教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
謎多き比企郡の城
中世古城というのは縄張りの研究だけでなく、地道な文献研究や発掘調査などによって築城者や築城目的、また攻防戦勃発時の守備方法などが明らかになってくる。ある程度の規模以上の城、優れた縄張りの城、文献記録によく出てくる城などは調査も進んでおり、その歴史や存在目的が解明されているものも多い。
だが城というのは不思議なもので、短期間しか使われず記録に残っていない城でも集中的に土木量を注ぎ込めば、ある程度の規模と、それなりの縄張りを持つ城になる。そうした城は短期的には重要な役割を担っていたはずだが、記録に出てこないことで、秘密のヴェールに包まれている。
そうした城の典型が菅谷城だろう。この城の3㎞ほど北西には、同じように謎の城と呼ばれる杉山城があるのも面白い。
埼玉県比企郡の城郭群には、築城者、創築時期、目的、攻防戦の有無といった歴史が分かっていない城が多く(松山城を除く)、研究者たちの頭を悩ませてきた。菅谷城もその一つで、いったい誰が何のために築城したのか、また改修したのか、攻防戦があったのかなかったのかなどが一切分かっていない。しかし、そうした謎があるからこそ、人は中世城郭に引き寄せられるのだろう。
畠山重忠屋敷なのか
菅谷城は菅谷館として昭和48年(1973)に国指定史跡とされたが、その時の理由が、「畠山重忠の屋敷だから」ということだった。
重忠は鎌倉時代初期を生きた御家人の代表とも言える武将で、治承・寿永の乱(源頼朝による平家追討戦)や奥州合戦(奥州藤原氏討伐戦)でも鎌倉幕府軍の先陣を務めることが多く、その武功には比類なきものがあった。
しかし元久2年(1205)、北条義時の謀略に掛かり、鎌倉に向かう途次の二俣川で討ち死にを遂げ、畠山氏嫡流も滅亡する。
その重忠の所領は菅谷城のある辺りにあったというが、それは『吾妻鏡』の元久2年6月の条にある「(重忠)は小衾郡の菅谷館を出て」という記述を根拠にしているだけで、その位置までは特定できていない。
小衾郡は現在の男衾郡のことで、埼玉県比企郡小川町および嵐山町の一部を指す。菅谷城が嵐山町にあるため、短絡的に畠山重忠の屋敷とされたが、菅谷城内に重忠の屋敷があったかどうかまでは分からない。
しかも現存する遺構は戦国時代中期から後期のもので、仮に畠山屋敷があったとしても、重忠の頃の遺構は全く煙滅したと思っていいだろう。
この城は嵐山町にある菅谷台地南端の断崖上にあり、南面には都幾川が流れ、東側と西側には都幾川に合流していく小河川が造った谷があるため、地続きは北側だけとなる。とくに東谷は北方へ大きく回り込んで城を囲む形になっていることもあり、北西部の守りを堅固にすれば事足りるという後ろ堅固の地形である。これらの侵食谷は深く台地を刻み込み、幅もあるため、谷を渡って攻撃を仕掛けるとなると、寄手は相応の損害を覚悟せねばならない。
この城の東方には鎌倉街道上道もあり、鎌倉時代から続く集落や寺院が密集している。その点からすれば、この城が都幾川の河川交通と鎌倉街道上道の陸上交通を押さえる要衝だったと分かる。
結論としては、菅谷城が畠山氏屋敷だったという確証はないものの、位置的には屋敷を築いてもおかしくはなく、可能性を全く否定することはできないと思われる。
菅谷城の歴史
では、菅谷城はどのような形で歴史に登場するのだろう。
戦国時代初期の長享年間(1487〜1489)、関東管領山内上杉氏と相模守護扇谷上杉氏との間で長享の乱が勃発した。その時、激戦の一つとなった須賀谷原合戦において、山内上杉方となった太田資康が菅谷城から目と鼻の先の平沢寺に陣を置き、「敵塁に相対す」と『梅花無尽蔵』に記されていることに注目したい。ここで言う「敵塁」が菅谷城だったという確証はないが、位置的には蓋然性が高いと思われる。
須賀谷原合戦に山内上杉方として出陣した新田家純の陣僧の松陰は、この戦いの後、家純に敵方の河越城の向城として、「須賀谷の旧城」を再興するよう進言している。確証はないものの、これも菅谷城の可能性が高い。
その後、この城は北条氏の改修を受け、現在見られるようになったというが、北条氏の時代も、この城に関する文書はない。つまり菅谷城ないしは須賀谷城に関する記録は皆無に等しく、謎の城と言ってもいいだろう。
これまで5回にわたって発掘調査が行われたが、その結果、畠山重忠時代の遺物は出てきておらず、14〜15世紀は墓となっていたらしく、大量の人骨が発掘された。さらに15世紀後半から16世紀前半にかけて城として使用されたとおぼしき痕跡はあるものの、16世紀後半の遺物は出てきていない。その意味するところは、この地域が16世紀前半までは、北条氏と上杉氏勢力との戦いによって不安定だったが、それ以降は、武蔵国が北条氏の領国として安定したので使われなくなったという史実と合致する。
ということは、おそらく北条氏の北進策の策源地(兵站基地・駐屯地・出撃拠点)として極めて短い期間だけ使われ、その後、その存在意義がなくなったので廃城になったと考えるべきだろう。
これは私の推測だが、大永4年(1524)の北条氏綱の河越領への初めての侵攻から、天文15年(1546)の河越合戦あたりまで、稼働していたのではないだろうか(河越合戦時は、上杉方に占拠されていた可能性が高い)。
築城については、増改築を重ねていったと思われるので特定し難いが、横矢掛りの折れを多用し、角馬出、桝形虎口といった技巧的な遺構が見られることから、河越合戦後も改変が続けられていた可能性がある。
問題は小田原合戦の時だが、ここは拠点城ではないので使われていなかったと思われる。杉山城に織豊系陣城の特徴があることから、豊臣大名の手になるものという説も出てきているが、それなら菅谷城を改修して使えばいいわけで、わざわざ杉山城を創築する意味はない。
城の概要
この城は南北400m、東西450m、12万㎡の広さを持つ複郭式平城で、明らかに戦国時代中期から後期の特徴を有している。
まず全体像を概括すると、長方形の本曲輪を段丘の南東端に寄せ、それを二曲輪が取り囲み、さらに地続きの北側に向けて、土塁と堀で区切られた三曲輪と西曲輪を東西に並べて配置している。さらに背後の都幾川方面からの攻撃を配慮し、南曲輪を築いている。ほかにも小さな曲輪が付随しているが、主にこの5つの曲輪が主要な曲輪となる。
この城の特徴としては、どの曲輪も比較的広いことが挙げられる。しかし広いからといって小技が利いていないことはなく、横矢が掛かるように随所で塁線が折れ、虎口には角馬出や桝形などの技巧も施されている。
本曲輪は長方形をしており、ここに畠山屋敷があったとされている。その面積は5500㎡で、ほかの曲輪に比べて広くはないが、二曲輪との間に横たわる土塁は高さ4mで堀幅は17m、堀底から土塁頂部まで平均して9mという威容を誇っている。また北側には新府城で見られるような出構状の塁線の折れが見られ、本曲輪の防御力を強化している。この城では、これを「出桝形土塁」と呼んでいる。
二曲輪は南北20〜50m、東西250mの細長い形状をしており、面積は1万3900㎡もある。この曲輪は北側正面に角馬出を配置し、塁線を屈曲させて横矢が掛かるようにしてある。
本曲輪と二曲輪の背後を守る南曲輪は、都幾川方面からの攻撃を想定しており、2つの曲輪より一段低い場所にあり、南北30m、東西110mという細長い形状で4400㎡の広さを持つ。
三曲輪は現在、歴史資料館や駐車場があって全体像が分かりにくいが、南北130m、東西260mで、広さは2万7100㎡になり、この城で最大の曲輪になる。西曲輪との間には桝形虎口が設けられ、北側の塁線も折れを多用し、この城の北東部に造られた搦手門を守っている。
西曲輪は南北70m、東西130mで、8200㎡というこの城では広くはない曲輪だが、西端に開かれた大手口を守る曲輪として重要な役割を課されている。ここに大手口を設けたのは、城の外側に幾筋も深い侵食谷が走っているため、寄手が兵を展開しにくいからだろう。もちろんこの口を大手としたのは後世のことで、当時、大手としていたかどうかは定かでない。
なお発掘調査によると、土塁裾の内側の一部などに石敷きのような遺構が見られるという。比企郡の城には土留めとして石を利用した城が多く(杉山・腰越・小倉・青山城)、築城者が石の使い方を心得ていたという共通項がある。
この城は曲輪の一つひとつが広いので、全体としては茫洋なイメージなのだが、実際は細かい配慮がなされており、北条氏の手になる改変が加えられたことは間違いないだろう。
ただし昨今の杉山城の発掘調査により、杉山城の築城者が北条氏ではないという説が有力になりつつあり、そうなると、菅谷城を築城ないしは改変したのは誰なのかという疑問もわいてくる。しかも河越合戦の敗戦によって、山内上杉氏が上野国一国を守るという方針に転じたため、北条氏の防衛・侵攻ラインはすぐに北に引き上げられ、菅谷城の存在意義は日増しに薄れていったと思われる。
それを裏付けるかのように、北条氏の古文書によく出てくる拠点城は、この辺りでは河越城、松山城、鉢形城だけで、菅谷城や杉山城の名は一切出てこない。上杉謙信や武田信玄の関東侵攻時にも攻防戦の記録はない。
だが、この城に施された細かい技巧は、明らかに16世紀半ば以降の技術であり、史実と矛盾を来している。それを言ってしまえば、杉山城の高度な技巧も同様のことが言え、発掘調査の結果と矛盾している。
歴史というのは謎と矛盾の宝庫だということを、杉山城同様、この城も証明している。
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