教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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伊東潤(著),西股総生(監修)
「宇都宮城釣天井事件」という虚構
元和8年(1622)、宇都宮藩主で幕政の中核に参与していた年寄(老中の前身)の本多正純が二代将軍秀忠を暗殺すべく、その宿所に指定された宇都宮城内の居室に釣天井を仕掛けたという事件をご存じだろうか。
「宇都宮城釣天井事件」である。
本多正純といえば、家康の懐刀として権勢を振るった本多正信の嫡男で、慶長10年(1605)に家康が隠居し、元和2年(1616)に死去するまでの12年間にわたって繰り広げられた江戸と駿府の「二元政治」の際、駿府派として家康の代弁者となっていた重鎮である。
元和8年4月、家康の七回忌で日光東照宮を参拝した秀忠は、その帰途、宇都宮城に一泊する予定でいた。そのため正純は、それに備えて御成御殿の造営などを行った。その時、正純が天井に細工をして秀忠を圧死させようとしているという噂が参拝中の秀忠の耳に入り、秀忠は宿泊先を急遽、壬生城に変更している。
この時はとくにお咎めなしだったが、同年8月、秀忠は11カ条の「罪状嫌疑書」を正純に突き付けて減封の上、転封させようとした。しかし正純は、「身に覚えがない」と言い張ったため改易とされる。これが「宇都宮城釣天井事件」の顛末である。
だが4月に宇都宮城内に検視役が入り、天井に不審点はないとされており、少なくとも、御殿に何か仕掛けて秀忠を殺そうとしたことはないと証明されている。
だが宇都宮城には、釣天井事件よりも大きな事件があった。幕末における攻防戦である。それについては後で記すことにして、まずは宇都宮氏の歴史から見ていこう。
宇都宮氏の歴史
宇都宮城はその名からも分かるように、平安時代から戦国時代末期に至るまで下野国人・宇都宮氏の本拠となっていた城だ。
平安時代末期、粟田関白と呼ばれた藤原道兼の曾孫の宗円が関東に下向し、宇都宮惣検校職(二荒山神社の社家職)に就いたことで宇都宮氏の歴史は始まる。宗円は前九年の役に際し、安倍一族調伏の祈禱をしたことで、惣検校職を下賜されたという。
三代朝綱の時代に源頼朝に味方して鎌倉幕府の御家人となった宇都宮氏は、『吾妻鏡』にもしばしば登場するが、国衙領を横領したり、幕府に謀反の疑いを掛けられたりで、あまり評判は芳しくはない。それでも七代景綱は評定衆や引付頭人にまで上り詰め、また「宇都宮家弘安式条」という武家法の草分けを世に送り出して頭角を現していく。
南北朝時代に華々しい活躍を見せたのが九代公綱だ。いち早く後醍醐天皇方となった公綱は、数々の戦いで活躍し、楠木正成をして「坂東一の弓取り」と言わしめた武勇の士だったという。
しかし十代氏綱は一転して北朝方として行動し、観応の擾乱でも尊氏方となったので、没落を免れている(直義方の桃井氏らは没落している)。
十一代基綱は、下野守護の小山義政と戦って討ち死にを遂げたが(「小山義政の乱」)、鎌倉公方の氏満が義政の討伐に成功し、宇都宮氏も九死に一生を得た。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱においても、鎌倉公方の持氏に味方して勝ち組に属している。その後、鎌倉公方と関東管領が対立し、享徳3年(1454)に享徳の乱が勃発した折、当初は公方方だったが、文明3年(1471)頃に上杉方に転じて生き残りに成功した。
戦国時代が始まる頃、宇都宮氏は下野半国ほどの勢力を持つようになる(宇都宮氏は18万石、下野一国は37・4万石)。
戦国時代の北関東では、佐竹・結城・小山氏に宇都宮氏を加えた北関東国衆連合(当時の呼び方だと「東方衆一統勢力」)が北条氏の北進策を食い止める形となり、その関東制圧の大きな障害となっていた。
この時代の当主は広綱・国綱父子で、北条氏との戦いで苦戦を強いられるものの、粘り強い抵抗を続けた。この時、平城の宇都宮城から山城の多気城に本拠を移したことが功を奏し、滅亡寸前にまで追い込まれた天正14年(1586)の籠城戦でも、生き延びることに成功する。
天正18年(1590)の小田原合戦では、いち早く豊臣方として参戦し、北条氏の支城を攻撃している。
かくして宇都宮氏は、小なりとはいえ豊臣大名に名を連ね、苛酷な戦国時代を生き抜いたと思われた。
ところが慶長2年(1597)、宇都宮国綱は突然、秀吉に所領を没収される。その理由は、世子問題で家中が二分され、裁定役の浅野長政の怒りを買ったというものだった。また18万石と申告していた石高が、実は倍以上あったという不正申告によるものとされている。いずれにせよ明確な理由はなく、ここに二十二代520年余続いた宇都宮氏は、呆気なく没落を遂げることになる。
宇都宮城改修の歴史
関東七名城の一つに数えられる宇都宮城は、栃木県宇都宮市の中心部にある。平安時代に宇都宮氏初代の宗円が二荒山の南に館を築いたのが始まりというが、その頃の宇都宮城がどのような姿だったかは分かっていない。
ただし発掘調査の結果、2町四方の規模の館の痕跡が出てきており、それが宗円の築いた初期宇都宮城だと考えられている。
この館は宇都宮明神の前衛を成すように築かれており、明神の参道は館の中央部を貫いていた。つまり宗円ないしはその子孫が、明神と館は不可分の関係と考えており、惣検校職を形式的なものにしていなかったと分かる。
この館の東には田川が南流し、西には鎌倉街道脇往還が通っていた。また近くには奥州街道と日光街道の分岐点もあった。つまりこの館は明神を守ると同時に、河川流通と陸上交通を掌握する場所に築かれていたことになる。
発掘調査によると、南北朝時代に宇都宮氏の当主だった公綱・氏綱の頃、この館の堀を大きくして土塁を嵩上げし、外郭を設けるという大改修が行われている。こうした増改築は長年にわたって続けられ、最終的には近世城郭・宇都宮城の原型のようなものは、戦国時代初期には完成していたらしい。
慶長2年の宇都宮氏の改易後、豊臣大名から徳川大名に移行した蒲生秀行が城主となり、近世城郭としての体裁を整えるために諸門の整備などを行った。
しかし、蒲生氏は転封され、その後、奥平・本多・阿部・戸田氏らが、15万石前後の石高で相次いで宇都宮藩主となっていった。その中でも、釣天井事件の本多正純が元和5年(1619)から8年(1622)にかけて行った大改修により、宇都宮城は近世城郭として生まれ変わった。
この時、三の丸大手門前の馬出と三日月堀や、「遠囲い」と呼ばれた惣構の構築が行われた。この普請は、徴発された農民たちが「たがら」と呼ばれる背負子で土砂を運んだので、「たがら普請」と呼ばれている。多くの農民が列を成して土砂を運ぶ姿は、さぞかし壮観だったことだろう。
またこの時、陰惨な事件も起きている。
経緯は不明だが、正純は将軍家から預かっていた紀州根来衆、いわゆる「根来同心」を人足並みに使役したことで、根来衆は怒って仕事をボイコットした。それに逆切れした正純は、根来衆とその妻子100人を殺して埋めたという。それが「ねころ塚」として、城下に今も残っている。
根来同心は罪人でも何でもない鉄砲技術者集団なので、彼らを使役した挙句、言うことを聞かないから殺すなどというのは暴挙以外の何物でもなく、本多家改易の遠因になったと言われている。
またこの時、城と結ばれていた宇都宮明神の間が惣構で遮断された。これは政治と信仰が断たれた象徴的な事件だった。城下の人々は、これにより本多氏が明神のご加護を失ったと噂し合ったという。
惣構に設けられた大手門は中心から北西部へと移動し、さらに内郭にあたる三の丸の北面中央部に、前述の馬出と三日月堀が造られた。
最後の城主となった戸田氏の残した「宇都宮城絵図」によると、最終的な城の構造は、惣構、三の丸、二の丸、本丸にそれぞれ堀をめぐらし(四重堀)、本丸の土塁上には5つの櫓が、二の丸の土塁上には3つの櫓が築かれていた。そのほかにも内桝形を伴った20近い門が設けられ、また塁線は横矢が掛かるように屈曲させられるという極めて堅固な構えを有していた。
明治の廃藩置県後、宇都宮市の中心部にあったことが災いし、宇都宮城の城地は分割売却され、それに従って遺構の破壊が進み、往時の美しさを伝えるものがなくなっていった。
だが近年、宇都宮市民の要望に応えた市が公園化に取り組み、本丸土塁の北西部にあった清明台櫓や同南西部にあった富士見櫓などを復元したことで、宇都宮は城下町の美しいたたずまいを取り戻しつつある。
幕末の宇都宮城攻防戦
この城は幕末に大きな災厄に見舞われている。
幕末の宇都宮藩は戸田家8万石が藩主だったが、近代化に遅れて旧式の軍隊しか擁していなかった。
慶応4年(1868)4月、大鳥圭介率いる伝習隊など2000余の旧幕府軍が江戸を脱出し、北上の途に就いた。大鳥らは宇都宮城を奪取し、そこを根城として新政府軍と戦おうとしていた。
大鳥は自ら率いる部隊と副将の土方歳三率いる部隊に分かれ、別ルートで宇都宮を目指した。結局、宇都宮城の攻撃は土方隊が単独で行うことになる。
伝習隊の装備は最新のもので、士気も高く、旧式装備の宇都宮藩兵とかき集められた近隣諸藩兵の敵ではなかった。戦いは激しいものとなったが、4月19日一日で終わり、土方は城を占拠した。これが第1次宇都宮合戦である。
しかし新政府軍も巻き返しに転じた。5月になると、薩長両藩の強力な部隊を中心にした東山道総督府救援軍を派遣し、火力によって大鳥ら旧幕府軍を圧倒して日光方面へと敗走させた。
これが第2次宇都宮合戦である。この2つの戦いによって、宇都宮城は壊滅的な損害をこうむり、それが後の土地売却や遺構破壊へとつながっていく。
かくして、壮絶な攻防戦によって宇都宮城の長い歴史は幕を閉じた。しかしそれもまた、歴史の中を生き抜いてきたこの城の終幕にはふさわしい気がする。
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