多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、埼玉県「杉山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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そこにあってはならない城

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オーパーツという言葉をご存じだろうか。古代の遺物の一種を指す用語だが、それが発見された場所や使用されていたとおぼしき年代が、これまでの研究や定説とかけ離れており、なぜそこに存在するのか答えを出せないもののことだ。

首都圏からほど近い埼玉県比企郡に、そこにあってはならない城がある。

杉山城だ。

この城の何がオーパーツなのかと言うと、城の縄張りが、あまりに計算され尽くされている上、行き過ぎと思えるほど技巧的な点だ。それは、この城のコンパクトさと相まって「箱庭的名城」と呼ばれているほどだ。これだけの城を造れるのは、この地域を長く領有し、城造りのノウハウが蓄積されている大名でなければならない。そうなると小田原を本拠にする戦国北条氏以外には考えられない。ところが発掘調査の結果が出てみると―。

この城は早いとしても天文6年(1537)、北条氏綱と扇谷上杉氏との間で戦われた松山城攻防戦の際に造られたと見られてきた。少なくとも天文年間後半から永禄年間前半の間に築かれたと考えるのが妥当だとされてきた。

ところが平成14年(2002)に発掘調査が始まることで、事態は一変する。城内から発掘した陶磁器などの遺物は、15世紀末から16世紀初頭のものばかりだった。つまり北条氏の城ではなく、扇谷・山内両上杉氏が関東の覇権を賭けて戦った長享の乱当時に創築された可能性が高まったのだ。しかも発掘調査の結果、この城の築城は一度きりで改修を受けていないので、両上杉氏のどちらかが造り、それを北条氏が改修したというわけでもないという。

そこからさらに調査は進み、出土した陶磁器類の形式から、関東管領・山内上杉氏が創築した可能性が高いとなった。しかも出土遺物が被災しており、焼土に交じっていたこと、その焼土が一面しかない遺構面(遺物の層)を埋めていたことから、「後の松山城攻防戦の折、北条の兵が昔の陶磁器類を持ち込んだ」という説も成り立たなくなった。

しかし縄張り研究的見地からすると、16世紀後半の50年、さらに絞れば天正年間(1573〜1593)頃に造られたとするのが妥当ではないかという。しかも山内上杉氏がこの地域を治めていた時代に、これだけ技巧的な城はほかに見当たらず、この城だけが突然変異的に出現している点に疑問を感じるというのだ。

さらに銃弾が一つ発掘されたことで事態は混迷の度を深める。両上杉氏が覇を競った時代、東国に鉄砲は普及していないからだ。

かくして、後に「杉山城問題」と名付けられる論争が始まった。

平成17年(2005)には歴史学者、考古学者、縄張り研究家を一堂に会してシンポジウムを開催し(私も行った)、それぞれの持論の抱えている弱点や課題を洗い出し、相互批判を積極的に行った。

こうした諸説の中には、天正年間末期の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、北方から侵攻してきた前田利家率いる豊臣軍北国勢が陣城として築いたという説があった。

横矢掛り、塁線の折れ、馬出状の小郭などが、畿内の織豊系陣城群に共通する設計思想で造られていること、つまり地形に合わせてパーツを並べただけでなく、縄張り全体が統一的な規格や防御思想に貫かれているからだという。

具体的には、土橋に掛かる横矢、曲輪をめぐる横堀、馬出の構造、急峻な切岸といったパーツ類が有機的に結合して防御力を高めている織豊系陣城、とくに賤ヶ岳の北方に残る玄蕃尾城と類似しているというのだ。

これに対して山内上杉氏築城説支持派からは、平井金山城や上戸陣の虎口などの一部の遺構を挙げ、16世紀前半でも統一的な規格を作り出すことができたと反論しているが、いかんせん杉山城に匹敵する同時代の城が提示できないので決定打とはなり得ない。

さらに杉山城の塁線を小刻みに折って導入路に横矢を掛ける方法や、堀切を使わず横堀だけで遮断する方法といったものは織豊系陣城には見られないという意見が出ることで、結論は五里霧中となっていった。かくして謎は謎を呼び、論争は今も続いている。

杉山城の全体像

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杉山城のある埼玉県比企郡は、鎌倉街道上道が南東から北西へと貫通している交通の要衝だった。この地域には杉山城ほどではないにしても、松山城、菅谷城、小倉城、青山城、腰越城、青鳥城など、工夫の凝らされた土の城が密集している。

とくに杉山城のある松山城北西部の丘陵地帯には、「隣接」と言ってもいいぐらいの城がひしめいている。こうした城の中でも杉山城の完成度は抜群で、しかも遺構の保存状態は良好なので、中世城郭を知るための格好の教材になっている。

まず杉山城の概要から見ていこう。

杉山城の構造は意外にシンプルで、比高42m(標高は95m)ほどの丘陵の高低差を利用し、北、東、南の3つの尾根筋に9つほどの曲輪を配置したにすぎない。

この城の北西部には市野川が流れているため、北から西にかけての崖は急峻で、そのため西側に曲輪はなく、腰曲輪・切岸・竪堀によるオーソドックスな防御法を取っている。

ちなみに市野川は、杉山城の南東で鎌倉街道上道と並行して走るようになり、その状態は北西23㎞ほどの寄居まで続く。つまりこの城が南向きに造られているのは、街道と河川の合流点を押さえるという役割が課されていたと分かる。

それでは、現在の登城ルートから北、東、南の3つの尾根筋について見ていこう。

まず城に到着すると、南東端にある積善寺から出発し、出郭と呼ばれる広場を経由して大手口に至る。この大手口は極めて複雑な構造をしており、寄手は常に城からの管制を受け、死角をなくされている。

大手口を入ると外郭があり、一種の内桝形のような役割を果たしている。ここで面白いのは、大手口から北西方向に進むと隘路となっている点だ。ここは、誤って侵入した敵を殲滅するキルゾーンにしているのだろう。

ここで過たず南西に向かうと横堀にぶつかる。この空堀を渡り、馬出郭を経て南三の郭に入るのだが、その前にこの堀底を歩いてみよう。この堀は南三の郭の東面、南二の郭の南東面、外郭の北西面の間にあり、ほぼ直角に3度も折れて横矢が掛かるようにしてある。

南三の郭に戻り西の虎口に向かうと、南北に細長い帯郭に出る。そのまま北に進むと、ここも行き止まりになっており、頭上の井戸郭の土塁上から攻撃を浴びせられる。西側は切岸なので逃れられず、ここもキルゾーンと言っていいだろう。

ここで方角を過たず、南三の郭の北にある喰違虎口から南二の郭に入ると、北に本郭(350㎡)を見上げる形になる。本郭との間を隔てる切岸は5mほどで、攻撃を受けながらよじ登るのは困難だろう。そのため北西にある井戸郭へと向かう。

井戸郭は本郭南虎口の馬出の役割を担っており、本郭とは木橋でつながっていた。だが戦時に木橋は外されるので、井戸郭を制圧しても複雑なルートを通って本郭に向かわねばならない。まず井戸郭の北端の虎口から土塁や隘路を伝って本郭の北西虎口に出る。そこから2度曲がってようやく本郭に至る。

本郭は西側以外の三面に土塁がめぐらされており、とくに北側の土塁には厚みがあり、さらに張り出しを設けることにより、北西虎口に横矢を掛けられるようにしている。

続いて本郭から北の尾根にある2つの曲輪に向かう。まず北西虎口を出て北に向かうと、北二の郭に出る。ここは本郭北西虎口の馬出の役割も担っている。こちらの見せ場は、北二の郭の虎口である。

寄手が北三の郭から北二の郭に攻め上ろうとすると、4回も直角に曲がり、ようやく北二の郭に到達する。その間も土塁上からの死角はなく、寄手は常に上方から狙われている。

この虎口形式は、突出させた曲輪の側面に虎口を設けることで、寄手の導入路を屈曲させることを目的としている。寄手は正面の堀や土塁に行く手を阻まれるので、側面に迂回してから、90度ターンして虎口に入らねばならない。これに類似した虎口は畿内や西国でも見られるが、とくに比企郡の城で多用されているので「比企型虎口」と呼ばれる。

北三の郭は城内で最も〝緩い〟曲輪である。北端には虎口があるものの、さほど凝った構造とはなっていないので、ここに逆襲部隊を駐屯させ、陣前逆襲で撃退することを考えていたのではないかとされている。ここから北は急に尾根が広くなるため、城域はここまでとなっている。

いったん本郭に戻り、今度は東虎口から東二の郭に向かう。東尾根には東二の郭と東三の郭が連なっている。東二の郭の虎口は平入となっているが、土塁上からの攻撃を受けるので、容易には進めないだろう。地形によっては平入虎口にせねばならない場所もあるが、ここを平入にした理由は分からない。

このように杉山城は管制と誘導を主眼とした縄張りの城で、随所に横矢を掛けた空堀、屈曲を繰り返す虎口、さほど高くない土塁(長槍での攻撃を想定している)など、個々のパーツの完成度は高く、さらにそれらを有機的に結合させ、少数の守備兵で効率よく寄手を撃退するという方針が徹底されている。

杉山城についての私見

image by PIXTA / 16317444

それでは諸説の論点を整理してみよう。

角馬出の多用、横堀による遮断、直線的だが折れのある塁線などは、北条氏の代表的城郭である滝山城に類似している。こうしたパーツとその統合力は、北条氏の規格と呼べるかもしれない。だが「敵の来る方角を南に想定した縄張り(北条氏は北進策を取っていた)、堀が浅く切岸の高さが低い点、全体にコンパクトな点(鉄砲への対応力が低い)、守備兵力が少ないのを前提としている点などから、北条氏の規格と見なせないものも多い。

また、この城は必要以上に「見せる」要素が多い。城取り(設計者)が「私は何でも知っている」と言わんばかりに、必要以上に凝っている点がある半面、北三の郭の虎口や東二の郭の平入虎口など、なぜそうしたのかが分かりにくいパーツもある。こうしたことから、北条氏が領国各地の城取りに、「城造り」の基本や北条氏の規格を伝えるためのモデルハウス的役割を果たしていた可能性も捨てきれない。しかし火器の発達などにより、急速に古い規格となってしまい、瞬く間にその役割を終えてしまったのかもしれない。

なお杉山城について詳しく知りたい方は、『杉山城の時代』(西股総生著 KADOKAWA)をお読みいただきたい。

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歴史歴史作家の城めぐり

土の城の最高傑作「杉山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #14】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、埼玉県「杉山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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そこにあってはならない城

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オーパーツという言葉をご存じだろうか。古代の遺物の一種を指す用語だが、それが発見された場所や使用されていたとおぼしき年代が、これまでの研究や定説とかけ離れており、なぜそこに存在するのか答えを出せないもののことだ。

首都圏からほど近い埼玉県比企郡に、そこにあってはならない城がある。

杉山城だ。

この城の何がオーパーツなのかと言うと、城の縄張りが、あまりに計算され尽くされている上、行き過ぎと思えるほど技巧的な点だ。それは、この城のコンパクトさと相まって「箱庭的名城」と呼ばれているほどだ。これだけの城を造れるのは、この地域を長く領有し、城造りのノウハウが蓄積されている大名でなければならない。そうなると小田原を本拠にする戦国北条氏以外には考えられない。ところが発掘調査の結果が出てみると―。

この城は早いとしても天文6年(1537)、北条氏綱と扇谷上杉氏との間で戦われた松山城攻防戦の際に造られたと見られてきた。少なくとも天文年間後半から永禄年間前半の間に築かれたと考えるのが妥当だとされてきた。

ところが平成14年(2002)に発掘調査が始まることで、事態は一変する。城内から発掘した陶磁器などの遺物は、15世紀末から16世紀初頭のものばかりだった。つまり北条氏の城ではなく、扇谷・山内両上杉氏が関東の覇権を賭けて戦った長享の乱当時に創築された可能性が高まったのだ。しかも発掘調査の結果、この城の築城は一度きりで改修を受けていないので、両上杉氏のどちらかが造り、それを北条氏が改修したというわけでもないという。

そこからさらに調査は進み、出土した陶磁器類の形式から、関東管領・山内上杉氏が創築した可能性が高いとなった。しかも出土遺物が被災しており、焼土に交じっていたこと、その焼土が一面しかない遺構面(遺物の層)を埋めていたことから、「後の松山城攻防戦の折、北条の兵が昔の陶磁器類を持ち込んだ」という説も成り立たなくなった。

しかし縄張り研究的見地からすると、16世紀後半の50年、さらに絞れば天正年間(1573〜1593)頃に造られたとするのが妥当ではないかという。しかも山内上杉氏がこの地域を治めていた時代に、これだけ技巧的な城はほかに見当たらず、この城だけが突然変異的に出現している点に疑問を感じるというのだ。

さらに銃弾が一つ発掘されたことで事態は混迷の度を深める。両上杉氏が覇を競った時代、東国に鉄砲は普及していないからだ。

かくして、後に「杉山城問題」と名付けられる論争が始まった。

平成17年(2005)には歴史学者、考古学者、縄張り研究家を一堂に会してシンポジウムを開催し(私も行った)、それぞれの持論の抱えている弱点や課題を洗い出し、相互批判を積極的に行った。

こうした諸説の中には、天正年間末期の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、北方から侵攻してきた前田利家率いる豊臣軍北国勢が陣城として築いたという説があった。

横矢掛り、塁線の折れ、馬出状の小郭などが、畿内の織豊系陣城群に共通する設計思想で造られていること、つまり地形に合わせてパーツを並べただけでなく、縄張り全体が統一的な規格や防御思想に貫かれているからだという。

具体的には、土橋に掛かる横矢、曲輪をめぐる横堀、馬出の構造、急峻な切岸といったパーツ類が有機的に結合して防御力を高めている織豊系陣城、とくに賤ヶ岳の北方に残る玄蕃尾城と類似しているというのだ。

これに対して山内上杉氏築城説支持派からは、平井金山城や上戸陣の虎口などの一部の遺構を挙げ、16世紀前半でも統一的な規格を作り出すことができたと反論しているが、いかんせん杉山城に匹敵する同時代の城が提示できないので決定打とはなり得ない。

さらに杉山城の塁線を小刻みに折って導入路に横矢を掛ける方法や、堀切を使わず横堀だけで遮断する方法といったものは織豊系陣城には見られないという意見が出ることで、結論は五里霧中となっていった。かくして謎は謎を呼び、論争は今も続いている。

杉山城の全体像

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杉山城のある埼玉県比企郡は、鎌倉街道上道が南東から北西へと貫通している交通の要衝だった。この地域には杉山城ほどではないにしても、松山城、菅谷城、小倉城、青山城、腰越城、青鳥城など、工夫の凝らされた土の城が密集している。

とくに杉山城のある松山城北西部の丘陵地帯には、「隣接」と言ってもいいぐらいの城がひしめいている。こうした城の中でも杉山城の完成度は抜群で、しかも遺構の保存状態は良好なので、中世城郭を知るための格好の教材になっている。

まず杉山城の概要から見ていこう。

杉山城の構造は意外にシンプルで、比高42m(標高は95m)ほどの丘陵の高低差を利用し、北、東、南の3つの尾根筋に9つほどの曲輪を配置したにすぎない。

この城の北西部には市野川が流れているため、北から西にかけての崖は急峻で、そのため西側に曲輪はなく、腰曲輪・切岸・竪堀によるオーソドックスな防御法を取っている。

ちなみに市野川は、杉山城の南東で鎌倉街道上道と並行して走るようになり、その状態は北西23㎞ほどの寄居まで続く。つまりこの城が南向きに造られているのは、街道と河川の合流点を押さえるという役割が課されていたと分かる。

それでは、現在の登城ルートから北、東、南の3つの尾根筋について見ていこう。

まず城に到着すると、南東端にある積善寺から出発し、出郭と呼ばれる広場を経由して大手口に至る。この大手口は極めて複雑な構造をしており、寄手は常に城からの管制を受け、死角をなくされている。

大手口を入ると外郭があり、一種の内桝形のような役割を果たしている。ここで面白いのは、大手口から北西方向に進むと隘路となっている点だ。ここは、誤って侵入した敵を殲滅するキルゾーンにしているのだろう。

ここで過たず南西に向かうと横堀にぶつかる。この空堀を渡り、馬出郭を経て南三の郭に入るのだが、その前にこの堀底を歩いてみよう。この堀は南三の郭の東面、南二の郭の南東面、外郭の北西面の間にあり、ほぼ直角に3度も折れて横矢が掛かるようにしてある。

南三の郭に戻り西の虎口に向かうと、南北に細長い帯郭に出る。そのまま北に進むと、ここも行き止まりになっており、頭上の井戸郭の土塁上から攻撃を浴びせられる。西側は切岸なので逃れられず、ここもキルゾーンと言っていいだろう。

ここで方角を過たず、南三の郭の北にある喰違虎口から南二の郭に入ると、北に本郭(350㎡)を見上げる形になる。本郭との間を隔てる切岸は5mほどで、攻撃を受けながらよじ登るのは困難だろう。そのため北西にある井戸郭へと向かう。

井戸郭は本郭南虎口の馬出の役割を担っており、本郭とは木橋でつながっていた。だが戦時に木橋は外されるので、井戸郭を制圧しても複雑なルートを通って本郭に向かわねばならない。まず井戸郭の北端の虎口から土塁や隘路を伝って本郭の北西虎口に出る。そこから2度曲がってようやく本郭に至る。

本郭は西側以外の三面に土塁がめぐらされており、とくに北側の土塁には厚みがあり、さらに張り出しを設けることにより、北西虎口に横矢を掛けられるようにしている。

続いて本郭から北の尾根にある2つの曲輪に向かう。まず北西虎口を出て北に向かうと、北二の郭に出る。ここは本郭北西虎口の馬出の役割も担っている。こちらの見せ場は、北二の郭の虎口である。

寄手が北三の郭から北二の郭に攻め上ろうとすると、4回も直角に曲がり、ようやく北二の郭に到達する。その間も土塁上からの死角はなく、寄手は常に上方から狙われている。

この虎口形式は、突出させた曲輪の側面に虎口を設けることで、寄手の導入路を屈曲させることを目的としている。寄手は正面の堀や土塁に行く手を阻まれるので、側面に迂回してから、90度ターンして虎口に入らねばならない。これに類似した虎口は畿内や西国でも見られるが、とくに比企郡の城で多用されているので「比企型虎口」と呼ばれる。

北三の郭は城内で最も〝緩い〟曲輪である。北端には虎口があるものの、さほど凝った構造とはなっていないので、ここに逆襲部隊を駐屯させ、陣前逆襲で撃退することを考えていたのではないかとされている。ここから北は急に尾根が広くなるため、城域はここまでとなっている。

いったん本郭に戻り、今度は東虎口から東二の郭に向かう。東尾根には東二の郭と東三の郭が連なっている。東二の郭の虎口は平入となっているが、土塁上からの攻撃を受けるので、容易には進めないだろう。地形によっては平入虎口にせねばならない場所もあるが、ここを平入にした理由は分からない。

このように杉山城は管制と誘導を主眼とした縄張りの城で、随所に横矢を掛けた空堀、屈曲を繰り返す虎口、さほど高くない土塁(長槍での攻撃を想定している)など、個々のパーツの完成度は高く、さらにそれらを有機的に結合させ、少数の守備兵で効率よく寄手を撃退するという方針が徹底されている。

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それでは諸説の論点を整理してみよう。

角馬出の多用、横堀による遮断、直線的だが折れのある塁線などは、北条氏の代表的城郭である滝山城に類似している。こうしたパーツとその統合力は、北条氏の規格と呼べるかもしれない。だが「敵の来る方角を南に想定した縄張り(北条氏は北進策を取っていた)、堀が浅く切岸の高さが低い点、全体にコンパクトな点(鉄砲への対応力が低い)、守備兵力が少ないのを前提としている点などから、北条氏の規格と見なせないものも多い。

また、この城は必要以上に「見せる」要素が多い。城取り(設計者)が「私は何でも知っている」と言わんばかりに、必要以上に凝っている点がある半面、北三の郭の虎口や東二の郭の平入虎口など、なぜそうしたのかが分かりにくいパーツもある。こうしたことから、北条氏が領国各地の城取りに、「城造り」の基本や北条氏の規格を伝えるためのモデルハウス的役割を果たしていた可能性も捨てきれない。しかし火器の発達などにより、急速に古い規格となってしまい、瞬く間にその役割を終えてしまったのかもしれない。

なお杉山城について詳しく知りたい方は、『杉山城の時代』(西股総生著 KADOKAWA)をお読みいただきたい。

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