教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
中世城郭と近世城郭
歴史は、大まかに言うと古代・中世・近世に分類される。古代とは天皇が政権の中心にいた大和・奈良・平安時代のことで、中世は元暦2年(1185)の鎌倉幕府の成立から、天正元年(1573)の室町幕府の滅亡までの、鎌倉から室町時代にわたる武家政権の4世紀を指す。
一方、近世とは安土桃山時代と江戸時代のことを指し、強力な統一政権の登場する時代のことだ。
こうした政治史的背景の違いから、城郭の概念そのものも異なってくる。
中世城郭に多いのが山城や平山城で、山上の尾根伝いに段々畑状の小さな曲輪を幾重にも連ね、曲輪を守る防御パーツとして切岸・空堀(堀切や竪堀)・土塁が発達していく。こうした城は、石垣があっても土留めや石積みの延長線上の野面積みが大半で、技術的に高石垣を築くことができず、何段かに分けたり、腰巻や鉢巻と呼ばれる石垣を築いていた。
その後、戦国大名の巨大化に伴い、その勢力に見合った規模の城が出現し始める。北条氏の小田原城、上杉氏の春日山城、浅井氏の小谷城、尼子氏の月山富田城などだ。
そうした過渡期的な巨大城と並行するように、近世城郭が出現する。
近世城郭の出現は、天正7年(1579)に織田信長が築いた安土城から始まるというのが定説だが、突然、安土城が出現したわけではなく、小牧・岐阜両城での試行錯誤を重ねた末の一つの結論が安土城だった。すなわち軍事施設的要素が次第に後退し、「見せる」要素が強くなっていくのだ。そのためには高石垣や巨大天守といった威厳を象徴するパーツが必要で、さらに「見せる」ために、城は山から小丘へ、さらに平地へと築かれる場所さえ変わっていく。
本能寺の変で信長が横死した後、その後継者となった秀吉により、近世城郭は全国へと普及していく。これには天下人として、配下の諸大名に普請作事を割り当てるという「天下普請」という形で行われるようになり、天下人は経済的負担なくして、各地に巨大な持ち城を築いていくことになる。大坂城、聚楽第、肥前名護屋城、伏見城などだ。
また大名たちも豊臣大名であることを誇示するかのように、石垣造りの大城郭を築くようになり、近世城郭が日本の隅々にまで広がっていく。
その後、政権は豊臣氏から徳川氏に移り、江戸幕府が開府されるが、家康も天下普請によって伏見(再築)、彦根、江戸、駿府、篠山、丹波亀山(再築)、名古屋、越後高田の諸城を次々と築いていった。同時に、外様大名も一国一城令によって一つの城に財力を注ぐようになり、各地に巨大な近世城郭が次々と出現することになる。これが慶長の築城ラッシュである。
そうした中、少し遅れて関東でも一つの近世城郭が築かれた。この城は、規模的には各地に築かれた巨大城郭に見劣りするものの、その考え尽くされた縄張りから、近世城郭の傑作と呼ばれる。それが佐倉城である。
佐倉城の起源と歴史
まずは以下の大前提からご理解いただきたい。
佐倉城の近くには本佐倉城という城があり、よく混同される。実は、戦国時代には本佐倉城が佐倉城と呼ばれ、佐倉城は「かしまの城」、すなわち鹿島城と呼ばれていた。その名称のままだったら混乱は避けられたのだが、江戸時代になってから、こちらが佐倉城と呼ばれたので、便宜上、本来の佐倉城は本佐倉城と呼ばれることになる。それだけならまだしも、鹿島神宮のすぐ西に鹿島城と呼ばれる別の城があるので、さらにややこしくなる。しかもこちらの鹿島城も大きな城で、今でも土塁や空堀などの遺構が見られる。
まずは、こうした複雑な前提を知っていただいた上で、近世城郭・佐倉城の説明に入りたいと思う。
それでは、佐倉城の起源を鹿島城時代から探っていこう。
下総国一帯は、平安時代からこの地域に根を張る千葉氏の勢力圏だった。千葉氏は坂東八平氏の流れを汲む名族で、頼朝の挙兵に応じて勢力を拡大し、最盛期には上総国にまで勢力を伸ばしていた。しかし内訌が絶えない一族でもあり、室町時代から戦国時代にかけては、古河公方勢力の一翼を担っていた程度で、戦国大名化するまでには至らなかった。
戦国時代前期、千葉親胤が傘下国衆の鹿島氏に命じて「かしまの城」の築城を開始させたが、親胤が家臣の原氏によって暗殺されることで頓挫した。それでも千葉邦胤が築城を再開させたものの、邦胤も近習に殺され、またしても普請作業が停滞する。そのため城ではなく「鹿島台」と呼ばれていたが、天正年間中盤に、小田原北条氏の協力を得て城の体裁が整えられた。
この時、城の構えはある程度、完成していたらしく、調査によって千葉氏時代の城の痕跡が確かめられている。
しかし天正18年(1590)の小田原合戦で、北条氏に与した千葉氏は共に没落してしまう。これにより「かしまの城」は廃城となる。そこに新たに入封してきたのが徳川家康だった。
慶長15年(1610)、土井利勝がこの地に3万2000石で封じられ(後に14万2000石に加増)、旧城を徹底的に破却した上に、近世城郭・佐倉城を創築することになる。
関ヶ原合戦が慶長5年(1600)に勃発し、大坂の陣が慶長19年(1614)から始まるので、佐倉城が築かれた慶長15年は、慶長の築城ラッシュの真っただ中だった。
利勝は家康・秀忠・家光の三代にわたって仕えた優秀な官僚で、秀忠の側近からスタートし、朝鮮使節団との外交折衝から、一国一城令と武家諸法度の制定を中心になって行うなど辣腕を振るった。すなわち利勝は、江戸幕藩体制の基盤を作った一人といっても過言ではない。それでも寛永10年(1633)、利勝は古河へと移封され、以後、譜代大名が次々と佐倉に封じられていく。
土井氏の移封後も佐倉城を本拠とする佐倉藩には様々な大名が入ったが、そのことごとくが老中や京都所司代といった幕府の要職に就いたため、佐倉城は出世城と呼ばれるようになる。
しかし、延享3年(1746)に堀田氏が入封してから後は、藩主の変動がなく、佐倉藩堀田氏は廃藩置県まで続いていく。ところが明治6年(1873)、城内に東京鎮台の佐倉連隊(歩兵第一連隊)の本営が置かれたことで、遺構の一部が破壊されてしまう。それでも戦後、佐倉城址公園として整備されることで、一般の方にも見学しやすい城となった。
とくに桜の季節には多くの人が訪れることから、今では50品種1100本の桜が植えられているという。佐倉城は、まさに名の通りの桜城となった。
佐倉城の占地と構造
この城は、西に流れる鹿島川と南に流れる高崎川の間にある比高20mから30mの河岸段丘の鹿島山に築かれており、周囲には低湿地が広がっていた。つまり、両河川を通じて印旛沼にも進出できるという利点があり、「かしまの城」時代には、本佐倉城や臼井城への後詰が、容易な位置にあった。
城のある鹿島台地は北から西にかけて急崖を成しており、南は台地先端部のため、寄手が展開しにくい。東だけが地続きとなっていたので、自然、そちらの防御性を高めることになる。
すなわち鹿島川に面した台地の西端に本丸を配し、北東と南東に曲輪を連ねる形を取ることで、東から攻め寄せる敵を左右から攻撃できるような縄張りにしたのだ。
四方が土塁で囲まれた本丸の西端には天守(御三階櫓)がある。この天守は1階部分が土塁に懸かるように造られており、城外から見ると三層で、城内から見ると四層というユニークなものだった。しかし文化10年(1813)に火災によって焼失し、以後、再建されることはなかった。
天守の東には銅櫓が建てられていたが、明治維新後は老朽化が激しく、明治4年(1871)に取り壊された。その時の写真を見ると、銅葺きで宝形造の二重櫓だったと分かる(金閣寺に似ている)。一説に江戸城から移築され、太田道灌時代のものだったとされるが、あながち伝承と片付けられない古風な趣がある。
本丸内には御殿があり、虎口は東と南の2カ所に設けられていた。佐倉城には本丸、二の丸、三の丸の要所に豪壮な櫓門が5棟もあったが、そのことごとくが現存していない。佐倉連隊によって取り払われたのだ。
写真を見る限り、いずれも同じ形式だったらしく、二層2階建てで1階部分の腰屋根が、門の周囲にめぐらされた築地塀まで続いていくという造りをしていた。
また本丸を守るように、南西と北西に出丸が設けられている。これらの出丸は搦手の守りを担っていた。
東から南にかけては、本丸を包み込むように逆L字型の二の丸が配され、北と東に櫓門があった。二の丸と三の丸の間には、屈曲した巨大な土塁があったが、こちらも佐倉連隊の兵舎設営のために取り払われてしまった。
三の丸の見どころは、空堀を互い違いに走らせて馬出を形成しているところで、この馬出の東には、長い張り出し曲輪が造られ、馬出を攻め取ろうとする敵がいれば、背後から攻撃できるようになっていた。
三の丸の馬出の外には、広小路と呼ばれる直線の大通りが東南方向に向かって大手門まで続いていたが、道の屈曲は一切なく、極めて近世的である。大手門も豪壮な櫓門で、近世的な内桝形を伴っていた(現存せず)。
三の丸の北東側に目を転じると、椎木門と呼ばれる櫓門があり、その外側に佐倉城の象徴とも言える巨大な角馬出がある。この角馬出に付随する「馬出空堀」はコの字型になっており、北東に面した長辺が121mで、左右の短辺が40mという壮大なもので、見る者を圧倒する。
佐倉城は河岸段丘上という占地、桝形よりも馬出で守るという防御方法、高石垣がない点、出丸の存在、堀と土塁を駆使した技巧的で配慮が行き届いた縄張りなどから、緊張感の高かった中世の平山城を思わせる。
その一方、天守の存在、屈曲のない通路、一つひとつの曲輪を大きく取っている点、巨大な水堀などから近世城郭的装いも施されている。
つまりこの城は実戦的なパーツを十分に備えつつも、「見せる城」としての要素を併せ持った過渡期の城だったのだ。
そういう意味では丹波篠山城と並び、2つの要素をうまく組み合わせたハイブリッドな城と言えるだろう。
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