
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
難攻不落の沼城

「坂東太郎」の異名で知られる利根川は、元和7年(1621)に始まる徳川家康の東遷事業により、現在は銚子で太平洋に注ぐ流路になったが、それまでは江戸湾に注いでいた。
利根川の流路沿いは農耕に適さない泥湿地が多く、また耕作地であっても、「坂東太郎」が一度暴れれば、農作物に甚大な損害をもたらした。
そのため関東平野には、沼沢地や泥田の中に築かれた城が多い。こうした城は、たとえ平城であっても攻め口が限られるので、峻険な山城並みの抗堪力を発揮する。
しかも平城に比べ、高所にある山城は政庁としての機能を果たしにくく、行き来も容易でないため、国人のような地域密着型の武士団の本拠は、利便性を重視した平城や平山城が多い。
それでも防御性と利便性はトレードオフの関係にあるため、攻撃を受けやすい平城を本拠にするのは相当の度胸が要る。むろん、防御性と利便性の双方を兼ね備えた城であれば、それに越したことはない。そこで考えられたのが湿地帯の城である。
そうした城の代表的なものに、扇谷上杉氏の河越城、簗田氏の関宿城、原氏の臼井城、千葉氏の本佐倉城、結城氏の結城城、太田氏の岩付城などがあるが、どの城も意外に抗堪力があり、容易には落ちなかった。とくに、8万の大軍に囲まれても落ちなかった河越城、その立地の優位性をフルに生かして上杉謙信を撃退した臼井城などは、まさに歴史を変える役割を果たした城と言えるだろう。
本稿で取り上げる忍城も、こうした沼城の一種で、「浮城」と呼ばれるほど水によって守られた城だった。
永正6年(1509)10月、室町時代後期を代表する連歌師の柴屋軒宗長は、奥州白河まで旅した帰途、成田氏の居館を訪れて連歌の千句興行を行った。その時、宗長は自らの旅日記『東路の津登』に、次のように記している。
「(武州成田下総守顕泰亭について)水郷也、館のめぐり四方沼水幾重ともなく芦の霜がれ、二十余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたりたるさまなるべし」
これが忍城について書かれた最古のものだが、この時の宗長の記述によると、当時の忍城は城というより館や亭として見られており、四方に沼が広がり、そこに密生している芦(葦)は、見渡す限り枯れていたという。まさに水郷の城と呼ぶにふさわしい忍城だが、この末枯れの沼城は、どのような運命をたどったのだろうか。
忍城主・成田氏の歴史

武蔵国北部の忍には、古くから根を下ろした忍氏という土豪がいた。むろんその出自や土着した経緯は明らかでないが、『吾妻鏡』に忍三郎、同五郎といった名が見える。
鎌倉時代、忍氏は現在の行田市駒形辺りに居館を構えていたらしい。一方、後に忍城の城主となる成田氏は、現在の熊谷市成田(上之)を本拠としていた。
その後、古河公方・足利成氏と上杉方が戦った享徳の乱(1454〜1483)で、成田氏は上杉方として参戦し、忍城の守りに就いていたという記録がある。おそらく成田氏と忍氏とは友軍関係にあったため、成田氏が一時的に忍城に入ったのだろう。
この時、伊豆韮山に居を構える堀越公方の足利政知から、当主の成田親泰あてに感状が出ていることから、ただ守りに就いていただけでなく、積極的に兵を動かしていたと分かる。
享徳の乱と同時並行的に勃発した長尾景春の乱でも、成田氏は太田道灌らと連携し、景春の討伐に力を貸している。
ところが二つの乱も収まった文明18年(1486)、扇谷上杉定正が執事の道灌を謀殺することに端を発し、定正と関東管領・山内上杉顕定との間で長享の乱が勃発する。
この時、成田氏当主の親泰は山内方に属し、延徳元年(1489)に扇谷方の忍大丞の館を急襲し、忍一族を滅亡に追い込んだ。これにより、延徳2年(1490)から本拠を忍に移した親泰は、忍城の構築に着手した。
永正7年(1510)の権現山合戦においても、親泰は上杉方として参戦し、北条早雲の武蔵侵攻を押しとどめている。
以後、成田氏は次第に独立領主としての色合いを濃くし、武蔵国を手中にした北条氏に対しても、傘下国衆というより同格の同盟相手としての地位を確保する。
成田氏が一躍脚光を浴びるのは、永禄3年(1560)から翌4年にかけての上杉謙信(当時は長尾景虎)の関東侵攻時である。小田原城を包囲攻撃した後、鶴岡八幡宮に詣でた謙信は、そこで関東管領就任式を行った。その時、関東の歴史を左右する大事件が起こる。
『異本小田原記』や『相州兵乱記』といった軍記物の記述だが、鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿で関東管領の拝命を受けた謙信が、馬に乗って段葛を海に向かって進んでいくと、参陣諸将は下馬した上、左右に居並んで敬意を表した。
しかし、成田長泰(親泰の息子で、この時の当主)だけは下馬しなかった。実は11世紀初頭に勃発した前九年の役で、成田氏は大功を挙げたことから、当時の源氏の棟梁である源頼義・義家父子から、主と同時に下馬すればよいという許しを得ていたからだ。
この話を謙信も心得ていると思った長泰は、馬に乗ったまま行列を眺めていた。ところがこれを見つけた謙信は怒り、裃者(最下級の武士)に命じて長泰を馬から引きずりおろし、烏帽子を打ち落として踏みつけるという暴挙に出る。
翌日、長泰は配下を率いて陣払いした。これを見た諸将の多くも、謙信に愛想を尽かして本領へと帰っていった。これにより上杉勢は崩壊状態に陥り、謙信は北条方の追撃を振り切りつつ越後へと帰還する。
以後、成田氏は北条方となるが、三代当主の氏康は成田氏の傘下入りを喜び、本領を安堵しただけでなく、成田氏を同格の同盟国として遇し、当面は兵役や普請役を免除した。
その最盛期、成田氏は現在の行田市のみならず羽生市から熊谷市までを支配領域とし、24万石もの知行高があったという。北条氏の最盛期の知行高は230万~280万石と言われるので、北条領国内で、実に概算で10分の1もの所領を有していたことになる。
以後も独立性の高い国衆として成田氏は存在していくが、その成田氏も小田原合戦に巻き込まれてしまう。
忍城の構造

忍城は利根川と荒川に挟まれた沖積地にあり、城の周囲は一面の湿地帯だった。その湿地帯の中で、城のある場所は比高10mほどの微高地だったらしいが、そこに「さきたま古墳群」などから土を運び、盛土して城の中核部分が造られたと推定されている。
城の構造は連郭式で、北西から南東に向けて、諏訪曲輪、本丸、二の丸、三の丸などが連なる形になっている。むろんこれらの曲輪は、それぞれ堀に見立てた自然の沼沢地に囲まれていた。
本丸は一辺100mほどの正方形を成しており、そこだけに室町時代の居館の名残が見える。
沼沢地や泥湿地に城を造ることがいかに大変だったかは、発掘調査で判明している。すなわち竹束を筏状に組んだものを地盤補強材に使用し、また土塁の裾や切岸の法面が崩れないように、同様のものを埋め込んでいた。竹は腐りにくいので、当時、地盤や法面強化によく使われる素材だった。
こうして苦労して造り上げた甲斐があり、忍城は外敵から攻められることなく、また成田氏も独立性の高い国人として繁栄していく。しかし終幕は、すぐそこに迫っていた。
石田三成の水攻め

天正18年(1590)2月、外交的行き違いから秀吉の勘気をこうむった北条氏は、一方的に宣戦布告される。これにより小田原合戦が勃発し、それまでの関係から、成田氏は北条方として戦わざるを得なくなる。
北条氏は、関東全域に広がる百余城のネットワークを駆使して時間を稼ぎ、勝てないまでも、豊臣勢に厭戦気分を漂わせて追い払う、ないしは和睦に応じさせるという方針に徹しようとした。
元々、北条氏は戦乱で領国が荒廃するのを嫌い、「決戦回避」と「拠点固守(籠城策)」を基本戦術としており、この戦略で永禄3年(1560)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄の侵攻を退けてきた。そのため秀吉相手の小田原合戦でも同様の戦略を選択したのだ。だが豊臣軍の兵力は20万余という情報が入り、小田原城の防備に不安が出てきた。そのため各地に散る精鋭のすべてを、小田原城内に籠らせることにする。
本来は自城に籠り、小田原城への後詰勢力となるべき成田氏、上田氏、千葉氏などの有力国衆までもが、主力勢を率いて小田原城に入るよう命じられた。成田氏の当主の氏長も、350の騎馬武者(全軍で推定1500)を率いて入城した。
だがそうなると、肝心の支城群が手薄になり、城郭ネットワークが機能不全に陥ってしまう。そのため関東各地に散る北条方の城は、瞬く間に降伏開城していく。
忍城にも豊臣軍が迫っていた。
豊臣方の忍城攻略部隊は、石田三成や大谷吉継といった秀吉の直属部隊2万4千で、守る成田氏は、城主夫人を中心にした老兵3700である。
館林城を降伏開城させてきた石田勢は意気盛んで、6月初旬、城を囲んだ三成は力攻めを敢行するが、攻め口が限られているため失敗する。そこで方針転換した三成は、秀吉の備中高松城攻めを参考にして水攻めを決定する。これは近年発見された史料により、秀吉の強い勧めに従ったものだという。
三成は近在から10万の人数を集め、荒川から水を引き込むべく、28㎞にも及ぶ石田堤をわずか5日で築かせた。ところが忍城の中核部分は微高地にあるため水没せず、結局、小田原開城後の7月中旬、ようやく城を開けることになる。
成田氏は秀吉に通じていたためか、その後、赦免されて下野烏山で3・7万石の大名になり、大坂の陣でも徳川方として奮戦するが、相次ぐお家騒動が命取りになり、江戸時代前期に改易に処されている。
成田氏移封後の忍城には、徳川家の譜代大名が相次いで入るが、特筆すべきこともなく、明治維新を迎えた。
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