
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
古河公方を守る城

かつて北条家三代当主の氏康は、関宿城を手に入れた時、「一国を取り為され候にも替わるべからず候(一国を取るに等しい)」と書状に記すほど喜んだ。
利根川と江戸川の二大河川が合流し、また分流していく地に築かれたこの城は、河川流通や水上交通のハブとして、関東各地から運ばれてくる物資の集散地となっていた。また、常陸方面や房総方面へと続く街道が交錯する陸上交通の要衝でもあった。
当然、関東制圧を目指す北条氏にとっては垂涎の的である。
そもそも関宿城は、享徳3年(1454)に享徳の乱が勃発した際、簗田持助という古河公方の家臣によって創築された。また別説に、その3年後の長享元年(1457)、持助の息子の成助が築いたとも伝わる。それ以前から関宿周辺は簗田氏の勢力圏だったが、河川舟運が盛んになることで、近くにある水海城から本拠を移したらしい。
簗田氏は、古河公方から公方府の「舟役」を命じられるほど舟運に強い国人だったので、河川交易網を掌握するための移転だったと思われる。
古河公方勢力の吸収を目指す北条家二代当主の氏綱は、まず古河公方家との絆を強めるべく、四代目公方の足利晴氏に娘を嫁がせた。晴氏と氏綱の娘の間には、梅千代王丸(後の義氏)が誕生する。
だがこうした融和策に、古河公方家の家臣団が反発する。とくに自らの娘を晴氏の側室に入れ(最初は正室だったらしい)、藤氏や藤政といった男子を生ませている公方家宿老の簗田高助は収まらない。高助は、山内・扇谷両上杉家に与するよう晴氏を説く。
それが実って天文15年(1546)、河越城をめぐる戦いで、晴氏は北条方から上杉方に転じて出陣する。だが山内・扇谷・古河公方連合軍は、北条家三代当主の氏康によって完膚なきまでに叩きのめされる。この戦いの結果、扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏は上野国に逼塞、古河公方家は弱体化した。これにより関宿城を本拠とする簗田氏も、公方家もろとも北条氏に付き従う方針に転じる。
同20年(1551)、簗田晴助(高助の息子)は氏康と起請文を交わし、互いに粗略にしないことを誓い合う。これは晴助が公方晴氏の代わりに行ったもので、古河公方府が北条氏の存在を正式に認めたことになる。
続いて同21年(1552)、氏康は晴氏長男の藤氏を廃嫡させ、わずか10歳の梅千代王丸に公方家の家督を委譲させた。関東武家勢力の頂点に氏康の外甥が就くことで、北条氏の関東支配の正当性が保証されたことになる。
だが氏康は、梅千代王丸を謀殺の危険がある古河城に入れず、北条氏の勢力圏内の葛西城から動かさなかった。
ところが同23年(1554)、葛西城に軟禁されていた晴氏と藤氏が古河城に入り、反旗を翻した。しかし簗田氏、一色氏、野田氏といった公方宿老衆が晴氏に同調しなかったため、公方父子は降伏し、囚われの身となる。
それでも永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)の関東越山によって、義氏は古河から落去させられ、藤氏が古河公方の地位に就いた。だがこの態勢も、謙信が越後に帰ると一気に不安定になり、翌年、北条氏の圧力に耐え切れなくなった藤氏は、里見氏を頼って安房国へと落ちていく。
かくして義氏を古河城に復帰させた氏康は、永禄4年(1561)、古河城に簗田氏を入れ、関宿城に義氏を入れるという本拠の交換を行い、実質的に関宿城を支配下に収めた。その翌年には、逃亡していた藤氏が捕らえられ、小田原に幽閉された末、謎の死を遂げる。
こうした情勢に危機感を抱いた簗田晴助は、北条方から離反して関宿城を奪還した。ここに3度にわたる関宿合戦が幕を開けることになる。
関宿合戦

永禄8年(1565)、氏康率いる北条勢が関宿城に攻め寄せた。城外をすべて焼き尽くし、城際まで迫った北条方だったが、これは簗田氏の策略で、寄手を十分に引き付けておき、三曲輪の三つの戸張(門)から同時に陣前逆襲を仕掛けたのだ。これにより北条方は押し返され、氏康は兵を引かざるを得なくなった。この時、氏康自ら槍を取って戦うほどの激戦になり、顔に「向疵」を負った。
これが軍記物による第1次関宿合戦である。
続いて永禄11年(1568)、氏康は次男(厳密には三男)の氏照に全軍の指揮を任せ、関宿城攻略を託した。氏照は野田氏の居城の栗橋城を接収し、そこを拠点に持久戦を開始する。
栗橋城は江戸川を挟んで関宿城の西方にあり、関宿城を監視すると同時に、西方からやってくる謙信などの後詰勢と相対するのに絶好の位置にある。
氏照は関宿城の周囲に付城を築き、関宿城を孤立させようとするが、翌永禄12年(1569)、氏康と上杉謙信の間で越相同盟が締結され、その時の和睦条件に従い、氏照は付城群を破壊して撤退している。これが第2次関宿合戦である。
簗田氏は越相両国の政治的駆け引きの中で辛くも命脈を保っていたが、越相同盟は機能せず、北条氏は再び武田信玄との同盟に踏み切ることで、関東の反北条勢力は再び危機に陥る。
天正元年(1573)、氏康の跡を継いで四代当主となった氏政は、満を持して関宿城に攻め寄せた。攻撃は翌年まで続いたが、簗田氏は持ちこたえ、謙信に後詰を要請する。
それに応じて謙信は関東へと進出するが、上野国の由良氏との戦いに手間取り、さらに利根川の増水によって行く手を阻まれ、関宿までたどり着けない。そのため常陸の佐竹義重に後詰を依頼する。ところが義重は、関宿城について一任することを条件として出してきた。致し方なく謙信はこれに合意したが、謙信撤退後、佐竹氏は北条氏と和睦し、関宿城と簗田氏の処置を北条氏に任せてしまう。つまり投げ出したのだ。
これにより天正2年(1574)、関宿城は北条氏の直轄城となり、簗田氏は支城の水海城に移され、独立領主としての地位を失った。
この第3次関宿合戦の結果、北条氏は関宿城を手にしただけでなく、長年の念願だった公方勢力の無力化に成功し、下野・常陸方面への足掛かりを得た。
だが室町時代は、すでに遠い過去となっており、古河公方や関東管領という職も有名無実化していた。謙信と氏康は、それぞれ自分が関東管領だと名乗って譲らなかったが、晩年には、それを主張することもなくなった。
天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏が滅びると、関宿城には、家康の異父弟の松平康元が2万石で入封した。その後も、めまぐるしく城主は替わったが、いずれも老中などの要職に就いたため、関宿城は「出世城」と呼ばれることになる。
その後、関宿城は廃城にされることなく江戸時代を生き抜き、明治4年(1871)の廃藩置県まで命脈を保った。だがその後、相次ぐ堤防工事により、城の大半が消滅したのは実に残念である。
関宿城の構造

この城は何度かの江戸川の堤防工事によって大半が姿を消し、また城下町も宅地化によって、その面影を全く残していない。つまり当時の様子を再現するには、文献や古地図を頼りにするほかない。それによると、この城はまさに水の城という印象で、河川や沼の間のわずかな陸地に曲輪が点在するという縄張りだったと分かる。
まずその位置関係だが、この城は北に利根川と江戸川の分岐点があるため、北、東、西の三方を外堀代わりの大河川に囲まれている。南も沼沢地となっていたらしく、とくに防御を厳にしているわけではない。
各曲輪が比高10~15m程度の微高地上にあり、城の分類としては平城と考えていい。
現在は江戸川堤防によって消滅しているが、北端に本丸、その南に二の丸、その東側に三の丸という基本構造になる。
江戸時代に入り、江戸川を挟んだ西に山王郭ないしは山王山曲輪という出城が築かれたというが、この曲輪は北にある山王沼によって囲まれた地形となっており、典型的な一城別郭形式である。おそらく戦国時代に北条氏が築いた出城だろう。
さらに城の南東には、江戸時代の武家屋敷と城下町が広がっており、大手門はその南東端にあったと推定されている。
こうして見ていくと分かるように、この城は利根川水系の河川や天然の沼を巧みに取り入れており、それがないところでも、泥田や泥湿地によって守られていたのだ。
今は、わずかに本丸の一部が公園化された緑地帯として残されているので、その周囲を歩きながら当時を想像していただきたい。
この城の遺構は少ないが、堀跡と分かる低地や横矢掛かりとおぼしき曲輪の屈曲は分かるので、注意深く探索してほしい。
また、かつての城跡から500mほど離れてはいるが、千葉県立関宿城博物館には、ぜひお寄りいただきたい。博物館の入っている建物は鉄筋コンクリートの模擬天守だが、実は江戸初期に天守閣が焼失した後、代わりに建てられた御三階櫓を模したものだと言われている。この櫓は、江戸城の富士見櫓に似ていたという記録もあり、全く歴史的根拠がないというわけでもない。
この博物館のテーマは「河川と産業」で、古代から現代までの関宿地区と利根川舟運の歴史が分かるようになっており、一度は見ておく価値のある展示内容である。
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