多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、千葉県「国府台城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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水陸の交通を掌握する城

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城というのは面白いもので、さして特徴もなく防御力も高そうでない城が、その占地から幾度も攻防戦の中心になることがある。国府台城もそうした城の一つで、戦国時代には二度にわたって激しい攻防戦が繰り広げられたことで知られている。

国府台城のある市川市は、古代には下総国府が置かれた地でもあり、交通の要衝として重要視されてきた。城の南方半里にある市川津は下総国最大の港で、当時から交易によって栄えていた。

一方、北方に延びる街道は矢切・松戸方面へと続き、太日川(現・江戸川)を渡った先にある葛西城や、さらに利根川を渡った先にある江戸城ともつながっていた。つまりこの城は、江戸方面と房総半島をつなぐ中継基地でもあった。また太日川河畔に築かれていたので、その水運を掌握して関東内陸部への物資輸送を制御できた。

すなわち国府台城は、水陸共に極めて重要な位置にあったと言える。

それでは城を見ていこう。

この城は、太日川の造る比高20〜25mほどの河岸段丘上に築かれており、種別としては崖端城と呼ばれるものにあたる。

その占地だが、北から南に延びる半島状の親台地は、東側が太日川に面する形になっている。だが城のある子台地は、逆に南東側を基部にして、北西に向かって舌のように延びている。太日川の流れが支流のようになって親台地を侵食するため、こうした地形になる。

これにより城の周囲は太日川に面しているか、流れが入り込んだ泥湿地となっており、唯一、陸続きの南東方向の防御さえ固めればいいことになる。

城域は南北550m、東西は最大幅200mで、細長い地形から分かる通り、縄張りは連郭式である。

まず基部にあたる南端部から少し東に離れた場所に、日蓮宗真間山弘法寺がある(里見公園内にある曹洞宗安国山総寧寺ではないので注意)。この寺は奈良時代からある古刹で、最初から出城の役割を担わされていたわけではないが、東から来る敵を押さえるには理想的な場所にあり、寺の門前を通らないと国府台城に至らなかった可能性がある。

城内の縄張りは、中央部に最高所となる主郭を置き、その北東に二曲輪、北に三曲輪と四曲輪、南に五曲輪といった構成になる。だが、こうした区分けは近世になって便宜的になされたもので、どのような目的で曲輪が区分されていたのかは定かでない。

この舌状台地の先端部、すなわち北端部には、かつて丸山と呼ばれた小丘があり、丸山古墳という古代の遺構があった。城とは堀切で隔てられていたと推定され、北方の前衛を成していたと思われる。だが今は、宅地化の際に削平されてしまって痕跡さえない。

この城には二重土塁があり、古墳の遺構を活用したとされているが、そうした点も、この城を見る場合の注目点であろう。

こうしたことから分かる通り、国府台城は太日川に張り出した台地上にあるため、周囲を川水か湿地に囲まれており、南の前衛を弘法寺が成し、北の前衛を丸山が成すという構造になっていたと思われる。冒頭で「防御力も高そうでない城」と書いたものの、意外に抗堪力のある城だったのかもしれない。

国府台城の歴史

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国府台城らしき城が初めて文書に登場するのは康正元年(1455)のことで、千葉本家の胤直が馬加康胤によって滅亡に追い込まれた時、残された千葉一族が「市川の城」に立て籠もったという。しかし市川の城は国府台城ではないという説もあり、定かではない。

国府台城が間違いなく歴史上に姿を現すのは、文明10年(1478)12月の境根原合戦の時だ。

創築者は太田道灌の可能性が高い。というのも道灌は、その時に出した書状で、「下総国府臺(台)に陣取、かりの陣城をかまへける」と書いており、合戦に先立ち、陣城としてこの城を創築したと分かる。

続いて文明11年(1479)7月には、「下総臼井城を責しにも、鵠臺に初構城(下総国の臼井城を攻めた際に、国府台に初めて城を構える)」とあるので、この頃に本格的に取り立てられたと分かる。その後、道灌は多大な犠牲を払って臼井城の攻略に成功するが、その勝利も、江戸城と臼井城包囲陣をつなぐ中継基地の役割を果たした国府台城があってのものだったに違いない。

それから60年後の天文7年(1538)10月、小弓公方勢2000と北条勢5000が(北条方の決戦参加人数は3000)、国府台城の近くで衝突した。第1次国府台合戦である。

この合戦に至る経緯は次のようになる。

二代目古河公方の足利政氏には何人かの息子がいたが、そのうちの一人である義明は、政氏の隠退後、その跡を継いだ嫡男の高基に反旗を翻し、国府台城の南東2里ほどにある小弓城に拠った。

『鎌倉公方九代記』では、義明のことを「其の心飽くまで不敵にして、骨太く力強く、早業打物の達者、当代無双の英雄なり」と評しているが、それは事実で、義明の勢威は下総南部から上総・安房両国にまで及び、「御家風、東国を覆う」(同書)とまで謳われた。

この戦いは、国府台城とは太日川と利根川を隔てた西にある葛西城を攻略された小弓公方の足利義明が、勢力を挽回しようと北上作戦を開始したことに起因する。

まず義明が先勢を相模台に入れて北条方を牽制すると、北条方は太日川を渡って松戸台に先勢を布陣させた。これに対し、義明自ら国府台城を出て決戦に臨んだ。

結果的には、相模台と松戸台の間にある隘路に誘い込まれた小弓方の惨敗となり、義明や嫡男の義純ら一族がことごとく討たれ、近臣や馬廻衆も140人が討ち死にを遂げた。

戦われた場所が松戸台の足下のため、この合戦は別名、松戸台の戦いとも呼ばれる。国府台城での戦いはなかったので、この呼び名の方がしっくりくる。

これにより関東の覇権をめぐる戦いは、古河公方足利晴氏(高基の嫡男)と結んだ北条氏が握ると思われたが、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東の秩序回復を目指して頻繁に攻め入ってくることで、戦乱は続いていく。

次に国府台城が合戦の舞台となったのは、永禄5年(1562)から6年(1563)の戦いである。この時の戦いは、北条・武田両軍に囲まれた松山城の上杉憲勝と岩付城の岩付太田資正を支援すべく、里見義堯が国府台城に進出してくることで始まった。

里見方は同盟者の長尾景虎から、籠城中の岩付城に兵糧を入れるように命じられていたため、国府台城に入り、市川津で商人たちと交渉していた。だが米商人と値段の折り合いがつかず、ずるずると日々を過ごしていた。

それを知って国府台城に奇襲を掛けた北条方だったが、江戸城将の江戸太田康資の裏切りなどもあり、江戸城代の遠山綱景や同城将の富永康景ら140と、雑兵900が討ち取られ、緒戦は里見方の勝利に終わる。

それでも逆襲に転じた北条方が国府台城の攻略に成功し、里見方は安房国目指して退却していくことになる。これが第2次国府台合戦である。

ただし最新の説には、里見方は永禄6年頃から断続的に下総方面に進出しており、それに伴う小競り合いがあり、その結果、永禄7年(1564)の正月8日に一大決戦が勃発したと言われている。

幕末の国府台城

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この城は第2次国府台合戦以後、北条氏の占領下に置かれたはずだが、記録には全く出てこない。この辺りは北条氏傘下の千葉氏や高城氏の勢力圏なので、北条氏にとって不要な城となり、そのまま廃城とされた可能性が高い。

天正18年(1590)の北条氏滅亡により、秀吉は家康を関東に移封する。その時も、この城が使われた形跡はない。

ただし第2次国府台合戦から約300年後の慶応4年(1868)4月、すでに廃城となっていたこの城が、大鳥圭介率いる幕府伝習隊をはじめとする佐幕派諸隊の参集地になる。その中には新選組を率いる土方歳三もいた。

厳密には、彼らが軍議を行ったのは近くにある大林院という寺だったが、2000に及ぶ兵を収容した上、新政府軍の急襲に備えるには、国府台城に兵を駐屯させるほかない。それゆえ一時的に駐屯地として使われた可能性が高い。

この時の軍議では「しばしの間、この地で形勢を観望しよう」という意見もあったというが、結局、将軍慶喜が謹慎地の水戸に向かったことで、彼らは江戸周辺での決戦をあきらめ、北上の途に就く。だが別の判断が下されていれば、上野戦争同様の近代戦が、国府台城をめぐって行われたかもしれない。

その後、城内には第2次大戦中に首都防衛のための高射砲陣地が設置された。江戸湾から江戸川をさかのぼってくる米軍の舟艇に備えたのだという。

この時、土塁の多くには防空壕が掘られたため、地形の改変がはなはだしく、それも国府台城の構造を分かりにくくしている一因となっている。

さらに戦後になってからは、中核部が里見公園として整備され、また周囲の宅地化が進んだことで、煙滅してしまった遺構が多く、その全体像をイメージするのは、さらに難しくなってしまった。

ただし公園化された城内を歩くと、土塁・空堀・櫓台跡・堀切・虎口といった遺構が散見されるので一見の価値はある。さらに城内には、発掘された古墳や石棺もあり、この城が古墳時代から近世まで、様々な目的で使用されていたと分かる。 

つまり国府台城は、古墳時代から近代まで1000年近くにわたって、何らかの形で使用されてきたのだ。

城というのは短命なものもあれば、長命なものもある。大坂城の出城である真田丸のように、半年ほどの間、華々しく歴史の表舞台に登場して消えていくものもあれば、国府台城のように、目立たないながら長命を保つものもある。まさに人の一生と同じく、城にも様々な生涯がある。

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歴史歴史作家の城めぐり

戦国関東の覇権を左右した河畔の城「国府台城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #17】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、千葉県「国府台城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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水陸の交通を掌握する城

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城というのは面白いもので、さして特徴もなく防御力も高そうでない城が、その占地から幾度も攻防戦の中心になることがある。国府台城もそうした城の一つで、戦国時代には二度にわたって激しい攻防戦が繰り広げられたことで知られている。

国府台城のある市川市は、古代には下総国府が置かれた地でもあり、交通の要衝として重要視されてきた。城の南方半里にある市川津は下総国最大の港で、当時から交易によって栄えていた。

一方、北方に延びる街道は矢切・松戸方面へと続き、太日川(現・江戸川)を渡った先にある葛西城や、さらに利根川を渡った先にある江戸城ともつながっていた。つまりこの城は、江戸方面と房総半島をつなぐ中継基地でもあった。また太日川河畔に築かれていたので、その水運を掌握して関東内陸部への物資輸送を制御できた。

すなわち国府台城は、水陸共に極めて重要な位置にあったと言える。

それでは城を見ていこう。

この城は、太日川の造る比高20〜25mほどの河岸段丘上に築かれており、種別としては崖端城と呼ばれるものにあたる。

その占地だが、北から南に延びる半島状の親台地は、東側が太日川に面する形になっている。だが城のある子台地は、逆に南東側を基部にして、北西に向かって舌のように延びている。太日川の流れが支流のようになって親台地を侵食するため、こうした地形になる。

これにより城の周囲は太日川に面しているか、流れが入り込んだ泥湿地となっており、唯一、陸続きの南東方向の防御さえ固めればいいことになる。

城域は南北550m、東西は最大幅200mで、細長い地形から分かる通り、縄張りは連郭式である。

まず基部にあたる南端部から少し東に離れた場所に、日蓮宗真間山弘法寺がある(里見公園内にある曹洞宗安国山総寧寺ではないので注意)。この寺は奈良時代からある古刹で、最初から出城の役割を担わされていたわけではないが、東から来る敵を押さえるには理想的な場所にあり、寺の門前を通らないと国府台城に至らなかった可能性がある。

城内の縄張りは、中央部に最高所となる主郭を置き、その北東に二曲輪、北に三曲輪と四曲輪、南に五曲輪といった構成になる。だが、こうした区分けは近世になって便宜的になされたもので、どのような目的で曲輪が区分されていたのかは定かでない。

この舌状台地の先端部、すなわち北端部には、かつて丸山と呼ばれた小丘があり、丸山古墳という古代の遺構があった。城とは堀切で隔てられていたと推定され、北方の前衛を成していたと思われる。だが今は、宅地化の際に削平されてしまって痕跡さえない。

この城には二重土塁があり、古墳の遺構を活用したとされているが、そうした点も、この城を見る場合の注目点であろう。

こうしたことから分かる通り、国府台城は太日川に張り出した台地上にあるため、周囲を川水か湿地に囲まれており、南の前衛を弘法寺が成し、北の前衛を丸山が成すという構造になっていたと思われる。冒頭で「防御力も高そうでない城」と書いたものの、意外に抗堪力のある城だったのかもしれない。

国府台城の歴史

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国府台城らしき城が初めて文書に登場するのは康正元年(1455)のことで、千葉本家の胤直が馬加康胤によって滅亡に追い込まれた時、残された千葉一族が「市川の城」に立て籠もったという。しかし市川の城は国府台城ではないという説もあり、定かではない。

国府台城が間違いなく歴史上に姿を現すのは、文明10年(1478)12月の境根原合戦の時だ。

創築者は太田道灌の可能性が高い。というのも道灌は、その時に出した書状で、「下総国府臺(台)に陣取、かりの陣城をかまへける」と書いており、合戦に先立ち、陣城としてこの城を創築したと分かる。

続いて文明11年(1479)7月には、「下総臼井城を責しにも、鵠臺に初構城(下総国の臼井城を攻めた際に、国府台に初めて城を構える)」とあるので、この頃に本格的に取り立てられたと分かる。その後、道灌は多大な犠牲を払って臼井城の攻略に成功するが、その勝利も、江戸城と臼井城包囲陣をつなぐ中継基地の役割を果たした国府台城があってのものだったに違いない。

それから60年後の天文7年(1538)10月、小弓公方勢2000と北条勢5000が(北条方の決戦参加人数は3000)、国府台城の近くで衝突した。第1次国府台合戦である。

この合戦に至る経緯は次のようになる。

二代目古河公方の足利政氏には何人かの息子がいたが、そのうちの一人である義明は、政氏の隠退後、その跡を継いだ嫡男の高基に反旗を翻し、国府台城の南東2里ほどにある小弓城に拠った。

『鎌倉公方九代記』では、義明のことを「其の心飽くまで不敵にして、骨太く力強く、早業打物の達者、当代無双の英雄なり」と評しているが、それは事実で、義明の勢威は下総南部から上総・安房両国にまで及び、「御家風、東国を覆う」(同書)とまで謳われた。

この戦いは、国府台城とは太日川と利根川を隔てた西にある葛西城を攻略された小弓公方の足利義明が、勢力を挽回しようと北上作戦を開始したことに起因する。

まず義明が先勢を相模台に入れて北条方を牽制すると、北条方は太日川を渡って松戸台に先勢を布陣させた。これに対し、義明自ら国府台城を出て決戦に臨んだ。

結果的には、相模台と松戸台の間にある隘路に誘い込まれた小弓方の惨敗となり、義明や嫡男の義純ら一族がことごとく討たれ、近臣や馬廻衆も140人が討ち死にを遂げた。

戦われた場所が松戸台の足下のため、この合戦は別名、松戸台の戦いとも呼ばれる。国府台城での戦いはなかったので、この呼び名の方がしっくりくる。

これにより関東の覇権をめぐる戦いは、古河公方足利晴氏(高基の嫡男)と結んだ北条氏が握ると思われたが、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東の秩序回復を目指して頻繁に攻め入ってくることで、戦乱は続いていく。

次に国府台城が合戦の舞台となったのは、永禄5年(1562)から6年(1563)の戦いである。この時の戦いは、北条・武田両軍に囲まれた松山城の上杉憲勝と岩付城の岩付太田資正を支援すべく、里見義堯が国府台城に進出してくることで始まった。

里見方は同盟者の長尾景虎から、籠城中の岩付城に兵糧を入れるように命じられていたため、国府台城に入り、市川津で商人たちと交渉していた。だが米商人と値段の折り合いがつかず、ずるずると日々を過ごしていた。

それを知って国府台城に奇襲を掛けた北条方だったが、江戸城将の江戸太田康資の裏切りなどもあり、江戸城代の遠山綱景や同城将の富永康景ら140と、雑兵900が討ち取られ、緒戦は里見方の勝利に終わる。

それでも逆襲に転じた北条方が国府台城の攻略に成功し、里見方は安房国目指して退却していくことになる。これが第2次国府台合戦である。

ただし最新の説には、里見方は永禄6年頃から断続的に下総方面に進出しており、それに伴う小競り合いがあり、その結果、永禄7年(1564)の正月8日に一大決戦が勃発したと言われている。

幕末の国府台城

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この城は第2次国府台合戦以後、北条氏の占領下に置かれたはずだが、記録には全く出てこない。この辺りは北条氏傘下の千葉氏や高城氏の勢力圏なので、北条氏にとって不要な城となり、そのまま廃城とされた可能性が高い。

天正18年(1590)の北条氏滅亡により、秀吉は家康を関東に移封する。その時も、この城が使われた形跡はない。

ただし第2次国府台合戦から約300年後の慶応4年(1868)4月、すでに廃城となっていたこの城が、大鳥圭介率いる幕府伝習隊をはじめとする佐幕派諸隊の参集地になる。その中には新選組を率いる土方歳三もいた。

厳密には、彼らが軍議を行ったのは近くにある大林院という寺だったが、2000に及ぶ兵を収容した上、新政府軍の急襲に備えるには、国府台城に兵を駐屯させるほかない。それゆえ一時的に駐屯地として使われた可能性が高い。

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その後、城内には第2次大戦中に首都防衛のための高射砲陣地が設置された。江戸湾から江戸川をさかのぼってくる米軍の舟艇に備えたのだという。

この時、土塁の多くには防空壕が掘られたため、地形の改変がはなはだしく、それも国府台城の構造を分かりにくくしている一因となっている。

さらに戦後になってからは、中核部が里見公園として整備され、また周囲の宅地化が進んだことで、煙滅してしまった遺構が多く、その全体像をイメージするのは、さらに難しくなってしまった。

ただし公園化された城内を歩くと、土塁・空堀・櫓台跡・堀切・虎口といった遺構が散見されるので一見の価値はある。さらに城内には、発掘された古墳や石棺もあり、この城が古墳時代から近世まで、様々な目的で使用されていたと分かる。 

つまり国府台城は、古墳時代から近代まで1000年近くにわたって、何らかの形で使用されてきたのだ。

城というのは短命なものもあれば、長命なものもある。大坂城の出城である真田丸のように、半年ほどの間、華々しく歴史の表舞台に登場して消えていくものもあれば、国府台城のように、目立たないながら長命を保つものもある。まさに人の一生と同じく、城にも様々な生涯がある。

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