
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
下総千葉氏の盛衰

治承4年(1180)、伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで惨敗したものの、房総半島に渡ってから巻き返しに成功し、平家方の東国勢力を圧倒していく。しかし一介の流人にすぎなかった頼朝には、子飼いの家臣などいない。そこで頼朝に忠節を誓った者たちを組織化し、頼朝の親衛隊的家臣とした。それが御家人と呼ばれる頼朝と直接主従関係を結んだ武士たちである。
その御家人の代表格が、下総国に広大な領国を持つ千葉氏だった。千葉氏は「坂東八平氏」「関東八屋形」に数えられるほどの名家で、平安時代から室町時代にかけては下総国の大半を支配していた。
鎌倉幕府開設後、千葉氏は忠実な御家人として確固たる地位を築いていく。しかし宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏に与して執権北条氏と戦ったため、滅亡寸前まで追い込まれる。
室町時代には鎌倉公方の下で下総守護を務め、勢力を回復させたものの、お家騒動で嫡流が滅亡するという事件が起こる。
嫡流の遺児たち(武蔵千葉氏)は太田道灌の力を借り、新たに当主となった馬加康胤を滅ぼすが、道灌の死後、古河公方と結んだ康胤の庶子(異説あり)・岩橋輔胤が、下総国の覇権を回復する。この時に築かれたのが本佐倉城である。
それまでの千葉氏の本拠は、現在の千葉市内にある亥鼻城だったが、享徳の乱によって周囲の緊張が高まるに従い、要害の地である佐倉に移転したと思われる。この地は古河にも駆け付けやすいので、古河公方・足利成氏の意向も入っていたのかもしれない。
また創築に関する異説として、輔胤の息子の孝胤が、文明16年(1484)頃に築いたとされるものもある。
その後、千葉氏は古河公方との連携を強め、古河公方勢力と房総半島の武田・里見両氏をつなぐブリッジの役割を果たしていく。
しかし次第に、筆頭家老の原氏が千葉氏を上回る力を持ち始め、傀儡当主を擁することで千葉氏の実権を掌握していった。
戦国時代の千葉氏は、小弓公方足利氏、常陸国の佐竹氏、安房国の里見氏に圧迫され、現代の佐倉市と酒々井町だけを勢力圏とする国人ほどの勢力になっていた。それでも原氏や高城氏といった独立性の高い宿老たちと共に、勃興してきた小田原北条氏の傘下入りを果たすことで、その命脈を保つことに成功する。
これにより北条氏は、室町時代後期から利根川東岸に割拠してきた古河公方と、その与党の上総国の武田氏や安房国の里見氏との間に楔を打ち込むことになり、古河公方勢力の衰退を招くことに成功する。以後、北条氏は下総から常陸へと侵攻していくが、その時、千葉氏の本佐倉城は、北条氏の策源地の役割を担っていくことになる。
ところが、千葉氏は北条氏から養子の当主を入れられ、その独立性が徐々に失われていく。そうした流れから、天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏に与したため、戦後、豊臣秀吉から改易を申し渡された。ここに由緒ある千葉氏は没落する。
小田原合戦の後、関東に移封された徳川家康からこの一帯を与えられた土井利勝は、新たに近世城郭の佐倉城を築いたため、本佐倉城は廃城となった。
沼沢地の城

下総国のほぼ中央部にあたる本佐倉城一帯は、「香取の海」と呼ばれた霞ケ浦・印旛沼・手賀沼の湖沼群と江戸湾を結ぶ下総街道を扼する交通の要衝だった。
この城は、下総台地が印旛沼南端に突き出した比高20mほどの舌状台地上に築かれており、現在、田畑となっている周辺の低地は当時、泥田か湿地となっていた。すなわち本佐倉城は、沼沢地という要害地形をうまく取り込んで築かれた台地城だった。
構造的には、北から本城域にあたる城山地区、家臣団屋敷があったとされる荒上地区、湿地を隔てて本城域と向かい合った形の向根古屋地区の3つに分かれており、それぞれの周囲に、泥田か湿地が入り込むという地形になっていた。
城山地区は逆L字型の突出部に築かれており、荒上地区を制圧しない限り、攻めることができない構造になっている。ここにこの城の占地が、いかに巧みかが表れている。
城山地区は東西北の三方を泥田か湿地に囲まれているので、寄手は陸続きの南から、まず荒上地区に攻め寄せるしかない。つまり戦闘方面を限定できるのだ。
この城の西方にある臼井城も同じ印旛沼湖畔の城だが、ここまで理想的な地形ではないため、円弧を描くように空堀を掘り、戦闘方面もさほど限定できなかった。つまりこうした城の場合、戦闘方面を限定できる地形かどうかが大きなポイントになる。
本佐倉城の最大の強みは、東南にある向根古屋地区に控えていた部隊が、湿地を渡って寄手を背後から襲うという防御法が取れることだ。逆に寄手が向根古屋地区を制圧しようとすると、荒上地区から牽制されるという寸法になる。要は向根古屋地区が、大規模な「勢隠し」となっており、荒上地区と本城域を背後から守っているのだ。
これは「常山の蛇勢」と呼ばれる築城法で、頭を叩けば尾が、尾を叩けば頭が攻撃するという縄張り法である。北条氏末期の築城になる山中城にも、この方式が取られていることから、北条家中では幾多の戦訓から、その有効性が証明されていたのだろう。こうしたことから、天正年間に北条氏が千葉氏を乗っ取った時、向根古屋地区が造られたと推定できる。
またこの城の南部には、堀跡や城館跡と思われる遺構が発掘されており、「惣構」の存在も指摘されているが、私有地が入り組んでいるため、確証を得るまでの発掘調査はできないでいる。
構造的特徴と防衛構想

中核部の城山・荒上両地区だけで3・9万㎡、向根古屋地区まで含めると、5万㎡を超える本佐倉城だが、見学の際には、城山地区の東側にあたる東山馬場から入ることをお勧めする。そこから西に向かって歩いていくと、左手に深さ6mの大堀切が見える。この堀切によって仕切られた東側が「城山」と呼ばれる本曲輪で、西側が「奥ノ山」と呼ばれる二曲輪になる。
「城山」は大堀切で仕切られていることからも分かる通り、厳重な構えをしている。虎口は内桝形で坂虎口となっており、南を除く三方に土塁をめぐらせ、北側には櫓台もある。
「奥ノ山」には千葉氏が信仰していた妙見社があり、多くのカワラケが発見されていることから、神聖な場所だったと分かる。本曲輪の前衛にあたる場所に妙見社を祀ったことから、千葉氏はそこから先を神聖な儀礼空間としていたに違いない。
「奥ノ山」の北西には「倉跡」と呼ばれる三曲輪がある。発掘の結果、炭化した米や多くの陶磁器破片が発掘され、複数の倉を伴う城主一家の居館跡だったと推定されている。
「奥ノ山」の北西には、この城の見どころの一つである幅20m、深さ10mの大空堀がある。この巨大な堀切は南北100mもの長さがあり、途中で横矢が掛かるように屈曲している。元々あった堀を北条氏が巨大化させたと思われるが、寄手はこの大空堀を突破しないことには、城山地区を攻略できないことになる。
ここまでが城の中核部だが、その北西には「セッテイ山」と呼ばれる曲輪がある(山ではなく平場)。ここは、碁石、銅製火鉢、茶壺などが発掘されており、「接待山」だったのではないかと推定されている。つまり客や使者はここから先には入れず、ここで城主と面談し、酒肴でもてなされたのだろう。
この曲輪は、東西を大空堀に囲まれていることから、北条氏が支配権を確立した天正年間には、「セッテイ山」が城の中心になっていた可能性がある。つまりここに北条氏から派遣された部隊が入り、ここから南東の中核部が千葉氏の領域とされていたのだ。言うなれば、この城の縄張りは、「城山」と「セッテイ山」という2つの核(最終防衛エリア)を持っていたことになる。
北条氏の兵を「セッテイ山」まで入れないまでも、向根古屋地区に入れていた可能性はある。
一つの城でも傘下国衆を重んじ、こうした不可侵の曲輪を決めることがあった。それぞれの所属に応じて入っていい曲輪といけない曲輪を設けるのだ。北条氏の場合、支援部隊を入れる際には、こうした配慮がなされていたらしい。
「セッテイ山」の北西部には、「奥ノ山」の北西にあった大空堀と同等規模の大空堀があり、しかもこちらは途中で2度ほど屈曲した上、その先で分岐しており、ここから先(東)に敵を入れないぞという強い意志を感じさせる。
堀を屈曲・分岐させるのは、横矢を掛けるだけでなく、堀底道を通ってくる敵に先を見通させないという狙いがある。先が見通せないと、寄手は行き足が鈍るものなので、そこを投射武器で攻撃するのだ。
一方、荒上地区はこの城で最大の面積を持つ曲輪で、西辺と南辺には、「張り出し」を持つ長大な堀と土塁によって囲繞されていた。ここは家臣団屋敷地だったと言われているが、戦時には最前線の防衛拠点となったと考えられる。
向根古屋地区には喰違になった二重空堀と2つの櫓台跡があり、二重の堀の間には馬出まで造られている。こちらの構えも極めて厳重である。
この城の特徴として、よく北条氏の支配権が確立されてから、その手がかなり入ったと考えられているが、向根古屋地区を除けば、さほど影響は感じられない。というのも千葉氏は、支城にも総じて大規模な空堀や土塁を造る傾向があるからだ。ただし向根古屋地区の馬出を中心にした技巧的かつ無駄を省いた造りは、天正期の北条氏の城の影響を色濃く受けていると言ってもいいだろう。
城を守るには、ただ要害地形に城を築くだけでは駄目で、攻める立場になって攻撃方面や方法を想定し、いかに守るかまで考えた戦術レベルの思考が必要なことを、この城は教えてくれる。
すなわち、この城の設計者が本城域、荒上地区、向根古屋地区という3つの領域になぜ城域を分散したのか、その関係性を把握できると、この城の本質が理解できる。
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