多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、群馬県「太田金山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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太田金山城の起源と歴史

image by PIXTA / 54228594

東国の城といえば土の城を思い浮かべる方が多いと思われるが、石垣城の生みの親と言われる織田信長の登場からさかのぼること100年ほど前に創築された太田金山城は、ほぼ全面に石垣を施した巨大山城である。

鎌倉時代末期、この一帯を所領としていた新田義貞によって、渡良瀬川右岸にある標高239m、比高200mの金山に砦が築かれたのが金山城の起源とされる。が、これは伝承の域を出ていない。

確実なところでは寛正2年(1461)、岩松氏の跡目争いを制した家純が、文明元年(1469)、重臣の横瀬氏に命じて築かせたという。その時、世良田長楽寺の僧・松陰軒西堂に御代官(築城指揮者)を任せた。この松陰軒は『松陰私語』という回想録を残しており、それによって築城時の記録が今に伝わることになった。

それによると「鍬初」の儀から70日余で普請が終わり、5カ月後の8月吉日に家純が入城したという。これだけ短期間で総石垣の城ができるとは思えないので、築城当初は土の地か、かなり小規模だったと思われる。

文明10年(1478)には太田道灌がこの城を訪れ、松陰軒の案内で城を見て回り、「天下の名城」と称えたという。離合集散の激しい時代であり、いつ何時、双方が敵対するとは限らない中、松陰軒が道灌に城内を見せたのは、逆に抑止力としての意味があったからに違いない。二人の軍略家の凄まじい駆け引きである。

その後、内訌によって岩松氏の勢力が衰え、その重臣の横瀬氏へと、東上州岩松領の支配権は移っていく。

天文20年(1551)、北条氏によって上野国守護の山内上杉憲政が越後に追われたため、横瀬氏は北条氏に属した。ところが永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に攻め寄せ、金山城を囲んだことで、横瀬氏は人質を差し出して長尾氏の傘下に入る。

だが永禄6年(1563)、横瀬氏は由良という姓に改め、越後上杉氏の傘下を脱し、再び北条氏に鞍替えする。

これにより永禄9年(1566)、景虎は金山城を攻撃するものの、北条氏政が後詰勢を送ってきたため撤退した。その後、北条氏が同盟関係にあった武田氏との関係を精算し、上杉氏との同盟を求めたため、元亀元年(1570)に越相同盟が締結される。

この時、仲介役を担ったのが由良氏だった。つまり境目国人として、由良氏は双方に顔が利くような人間関係を築いていたことになる。一定の自立性を保っている点といい、巨大で堅固な山城を築いていることといい、両属に近い人間関係の構築といい、下野国人で唐沢山城主の佐野氏との類似点は多い。つまり城というハードパワーと人脈というソフトパワーの融合によって、自らの領国を守り抜いていこうという国人ならではの戦略である。

由良氏の仲介で成立した越相同盟だったが、元亀2年(1571)には破綻し、翌年正月、謙信による金山城攻めが始まる。しかしこの時も苦戦の末、由良氏は謙信に兵を引かせることに成功した。

最も激戦が展開されたと思われるのは、天正2年(1574)の戦いだ。上州に乱入した謙信は、由良氏の女淵、赤堀、膳、山上の4城を立て続けに攻略し、金山城に迫った。

これに対し、由良成繁・国繁父子は本拠の新田金山城に籠城し、北条氏の来援を待つことにする。謙信は由良氏が金山城に引き籠もったことを知ると、北進して阿久沢氏の深沢・五覧田両城を落とし、阿久沢氏を屈服させると北条氏の後詰勢の迎撃に向かった。

だが、この年は利根川が増水しており、なかなか渡河できない。双方はにらみ合ったまま対峙するが、4月末、謙信は越後に帰国する。

これで滅亡の危機を脱した由良氏だったが、その後も謙信に執拗に攻められ、北条氏の来援を仰ぐということが繰り返される。

天正10年(1582)3月、武田氏が滅び、6月には本能寺の変が起こり、諸国は混乱する。関東もその例外ではなく、織田政権の関東奉行を命じられていた滝川一益と北条氏直(五代当主)が、上武国境の神流川で激突した。この戦いで敗れた一益は、関東の領有権を放棄して本国の伊勢へと落ちていく。

一方、北条氏は徳川家康と同盟することで関東への支配力を強め、佐竹・宇都宮・結城ら「東方衆一統勢力」と、それを後援する越後の上杉景勝との確執を深めていく。

翌天正11年(1583)9月、北条氏は敵の一角である厩橋城の北条高広を降伏させたものの、その直後の10月、今度は由良国繁と館林城主の長尾顕長が離反した(二人は同腹兄弟)。

厳密には、国繁と顕長の兄弟が厩橋城攻略の祝いを述べるべく、厩橋城にいる氏直の許に出向いたところ、氏直から下野攻略拠点として金山城と館林城の一時的借用を申し入れられた。ところが、それを聞いた家臣の一部が所領没収と早とちりし、帰国して留守居の者たちと籠城戦の支度を始めたのだ。氏直は誤解なので城を開けるよう求めたが、聞く耳を持たないため、兄弟を人質として小田原に送り、両城への攻撃を開始した。その知らせを受けた反北条方の佐竹義重や佐野宗綱らも後詰に駆け付け、沼尻合戦が勃発する。

この戦いは、秀吉と家康の間で戦われた小牧・長久手合戦と同時並行的に進んでおり、中原を舞台に、豊臣と徳川の二大勢力がぶつかり合うのと並行して勃発した関東の代理戦争だった。

北条・佐竹両陣営は、下野国の三毳山の南麓に広がる沼尻という沼沢地を間にして、「沼へ向けて双方陣城を構え」(「太田三楽斎書状」)、小競り合いを繰り広げた。しかし北条方が佐竹方の背後にあたる岩船山を奪取したため、佐竹方が歩み寄ることで和議が成立した。北条方としても家康から後詰要請が届いており、早急に陣払いする必要があった。

その結果、天正13年(1585)正月、孤立した由良・長尾両氏の降伏を受け入れる形で、北条氏は両氏の本拠である金山・館林両城を接収した。これにより由良氏は、本拠の金山城を手放すことになる。

しかし北条氏も天正18年(1590)の小田原合戦で滅亡し、金山城も降伏開城した末、廃城となる。由良氏は改易を免れ、その後も命脈を保つが、再び金山城に戻ることはなかった。

つごう十度ほどの攻防戦を戦った金山城は、難攻不落と呼ぶに値する抗堪力を備えていた。むろんその強さが、石垣というよりも峻険な山容にあったことは、一度として城の中核部に攻め入られなかったことからも明らかであろう。

構造と縄張り

image by PIXTA / 54231836

金山城は、金山という独立峰に造られた典型的な山城で、城の規模は雄大だが、曲輪は六条の尾根筋に沿って細長く連なっているだけだ。そのため、平城のように城の大小を面積で語るのは難しい。

この山に城が築かれた理由は、本城のある山頂付近の地積が多く取れること、その眺望のよさ、さらに山容が険しい点だろう。

山城というのは細尾根に曲輪を築くことができても、手狭な上に移動しにくく、極めて居住性が悪い。だがこの城に限っては山頂に広い空間を取れたので、水と食料さえあれば、長期の籠城にも耐えることができた。

その防御構想だが、搦手にあたる北側は北城と呼ばれる曲輪群によって、南側の大手は谷を挟んで八王子山砦群という出城によって守られていた。また東側からも登山道が2本あるため、そちらにも曲輪を幾重にも配している。最も堅固なのは西城と呼ばれる曲輪群で、現在の登山コースも、こちらに設定されている。

金山城の南麓には、岩松氏が先祖の新田義貞を供養する目的で建立した大田山金龍寺がある。おそらくその周辺が根小屋で、由良氏の歴代当主の常御殿も付近に築かれていたと思われる。そこから続く道が大手筋だが、本城域に達するまでには多くの防御施設を通過せねばならない。現在はガイダンス施設の脇から登っていくと、本城域の西側に出られるようになっている。

面白いのは、西尾根の先端部に近い見附出丸から、西城と呼ばれる曲輪に入っていく途次に桟道を設けていることだ。

これは崖際に細道を造るのではなく、岩壁に張り付くように桟橋を架けることで、いざという場合にそれを落とすと、寄手は本城域に近づく手段を失うという防御方法の一種だ。丸太と板材を組んで藤蔓で結んでいるだけなので、極めて壊しやすく作り直すのも容易なはずだ。

西城を抜けると、復元された石垣が目立つエリアに入っていく。ここには堀切を経て西矢倉台があり、その脇の通路を人一人が通れるだけの幅に絞ることで、堅固な防衛線としている。この西矢倉台は西方だけでなく、大手にあたる南の太田口と搦手口にあたる北西の長手口の双方を見渡せる絶好の位置にある。つまり平時は物見台、戦時は防衛線の役割を果たしている。

続いて馬場曲輪と馬場下曲輪と呼ばれる細長い曲輪を通過し、いよいよ金山城を象徴する大手虎口に到達する。

この部分の石垣は直線的に積み上げられており、後に豊臣大名たちが築くような反りの入った高石垣ではない。しかし天正年間当時の東国の石積み技術からすればこうなるのだろう。

この虎口は平入りで、さしたる工夫はないが、左右の曲輪上から城方が攻撃を仕掛けることでキルゾーンを形成している。

さて問題は石垣を誰が積んだかだが、天正13年(1585)以降、北条氏の番城になってから石垣城に改装されたものと考えがちだが、北条氏のほかの城で、これほど石垣を多用したものはない。また唐沢山城で見られるような反りの入った西国風の高石垣でもない。このようなことからすれば、由良氏が独自の石垣構築技術を持っていたと考えるのが妥当だろう。

本城域には「日の池」と「月の池」と呼ばれる石積みの水場があり、ローマやメソポタミヤの遺跡を思わせる幻想的な雰囲気を醸し出している。

中世の上州に突如として現れた石垣城として、金山城は不思議な魅力を秘めている。

土の城にはない古代の風韻をたたえているこの城は、初心者でもその魅力を十分に味わえるだろう。

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歴史歴史作家の城めぐり

上州最南端に君臨した謎の石垣城「太田金山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #23】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、群馬県「太田金山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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太田金山城の起源と歴史

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東国の城といえば土の城を思い浮かべる方が多いと思われるが、石垣城の生みの親と言われる織田信長の登場からさかのぼること100年ほど前に創築された太田金山城は、ほぼ全面に石垣を施した巨大山城である。

鎌倉時代末期、この一帯を所領としていた新田義貞によって、渡良瀬川右岸にある標高239m、比高200mの金山に砦が築かれたのが金山城の起源とされる。が、これは伝承の域を出ていない。

確実なところでは寛正2年(1461)、岩松氏の跡目争いを制した家純が、文明元年(1469)、重臣の横瀬氏に命じて築かせたという。その時、世良田長楽寺の僧・松陰軒西堂に御代官(築城指揮者)を任せた。この松陰軒は『松陰私語』という回想録を残しており、それによって築城時の記録が今に伝わることになった。

それによると「鍬初」の儀から70日余で普請が終わり、5カ月後の8月吉日に家純が入城したという。これだけ短期間で総石垣の城ができるとは思えないので、築城当初は土の地か、かなり小規模だったと思われる。

文明10年(1478)には太田道灌がこの城を訪れ、松陰軒の案内で城を見て回り、「天下の名城」と称えたという。離合集散の激しい時代であり、いつ何時、双方が敵対するとは限らない中、松陰軒が道灌に城内を見せたのは、逆に抑止力としての意味があったからに違いない。二人の軍略家の凄まじい駆け引きである。

その後、内訌によって岩松氏の勢力が衰え、その重臣の横瀬氏へと、東上州岩松領の支配権は移っていく。

天文20年(1551)、北条氏によって上野国守護の山内上杉憲政が越後に追われたため、横瀬氏は北条氏に属した。ところが永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に攻め寄せ、金山城を囲んだことで、横瀬氏は人質を差し出して長尾氏の傘下に入る。

だが永禄6年(1563)、横瀬氏は由良という姓に改め、越後上杉氏の傘下を脱し、再び北条氏に鞍替えする。

これにより永禄9年(1566)、景虎は金山城を攻撃するものの、北条氏政が後詰勢を送ってきたため撤退した。その後、北条氏が同盟関係にあった武田氏との関係を精算し、上杉氏との同盟を求めたため、元亀元年(1570)に越相同盟が締結される。

この時、仲介役を担ったのが由良氏だった。つまり境目国人として、由良氏は双方に顔が利くような人間関係を築いていたことになる。一定の自立性を保っている点といい、巨大で堅固な山城を築いていることといい、両属に近い人間関係の構築といい、下野国人で唐沢山城主の佐野氏との類似点は多い。つまり城というハードパワーと人脈というソフトパワーの融合によって、自らの領国を守り抜いていこうという国人ならではの戦略である。

由良氏の仲介で成立した越相同盟だったが、元亀2年(1571)には破綻し、翌年正月、謙信による金山城攻めが始まる。しかしこの時も苦戦の末、由良氏は謙信に兵を引かせることに成功した。

最も激戦が展開されたと思われるのは、天正2年(1574)の戦いだ。上州に乱入した謙信は、由良氏の女淵、赤堀、膳、山上の4城を立て続けに攻略し、金山城に迫った。

これに対し、由良成繁・国繁父子は本拠の新田金山城に籠城し、北条氏の来援を待つことにする。謙信は由良氏が金山城に引き籠もったことを知ると、北進して阿久沢氏の深沢・五覧田両城を落とし、阿久沢氏を屈服させると北条氏の後詰勢の迎撃に向かった。

だが、この年は利根川が増水しており、なかなか渡河できない。双方はにらみ合ったまま対峙するが、4月末、謙信は越後に帰国する。

これで滅亡の危機を脱した由良氏だったが、その後も謙信に執拗に攻められ、北条氏の来援を仰ぐということが繰り返される。

天正10年(1582)3月、武田氏が滅び、6月には本能寺の変が起こり、諸国は混乱する。関東もその例外ではなく、織田政権の関東奉行を命じられていた滝川一益と北条氏直(五代当主)が、上武国境の神流川で激突した。この戦いで敗れた一益は、関東の領有権を放棄して本国の伊勢へと落ちていく。

一方、北条氏は徳川家康と同盟することで関東への支配力を強め、佐竹・宇都宮・結城ら「東方衆一統勢力」と、それを後援する越後の上杉景勝との確執を深めていく。

翌天正11年(1583)9月、北条氏は敵の一角である厩橋城の北条高広を降伏させたものの、その直後の10月、今度は由良国繁と館林城主の長尾顕長が離反した(二人は同腹兄弟)。

厳密には、国繁と顕長の兄弟が厩橋城攻略の祝いを述べるべく、厩橋城にいる氏直の許に出向いたところ、氏直から下野攻略拠点として金山城と館林城の一時的借用を申し入れられた。ところが、それを聞いた家臣の一部が所領没収と早とちりし、帰国して留守居の者たちと籠城戦の支度を始めたのだ。氏直は誤解なので城を開けるよう求めたが、聞く耳を持たないため、兄弟を人質として小田原に送り、両城への攻撃を開始した。その知らせを受けた反北条方の佐竹義重や佐野宗綱らも後詰に駆け付け、沼尻合戦が勃発する。

この戦いは、秀吉と家康の間で戦われた小牧・長久手合戦と同時並行的に進んでおり、中原を舞台に、豊臣と徳川の二大勢力がぶつかり合うのと並行して勃発した関東の代理戦争だった。

北条・佐竹両陣営は、下野国の三毳山の南麓に広がる沼尻という沼沢地を間にして、「沼へ向けて双方陣城を構え」(「太田三楽斎書状」)、小競り合いを繰り広げた。しかし北条方が佐竹方の背後にあたる岩船山を奪取したため、佐竹方が歩み寄ることで和議が成立した。北条方としても家康から後詰要請が届いており、早急に陣払いする必要があった。

その結果、天正13年(1585)正月、孤立した由良・長尾両氏の降伏を受け入れる形で、北条氏は両氏の本拠である金山・館林両城を接収した。これにより由良氏は、本拠の金山城を手放すことになる。

しかし北条氏も天正18年(1590)の小田原合戦で滅亡し、金山城も降伏開城した末、廃城となる。由良氏は改易を免れ、その後も命脈を保つが、再び金山城に戻ることはなかった。

つごう十度ほどの攻防戦を戦った金山城は、難攻不落と呼ぶに値する抗堪力を備えていた。むろんその強さが、石垣というよりも峻険な山容にあったことは、一度として城の中核部に攻め入られなかったことからも明らかであろう。

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金山城は、金山という独立峰に造られた典型的な山城で、城の規模は雄大だが、曲輪は六条の尾根筋に沿って細長く連なっているだけだ。そのため、平城のように城の大小を面積で語るのは難しい。

この山に城が築かれた理由は、本城のある山頂付近の地積が多く取れること、その眺望のよさ、さらに山容が険しい点だろう。

山城というのは細尾根に曲輪を築くことができても、手狭な上に移動しにくく、極めて居住性が悪い。だがこの城に限っては山頂に広い空間を取れたので、水と食料さえあれば、長期の籠城にも耐えることができた。

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続いて馬場曲輪と馬場下曲輪と呼ばれる細長い曲輪を通過し、いよいよ金山城を象徴する大手虎口に到達する。

この部分の石垣は直線的に積み上げられており、後に豊臣大名たちが築くような反りの入った高石垣ではない。しかし天正年間当時の東国の石積み技術からすればこうなるのだろう。

この虎口は平入りで、さしたる工夫はないが、左右の曲輪上から城方が攻撃を仕掛けることでキルゾーンを形成している。

さて問題は石垣を誰が積んだかだが、天正13年(1585)以降、北条氏の番城になってから石垣城に改装されたものと考えがちだが、北条氏のほかの城で、これほど石垣を多用したものはない。また唐沢山城で見られるような反りの入った西国風の高石垣でもない。このようなことからすれば、由良氏が独自の石垣構築技術を持っていたと考えるのが妥当だろう。

本城域には「日の池」と「月の池」と呼ばれる石積みの水場があり、ローマやメソポタミヤの遺跡を思わせる幻想的な雰囲気を醸し出している。

中世の上州に突如として現れた石垣城として、金山城は不思議な魅力を秘めている。

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