の群集があることに目を付け、これを河越合戦が行われた時、寄手となった山内上杉勢の「上戸陣」ではないかと述べている。つまりこれらの遺構群は、居館ではなく陣所、すなわち城攻めのベースキャンプだったというのだ。

また戦国時代の固定観念の一つに、「大名や国人領主は、普段は平地にある居館に住み、有事になると山や丘に造られた詰城に籠った」というものがある。

すなわち平地にある居館は、有事の際の司令部兼防御拠点となる詰城とセットになっていることが多いというのだ。越前国の朝倉氏館と一乗谷城しかり、甲斐国の躑躅ヶ崎館と要害山城しかり、駿河口の今川氏館と賤機山城しかりである。この場合、学術的には居館を「根小屋」、詰城を「根小屋式山城」と呼ぶ。

こうした概念はすでに常識と化しており、私も当然のことだと思ってきた。

ところが静岡県裾野市にある葛山館とその詰城である葛山城に行った時、大きな違和感を抱いた。居館の大きさに比べ、詰城がやけに小さく感じられたのだ。居館は一辺100mで標準サイズだが、詰城は曲輪が狭小で、居館に住んでいる女性や子供まで収容できるとは思えなかった。

歴史を紐解くと、この辺りは武田氏傘下の葛山氏の所領で、北条氏の領国に近い、いわゆる境目の地だった。そこで仮説として導き出したのが、詰城の葛山城は葛山氏のものだが、葛山氏の居館と呼ばれてきたものは、武田氏の策源地(駐屯地兼兵糧蓄積地)だったのではないかというものだ。

ちなみに本稿で取り上げる足利氏館は、室町時代の創築なので詰城はない。だが足利城という戦国期の山城が近くにあるので、混乱を招くことがある。それゆえ足利城についても、後で触れておきたいと思う。

足利氏館の位置と構造

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足尾山地から流れ出る渡良瀬川は、上野・下野両国の境付近を南西へと流れ、途中で南東へと流路を変えながら常陸国の古河で利根川に合流する。

その渡良瀬川の中流域にある足利荘(現在の足利市域)は下野国の南西部にあたり、北に足尾山地、南に関東平野が開ける山地と平野部の接点になる。足利荘は東西にも足尾山地の尾根が伸びているため、三方に山を背負う形になり、また南には渡良瀬川が流れているため、極めて防御性の高い地だった。

12世紀中頃、皇族の荘園として形成された足利荘を預けられていたのは、開発領主の藤姓(藤原姓)足利氏だった。しかし治承・寿永の乱(源平合戦)で平家側に付いたため、源頼朝によって滅ぼされる。その後、足利荘を引き継いだのが源姓足利氏で、足利氏館は二代義兼が12世紀末頃に創築したとされている。

ちなみに足利氏館は現在、鑁阿寺の境内となっているが、鑁阿寺は足利氏館内の持仏堂が発展したもので、三代義氏の時代には、すでに足利氏の菩提寺になっていたという。つまり足利氏館の時代は、鑁阿寺の歴史に比べて極端に短いことになる。だが、そうなると尊氏が本拠を京都にするまで、足利一族はどこに住んでいたのだろう。

その形状だが、四囲を堀と土塁に囲まれた方形居館形式を取っており、専門用語で言うところの「初期平地単濠単郭方形館」となる。

その規模は二町四方という大規模なものだが、東辺180・2m、西辺207・5m、南辺214・8m、北辺220・2mという、極端な不整形を成している点が特徴である。

なぜこれほど不整形になったかは方位の問題と言われるが、研究家筋からも明確な答えは出てきていない。

四囲をめぐる土塁の大きさは底部で8~10m、上辺部で2~2・5m、高さは2~3mにすぎない。これは「下部が厚めで上部が薄め」という初期の土塁構造の典型的特徴を有しているが、版築などの土留技術が未発達だったためだろう。

出入口は四辺の中央部にあり、堀をまたぐ橋と門による平入虎口で、現在見られる橋や門は、室町時代から江戸時代にかけて、ばらばらに造られたものだ。おそらく初期は、どれも櫓門となっていたと考えられるが、鉄砲のない時代でも、その防御力は極めて心もとなかったはずだ。

続いて創築年代の比定だが、昨今は方形居館の発生が、平安時代にまでさかのぼれないとされているため、「典型的な平安時代末期の開発領主の館」とされてきた足利氏館も、鎌倉時代以降のものと考えざるを得なくなってきている(南北朝期以降が妥当)。

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足利学校は足利氏館の2分の1ほどの規模の方形居館形式で、堀や土塁を伴っており、内部にも格子廟、方丈、庫裏、衆寮、書院、庭園などが復元されている。

足利氏館の詰城・足利城

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足利城は、足利市の市街地の北方にそびえる標高246・9mの両崖山の山頂部を主郭とする山城である。

この城は、天喜年間(1053〜1058)に藤姓足利成行が築いたとされてきたが、最新の定説では永正9年(1512)以降に、足利長尾景長の手によるものとされている。

この城は両崖山の山頂から三方に伸びる尾根筋に、いくつかの狭小な曲輪を配しただけの典型的な山城で、曲輪、堀切、井戸があるだけの簡素な構造である。

戦後時代に足利荘を領していたのは、関東管領・山内上杉氏の家臣の足利長尾氏で、六代120年間の間、足利荘の領主として君臨していた。

十六世紀前半、足利長尾氏は、それまで本拠としていた勧農城から足利城に移ったとされるが、足利城は不便な山城のため、本拠は山麓部にあったとされる。現に「足利城古絵図」というものが残っており、城の大手方向にあたる南西部には、居館のようなもの(現在の八雲神社)、家臣団屋敷、寺社、城下町などが広がっている。

足利長尾氏は紆余曲折を経て小田原北条氏の傘下に入っていたが、小田原合戦によって没落を余儀なくされた。同時に足利城も山麓の居館も廃城となったらしい。

この時、足利氏館は鑁阿寺となっていたので戦火を免れることができた。結局、足利氏館は鑁阿寺として、室町から戦国という苛酷な時代を生き延び、今に至ることになる。

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