多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「唐沢山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

石垣の構造とメリット

image by PIXTA / 12399065

16世紀、室町幕府の衰退によって諸国は群雄割拠の状態となり、各地で大小の合戦が頻発するようになった。戦`国時代の到来である。そうなれば当然、他人のものを奪い取ることよりも、自分のものを守る方に重点が置かれる。かくして城の防御力は飛躍的に向上していく。

その当初、城は敵兵の侵入を防ぐべく、封鎖や遮断が最優先課題とされていた。つまり、曲輪に至るまでの斜面をいかに登らせないかに重点が置かれたのだ。それゆえ、まず切岸が登場する。

続いて虎口や塁線にも、工夫が見られるようになる。虎口は単純な平虎口から喰違虎口や桝形虎口へと進化し、蔀土塁や馬出といった虎口の補強方法も編み出されていく。

一方、切岸だけでは敵を防げなくなってきたことで、塁線を屈曲させることによって斜面を登る敵の側面を攻撃できるようにする、出隅・入隅・屏風折れといった「横矢掛り」が多くの城で採用されるようになる。

曲輪の壁面をかさ上げすると防御力が高まるので、大半の城で土塁も築かれていく。

だが、雨や雪といった自然に容赦はない。切岸は特定の角度以上に削り込むと崩れやすく、土塁も高く築けば築くほどもろくなる。横矢掛りも複雑になればなるほど、斜面が崩落しやすくなる。粘着性のある土を突き固めて崩れにくくする版築という技術が発達するものの、土の城では塁線を強化する技術が限界に達しつつあった。こうした土の城の限界をブレークスルーしたのが石垣である。

石垣は土の城の弱点を克服すると同時に、塁線いっぱいに建物を築くことも可能にした。つまり寄手が曲輪に上りにくくなることで、防御力が格段に向上したのだ。

ここで断っておくが、石積みと石垣は違う。学術的に言うと、石積みとは「主に土留めを目的とし、ただ石を積み上げただけのもの」で、石垣とは「築石の奥に裏込石(栗石)が詰め込まれているもの」を言う。また、石工集団というプロでなければ築けないのが石垣という定義もある。

石垣の造り方を簡単に説明しておくと、まず盛り土をして底に当たる部分に根石を並べ、その上に築石を積み上げていく。それだけではぐらぐらするので、築石の裏側に間詰石を詰め込んで安定させる。さらに築石と盛り土の間に砂利状の裏込石を入れていく。仕上げとして、築石の表側の隙間に飼石を入れて固定させることで、ようやく石垣が完成する。

高石垣の城は織田信長の築いた安土城が始まりとされるが、実はその隣の観音寺城などが先で、それらの城を築いた六角氏は、同じ南近江にある百済寺や金剛輪寺の技術を利用したという。つまり石積みは堤防や田畑の土留めに古くから使われ、さらに寺社の土台に使われることで、技術的に成熟していったのだ。

六角氏や信長は寺社で使われている石垣の有用性に気づき、その技術を城郭建築に転用させた。それが、中井均氏(城郭研究家)の定義した石垣・瓦・礎石建物の「3点セット」を備えた織豊系城郭へと発展していく。

付け加えれば、信長の晩年から秀吉時代には、この3点セットは高石垣、金箔瓦、天守へと変化し、さらに関ヶ原合戦後には内桝形虎口が加わってくる。

東国には寺社建築の有力集団が存在しなかったこともあり、石垣技術の開発よりも、土の城の縄張り術の発達に向かった。しかしそれも、武田・北条両氏の滅亡によって頭打ちになり、関東から東北にかけても、徐々に石垣を主体とした織豊系城郭に塗り替えられていくことになる。

そうした中、小田原合戦の直後から、自らが豊臣の家臣であることを表明するかのように、一部に織豊系城郭の技術を取り入れた城が登場する。むろん新築ではなく、旧来の城の一部に高石垣を配したものだ。これには、城としての抗堪力を高めるための改修というよりも、豊臣家の刻印を自らの城に捺すことで、豊臣政権への絶対服従を誓うと同時に、地域住民に対して豊臣家の威光を示すという意図があった。

その代表的な城の一つが、下野国の佐野にある唐沢山城である。

佐野氏の系譜

image by PIXTA / 28939452

下野国南西部の安蘇郡一帯を所領とする国人領主・佐野氏の祖先は、平将門征伐で名を馳せた藤原秀郷(俵藤太)だという。

唐沢山城は、その秀郷が10世紀に築いたと伝わるが、真偽のほどは定かではない。確実なところでは、秀郷の子孫の佐野盛綱が15世紀に築いたとされる。

その後、秀郷の家系は藤姓足利氏、佐野氏、小山氏、結城氏などに枝分かれしていく。

鎌倉時代に本宗家の藤原姓足利氏が衰えた後、小山氏や結城氏と共に、秀郷の血を後代に伝える任を引き継いだ佐野氏は、戦国期に入って、泰綱、豊綱、昌綱、宗綱の四代にわたり、山内・扇谷両上杉氏、古河公方、越後上杉(長尾)氏、北条氏といった大勢力に対して、ときには抗し、ときにはへつらい、懸命に家と領国を保っていた。

しかし、中小国人割拠のまま戦国時代に突入した北関東にあって、単独で生き抜くのは困難になりつつあった。それゆえ佐野氏は越後上杉氏と北条氏の間を行き来しつつ、命脈を保っていくことになる。

天正12年(1584)、若い宗綱の後見をしていた叔父の天徳寺宝衍は畿内の情報を収集し、豊臣秀吉による全国統一の機運が盛り上がっていると感じていた。ところが宗綱と取り巻きは、北条氏こそ頼むべき勢力と言い張り、宗綱の一人娘を小田原に送り、北条一族の氏忠に嫁がせた。しかも、その後の合戦で宗綱が討ち死にしてしまい、佐野氏は当主として氏忠を迎えることになる。

こうしたことから居場所のなくなった宝衍は、秀吉の懐に逃げ込み、北条方諸城の兵力配置図や関東の街道図といった重要情報を伝えることで、秀吉から高く評価された。

天正18年(1590)、秀吉と北条氏の間で小田原合戦が勃発し、敗れた北条氏は滅亡する。いち早く秀吉に忠節を誓った宝衍により、佐野氏は滅亡を免れ(佐野勢は小田原城に入っていた)、宝衍自身が氏忠に代わり、佐野氏3万2400石の当主となった。その一方、氏忠は佐野氏当主の座を追われて流罪となった。かくして宝衍は佐野房綱と名を変え、唐沢山城に「織豊系城郭らしさ」を取り入れていく。

縄張りと石垣

image by PIXTA / 44511824

唐沢山城は栃木県佐野市にある標高242mの唐沢山に造られた山城で、山頂部に本丸をはじめとした曲輪群が置かれ、そこから東西南へと延びる尾根筋を堀切で遮断しつつ、それぞれの尾根に曲輪群を築いていくという、山城によく見られる構造をしている。

本丸域については後にして、枝葉から説明していこう。

本丸の東には堀切を隔てて長門丸、金の丸、北城と呼ばれる曲輪があり、さらに自然地形に近い曲輪が、北東の鳩の峰に向かって続いている。

本丸の南には南城と呼ばれる曲輪があり、その先には堀切を入れているが、すぐに斜面となるので、いくつかの段曲輪があるだけだ。

本丸の西に伸びる尾根には避来矢山という小丘があり、その南に西城などの曲輪がある。とくに南端に築かれた天狗岩からの眺めは絶景で、関東平野を一望の下に見渡せる。

本丸域には最高所にある本丸のほか、二の丸、三の丸、引局といった曲輪が築かれている。特筆すべきは本丸の高石垣で、最高所で8mにも達する。

高石垣というのは関東ではなかなかお目に掛かれないが、この石垣は算木積みという工法で積まれており、織豊系城郭の影響を色濃く受けている。

算木積みとは、石垣の角石の部分で、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む工法のことだ。

これらの石垣群は、天正年間後半から慶長年間初期のものと推定され、天徳寺宝衍改め房綱と、その養子の信吉の時代に造られた。

本丸の高石垣は算木積みというだけでなく、築石の背後に小さな裏込石を丹念に詰め込んでいるので、文禄・慶長期に造られたものとされている。おそらく豊臣家から石工集団を派遣してもらったのだろう。

しかし、すべての石垣が文禄・慶長期のものとは限らず、微妙な勾配角度の差異などにより、長期間にわたって少しずつ築かれていったらしい。

こうしたことから唐沢山城は、山全体に遺構を持ちながらも、中心部だけに石垣が施された城だと分かる。これは慶長7年(1602)に信吉が唐沢山城を廃城にし、本拠を山麓の春日岡に移したことで、普請が途中で終わってしまったとされてきたが、実際は予算不足で、中心部以外は石垣にできなかったのだろう。

それでは唐沢山城は織豊系城郭かどうかという点だが、前述のように織豊系城郭には、石垣・瓦・礎石建物の「3点セット」が必要だ。まず石垣部分は合格だが、礎石建物は不明で、瓦は全く発掘されていない。

その一方、「3点セット」ではないものの、本丸と二の丸の虎口の前に馬出がなく、外桝形が採用されており、その点では織豊系城郭の特徴を有している。

こうしたことからすると、唐沢山城は完全な織豊系城郭とは言い難い。しかし房綱は、佐野氏が豊臣系大名だと形にして訴えたかった。それゆえ高石垣と外桝形だけでも築き、自ら豊臣家の刻印を捺したのだろう。

秀吉の死後、房綱は徳川方に寝返り、佐野氏の命脈を保つことに成功する。

慶長7年(1602)、山麓の春日岡の地に、房綱の遺命に従って佐野城を築いた信吉は、ここで「3点セット」を実現し、念願を果たすことになる。だがそれも束の間、佐野氏は改易の憂き目に遭う。大久保長安事件に連座したというのが、その表向きの理由だが、信吉は無実を主張して再審を嘆願した。しかしそれも実らず、佐野氏はお取りつぶしになった。信州松本藩お預りとなった信吉は元和18年(1622)、失意のうちに病没する。その子孫は4000石取りの旗本寄合上席まで出世するが、旧佐野城と唐沢山城を取り戻すには至らなかった。

江戸幕府の草創期は、外様の国人にとって、あまりに過酷な時代だった。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
" /> 関東では珍しい高石垣を擁する山城「唐沢山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #26】 – Study-Z
歴史歴史作家の城めぐり

関東では珍しい高石垣を擁する山城「唐沢山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #26】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、栃木県「唐沢山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

石垣の構造とメリット

image by PIXTA / 12399065

16世紀、室町幕府の衰退によって諸国は群雄割拠の状態となり、各地で大小の合戦が頻発するようになった。戦`国時代の到来である。そうなれば当然、他人のものを奪い取ることよりも、自分のものを守る方に重点が置かれる。かくして城の防御力は飛躍的に向上していく。

その当初、城は敵兵の侵入を防ぐべく、封鎖や遮断が最優先課題とされていた。つまり、曲輪に至るまでの斜面をいかに登らせないかに重点が置かれたのだ。それゆえ、まず切岸が登場する。

続いて虎口や塁線にも、工夫が見られるようになる。虎口は単純な平虎口から喰違虎口や桝形虎口へと進化し、蔀土塁や馬出といった虎口の補強方法も編み出されていく。

一方、切岸だけでは敵を防げなくなってきたことで、塁線を屈曲させることによって斜面を登る敵の側面を攻撃できるようにする、出隅・入隅・屏風折れといった「横矢掛り」が多くの城で採用されるようになる。

曲輪の壁面をかさ上げすると防御力が高まるので、大半の城で土塁も築かれていく。

だが、雨や雪といった自然に容赦はない。切岸は特定の角度以上に削り込むと崩れやすく、土塁も高く築けば築くほどもろくなる。横矢掛りも複雑になればなるほど、斜面が崩落しやすくなる。粘着性のある土を突き固めて崩れにくくする版築という技術が発達するものの、土の城では塁線を強化する技術が限界に達しつつあった。こうした土の城の限界をブレークスルーしたのが石垣である。

石垣は土の城の弱点を克服すると同時に、塁線いっぱいに建物を築くことも可能にした。つまり寄手が曲輪に上りにくくなることで、防御力が格段に向上したのだ。

ここで断っておくが、石積みと石垣は違う。学術的に言うと、石積みとは「主に土留めを目的とし、ただ石を積み上げただけのもの」で、石垣とは「築石の奥に裏込石(栗石)が詰め込まれているもの」を言う。また、石工集団というプロでなければ築けないのが石垣という定義もある。

石垣の造り方を簡単に説明しておくと、まず盛り土をして底に当たる部分に根石を並べ、その上に築石を積み上げていく。それだけではぐらぐらするので、築石の裏側に間詰石を詰め込んで安定させる。さらに築石と盛り土の間に砂利状の裏込石を入れていく。仕上げとして、築石の表側の隙間に飼石を入れて固定させることで、ようやく石垣が完成する。

高石垣の城は織田信長の築いた安土城が始まりとされるが、実はその隣の観音寺城などが先で、それらの城を築いた六角氏は、同じ南近江にある百済寺や金剛輪寺の技術を利用したという。つまり石積みは堤防や田畑の土留めに古くから使われ、さらに寺社の土台に使われることで、技術的に成熟していったのだ。

六角氏や信長は寺社で使われている石垣の有用性に気づき、その技術を城郭建築に転用させた。それが、中井均氏(城郭研究家)の定義した石垣・瓦・礎石建物の「3点セット」を備えた織豊系城郭へと発展していく。

付け加えれば、信長の晩年から秀吉時代には、この3点セットは高石垣、金箔瓦、天守へと変化し、さらに関ヶ原合戦後には内桝形虎口が加わってくる。

東国には寺社建築の有力集団が存在しなかったこともあり、石垣技術の開発よりも、土の城の縄張り術の発達に向かった。しかしそれも、武田・北条両氏の滅亡によって頭打ちになり、関東から東北にかけても、徐々に石垣を主体とした織豊系城郭に塗り替えられていくことになる。

そうした中、小田原合戦の直後から、自らが豊臣の家臣であることを表明するかのように、一部に織豊系城郭の技術を取り入れた城が登場する。むろん新築ではなく、旧来の城の一部に高石垣を配したものだ。これには、城としての抗堪力を高めるための改修というよりも、豊臣家の刻印を自らの城に捺すことで、豊臣政権への絶対服従を誓うと同時に、地域住民に対して豊臣家の威光を示すという意図があった。

その代表的な城の一つが、下野国の佐野にある唐沢山城である。

佐野氏の系譜

image by PIXTA / 28939452

下野国南西部の安蘇郡一帯を所領とする国人領主・佐野氏の祖先は、平将門征伐で名を馳せた藤原秀郷(俵藤太)だという。

唐沢山城は、その秀郷が10世紀に築いたと伝わるが、真偽のほどは定かではない。確実なところでは、秀郷の子孫の佐野盛綱が15世紀に築いたとされる。

その後、秀郷の家系は藤姓足利氏、佐野氏、小山氏、結城氏などに枝分かれしていく。

鎌倉時代に本宗家の藤原姓足利氏が衰えた後、小山氏や結城氏と共に、秀郷の血を後代に伝える任を引き継いだ佐野氏は、戦国期に入って、泰綱、豊綱、昌綱、宗綱の四代にわたり、山内・扇谷両上杉氏、古河公方、越後上杉(長尾)氏、北条氏といった大勢力に対して、ときには抗し、ときにはへつらい、懸命に家と領国を保っていた。

しかし、中小国人割拠のまま戦国時代に突入した北関東にあって、単独で生き抜くのは困難になりつつあった。それゆえ佐野氏は越後上杉氏と北条氏の間を行き来しつつ、命脈を保っていくことになる。

天正12年(1584)、若い宗綱の後見をしていた叔父の天徳寺宝衍は畿内の情報を収集し、豊臣秀吉による全国統一の機運が盛り上がっていると感じていた。ところが宗綱と取り巻きは、北条氏こそ頼むべき勢力と言い張り、宗綱の一人娘を小田原に送り、北条一族の氏忠に嫁がせた。しかも、その後の合戦で宗綱が討ち死にしてしまい、佐野氏は当主として氏忠を迎えることになる。

こうしたことから居場所のなくなった宝衍は、秀吉の懐に逃げ込み、北条方諸城の兵力配置図や関東の街道図といった重要情報を伝えることで、秀吉から高く評価された。

天正18年(1590)、秀吉と北条氏の間で小田原合戦が勃発し、敗れた北条氏は滅亡する。いち早く秀吉に忠節を誓った宝衍により、佐野氏は滅亡を免れ(佐野勢は小田原城に入っていた)、宝衍自身が氏忠に代わり、佐野氏3万2400石の当主となった。その一方、氏忠は佐野氏当主の座を追われて流罪となった。かくして宝衍は佐野房綱と名を変え、唐沢山城に「織豊系城郭らしさ」を取り入れていく。

縄張りと石垣

image by PIXTA / 44511824

唐沢山城は栃木県佐野市にある標高242mの唐沢山に造られた山城で、山頂部に本丸をはじめとした曲輪群が置かれ、そこから東西南へと延びる尾根筋を堀切で遮断しつつ、それぞれの尾根に曲輪群を築いていくという、山城によく見られる構造をしている。

本丸域については後にして、枝葉から説明していこう。

本丸の東には堀切を隔てて長門丸、金の丸、北城と呼ばれる曲輪があり、さらに自然地形に近い曲輪が、北東の鳩の峰に向かって続いている。

本丸の南には南城と呼ばれる曲輪があり、その先には堀切を入れているが、すぐに斜面となるので、いくつかの段曲輪があるだけだ。

本丸の西に伸びる尾根には避来矢山という小丘があり、その南に西城などの曲輪がある。とくに南端に築かれた天狗岩からの眺めは絶景で、関東平野を一望の下に見渡せる。

本丸域には最高所にある本丸のほか、二の丸、三の丸、引局といった曲輪が築かれている。特筆すべきは本丸の高石垣で、最高所で8mにも達する。

高石垣というのは関東ではなかなかお目に掛かれないが、この石垣は算木積みという工法で積まれており、織豊系城郭の影響を色濃く受けている。

算木積みとは、石垣の角石の部分で、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む工法のことだ。

これらの石垣群は、天正年間後半から慶長年間初期のものと推定され、天徳寺宝衍改め房綱と、その養子の信吉の時代に造られた。

本丸の高石垣は算木積みというだけでなく、築石の背後に小さな裏込石を丹念に詰め込んでいるので、文禄・慶長期に造られたものとされている。おそらく豊臣家から石工集団を派遣してもらったのだろう。

しかし、すべての石垣が文禄・慶長期のものとは限らず、微妙な勾配角度の差異などにより、長期間にわたって少しずつ築かれていったらしい。

こうしたことから唐沢山城は、山全体に遺構を持ちながらも、中心部だけに石垣が施された城だと分かる。これは慶長7年(1602)に信吉が唐沢山城を廃城にし、本拠を山麓の春日岡に移したことで、普請が途中で終わってしまったとされてきたが、実際は予算不足で、中心部以外は石垣にできなかったのだろう。

それでは唐沢山城は織豊系城郭かどうかという点だが、前述のように織豊系城郭には、石垣・瓦・礎石建物の「3点セット」が必要だ。まず石垣部分は合格だが、礎石建物は不明で、瓦は全く発掘されていない。

その一方、「3点セット」ではないものの、本丸と二の丸の虎口の前に馬出がなく、外桝形が採用されており、その点では織豊系城郭の特徴を有している。

こうしたことからすると、唐沢山城は完全な織豊系城郭とは言い難い。しかし房綱は、佐野氏が豊臣系大名だと形にして訴えたかった。それゆえ高石垣と外桝形だけでも築き、自ら豊臣家の刻印を捺したのだろう。

秀吉の死後、房綱は徳川方に寝返り、佐野氏の命脈を保つことに成功する。

慶長7年(1602)、山麓の春日岡の地に、房綱の遺命に従って佐野城を築いた信吉は、ここで「3点セット」を実現し、念願を果たすことになる。だがそれも束の間、佐野氏は改易の憂き目に遭う。大久保長安事件に連座したというのが、その表向きの理由だが、信吉は無実を主張して再審を嘆願した。しかしそれも実らず、佐野氏はお取りつぶしになった。信州松本藩お預りとなった信吉は元和18年(1622)、失意のうちに病没する。その子孫は4000石取りの旗本寄合上席まで出世するが、旧佐野城と唐沢山城を取り戻すには至らなかった。

江戸幕府の草創期は、外様の国人にとって、あまりに過酷な時代だった。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
Share: