歴史歴史作家の城めぐり

激しい攻防戦を勝ち抜いた歴戦の雄「岩付城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #16】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、埼玉県「岩付城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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武蔵国の戦国前史

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荒川、太日川、利根川、多摩川などの大河川が流れ込む武蔵国は、まさに関東平野の中心であり、その地味の豊かさは東国随一と言ってもいいだろう。慶長3年(1598)の検地では、武蔵国が66・7万石なのに対し、相模国が19・4万石、上野国が49・6万石、下野国が39・4万石だった。つまり「武蔵国を制すれば関東を制する」と言っても過言ではない大国だった。

しかも武蔵国は山が少ない上、土地が肥沃で気温も温暖なので、奈良・平安の昔から、赴任した国司らが土着することが多かった。彼らは開墾事業を行いつつ所領を拡大する開発領主となっていく。さらに血縁関係で結束し、坂東八平氏や武蔵七党といった徒党を組み、勢力を伸長させていった。

そんな彼らも、12世紀後半に成立した鎌倉幕府の統制下に入り、御家人として地位が固定化されていく。有力な武蔵武士としては、畠山重忠、比企能員、河越重頼、江戸重長などが挙げられるが、彼らの持つ武力が次第に幕府にとって脅威となっていったため、それぞれ難癖を付けられて討伐されていった。

彼らを滅ぼした執権北条氏は建武の新政によって滅亡し、代わって下野国出身の足利尊氏が室町幕府を開いた。しかし敵対する後醍醐天皇は関東にも勢力を伸ばそうとし、また執権北条氏も関東を一時的に奪還するなど(中先代の乱)、武蔵国をめぐる戦いは続いた。

山岳地帯が少なく、鎌倉街道の上道・中道・下道とその支線がいくつも通っている武蔵国の戦いは激戦になることが多々あり、戦国時代が始まる前にも多くの血が流された。

貞和5年(1349)、尊氏は次男の基氏を鎌倉に派遣し、鎌倉公方府を設立した。しかし観応の擾乱が起こり、尊氏と弟の直義が対立する。この戦いに勝った尊氏・義詮父子により、室町幕府の基盤は固まるが、新田義興(義貞の子)の反乱によって、またしても関東は戦乱に見舞われる。それでも明徳3年(1392)、南北朝の統一が果たされ、関東にもようやく平穏が訪れた。しかしその後、鎌倉公方足利持氏は将軍と対立し、その代理とも言える関東管領の山内上杉氏らと戦った末、永享11年(1439)に滅亡する。

紆余曲折を経た後、康正元年(享徳4年)(1455)、持氏の息子の成氏は本拠を鎌倉から常陸国の古河に移し、関東を二分する大乱が始まる。享徳の乱と呼ばれるこの戦いは、この年から28年間も続くことになる。

その最中に築かれたのが岩付城である。

岩付城をめぐる攻防

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古河公方を支持する国衆の勢力は意外に大きく、関東管領・山内上杉氏と相模守護職・扇谷上杉氏の連合軍と利根川を挟んで対峙するようになった。これを危惧した扇谷上杉持朝は家宰の太田道真(道灌の父)に命じ、勢力圏の要衝に城を築かせることにした。これが江戸・河越・岩付の三城である。

『鎌倉大草紙』によると、扇谷上杉持朝が河越城、道真が岩付城、道灌が江戸城を築いたとされる。だが最新研究によると、岩付城は文明年間(1469~1489)、古河公方陣営に属する成田正等によって築城されたという。また河越・江戸両城も道真・道灌父子の下役にあたる扇谷上杉氏の宿老たち(上田・三戸・荻野谷氏ら)が、「数年秘曲を尽くして」造ったものだという(『松陰私語』)。

築城者を特定するのは難しいもので、誰が築城資金を出したのか、誰が縄張りを描いたのか、誰が普請作事の指揮を執ったのかなどで、用語の使い方が一定していない。この場合は普請作事の指揮を執ったという意味だとは思うが、実際のところは分からない。

いずれにせよ岩付城は長禄元年(1457)に築城が開始され、寛正5年(1464)に完成したとされる。しかしその後、いったん史料から消え、16世紀前半、岩付太田氏の居城として歴史に再登場する。

大永4年(1524)正月、伊勢から北条へと姓を変え、小田原に本拠を移した北条氏の二代目当主・氏綱は、突如として扇谷上杉氏領国への侵攻を開始する。それまで小弓公方義明―扇谷上杉朝興―北条氏綱という政治的枠組みが作られ、三者は同盟関係にあったが、それが一瞬にして崩れ去ったのだ。

氏綱は扇谷上杉方の江戸城を囲んだが、実はこの10日前、朝興が山内上杉憲房と攻守同盟を結ぶため河越城に向かっており、その隙を突いてのことだった。朝興は前年から山内上杉氏との同盟締結を模索しており、その情報が北条方に漏れ、氏綱は先手を打ったのだ。

江戸城を囲んだ氏綱は、城代として城を守る太田資高(江戸太田氏)に降伏を呼びかける。これに応えた資高は戦わずして城を明け渡した。

この一大事に、朝興は憲房との合流を果たして反撃態勢を整える。しかし2月、こちらも北条方に寝返った太田資頼(岩付太田氏)によって岩付城が攻略された。この時の戦いは凄惨で、敵味方3000の死傷者を出したという。

江戸城と岩付城を奪われた朝興は憲房の支援を得て反撃を開始し、大永5年(1525)8月、白子原の戦いで勝利して退勢を挽回した。

翌大永6年(1526)には岩付城も奪還し、北条方勢力を相模国まで後退させたが、この後、大永7年(1527)から享禄2年(1529)までの記録に欠落があり、関東の動静は不明となる。

それでも享禄3年(1530)、朝興は多摩川流域の小沢城や世田谷城を落とし、北条方を江戸城まで追い込んでいるので、上杉方有利の情勢は変わらなかったのだろう。

しかし天文4年(1535)、北条方は南下してきた上杉方と武蔵国狭山の入間川付近で激突し、大勝利を収めている。

天文6年(1537)には、朝興の死去に伴い跡を継いだ朝定が河越城近郊で大敗を喫し、80年余にわたって本拠としてきた河越城を失ってしまう。

翌天文7年(1538)正月、朝定は新たに山内上杉氏当主となった憲政と共に河越城近郊まで攻め寄せるものの、再び大敗を喫する。

相次ぐ敗戦に、扇谷上杉氏の勢力は朝定のいる松山城と重臣・太田資頼の岩付城周辺に限られ、国人程度にまで勢力を縮小させた。

ところが天文10年(1541)、氏綱が死去することで、上杉陣営は大反撃に出る。

河越合戦である。

その後の岩付城

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河越合戦には、岩付城主・太田全鑑(資顕)の弟の資正も参加していた(2人は資頼の子)。上杉方は8万もの軍勢を擁し、一方の北条方は河越城籠城衆3000に、氏康が小田原から率いてきた5000を足した8000である。つまり10倍もの戦力差があった。

だがこの時、全鑑は北条方と誼を通じ、資正に戦わないで兵を引くよう指示したようだ。その後、氏康の積極果敢な攻撃により上杉方は瓦解し、朝定は討ち死にを遂げて扇谷上杉氏は滅亡するが、資正は戦わずに兵を引いた。

なお河越合戦の詳細経緯は、拙著『戦国北条記』(PHP文庫)をご参照いただきたい。

その後、岩付城は北条氏と岩付太田氏の間で取ったり取られたりが繰り返される。全鑑の跡を継いだ資正は北条方と敵対し、越後の上杉謙信が関東の戦いにかかわってくると一貫して謙信を支持し、北条氏に対して粘り強い抵抗を続けた。

しかし永禄7年(1564)、同盟する里見氏との軍議に向かった資正の留守を突き、親北条派の長男・氏資が反乱を起こし、岩付城を乗っ取ってしまう。

これにより岩付城は北条氏の所有となり、以後、天正18年(1590)の小田原合戦で壮絶な落城を遂げるまで、その支配下に置かれることになる。

惣構を持つ巨城

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小田原合戦を迎えるにあたり、岩付城には大改修が加えられた。それ以前の縄張りについては定かなことが分かっていないので、最終的な姿を記したいと思う。

現在の岩槻市の東端に築かれたこの城は当時、元荒川が城の北から東にかけて流れていたこともあり、周辺は湿地帯だった。そうした場所に城を築くことは容易でなく、創築者の成田氏は、独自の技術を持っていたと推察される(忍城の発掘調査で証明された)。

また岩付城は最高所の比高差が7・3mの平城ということもあり、城内や付近の宅地化が進み、現況は当時の姿を残しているとは言い難い。それゆえ江戸時代の古地図を元に話を進めていく。

この城は四つの領域に分けられる。まず本丸・二の丸・三の丸などの主要曲輪が集まっている主郭部。主郭部と沼地を隔てた北側に広がる新正寺曲輪。主郭部の南にある鍛冶曲輪・新曲輪・諏訪明神という三つの曲輪。さらに主郭部の西に延びる武家地・寺社地・町屋である。

その上、岩付城には、小田原合戦の直前に「大構」と呼ばれる総延長8㎞にも及ぶ外郭線が造られ、これらの領域を囲い込むことで、城内と城外の区別を明確にした。言うまでもなく、これは小田原城の「惣構」に倣ったものだ。

主郭部は湿地帯に浮かぶ島のような各曲輪を土橋で結ぶという構造で、忍城に似たものになっている。

また本丸の南西に位置する三の丸の虎口前には、丸馬出が造られていたとされるが、角馬出を好んで築いた北条氏が、なぜここだけ丸馬出を築いたのかは分からない。さらなる調査が待たれる。

鍛冶曲輪・新曲輪・諏訪明神という南部の曲輪群は、小田原合戦が不可避となった時に造られたもので、この城の弱点とされる南側の防御力を高めたものだ。この付近では、今でも土塁・空堀・馬出を見ることができる。今は埋め戻されてしまったが、障子堀の遺構も出てきている。

さて肝心の小田原合戦だが、この時、岩付城主は北条氏政四男の氏房だったが、主力勢を率いて小田原城に入っていたため、城を守っていたのは城代の伊達房実だった。

攻める豊臣勢は2万、守る籠城衆は2000にすぎなかったが、ほかの城が次々と降伏開城する中、房実は2000の留守居勢と共に籠城戦を貫徹し、1000近い死傷者を出しながらも奮戦した。しかし衆寡敵せず岩付城は陥落した。

かくして岩付城は壮絶な落城を遂げたが、こうした最後こそ、戦国時代初期から攻防戦を繰り広げてきた歴戦の雄にふさわしいものだった。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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