多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、群馬県「松井田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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城と政治・戦略・作戦・戦術

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城は闇雲に造られるわけではない。とくに国人土豪のような存在は勢力範囲に制約があるため、その範囲内でベストな場所にベストな城を築かねばならない。だが戦国時代も後半になり、国人勢力を吸収していった戦国大名が巨大化するに従い、その領国や支配下地域も広くなり、地選や占地、また縄張りの選択肢は広がっていった。

すなわち北条・武田・上杉といった東国の戦国大名は、その政治的要求に従って城を築く、ないしは既存の城を改修する決定を下し、その戦略に従って地選と占地をし、その構想する作戦を前提として城の大きさや縄張りを決め、最後に戦術として最適なパーツを配するということができるようになった。

それでは、この政治・戦略・作戦・戦術というそれぞれの要素を、城を築くという側面から、いかに達成していくかを具体的に見ていこう。

戦国大名の政治とは、主に領国統治と領国防衛が両輪になる。統治は領民を監視し、その主たる収入源である貢租を円滑に得るための政治を行うことだ。また河川流通や陸上交通網を掌握することにより、交易から上がる利を得ることも大切だ。

一方、領国防衛は説明の必要もないだろう。侵略や略奪の心配なく安全に農耕にいそしめるからこそ、領民は貢租や賦役を納めるのであり、彼らに安全を保障できない戦国大名は、愛想を尽かされて地域ごと離反される恐れが大となる。すなわち築城を政治という概念から考えると、まず領国の安全保障を念頭に置くことになる。

続いて戦略だが、これは地選と占地のことと考えてよい。城には防衛拠点(詰城など)、侵略拠点、監視所、狼煙場、交通遮断拠点、補給基地、宿泊施設、関所、船舶停泊地といった戦略目的があり、それぞれの要求に応じた場所に城を築かねばならない。

作戦とは戦略と戦術の中間に位置する概念で、どのような城を築くかということだ。攻撃的な面からすると、他国侵攻の前線基地や兵站拠点といった目的を、防御的な観点からすると、街道遮断や管制、物見、侵攻してきた敵の拘束という目的を念頭に置かねばならない。つまり、作戦を前提として縄張りが構想されることになる。

そして戦術だが、ここで初めて、城を守るためのパーツという概念が入ってくる。すなわち堀切をどこに入れ、竪堀をどこに落とすか。塁の高さは、どれくらいにするかといったことだ。ただし単独でも守り抜くことを目的とした城、時間を稼いで後詰を待つ城、敵が来たら放棄する城(物見城や狼煙台など)では、おのずとパーツ構成が違ってくるので、その点も考慮せねばならない。

さて本稿で紹介する松井田城を、この4つの視点から考えてみよう。

まず政治だが、安中氏という国人の城だった時代を別にすると、この城の主には武田・北条両氏が名を連ねている。武田氏の場合、戦略面では西上州支配の統治拠点として、作戦面では関東への侵略拠点と兵站基地として、さらに敗戦や撤退の際には、逃げ込む場所の役割を果たすことが期待されていた。戦術面に関しては縄張りのところで述べたいと思うが、最終的には北条氏の手が入っているため、武田氏時代のパーツは不明である。

一方、北条氏の場合も武田氏とさして変わりはないが、より以上に街道監視と管制という要素、すなわち守りの目的が強い「境目の城」の要素が強くなるだろう。むろんこの城の最後の戦いとなった小田原合戦では「拠点固守」という目的が課され、「単独でも守り抜くことを目的とした城」とされたのは間違いない。

松井田城の位置と縄張り

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松井田城のある上野国西部は、信濃国との国境に高い山や峠があるため、いくつもの河川が東流しながら谷を造り、そこに北西方向から伸びる山々の尾根の先端が入り組むという複雑な地形をしている。

当然、人の通れる道は限られてくるので、そこをいかに押さえるかが地選のポイントになる。とくに碓氷峠を境にして、上野・信濃両国を結ぶ東山道が走っており、この地の国人は、西からやってくる敵を管制する場所に城を築く必要があった。すなわちこの城は、北麓にある高梨子宿を隔て、東西に走っていた東山道に向けて造られている。

つまり近世の中山道が松井田城の南麓を通過していたのと違い、中世の東山道は北麓を通っていたので、この城は北向きに造られていたと考えられる。地形的にも南は険しく、北はなだらかなので、それを裏付けている。

その占地だが、この城は、碓氷峠から下ってくる山々が平野部に達する先端に築かれており、街道管制には理想的な場所だ。最高所の標高は396・3mで、普通に考えれば堂々たる山城なのだが、周辺には高い山が多いので、それほどの高さは感じられない。

また、この城の北側を通る東山道のさらに北方には九十九川が、南には碓氷川が流れており、ちょうど外堀の役割を果たしている。つまり東山道が2つの川に挟まれる形になるので、西から延びる尾根の先端部に城を築けば、街道を囲繞しつつ城の要害性も高まるということになる。

この城の縄張りだが、山城なので地形の制約を強く受けている。東西に延びる130mほどの高さの尾根を中心に、北方に延びる4本の支尾根と、南方に延びる1本の支尾根に遺構が見られる。南方の尾根は補陀寺と呼ばれる山麓の寺まで続き、そこを拠点として搦手の防御を固めていたと思われる。

山城なので尾根伝いにしか遺構はないものの、その城域は南北1300m、東西900mという広大さで、武田・北条両氏であっても、40余と言われる曲輪を同時にすべて使っていたとは思えない。

主郭(本曲輪)は尾根の中央部に置かれ、西に馬出を隔てて二曲輪、東には堀切を隔てて東曲輪(安中曲輪)があり、この3つの曲輪が城の中心部にあたる。当然、弱みは斜面がなだらかな北方だが、高梨子宿に向かって曲輪や堀切が幾重にも造られており、北方の防御には万全が期されている。

この城の見どころは、何と言っても「連続空堀」と呼ばれる遺構だろう。これは、尾根上の平場に切れ込みを入れるように土塁と空堀を連続させるという珍しいもので、土塁は7つ、空堀は6つあり、それぞれの高さは3mほどで、長さは30mにもなる。

これは、二曲輪の西方の尾根筋から侵入してくる敵を防ぐことを目的に造られたもので、曲輪にせずに阻塞的なものにすることで、敵を足止めさせようという狙いがある。定説では北条氏の手になるものと言われているが、ほかに類例がないので断定は避けたい。

実見した感じとしては空堀よりも土塁が目立ち、幾重もの波が迫ってくるように見える。このパーツをどのように使い、寄手の攻撃を防ごうとしていたのかは極めて興味深い。

また、本曲輪から北に連なる尾根筋の東斜面には、畝状竪堀群が造られており、こちらも見逃せない。これは明らかに高梨子宿方面からの敵を意識してのものだ。

松井田城は横堀、竪堀、堀切、切岸、土塁といった中世城郭に使われていたパーツすべてが見られる城だ。とくに「連続空堀」の遺構はほかに例を見ないほどの規模で、一見の価値がある。

松井田城の歴史

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戦国時代半ばまでの上野国は中小国人が割拠しており、大勢力の生まれる余地がなかった。というのも、天文20年(1551)に上野国の守護大名だった山内上杉氏が没落したため、その家臣たちを中心に群雄割拠にならざるを得なかったからだ。

そうした中、箕輪城を本拠とする長野業正が婚姻政策で同盟する国人たちを束ね、上州一揆という中小企業の共同体のようなものを作り、城郭ネットワークを駆使して、西からやってくる武田信玄の侵攻を弾き返していた。

そもそも松井田城は永禄元年(1558)、国人の安中忠政が、信玄の侵攻に備えて築いたと言われている。当時、武田信玄は信濃国の大半を制し、碓氷峠から東山道を通って西上野に進出してくる構えを見せていたからだ。もちろん築城当初は、安中曲輪を本曲輪とし、かなり小規模なものだったと想定できる。

しかし永禄4年(1561)、上州国人の盟主的立場にあった長野業正が病死することで、求心力を失った上州一揆は、信玄によって各個撃破されていく。その結果、永禄8年(1565)、信玄の大攻勢によって松井田城も落城し、安中氏は降伏し、武田氏の傘下国衆に組み入れられる。

この時、長野氏の本拠の箕輪城も落ち、長野氏は滅亡する。これにより松井田城は、西からやってくる敵を抑える役割から、武田勢の関東侵攻の橋頭堡へと目的を変える。この時、武田氏によって大規模な改修がなされたと思われる。

ところが天正10年(1582)、織田信長の侵攻によって武田氏が滅亡し、松井田城には関東奉行に任命された滝川一益が入城する。しかしそれも束の間、武田氏滅亡から約3カ月後、信長が本能寺で横死することにより、一益と北条氏との間で神流川合戦が勃発する。この戦いに敗れた一益は西国に逃走するので、真田領を除く上野国は、北条氏が領有することになった。

かくして松井田城を手に入れた北条氏は、重臣の大道寺政繁を城将に据え、松井田城を改修していく。現在見られる遺構は、この時のものと推定できる。

しかし天正18年(1590)、小田原合戦が勃発する。秀吉は北国勢と呼ばれる別働隊を編成し、北条領国を北方から侵食させようとした。これを率いたのが前田利家・上杉景勝・真田昌幸らで、その3万5000の軍勢が碓氷峠を越えて松井田城に攻め寄せてきた。

城将の大道寺政繁らは粘り強く抗戦するものの、結局、降伏勧告に応じて城を開けた。その結果、戦国時代の風雪に耐えてきた松井田城も廃城とされ、永遠の眠りに就くことになる。

つまり豊臣の天下が成り、国境の緊張が弱まることで、松井田城は「境目の城」としての存在意義がなくなったのだ。このように城というのは、どれだけ戦術的価値が高かろうと、政治的・戦略的・作戦的価値がなくなった時、廃城とされる運命にある。

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歴史歴史作家の城めぐり

上信国境を守る巨大山城「松井田城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #24】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、群馬県「松井田城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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城と政治・戦略・作戦・戦術

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城は闇雲に造られるわけではない。とくに国人土豪のような存在は勢力範囲に制約があるため、その範囲内でベストな場所にベストな城を築かねばならない。だが戦国時代も後半になり、国人勢力を吸収していった戦国大名が巨大化するに従い、その領国や支配下地域も広くなり、地選や占地、また縄張りの選択肢は広がっていった。

すなわち北条・武田・上杉といった東国の戦国大名は、その政治的要求に従って城を築く、ないしは既存の城を改修する決定を下し、その戦略に従って地選と占地をし、その構想する作戦を前提として城の大きさや縄張りを決め、最後に戦術として最適なパーツを配するということができるようになった。

それでは、この政治・戦略・作戦・戦術というそれぞれの要素を、城を築くという側面から、いかに達成していくかを具体的に見ていこう。

戦国大名の政治とは、主に領国統治と領国防衛が両輪になる。統治は領民を監視し、その主たる収入源である貢租を円滑に得るための政治を行うことだ。また河川流通や陸上交通網を掌握することにより、交易から上がる利を得ることも大切だ。

一方、領国防衛は説明の必要もないだろう。侵略や略奪の心配なく安全に農耕にいそしめるからこそ、領民は貢租や賦役を納めるのであり、彼らに安全を保障できない戦国大名は、愛想を尽かされて地域ごと離反される恐れが大となる。すなわち築城を政治という概念から考えると、まず領国の安全保障を念頭に置くことになる。

続いて戦略だが、これは地選と占地のことと考えてよい。城には防衛拠点(詰城など)、侵略拠点、監視所、狼煙場、交通遮断拠点、補給基地、宿泊施設、関所、船舶停泊地といった戦略目的があり、それぞれの要求に応じた場所に城を築かねばならない。

作戦とは戦略と戦術の中間に位置する概念で、どのような城を築くかということだ。攻撃的な面からすると、他国侵攻の前線基地や兵站拠点といった目的を、防御的な観点からすると、街道遮断や管制、物見、侵攻してきた敵の拘束という目的を念頭に置かねばならない。つまり、作戦を前提として縄張りが構想されることになる。

そして戦術だが、ここで初めて、城を守るためのパーツという概念が入ってくる。すなわち堀切をどこに入れ、竪堀をどこに落とすか。塁の高さは、どれくらいにするかといったことだ。ただし単独でも守り抜くことを目的とした城、時間を稼いで後詰を待つ城、敵が来たら放棄する城(物見城や狼煙台など)では、おのずとパーツ構成が違ってくるので、その点も考慮せねばならない。

さて本稿で紹介する松井田城を、この4つの視点から考えてみよう。

まず政治だが、安中氏という国人の城だった時代を別にすると、この城の主には武田・北条両氏が名を連ねている。武田氏の場合、戦略面では西上州支配の統治拠点として、作戦面では関東への侵略拠点と兵站基地として、さらに敗戦や撤退の際には、逃げ込む場所の役割を果たすことが期待されていた。戦術面に関しては縄張りのところで述べたいと思うが、最終的には北条氏の手が入っているため、武田氏時代のパーツは不明である。

一方、北条氏の場合も武田氏とさして変わりはないが、より以上に街道監視と管制という要素、すなわち守りの目的が強い「境目の城」の要素が強くなるだろう。むろんこの城の最後の戦いとなった小田原合戦では「拠点固守」という目的が課され、「単独でも守り抜くことを目的とした城」とされたのは間違いない。

松井田城の位置と縄張り

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松井田城のある上野国西部は、信濃国との国境に高い山や峠があるため、いくつもの河川が東流しながら谷を造り、そこに北西方向から伸びる山々の尾根の先端が入り組むという複雑な地形をしている。

当然、人の通れる道は限られてくるので、そこをいかに押さえるかが地選のポイントになる。とくに碓氷峠を境にして、上野・信濃両国を結ぶ東山道が走っており、この地の国人は、西からやってくる敵を管制する場所に城を築く必要があった。すなわちこの城は、北麓にある高梨子宿を隔て、東西に走っていた東山道に向けて造られている。

つまり近世の中山道が松井田城の南麓を通過していたのと違い、中世の東山道は北麓を通っていたので、この城は北向きに造られていたと考えられる。地形的にも南は険しく、北はなだらかなので、それを裏付けている。

その占地だが、この城は、碓氷峠から下ってくる山々が平野部に達する先端に築かれており、街道管制には理想的な場所だ。最高所の標高は396・3mで、普通に考えれば堂々たる山城なのだが、周辺には高い山が多いので、それほどの高さは感じられない。

また、この城の北側を通る東山道のさらに北方には九十九川が、南には碓氷川が流れており、ちょうど外堀の役割を果たしている。つまり東山道が2つの川に挟まれる形になるので、西から延びる尾根の先端部に城を築けば、街道を囲繞しつつ城の要害性も高まるということになる。

この城の縄張りだが、山城なので地形の制約を強く受けている。東西に延びる130mほどの高さの尾根を中心に、北方に延びる4本の支尾根と、南方に延びる1本の支尾根に遺構が見られる。南方の尾根は補陀寺と呼ばれる山麓の寺まで続き、そこを拠点として搦手の防御を固めていたと思われる。

山城なので尾根伝いにしか遺構はないものの、その城域は南北1300m、東西900mという広大さで、武田・北条両氏であっても、40余と言われる曲輪を同時にすべて使っていたとは思えない。

主郭(本曲輪)は尾根の中央部に置かれ、西に馬出を隔てて二曲輪、東には堀切を隔てて東曲輪(安中曲輪)があり、この3つの曲輪が城の中心部にあたる。当然、弱みは斜面がなだらかな北方だが、高梨子宿に向かって曲輪や堀切が幾重にも造られており、北方の防御には万全が期されている。

この城の見どころは、何と言っても「連続空堀」と呼ばれる遺構だろう。これは、尾根上の平場に切れ込みを入れるように土塁と空堀を連続させるという珍しいもので、土塁は7つ、空堀は6つあり、それぞれの高さは3mほどで、長さは30mにもなる。

これは、二曲輪の西方の尾根筋から侵入してくる敵を防ぐことを目的に造られたもので、曲輪にせずに阻塞的なものにすることで、敵を足止めさせようという狙いがある。定説では北条氏の手になるものと言われているが、ほかに類例がないので断定は避けたい。

実見した感じとしては空堀よりも土塁が目立ち、幾重もの波が迫ってくるように見える。このパーツをどのように使い、寄手の攻撃を防ごうとしていたのかは極めて興味深い。

また、本曲輪から北に連なる尾根筋の東斜面には、畝状竪堀群が造られており、こちらも見逃せない。これは明らかに高梨子宿方面からの敵を意識してのものだ。

松井田城は横堀、竪堀、堀切、切岸、土塁といった中世城郭に使われていたパーツすべてが見られる城だ。とくに「連続空堀」の遺構はほかに例を見ないほどの規模で、一見の価値がある。

松井田城の歴史

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戦国時代半ばまでの上野国は中小国人が割拠しており、大勢力の生まれる余地がなかった。というのも、天文20年(1551)に上野国の守護大名だった山内上杉氏が没落したため、その家臣たちを中心に群雄割拠にならざるを得なかったからだ。

そうした中、箕輪城を本拠とする長野業正が婚姻政策で同盟する国人たちを束ね、上州一揆という中小企業の共同体のようなものを作り、城郭ネットワークを駆使して、西からやってくる武田信玄の侵攻を弾き返していた。

そもそも松井田城は永禄元年(1558)、国人の安中忠政が、信玄の侵攻に備えて築いたと言われている。当時、武田信玄は信濃国の大半を制し、碓氷峠から東山道を通って西上野に進出してくる構えを見せていたからだ。もちろん築城当初は、安中曲輪を本曲輪とし、かなり小規模なものだったと想定できる。

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この時、長野氏の本拠の箕輪城も落ち、長野氏は滅亡する。これにより松井田城は、西からやってくる敵を抑える役割から、武田勢の関東侵攻の橋頭堡へと目的を変える。この時、武田氏によって大規模な改修がなされたと思われる。

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かくして松井田城を手に入れた北条氏は、重臣の大道寺政繁を城将に据え、松井田城を改修していく。現在見られる遺構は、この時のものと推定できる。

しかし天正18年(1590)、小田原合戦が勃発する。秀吉は北国勢と呼ばれる別働隊を編成し、北条領国を北方から侵食させようとした。これを率いたのが前田利家・上杉景勝・真田昌幸らで、その3万5000の軍勢が碓氷峠を越えて松井田城に攻め寄せてきた。

城将の大道寺政繁らは粘り強く抗戦するものの、結局、降伏勧告に応じて城を開けた。その結果、戦国時代の風雪に耐えてきた松井田城も廃城とされ、永遠の眠りに就くことになる。

つまり豊臣の天下が成り、国境の緊張が弱まることで、松井田城は「境目の城」としての存在意義がなくなったのだ。このように城というのは、どれだけ戦術的価値が高かろうと、政治的・戦略的・作戦的価値がなくなった時、廃城とされる運命にある。

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