教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
陰謀史観
世の中には陰謀史観というものがある。これは「歴史上の事件を、誰かの謀略や陰謀として解釈した史観」という意味だ。もちろん陰謀史観も玉石混交で、一次史料に基づいた大真面目な論考もあれば、根拠がほとんどないものまである。
陰謀事件として語られることが多いのは本能寺の変で、朝廷や将軍足利義昭が黒幕という比較的穏健なものから、イエズス会黒幕説という突飛なものまである。それぞれ論拠はあるのだが、本格的な研究者からは否定されている。
ここに一つの陰謀説がある。謀略を仕掛けたのは豊臣秀吉と真田昌幸で、仕掛けられたのは北条氏である。その舞台は上州沼田城と名胡桃城である。
「和戦両様」の構え
天正14年(1586)2月、北条氏の本拠の小田原城に激震が走った。豊臣秀吉と徳川家康の間で和睦が成ったというのだ。青天の霹靂とはこのことで、北条氏は徳川氏と堅固な攻守同盟を結び、豊臣政権に対抗していく肚を固めていたからだ。
同年10月に上洛を果たした家康は秀吉に臣下の礼を取り、豊臣政権の東国奏者(取次役)となった。しかも「関東・奥両国惣無事令」を北条氏に通達してきた。これは豊臣政権の「私戦停止令」であり、これにより北条氏も、自らの判断で合戦ができなくなった。
家康は北条氏にも豊臣政権への従属を勧めるが、北条家中では主戦派と穏健派の対立が激しく、なかなか結論が出ない。それゆえ北条氏は、「和戦両様」の構えで豊臣政権に対していくことになる。
それでも天正16年(1588)初頭には、穏健派の外交努力が実り、秀吉の鉾先も収まっていた。このままいけば北条氏も、豊臣大名として再出発ということになったはずだ。
折も折、秀吉は落成したばかりの聚楽第に後陽成帝の行幸を仰ぐべく、全国諸大名に上洛を促した。しかし北条氏だけは外交方針が固まっておらず、これを無視する形になった。
怒った秀吉は小田原に詰問使を送り、再度、当主の氏直か隠居の氏政の上洛を命じた。だが何の返答もないため、致し方なく東国奏者の家康に説得を託した。
その結果、まず氏政の弟の一人である氏規が、続いて氏政が上洛し、北条氏は臣従路線を歩むことになる。
それでも攻撃される可能性が残っているため、北条氏は「相府大普請」という掛け声と共に小田原城などの主要諸城の補強工事を始めた。小田原城の拡張は前代未聞の規模となり、商人町や耕地ごと城内に取り込み、半永久的に籠城戦を行うことを目指した外周9㎞の「惣構」までもが構築された。かくして外交努力と並行して、「天下の御弓矢立」と呼ばれる決戦準備が進められていく。
沼田領問題
一方、穏健派は早急に豊臣政権に臣従したい。主戦派としても臣従はやむなしという流れになってきていたので、この機会を逃すことはできない。だが主戦派から、臣従することと引き換えに上州沼田領問題の裁定を秀吉に仰ごうという提案がなされる。
沼田領問題とは何なのか。
天正10年(1582)の「天正壬午の乱」終結後の国分け交渉で、甲信の占領地を家康に譲った北条氏は、代わりに上州全土を領有することになった。だが上州には真田氏が実力で奪い取った所領がある。それが沼田領3万石だ。
この時、家康傘下となっていた真田昌幸は、家康から「信州で同等の替え地を与えるので、沼田領を北条氏に渡すように」と命じられたが、これを拒否する。昌幸は徳川傘下から離脱し、越後の上杉景勝と同盟を結んだ上で、北条・徳川連合に反旗を翻した。
これに怒った家康は、真田氏の本拠である信州上田城に大軍を差し向けるが、惨敗を喫してしまう(神川合戦・第1次上田合戦)。
以後、沼田領は真田氏が占領したままとなっていた。それゆえ北条氏としては、豊臣政権の裁定によって昌幸に沼田領を委譲させようとしたのだ。
天正17年(1589)春、秀吉は、「沼田領3万石を3分割し、2万石を北条氏の、残る1万石を真田氏の領有とする。真田氏が失った2万石の替え地は、家康が弁済する」という沙汰を下す。
これは双方の顔を立てた妥当な裁定であり、北条氏としても受け入れざるを得なかった。だがそこには、大きな陥穽が用意されていた。
7月には、真田方が占拠していた沼田城が北条方に明け渡され、秀吉の裁定が実現する。
沼田領は北条氏の上野戦線を担当してきた氏邦の支配下に入り、城代として重臣の猪俣邦憲が入城した。
ところが10月、猪俣邦憲が突如として兵を発し、名胡桃城を奪うという事件が起こる。これは「関東・奥両国惣無事令」に違背する行為であり、豊臣政権に対する挑戦と見なされてもおかしくない。
不思議な事件だが、筆者はこれを偶然の産物とは思っていない。ましてや、小田原の主戦派の指示によって猪俣が動いたという説にもうなずけない。
氏政から指示が出ていた傍証とされる該当文書も、明確に命令を発したというものではない。ここには、陰謀の匂いがするのだ。
しかも秀吉は、名胡桃城事件から2週間もさかのぼる同月10日に、諸大名に対して「来春、関東陣軍役のこと」と通告しており、この時、兵糧奉行に長束正家を任命した上、20万石もの兵糧の準備を命じている。
また、同日に上杉景勝あてに送った書付には、「来年関東陣御軍役之事」と題して、軍役の規定と「来春3月1日に出陣するので、忠勤に励むように」と書かれている。
ここには、秀吉の意を受けた真田昌幸が猪俣をだまして城におびき寄せ、北条氏が「関東・奥両国惣無事令」に違背したという大義を捏造した可能性がある。
現に「名胡桃城付近まで上杉景勝勢が進出してきているので後詰してくれ」という昌幸からの要請が猪俣になされ、猪俣が無人の名胡桃城に入ってしまったという伝承もある。しかもこの時、戦いがなかったことを裏付けるかのように、発掘調査をしても焼土の跡が出てこないという事実がある。
だが、秀吉に攻撃の口実を与えてしまったことには変わりなく、北条氏は滅亡することになる。
沼田城位置、歴史、構造
上野国北部には、利根川とその支流の薄根川が合流するデルタ地帯にできた沼田盆地が広がっている。その北東端の比高70mほどの河岸段丘上に、沼田城は築かれている。
沼田城の南には東から西へと片品川も走っており、沼田城は3つの河川を惣構のように使うことができた。
さらに北には武尊山、南西には子持山、南東には赤城山が連なり、城に至る道(三国街道)は限られている。そのため極めて要害性の高い地だった。
上杉謙信も、関東越山の折は必ず沼田の地を経由して関東へと進出していた。
古くからこの地に根付いていたのが在地土豪の沼田氏である。しかし後に入部してきた三浦氏系沼田氏に押されて室町前期に滅亡し、沼田盆地一帯は三浦氏系沼田氏の領有下に置かれた。
永享12年(1440)に勃発した結城合戦に従軍した沼田氏は、この戦いで城や拠点の要害性に気づかされ(下総結城城を関東管領軍が攻めあぐねた)、まず薄根川の南岸に幕岩城を、さらに天文年間(1532〜1555)の初期に沼田城を築いている。
また別説に、沼田顕泰が享禄2年(1529)に築城を開始し、天文元年(1532)に完成したというものもある。いずれにせよ初期の沼田城は小規模なものだったと思われる。
しかし平和は長く続かない。弘治年間(1555〜1558)には、北条氏の勢力が上州最北端の沼田城にまで伸びてきた。折悪しく沼田氏では後継者争いが勃発しており、北条氏はこの内訌に介入し、沼田氏の領国と城を乗っ取ることに成功する。
その後、北条氏康と上杉謙信の間で争奪戦が展開されるが、永禄3年(1560)、謙信の関東越山の折、謙信の猛攻を受け、北条方は数百人の戦死者を出して敗退する。以後、沼田城は謙信が関東に進出する折の策源地の役割を果たしていく。
しかし天正6年(1578)、謙信の死によって勃発した御館の乱で、沼田城は北条氏に接収される。以後、上野国は北条氏の支配下に置かれるが、御館の乱で北条氏と手切れした武田氏は上州への進出を策し、天正8年(1580)、家臣の真田昌幸が奪取に成功する。
その後は真田氏の持ち城となり、冒頭で述べた謀略へとつながっていく。
北条氏滅亡後、沼田城は真田氏に返還されるが、関ヶ原合戦で昌幸と信之父子が対立する形になり、勝った信之が城主となり、長らく真田一族が治めていくことになる。その後は本多氏、黒田氏、土岐氏と城主が変遷し、明治の廃藩置県を迎える。
この城は近世城郭としても使われてきたので、中世の遺構と近世の遺構が混在しているのが特徴で、石垣や石積みが随所に見られる。
その縄張りだが、本丸は西端の崖際にあり、崖側以外の3面に堀と土塁がめぐっている。本丸東北隅には石垣の高さ2mほどの天守台があり、その部分だけが東に張り出し、東の石垣を這い上る寄手に対し、横矢が掛けられるようにしてある。
ここには五層の天守が建てられていたと言われるが、その姿は定かでない。いずれにしても、この天守台に載るとしたら櫓クラスの小さな型の天守だったに違いない。
本丸の北東に二の丸が、南東には三の丸が広がっているが、それぞれの曲輪を馬出状の小曲輪がつないでいるので、各曲輪の独立性と防御性は高かったと思われる。
また本丸は沼田公園として整備されているので、見学がしやすい上、真田氏時代の石垣や堀なども残されており、見どころは多い。
また、この城は断崖絶壁上に築かれているので、眺望が素晴らしい。とくに西端の捨曲輪からは、利根川が蛇行しながら流れていくのが見える。名胡桃城は先端部しか見えないが、わずか1里ほどの距離の両城をめぐって虚々実々の駆け引きがあり、天下の勢力図が塗り替えられたと思うと、感慨深いものがある。
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