
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
二人の軍神から攻められた城

印旛沼を望む標高25mほどの台地上に、その城はある。南北1㎞、東西600mと城域は広大だが、その縄張りは、さほど工夫が凝らされているわけではない。
だがこの城は、文明11年(1479)に太田道灌に、永禄7年(1564)に上杉謙信に攻められるという栄誉に浴することになる。
この時、道灌は攻略に成功したものの、弟の資忠や重臣多数を失うほどの損害をこうむり、一方の謙信は大敗を喫して関東から手を引くきっかけとなった。
二人の軍神が手を焼いた臼井城には、どんな秘密が隠されていたのだろうか。
太田道灌の戦い

享徳3年(1455)から文明14年(1483)にかけての関東では、古河公方と山内・扇谷両上杉氏の間で、いつ果てるともない戦いが続いていた。享徳の乱である。相模国守護の扇谷上杉定正の家宰を務める道灌も、古河公方陣営との戦いに明け暮れていた。
そうした最中の文明8年(1476)、山内上杉顕定の家臣の長尾景春が反旗を翻す。顕定に祖父や父が担っていた家宰職を取り上げられたのが原因だった。
景春に与同する勢力は多く、一時的に顕定と定正も追い込まれた。
当時、駿河今川家の後継者争いの仲裁に行っていた道灌は関東に戻ると、怒濤の勢いで景春方勢力を駆逐していった。
この時、景春が手を組んでいたのが下総の千葉孝胤だった。千葉氏は本佐倉城を本拠にして下総国から上総国にかけて強固な勢力基盤を築いており、境目を接する扇谷上杉氏の宿敵でもある。ちなみに臼井城の東7㎞の距離に本佐倉城があり、臼井城はその前衛の役割を果たしていた。
文明10年(1478)、道灌は下総方面への侵攻を開始し、境根原(現在の千葉県柏市の中心部)で千葉勢を破ると、その勢いで翌年1月、臼井城を囲んだ。しかし攻略するには至らず、道灌は弟の資忠に包囲を任せ、自らは下総・上総両国の千葉氏傘下国衆の駆逐にあたった。
この時も道灌は見事な手際で敵対勢力を平定し、臼井城を孤立させた。だが城に籠もる千葉氏重臣の原氏らも頑強な抵抗を示していた。
包囲戦が長期化し、太田勢の疲弊が目立ち始めたことに気づいた道灌は、いったん包囲を解いて江戸城に戻ることにした。だが城方に追撃戦を挑まれ、太田勢は劣勢に陥る。結局、この戦いで、太田勢は弟の資忠・資雄父子をはじめとした53人の名だたる武将が討ち取られた。それでも道灌は反撃に転じ、苦戦の末、臼井城を落城に追い込んだ。
この後、道灌は再起した景春との戦いを勝ち抜くが、宿敵千葉氏との決戦を前にして、主君の定正によって謀殺されることになる。
その理由は、定正の制止を聞かず(当時、上杉陣営では古河公方と和睦していた)、千葉氏との戦いに踏み切ったからだ。つまり臼井城への攻撃が、道灌の死の直接的なきっかけになったのだ。
上杉謙信の戦い

永禄7年(1564)、第2次国府台合戦で里見義弘を破った北条氏康は、房総地方への侵攻を速めていた。一方、里見氏から後詰要請を受けた謙信は翌8年の年末、関東へと越山してくる。謙信が関東入りしたことで、北条氏は防衛態勢を布かねばならず、里見氏は滅亡寸前の窮地を脱した。
同9年2月、謙信は下野国の唐沢山城を攻めることで北条方を牽制するが、北条方が後詰に出てこないのを知ると、矛先を転じて移動距離にして21里もある常陸国の小田城まで攻め寄せた。突然の上杉勢来襲に慌てた小田氏治は城を捨てて逃げ出す。
その後、下総国に入った謙信は、千葉氏傘下国衆の高城氏の小金城を攻めるが、攻略できないと分かると矛先を臼井城に転じた。この時、上杉勢は結城・小山・足利長尾・里見・土気酒井といった与党勢力を吸収し、3万の大軍になっていた。
一方、臼井城を守るのは、城主の原胤貞、千葉氏からの援軍、小田原から援将として入った松田康郷ら5000である。
城内の指揮を執るのは、千葉氏の軍師役を担っていた白井入道浄三こと白井胤治だった。
若い頃、兵法修行で諸国を旅し、京都を占拠していた三好長逸に仕え、上方の兵法を学んだ浄三は、それを関東に持ち帰り、千葉氏の戦いに貢献してきた。その結果、浄三は「関東無双の軍配者」(『房総里見誌』)と謳われるまでになっていた。
松田康郷はその名字の通り、北条氏の筆頭家老・松田一族に連なる猛将として知られ、朱具足を好んで着けていたこともあり、「北条の赤鬼」と呼ばれていた。
小金と臼井の間にある船橋を押さえ、兵糧などの物資を確保した謙信は、江戸から印旛沼まで続く下総道と呼ばれる街道を通って臼井城に攻め寄せた。この道は一本道で、左右には泥田や泥湿地が広がっていた。本来、印旛沼の周辺は極めて湿地が多く、大軍を進退させるのに適していない。とくに下総道は、泥田や湿地の中を一本道が通っているようなところだった。
3月20日、上杉方の攻撃が始まる。この時、参陣していた将の書状によると、「すでに臼井城の外郭は制圧し、実城(城の中心部)の堀一重を残すばかりです。諸軍は昼夜の別なく攻撃中ですので、ほどなくして落城するでしょう」とある。しかし上杉方の損害も大きく、とくに23日の総攻撃で多数の死傷者を出すに及び、戦いの継続は困難になった。
翌24日、上杉方は撤退に移るが、まさに道灌の時と同じような追撃戦が展開される。最後には敗走状態となったらしく、一気に上州まで撤退し、その後、越後に帰っていった。
この敗戦により、謙信の確立した関東支配体制は崩壊していくことになる。
北条氏政は武田信玄あての書状で、「敵数千人手負死人出来」と書き、古河公方足利義氏も「五千余手負い死人出来せしめ」と具体的な数字を記している。
『関八州古戦録』に見る臼井城攻防戦

戦国時代の関東の戦いを生き生きと描いた軍記物に『関八州古戦録』がある。ここから、この時の戦いをダイジェストで取り上げてみよう。
4月20日の未明、薄靄の中、法螺貝が響きわたり、陣鉦が鳴らされ、上杉方の攻撃が始まった。先手は岩付太田資正(道灌の子孫)で、その後に本庄繁長・河田長親・柿崎景家といった謙信股肱の重臣が続いた。
一方、白井入道浄三は大手口に攻め寄せる岩付太田・本庄の両勢を引き付けるだけ引き付け、反撃に転じて大損害を与えた。
一方、この間に上杉勢の別動隊が外曲輪を制圧すると、北条氏の援軍を率いてきた松田康郷が防戦に出て白兵戦を展開する。この時、康郷は大長刀で敵を6、7人倒すと、刃こぼれしたので樫の棒に持ち替えて戦ったという。
この日は雨が降り出して戦いはここまでとなったが、臼井城は落城を免れた。
その翌日も、上杉方の猛攻が続いたが、浄三は様々な奇策を弄し、さらに最後は自ら打って出て戦い、城を守り切った。
かくして城方の反撃に遭った上杉勢は敗走に入るのだが、臼井城の守備兵力では追撃戦はできない。おそらく上杉勢は、江戸湾を渡って船橋あたりに上陸した北条方と出合い頭にぶつかり、損害を大きくしたのではないだろうか。
印旛沼に抱かれた強靭な台地城

享徳年間(1452〜1454)に千葉氏庶流の臼井氏が築いたとされる臼井城だが、発掘調査の結果、臼井氏時代の城は本曲輪だけだったと分かり、現在、われわれが見ている臼井城は、戦国時代に城主だった原氏や、江戸時代初期に入部していた酒井家次(忠次の嫡男)の手になるものと考えられる。つまり道灌が攻め寄せた時の臼井城は本曲輪だけだったのだ。
それでは、今に残る臼井城の縄張りについて考えていこう。
臼井城は小高い丘の上に築かれた台地城で、大まかな構造としては、内郭部、外郭部、惣構部に分けられる。
内郭部は台地先端部に造られた本曲輪と二曲輪から成り、現在、公園化されている部分なので分かりやすい。東側の本曲輪と西側の二曲輪の間に横たわる堀は幅20mもあり、鉄砲戦に対応している。おそらく原氏時代に造られたものだろう。
内郭部の2つの曲輪は18mから24mほどの高さの台地上に築かれ、その下は、水堀か印旛沼から続く湿地になっているため、攻め口は内郭部の南西にある大手口に限られてくる。
外郭部にあたる三曲輪は北から西を経て南側にまで縦長に広がり、四曲輪はその東側、すなわち内郭部の南側の内懐にある。当時の印旛沼が北から東まで広がっていた上、西には手繰川が流れていたので、台地続きの南を強化した曲輪配置になっていた。発掘調査の結果、三曲輪には家臣団屋敷や寺社があり、四曲輪には城主の居館があったとされる。
さらに内郭部と外郭部を取り巻くように惣構部の砦群が設けられていたが、臼井城の場合、それぞれ離れた場所に一城別郭のような砦が築かれており、それらを有機的に連携させ、敵を撃退するという防御態勢が布かれていた。
例えば、大手口の東にある宿内砦、西にある田久里砦、さらに南にある稲荷台砦が、大手方面に攻め寄せる敵を三方から牽制・攻撃する役割を担うといった具合である。これら惣構部の砦群(稲荷台、宿内、田久里、仲代、州崎、王子台)を含めると、臼井城は南北1・65㎞、東西1・1㎞まで広がる。ただしこれらは、一城別郭的な位置付けになるので、城域に含めるかどうかは微妙だろう。
さらに臼井城には、師戸城・志津城・岩戸城・小竹城といった支城群もあり、これらが協力して臼井城を支えていた。
道灌と謙信が死闘を演じた臼井城だが、小田原合戦の折には戦わずして開城し、徳川氏重臣の酒井家次に下賜されるが、転封により慶長9年(1604)に廃城となった。
この城の強靭さは、一に周囲を湿地帯が取り巻いていたこと、二に攻め口が南側だけに限られていたこと、三に効果的な砦と支城の配置ができていたことに尽きるのではないだろうか。
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