多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「祇園城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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名族の宿命

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名族とは、藤原氏、桓武平氏、清和源氏といった血統に由緒があり、中央政治を動かしていた、ないしは地方において、大きな勢力基盤を築いていた一族のことだ。

関東の名族で比較的長命を保った一族としては、足利氏、上杉氏、千葉氏、三浦氏、佐竹氏、宇都宮氏、結城氏といった名が挙がる。

この中では、常陸源氏の血を受け継ぐ佐竹氏だけが、久保田藩20万石の大名として江戸時代を生き抜いた。同じ新羅三郎義光を祖とする甲斐武田氏が、戦国時代に滅んでしまったことを考えると、外様大名でありながら、よくぞ明治維新まで続いたものだと思う。

このように名族と呼ばれる一族も100年以上栄えるのは難しく、それぞれ勃興と衰退、そして中には滅亡を迎えることになる。

祇園城という美しい名を持つ城を本拠としていた小山氏も、そうした関東の名族の一つとして輝ける時代があった。しかも、ほかの一族に比べて盛衰が鮮やかで、武士というものの華やかさも空しさも体現していた。

本稿では、小山氏の歴史をたどりつつ、その本拠である祇園城を紹介したいと思う。

小山氏嫡流の勃興と滅亡

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小山氏の起源は、平将門退治で勇名を馳せた俵藤太こと藤原秀郷だという。秀郷は下野国に勢力基盤を持つ土豪だったが、天慶3年(940)、将門を退治したことで、正式に下野守に補任された。その後も朝廷に忠義を尽くしたため、鎮守府将軍にも任じられる。その結果、秀郷流藤原氏は平安時代中期に東国最大の軍事力を有するまでになる。

平安時代末期、秀郷流藤原氏は分裂する。その一方が宗家の藤姓足利氏で、もう一方が小山氏である。すなわち藤姓足利氏が嫡流で、小山氏が庶流になる。

ちなみに、後に天下の覇権を握る足利尊氏は源氏系足利氏なので、秀郷流足利氏とは別系統になる。

小山氏が祇園城のある下野国都賀郡小山郷に土着したのも、この頃だと言われている。

その後、藤姓足利氏と小山氏は「一国之両虎」(『吾妻鏡』)と呼ばれるほど、下野国に並ぶ者なき勢力を築き上げていった。

治承4年(1180)、伊豆の流人だった源頼朝が平家打倒の旗を揚げた。この時、小山氏当主の政光は大番役で京都にいたが、関東の情報をいち早く摑んで頼朝に味方した。

一方、藤姓足利氏は平家方のままだったため、後に頼朝に滅ぼされる。それでも、藤姓足利氏系の支族として大胡氏と佐野氏が生き残り、秀郷の血筋を伝えていく。

頼朝と同時代を生きた小山政光は『吾妻鏡』での登場場面も多く、鎌倉時代の代表的御家人として名を馳せた。その息子の朝政は、文治5年(1189)の奥州合戦(奥州藤原氏征伐戦)で2人の弟と共に勇名を轟かせ、鎌倉幕府内に確固たる地位を築いた。

次弟の宗政は長沼氏と皆川氏の祖となり、三弟の朝光は結城氏の祖となった。つまり3兄弟は、それぞれ戦国時代に北関東で名を馳せる国人領主の祖となったのだ。これに佐野氏を加え、秀郷流藤原氏の血脈は北関東に広がっていく。

小山朝政の息子の朝長は承久3年(1221)の承久の乱でも活躍し、播磨国守護をはじめとして、西国にも所領を得た。その後、源氏将軍が三代で滅び、執権北条氏の時代になるが、小山氏は北条氏と縁戚関係を重ねて臣従に等しい関係となる。

南北朝の動乱の際は、はじめ幕府に与したものの、元弘3年(1333)の新田義貞の挙兵には付き従い、倒幕に貢献する。

建武2年(1335)、北条時行が中先代の乱を起こすと、当主の秀朝は、鎌倉を治めていた足利直義の命を奉じて武蔵国まで出馬した。ところが時行軍に惨敗を喫し、包囲された武蔵府中において、一族家人数百人と共に自刃して果てた。この時、生き残った秀朝嫡男の朝郷は幼く、小山氏の勢力は著しく衰える。

建武4年(1337)には、陸奥国から南下してきた南朝方の北畠顕家に祇園城を攻められ、4カ月にも及ぶ攻防戦の末、落城の悲哀を味わった。この時、当主の朝郷は捕らえられた。

それでも南朝方となっていた同族の結城宗広の嘆願によって、朝郷は助命されて事なきを得ている。その後、いったん小山氏は歴史の表舞台から姿を消した。どうやら内訌が起こっていたらしいが、詳細は分からない。

その後、小山氏中興の祖とも言える義政の登場により、再び小山氏は脚光を浴びる。義政は武蔵北部・常陸西部・下総北西部へと勢力を拡大し、康暦2年(1380)、北関東の覇権(厳密には下野守護の座)を懸けて宇都宮基綱と激突し、これを敗死に追い込んだ(小山義政の乱)。

だがこの戦いは、関東公方の足利氏満の制止を振り切っての私戦だったので、氏満は激怒し、上杉氏をはじめとした関東の国衆に義政追討を命じる。

義政は大軍を相手に祇園城や支城群を駆使して善戦したものの、最後には敗れて自刃する。逃亡した息子の若犬丸も後に敗死し、小山氏嫡流の血統は絶えた。ここまでが小山氏の前史である。

新生小山氏の足跡

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その後、同族の結城泰朝が小山氏の名跡を継ぐことを許され、ここに新生小山氏が誕生する。ただしその所領は小山四郷だけとされ、地侍程度の勢力にまで落とされた。

戦国時代後半の当主である秀綱は、小田原北条氏と越後上杉氏の間を揺れ動くが、天正3年(1575)、上杉方だった秀綱は北条方に祇園城を攻められて降伏開城する。だがこの時も、小山氏残党や結城氏との融和を重視した北条氏により、旧領復帰を認められた。しかし領主としての権限は、なきに等しい状態での復帰となった。

天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏は滅亡する。この時、いち早く豊臣方に転じた結城晴朝の口利きで、小山秀綱・秀広父子はわずかな知行を与えられて生き残った。だが秀広が若死にすることで、小山氏は衰退の一途をたどり、最後は水戸藩の客分として血脈を残すにとどまった。

小山氏の盛衰は国人領主の典型であり、それだけ血脈を後世に伝え、家を発展させていくことが難しいことを、われわれに教えてくれる。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前段階で、徳川家康が会津の上杉景勝を攻めようとした際、祇園城南端の須賀神社で、「上杉を先に討つか、戻って挙兵した石田三成の西軍を討つか」で諸将と協議した小山評定は、つとに有名である。だがこの時、小山氏も祇園城も全くと言っていいほど記録には出てこない。

なお家康が天下を取った後、祇園城には本多正信の息子の正純が2万石で入り、城を拡張整備したと言われる。だが元和5年(1619)の正純の移封により、歴史ある祇園城も廃城となった。

祇園城の構造

image by PIXTA / 32827674

栃木県小山市を流れる思川東岸の台地上に築かれたこの城は、典型的な崖端城だが、出城も含めると、その長さが1㎞にも及ぶ巨大な城でもある。

祇園城という優雅な名は、久安4年(1148)に小山政光がこの地を本拠とした際、鎮守として祇園社を勧請したことに由来する。

ただし創築された頃の祇園城は、現在あるものとは大きく異なり、城域の南端に土塁だけが残る方形居館跡が、その名残ではないかと言われている。ここが「御城」と呼ばれていることからも、城主の居館だった可能性は高い。おそらく祇園城はそこから始まり、河畔の台地上を北上するように拡張されていったのだろう。

築城当初この城は小山氏の本拠だったが、いつしか小山氏は、祇園城の南西2㎞ほどにある鷲城に本拠を移した。

前述した「小山義政の乱」の折、義政が本拠としていたのが鷲城である。

しかし戦国時代に入って周囲の緊張が高まるにしたがい、結城氏系小山氏は再び本拠を祇園城に戻した。

この地に本拠を戻した理由は、越後上杉氏にしても北条氏にしても西からやってくることを想定し、思川によって西側の防備が不要となるこの地を選んだからだと考えられる。また戦国時代に入ると河川交通が重視されてくるので、自らの交易のためと、ここで思川を遮断できるという利点を考えてのことだろう。

小山氏が北条氏の傘下に入ると、この城は常陸攻略の中継基地としての価値が高まった。つまり北条氏は、この城を兵糧の貯蔵や兵員の駐屯に使うつもりでいたのだろう(実際に5年ほどは使っていた)。

この城は北条氏の支配下に置かれた時代に大規模な修築が施され、現在ある姿になったと言われるが、家康の関東移封後、本多正純が大修築を行ったという説もある。

城の構造は至ってシンプルで、思川河畔の比高15mほどの河岸段丘上に、曲輪を連ねるように築いた連郭式城郭である。本曲輪の位置ははっきりしていないが、思川に架かった観晃橋を西から渡ってすぐのところにある曲輪が、そうだと言われている。ここは今、城址公園となっているが、二曲輪という説もある。そこから北に向かって曲輪が連なっていくという構造の城である。

また自然地形を巧みに取り入れているのも、この城の特徴である。すなわち、この城は思川河畔にあるため、思川に流れ込む小川が多い。祇園城内にも3本の小川が流れ込んでいるが、それらが谷地形を成し、自然の水堀となっている。

現在でも、土塁、空堀、堀切、馬出などが遺構として残っており、見応えは十分にある。

また祇園城だけでなく、前述の方形居館跡「御城」、少し間をおいて思川東岸に続く長福寺城、そして鷲城や中久喜城といった小山氏の城郭群は、往時の勢力の大きさをしのばせるものがある。これらの小山氏城郭群は近接しているので、総称して小山城という呼び方をすることもある。

坂道を転がり落ちるような小山氏の衰退を思うからなのか、この城は、どことなく寂しい雰囲気をたたえている。この城に立ち、名族の盛衰に思いを馳せるのも一興だろう。

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歴史歴史作家の城めぐり

名族と盛衰を共にした歴史ある城「祇園城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #27】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「祇園城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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名族の宿命

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名族とは、藤原氏、桓武平氏、清和源氏といった血統に由緒があり、中央政治を動かしていた、ないしは地方において、大きな勢力基盤を築いていた一族のことだ。

関東の名族で比較的長命を保った一族としては、足利氏、上杉氏、千葉氏、三浦氏、佐竹氏、宇都宮氏、結城氏といった名が挙がる。

この中では、常陸源氏の血を受け継ぐ佐竹氏だけが、久保田藩20万石の大名として江戸時代を生き抜いた。同じ新羅三郎義光を祖とする甲斐武田氏が、戦国時代に滅んでしまったことを考えると、外様大名でありながら、よくぞ明治維新まで続いたものだと思う。

このように名族と呼ばれる一族も100年以上栄えるのは難しく、それぞれ勃興と衰退、そして中には滅亡を迎えることになる。

祇園城という美しい名を持つ城を本拠としていた小山氏も、そうした関東の名族の一つとして輝ける時代があった。しかも、ほかの一族に比べて盛衰が鮮やかで、武士というものの華やかさも空しさも体現していた。

本稿では、小山氏の歴史をたどりつつ、その本拠である祇園城を紹介したいと思う。

小山氏嫡流の勃興と滅亡

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小山氏の起源は、平将門退治で勇名を馳せた俵藤太こと藤原秀郷だという。秀郷は下野国に勢力基盤を持つ土豪だったが、天慶3年(940)、将門を退治したことで、正式に下野守に補任された。その後も朝廷に忠義を尽くしたため、鎮守府将軍にも任じられる。その結果、秀郷流藤原氏は平安時代中期に東国最大の軍事力を有するまでになる。

平安時代末期、秀郷流藤原氏は分裂する。その一方が宗家の藤姓足利氏で、もう一方が小山氏である。すなわち藤姓足利氏が嫡流で、小山氏が庶流になる。

ちなみに、後に天下の覇権を握る足利尊氏は源氏系足利氏なので、秀郷流足利氏とは別系統になる。

小山氏が祇園城のある下野国都賀郡小山郷に土着したのも、この頃だと言われている。

その後、藤姓足利氏と小山氏は「一国之両虎」(『吾妻鏡』)と呼ばれるほど、下野国に並ぶ者なき勢力を築き上げていった。

治承4年(1180)、伊豆の流人だった源頼朝が平家打倒の旗を揚げた。この時、小山氏当主の政光は大番役で京都にいたが、関東の情報をいち早く摑んで頼朝に味方した。

一方、藤姓足利氏は平家方のままだったため、後に頼朝に滅ぼされる。それでも、藤姓足利氏系の支族として大胡氏と佐野氏が生き残り、秀郷の血筋を伝えていく。

頼朝と同時代を生きた小山政光は『吾妻鏡』での登場場面も多く、鎌倉時代の代表的御家人として名を馳せた。その息子の朝政は、文治5年(1189)の奥州合戦(奥州藤原氏征伐戦)で2人の弟と共に勇名を轟かせ、鎌倉幕府内に確固たる地位を築いた。

次弟の宗政は長沼氏と皆川氏の祖となり、三弟の朝光は結城氏の祖となった。つまり3兄弟は、それぞれ戦国時代に北関東で名を馳せる国人領主の祖となったのだ。これに佐野氏を加え、秀郷流藤原氏の血脈は北関東に広がっていく。

小山朝政の息子の朝長は承久3年(1221)の承久の乱でも活躍し、播磨国守護をはじめとして、西国にも所領を得た。その後、源氏将軍が三代で滅び、執権北条氏の時代になるが、小山氏は北条氏と縁戚関係を重ねて臣従に等しい関係となる。

南北朝の動乱の際は、はじめ幕府に与したものの、元弘3年(1333)の新田義貞の挙兵には付き従い、倒幕に貢献する。

建武2年(1335)、北条時行が中先代の乱を起こすと、当主の秀朝は、鎌倉を治めていた足利直義の命を奉じて武蔵国まで出馬した。ところが時行軍に惨敗を喫し、包囲された武蔵府中において、一族家人数百人と共に自刃して果てた。この時、生き残った秀朝嫡男の朝郷は幼く、小山氏の勢力は著しく衰える。

建武4年(1337)には、陸奥国から南下してきた南朝方の北畠顕家に祇園城を攻められ、4カ月にも及ぶ攻防戦の末、落城の悲哀を味わった。この時、当主の朝郷は捕らえられた。

それでも南朝方となっていた同族の結城宗広の嘆願によって、朝郷は助命されて事なきを得ている。その後、いったん小山氏は歴史の表舞台から姿を消した。どうやら内訌が起こっていたらしいが、詳細は分からない。

その後、小山氏中興の祖とも言える義政の登場により、再び小山氏は脚光を浴びる。義政は武蔵北部・常陸西部・下総北西部へと勢力を拡大し、康暦2年(1380)、北関東の覇権(厳密には下野守護の座)を懸けて宇都宮基綱と激突し、これを敗死に追い込んだ(小山義政の乱)。

だがこの戦いは、関東公方の足利氏満の制止を振り切っての私戦だったので、氏満は激怒し、上杉氏をはじめとした関東の国衆に義政追討を命じる。

義政は大軍を相手に祇園城や支城群を駆使して善戦したものの、最後には敗れて自刃する。逃亡した息子の若犬丸も後に敗死し、小山氏嫡流の血統は絶えた。ここまでが小山氏の前史である。

新生小山氏の足跡

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その後、同族の結城泰朝が小山氏の名跡を継ぐことを許され、ここに新生小山氏が誕生する。ただしその所領は小山四郷だけとされ、地侍程度の勢力にまで落とされた。

戦国時代後半の当主である秀綱は、小田原北条氏と越後上杉氏の間を揺れ動くが、天正3年(1575)、上杉方だった秀綱は北条方に祇園城を攻められて降伏開城する。だがこの時も、小山氏残党や結城氏との融和を重視した北条氏により、旧領復帰を認められた。しかし領主としての権限は、なきに等しい状態での復帰となった。

天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏は滅亡する。この時、いち早く豊臣方に転じた結城晴朝の口利きで、小山秀綱・秀広父子はわずかな知行を与えられて生き残った。だが秀広が若死にすることで、小山氏は衰退の一途をたどり、最後は水戸藩の客分として血脈を残すにとどまった。

小山氏の盛衰は国人領主の典型であり、それだけ血脈を後世に伝え、家を発展させていくことが難しいことを、われわれに教えてくれる。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前段階で、徳川家康が会津の上杉景勝を攻めようとした際、祇園城南端の須賀神社で、「上杉を先に討つか、戻って挙兵した石田三成の西軍を討つか」で諸将と協議した小山評定は、つとに有名である。だがこの時、小山氏も祇園城も全くと言っていいほど記録には出てこない。

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祇園城の構造

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祇園城という優雅な名は、久安4年(1148)に小山政光がこの地を本拠とした際、鎮守として祇園社を勧請したことに由来する。

ただし創築された頃の祇園城は、現在あるものとは大きく異なり、城域の南端に土塁だけが残る方形居館跡が、その名残ではないかと言われている。ここが「御城」と呼ばれていることからも、城主の居館だった可能性は高い。おそらく祇園城はそこから始まり、河畔の台地上を北上するように拡張されていったのだろう。

築城当初この城は小山氏の本拠だったが、いつしか小山氏は、祇園城の南西2㎞ほどにある鷲城に本拠を移した。

前述した「小山義政の乱」の折、義政が本拠としていたのが鷲城である。

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城の構造は至ってシンプルで、思川河畔の比高15mほどの河岸段丘上に、曲輪を連ねるように築いた連郭式城郭である。本曲輪の位置ははっきりしていないが、思川に架かった観晃橋を西から渡ってすぐのところにある曲輪が、そうだと言われている。ここは今、城址公園となっているが、二曲輪という説もある。そこから北に向かって曲輪が連なっていくという構造の城である。

また自然地形を巧みに取り入れているのも、この城の特徴である。すなわち、この城は思川河畔にあるため、思川に流れ込む小川が多い。祇園城内にも3本の小川が流れ込んでいるが、それらが谷地形を成し、自然の水堀となっている。

現在でも、土塁、空堀、堀切、馬出などが遺構として残っており、見応えは十分にある。

また祇園城だけでなく、前述の方形居館跡「御城」、少し間をおいて思川東岸に続く長福寺城、そして鷲城や中久喜城といった小山氏の城郭群は、往時の勢力の大きさをしのばせるものがある。これらの小山氏城郭群は近接しているので、総称して小山城という呼び方をすることもある。

坂道を転がり落ちるような小山氏の衰退を思うからなのか、この城は、どことなく寂しい雰囲気をたたえている。この城に立ち、名族の盛衰に思いを馳せるのも一興だろう。

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