歴史歴史作家の城めぐり

真田一族の優秀性を証明する理想的山城「岩櫃城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #22】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、群馬県「岩櫃城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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山城のメリットとデメリット

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山城とは簡単に言えば山の上に築かれた城のことで、平地に築かれた平城や小丘上に築かれた平山城に対する城郭用語として、よく使われる。

山城がその高低差を生かして寄手の攻撃を弾き返す構想の下に築かれた城なのは、さほど城に詳しくない人でも分かるだろう。では山城には、ほかにどんな利点があるのだろう。

まず、高所にあるので遠くまで眺望が利く。つまり物見を配しておけば、敵の動きが摑めるだけでなく、即時に防御態勢が布ける。

例えば下野の唐沢山城では、東を除いた三方に眺望が開け、はるか彼方からやってくる敵の動きを事前に摑むことができた。唐沢山城の主である佐野氏は、北西からやってくる越後上杉氏と南からやってくる北条氏の間を行き来した国人なので、唐沢山城の立地は理想的だった。

また山登りに登頂ルートがあるのと同じく、山城の多くが築かれている峻険な山の頂には、どこからでも行けるわけではない。大きく分けて谷筋から付けられたルートを登るか、別の山の尾根伝いに迫るかのどちらかである。だが谷筋ルートだと、常に上方を占める籠城方が優位で、登頂ルート上に防御施設を幾重にも築けば、それらを突破していかねばならない。

一方、尾根伝いだと、尾根筋をどこかで掘り切られてしまうと攻めにくくなり、そこを突破するには、ある程度の損害を覚悟せねばならない。しかも狭い山中では、兵を展開できる空間に限りがあるので、兵力に勝っていても優位性を生かしきれない。

すなわち守るだけなら山城ほどいいものはない。しかも高くて峻険なら、それに越したことはないということになる。

日本には比高が500m級の山がごろごろしており、そうした山に城を造れば、難攻不落の城になると考えるのが自然だろう。だが、そうした山に城が築かれることは意外に少ない。それはどうしてだろうか。

峻険に過ぎる山は概して痩せ尾根で、そこに細長い曲輪を造っても、多くの兵員を籠もらせることができない。それゆえ隣国と緊張状態にない時は、廻り番で物見が数人も入っていればいい方で、状況に応じて山麓部から兵を上げるという段取りの城が大半だった。

つまり常時、人がいない山城は、急襲や騙し討ちをされれば、ひとたまりもないのだ。物見を配置していても、視界が悪くなれば役に立たない。

また山が高すぎると、井戸を深く掘らなければならない上、山麓との行き来が困難になるので、食料の運搬もたいへんだ。つまり太い尾根が山頂にあっても、多くの兵を籠もらせるのには限界がある。また寒気が厳しい地方の城は、冬ともなれば山頂に雪が降るので、とても籠城などできない。

しかも城というのは、守るだけでは役割を果たしたことにはならない。

つまり敵が城を無視してスルーしていった場合など、背後から断続的に続いてくる補給部隊を襲って兵糧を分捕ったり、前線と後方を行き来する伝令を捕らえたりすることで、ボディブローを打つように侵攻部隊を弱らせねばならない。これが比高500m級の山城だと、極めてやりにくくなる。

では敵が攻めにくく、また多くの兵を籠もらせることができる上、逆襲もしやすいというメリットばかりの山城はあるのだろうか。

ちなみに『甲陽軍鑑』という甲州武田氏の軍記物には、「関東三名城」と呼ばれる城がある。甲斐国の岩殿城、駿河国の久能山城、そして上野国の岩櫃城である。どれも武田の城で、なおかつ峻険な山城が選ばれている。

だが岩殿城は城道が狭い上、登攀ルートが少ないので、山麓を囲まれてしまうと逆襲に転じることは難しい。

また久能山城は主要街道(東海道)から離れており、侵略軍にスルーされてしまえば、後方攪乱はままならない。

ところが本稿で紹介する岩櫃城は、あらゆる山城の利点がバランスよく組み合わされた理想的な城なのだ。

岩櫃城の歴史

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岩櫃城は、上野国北部の吾妻川沿いに広がる山岳地帯に築かれた典型的な山城である。

吾妻川は上信国境の鳥居峠を水源とし、浅間山と榛名山の北麓を東に流れて利根川に注ぐ。この吾妻川沿いに通っているのが吾妻街道で、西は信州上田から鳥居峠を経て上州に入り、吾妻川が利根川に注ぐのとほぼ同じあたりで、北国街道に合流している。

後に真田氏が、この街道沿いに上信2カ国にまたがる8万石の領国を築いたのは周知の通りだ。

この辺りは山岳地帯なので、農業生産性は低いものの、上信2カ国を結ぶ主要道の一つである吾妻街道と、物資輸送に適した吾妻川が通っているため、戦略的に重要な地域だった。

この吾妻街道沿いに、信州側から上州攻略を目指したのが武田信玄である。

永禄5年(1562)8月、真田幸綱(後の幸隆)に3000の兵を与えて侵攻を開始した信玄は、翌永禄6年10月には、斎藤憲広の岩櫃城を攻略した。

ただし岩櫃城が斎藤氏の持ち城だったという説には、最近になって疑義が呈されている。すなわち、この地方の歴史が書かれた『加沢記』によって、長らくそれが定説とされてきたが、最近になって、武田氏によって取り立てられたという説が浮上してきた。

すなわち斎藤氏の城は、岩櫃城とは四万川を挟んで対岸にある嶽山城で、その攻略拠点として築かれたのが岩櫃城だというのだ。

いずれにせよ以後、岩櫃城は武田氏の上州攻略の策源地となっていく。

ところが信玄死後の天正3年(1575)、その跡を継いだ勝頼が長篠合戦で大敗することで、武田氏の前途に暗雲が垂れ込めてくる。

勝頼は、織田信長と徳川家康の連合軍に圧迫され始めた三河・遠江方面の戦線を守勢専一とし、上野国の攻略に勢力拡大の活路を見出そうとする。

この時、勝頼は長らく同盟関係にあった北条氏と、謙信の跡目争いである御館の乱での行き違いから敵対関係になっており、それを幸いに北条領国の上野国を切り取ろうとなったのだ。

上州戦線の尖兵となった真田昌幸は、北条方の上州支配の拠点城である沼田城を攻略するなどして、武田の武威を大いに現した。武田家最後の光芒である。

だが天正10年(1582)、織田・徳川連合軍の侵攻によって武田家は滅亡の危機に立たされる。その時、真田昌幸は城主を務める岩櫃城への退避を勧め、勝頼もいったんは承知するが、宿老の小山田信茂が岩殿城での籠城策を勧めたため、勝頼はその進言に従うことにする。

ところが小山田信茂の変心によってか、直前になって勝頼は岩殿城に入れず、天目山田野の地で討ち取られ、武田家はここに滅亡する。その後、北条氏から徳川氏へと所有者は変わっていくが、すでに軍事的に重要性を失っていた岩櫃城は、慶長19年(1614)に廃城とされる。

岩櫃城の構造と特徴

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岩櫃城は、吾妻川北岸にそびえる標高802mの岩櫃山に築かれた山城である。見る者を圧倒せずにはおかない荒々しい山容は極めて特徴的で、それだけでも、この城が難攻不落なことを示している。

この城の特徴の一つは、城の中核部分が山頂ではなく中腹に築かれている点にある。

城のある岩櫃山は、吾妻川が南に大きく蛇行する左岸にあり、その南側の山頂部は険しい岩塊となっているので、とても削平することはできない。

一方、北東の中腹部には広い平場が開けているため、そこに城の中枢部や家臣団屋敷地を置けば、山城のメリットである守りやすさを保持しつつ、多くの兵が駐屯できる。

それだけではなく吾妻街道を城内に通すことにより、物資補給も容易になる。

城域は広範囲に及ぶため、主郭などの中枢部を「要害地区」、その東側の吾妻街道が通っている中腹部を「城下町地区」(平川戸という宿町があった)、東に延びる尾根が山麓に達しようとする辺りを「新井地区」、北側にある曲輪群を「志摩小屋地区」、谷を隔てた東方一帯を「柳沢城地区」、さらに西方一帯を「郷原城・古谷館」地区と呼んでいる。

それでは、「要害地区」を中心にこの城の技巧的側面を見ていこう。

この城の特徴として、竪堀を多用している点がまず挙げられる。竪堀は寄手が斜面を横移動するのを妨げる効果があり、山城にとっては必須のパーツである。というのも敵の左右の動きを制限しないと、寡兵で籠もる城方は特定の曲輪に集中攻撃を食らい、そこから一点突破される危機性が高まるからだ。

岩櫃城の竪堀は最長のもので330mという途方もないもので、その深さも4〜5mあったと推定されている。これは標準的な山城のものを大きく上回る。

また主郭部の南側山腹には、この城に独特の放射状の竪堀がある。これは甲斐国の白山城や要害山城、駿河国の葛山城、信濃国の的場城などでも見られる遺構で、武田氏の築城法が広く敷衍されていたことの証しになる。

最大の見どころは東側斜面で、竪堀や横堀を縦横無尽に張りめぐらせ、さながら迷路のような構造になっている。

また主郭と二曲輪の間の堀切は、一度だけ曲げて横矢が掛かるようにした後、主郭南面の大きな横堀と合流させた後、巨大な竪堀と化し、南の斜面を山麓まで落としていくという独特の構造をしている。このあたりは、あらゆる角度から敵の動きを想定して造られたと思われ、築城者である真田一族の経験知の蓄積と現場対応力に驚嘆する。

さらにこの城が、役割を変遷させていったという点も見逃してはならない。

すなわち、斎藤氏時代は西から侵入してくる敵に対しての防護壁として、武田氏時代は上野進出の橋頭堡や策源地として、真田氏時代は地域支配の拠点として、さらに慶長19年(1614)の廃城後は、吾妻街道が城内を通っているという利点を生かした商業拠点として、この城は変容を遂げていった。

その長い歴史の中で、城内や城下でこれといった合戦はなかったものの、岩櫃城は時代ごとに課された使命を全うした末、その役割を終えたのである。

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