多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、埼玉県「武州松山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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堀について考える

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いかなる時代も、城を造るにあたって最も重要なパーツは堀であり、日本国内で堀のない城というのは、一時的な使用目的で造られた陣城や付城を除いて極めて少ないはずだ。

堀には内と外を区別するという目的があり、敵の侵入を阻む「遮断」という役割が課せられている。これは堀とセットで築かれることの多い塁(土塁や石垣)にも共通しているが、常に塁の前面に設けられるのが堀であり、寄手がまず乗り越えねばならない関門が堀となる。

観光地として整備された近世城郭に行った際、最初に目にする城の施設は堀のはずだ。近世城郭は平地や低地に築かれることが多いため、大半は水堀となる。一方、山城は水量が豊富でない高地に築かれるため、空堀が多い。

どちらも一長一短はあるが、防御性は水堀の方が高いのは歴然だろう。ただし敵を引き入れて殲滅するという観点からすれば、空堀を誘導路に使うのは至って有効であり、攻撃的な性格を持つ城では、平城でも空堀のままというものがある。

堀底の形状は大きく分けて2つある。一つは箱堀で、文字のごとく堀底を水平にしたもので、水堀の大半は箱堀にして水を溜まりやすくしている。箱堀は浅くても幅が取れるので、とくに鉄砲普及期以降は有効だった。

もう一つは薬研堀で、堀底を鋭角的にしているので、寄手の堀底での動きを制約する効果がある。そのため空堀に多い。

このほかの堀の形式としては、2つの長所を融合した箱薬研堀といったものや、堀底に衝立を設け、敵の動きを制限する障子堀といったものもある。

また堀には、横堀、堀切、竪堀といった用途による種別がある。どれもが遮断を旨としているのは変わりないが、その地形的性格から、平城では横堀が、山城では堀切と竪堀が採用されることが多い。

横堀とは曲輪の周囲を取り巻くように掘られた堀のことで、堀切とは尾根を断ち切る目的で設けられた堀、竪堀とは斜面に対して縦方向に掘られた堀のことである。

こうして堀は、城における最強の遮断パーツとして、ほとんどの城に採用されてきたわけだが、その有用性を過信するあまり、過剰なまでに堀を掘りすぎた城がある。松山城である。

松山城の位置と縄張り

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関東平野は日本最大の平野であり、その中央に位置する武蔵国は66・7万石という大国で、全国屈指の生産高を誇っていた。

戦国時代中期には、南から勢力を伸ばしてきた北条氏、室町秩序を守るべく北から越山を繰り返す越後上杉氏、西から侵略してきた武田氏という三者角逐の場として、激しい戦いが繰り広げられた。

そうした中、江戸・滝山・河越・鉢形・忍、そして本稿で取り上げる松山といった城は、武蔵国の要衝として幾度となく攻防戦の舞台となってきた。

松山城のある埼玉県比企郡には、杉山城、小倉城、腰越城、菅谷城、青山城など遺構をよく残した古城が多く、それぞれが個性的かつ技巧的な縄張りを持っている。

松山の地は武蔵国北部中央に位置し、鎌倉街道上道下野線の宿駅の一つで交通の要衝にあたる。松山からは下野方面に向かう下野線だけでなく、北条氏の開発した「山の辺の道」と呼ばれる街道(小田原から鉢形を経由し、上州方面に通じる道)との連絡道が松山で合流しており、軍勢がぶつかり合うことの多い地となっていた。

河川交通という点でも、松山城は北方から南流してきた市野川が荒川に合流する手前に築かれていたので、河越や江戸との距離感は意外に近かったと思われる。

その占地だが、ちょうど市野川が北方から伸びてきた台地にぶつかり、西に蛇行するところに築かれている。そのため北・西・南の三方が市野川に囲まれ、自然の外堀を形成していた。

大手は唯一地続きの東に設けられており、その前面には家臣団の屋敷地が広がっていたと推定されている。

城は5つの丘から成るアップダウンの多い地形に造られており、最も西側すなわち市野川に沿った最高所(比高58m)に本曲輪が築かれている。つまり台地は突端部に向かって高くなっており(多くは逆)、その突端部のある西側に河が蛇行して流れているという、台地城としては理想的な地勢にあった。

その縄張りだが、西から東に向かって本曲輪、二曲輪、春日丸、三曲輪等が直線的に並び、それらを補強するように、笹曲輪、太鼓曲輪、兵糧蔵跡、惣曲輪といった名の曲輪が取り囲んでいる。

基本は連郭式の縄張りだが、広い台地全体を城としているため、一見、無秩序に曲輪が配置されているように見える。しかし曲輪間の連携は考えられており、意味もなく曲輪の間に堀をうがっていったわけではない。

大手は三曲輪の北東部で、その先には根小屋曲輪(四曲輪)、さらに惣曲輪と呼ばれる外郭部が存在していたとされている。これが前衛部の家臣団屋敷地にあたり、寄手はここを制圧しないと、城の中核部に近づけない構造になっていた。

縦横無尽に切られた空堀

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松山城の特徴は、とにかく堀にある。この城の堀は曲輪面積を圧迫するかのように掘られており、曲輪の居住性は至って悪かったと思われる。その悪さは、いかに戦時だけ使用された城だろうが、兵が駐屯できたのかという疑問さえわくほどだ。

ちなみに、この城は東西1000m、南北500mという楕円形の形をしており、その城域2万7000㎡のうち、平坦地が48%に対して堀が52%となり、堀の方が平坦地よりも広い計算になる。

すなわち、この城は堀による防御に重点が置かれており、各曲輪の居住性を犠牲にしても構わないという城取り(設計者)の方針が貫徹されているのだ。ただし、さほどの兵数を守備に割けないのであれば、曲輪面積があっても意味がないわけで、こうした堀重視の縄張りも分かる気がする。

この城の城主である在地国人の上田氏の最大動員力は300から400と考えられるため、こうした堀に頼った防御法も、考えに考え抜かれた縄張りだったのかもしれない。

ただし曲輪上の平坦部を多く取りたいがために、この城には土塁が極めて少なく、切岸、折れひずみ、横矢掛り、馬出といった技巧の複合技で守っていくという方針が徹底している。土塁がなくても塀をめぐらせることはできるが、その塀さえも曲輪の面積を削減する要素であり、細長い形状の曲輪では、人が擦れ違うのさえ困難だったに違いない。

それでは、どのような攻防戦が行われたのだろうか。この城は三方に市野川がめぐっているため、寄手は東側の低地、すなわち大手側の緩斜面から攻め寄せることになる。

まず寄手は曲輪を制圧しつつ堀底道を進むことになるが、この城の堀はクランクが多くて先が見通せないだけでなく、どこをどう進めばよいのか分からない。中には行き止まりや隘路もあり、上方からの格好の標的とされてしまう。

そのため一つひとつの曲輪を制圧してからでないと、常に上方からの攻撃に晒され、相応の出血を覚悟せねばならなくなる。しかも各曲輪は90度近い角度で切岸されているため、曲輪に上ることは容易でない。つまり曲輪を制圧しながら進むということは、寄手が次第に損耗疲弊してくことであり、その攻撃が臨界点に達した時に城方に反撃されれば、ひとたまりもないはずだ。

つまり弱みとなる東側の緩斜面を補うには、ずたずたに堀を切り、堀をキルゾーンにするしかなかったのだ。

一方、東側以外から攻める場合、市野川を渡河できても、腰曲輪や竪堀が登攀を妨害するので、自然に堀底道に誘い込まれるという構造になっている。つまり、ここでもキルゾーンとなる堀が立ちはだかる。

まさにこの城は、堀の有効性を極限まで突き詰め、いかに寄手の損害を最大化するかということを考えた究極の「堀城」なのだ。

松山城の歴史

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城というのは不思議なもので、どんなに素晴らしい遺構を有していても、戦闘のなかった城がある。その一方で交通の要衝に築かれた城などは、幾度となく攻防戦の舞台となった。松山城は、そうした「戦う城」の典型例であろう。

この城は、応永年間(1394〜1428)に上田上野介という国人によって造られたとされるが、この城の存在が史料上で確認できるのは、15世紀後半になってからだ。

15世紀後半から16世紀前半にかけて、山内・扇谷両上杉氏の間で戦われた長享の乱において、松山城は扇谷上杉方の城として何度か史料に登場する。その後、天文年間(1532〜1555)初頭に武蔵国侵攻を開始した北条氏と、それを阻止せんとする山内・扇谷両上杉氏との間で、幾度か攻防戦が繰り広げられた末、天文15年(1546)の河越合戦に大勝利を収めることで北条氏が周辺一帯を手中に収める。この時、松山城も北条氏のものとなった。

だが翌天文16年(1547)、北条氏三代当主の氏康が房総半島の里見氏討伐に出向いていた隙に、氏康に領国を追われた太田資正が松山城の奪還に成功した。資正は元々の松山城主の上田朝直を入れるが、すぐに朝直は離反し、再び松山城は北条氏のものとなる。

その後も松山城は、北条氏と太田氏の争奪戦の舞台となっていく。

永禄4年(1561)には上杉輝虎(謙信)の助力によって、資正は松山城を回復し、城主には上杉憲勝(扇谷上杉朝定の弟)が据えられた。しかし翌年、氏康と武田信玄が協力して攻め寄せてきた。これを聞いた憲勝は輝虎に救援要請をする。輝虎も駆け付けてくるが、上野国の北条方国衆に行く手を阻まれ、あと一歩のところで後詰できなかった。結局、憲勝は永禄6年(1563)2月に降伏開城した。以後、松山城は北条氏の城となり、城主に上田朝直が復帰する。

しかし天正18年(1590)の小田原合戦で、前田利家と上杉景勝に攻められて降伏することで、さしもの松山城も、長い歴史に終止符を打つことになる。その後、徳川家康の関東入部によって一時的に使われたものの、慶長6年(1601)に廃城となった。

戦国関東でもこれだけ争奪戦が行われた城は少なく、それだけ武蔵国を制するためには松山城が重要だったのだ。

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歴史歴史作家の城めぐり

交通の要衝に築かれた堀だらけの城「武州松山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #12】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、埼玉県「武州松山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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いかなる時代も、城を造るにあたって最も重要なパーツは堀であり、日本国内で堀のない城というのは、一時的な使用目的で造られた陣城や付城を除いて極めて少ないはずだ。

堀には内と外を区別するという目的があり、敵の侵入を阻む「遮断」という役割が課せられている。これは堀とセットで築かれることの多い塁(土塁や石垣)にも共通しているが、常に塁の前面に設けられるのが堀であり、寄手がまず乗り越えねばならない関門が堀となる。

観光地として整備された近世城郭に行った際、最初に目にする城の施設は堀のはずだ。近世城郭は平地や低地に築かれることが多いため、大半は水堀となる。一方、山城は水量が豊富でない高地に築かれるため、空堀が多い。

どちらも一長一短はあるが、防御性は水堀の方が高いのは歴然だろう。ただし敵を引き入れて殲滅するという観点からすれば、空堀を誘導路に使うのは至って有効であり、攻撃的な性格を持つ城では、平城でも空堀のままというものがある。

堀底の形状は大きく分けて2つある。一つは箱堀で、文字のごとく堀底を水平にしたもので、水堀の大半は箱堀にして水を溜まりやすくしている。箱堀は浅くても幅が取れるので、とくに鉄砲普及期以降は有効だった。

もう一つは薬研堀で、堀底を鋭角的にしているので、寄手の堀底での動きを制約する効果がある。そのため空堀に多い。

このほかの堀の形式としては、2つの長所を融合した箱薬研堀といったものや、堀底に衝立を設け、敵の動きを制限する障子堀といったものもある。

また堀には、横堀、堀切、竪堀といった用途による種別がある。どれもが遮断を旨としているのは変わりないが、その地形的性格から、平城では横堀が、山城では堀切と竪堀が採用されることが多い。

横堀とは曲輪の周囲を取り巻くように掘られた堀のことで、堀切とは尾根を断ち切る目的で設けられた堀、竪堀とは斜面に対して縦方向に掘られた堀のことである。

こうして堀は、城における最強の遮断パーツとして、ほとんどの城に採用されてきたわけだが、その有用性を過信するあまり、過剰なまでに堀を掘りすぎた城がある。松山城である。

松山城の位置と縄張り

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関東平野は日本最大の平野であり、その中央に位置する武蔵国は66・7万石という大国で、全国屈指の生産高を誇っていた。

戦国時代中期には、南から勢力を伸ばしてきた北条氏、室町秩序を守るべく北から越山を繰り返す越後上杉氏、西から侵略してきた武田氏という三者角逐の場として、激しい戦いが繰り広げられた。

そうした中、江戸・滝山・河越・鉢形・忍、そして本稿で取り上げる松山といった城は、武蔵国の要衝として幾度となく攻防戦の舞台となってきた。

松山城のある埼玉県比企郡には、杉山城、小倉城、腰越城、菅谷城、青山城など遺構をよく残した古城が多く、それぞれが個性的かつ技巧的な縄張りを持っている。

松山の地は武蔵国北部中央に位置し、鎌倉街道上道下野線の宿駅の一つで交通の要衝にあたる。松山からは下野方面に向かう下野線だけでなく、北条氏の開発した「山の辺の道」と呼ばれる街道(小田原から鉢形を経由し、上州方面に通じる道)との連絡道が松山で合流しており、軍勢がぶつかり合うことの多い地となっていた。

河川交通という点でも、松山城は北方から南流してきた市野川が荒川に合流する手前に築かれていたので、河越や江戸との距離感は意外に近かったと思われる。

その占地だが、ちょうど市野川が北方から伸びてきた台地にぶつかり、西に蛇行するところに築かれている。そのため北・西・南の三方が市野川に囲まれ、自然の外堀を形成していた。

大手は唯一地続きの東に設けられており、その前面には家臣団の屋敷地が広がっていたと推定されている。

城は5つの丘から成るアップダウンの多い地形に造られており、最も西側すなわち市野川に沿った最高所(比高58m)に本曲輪が築かれている。つまり台地は突端部に向かって高くなっており(多くは逆)、その突端部のある西側に河が蛇行して流れているという、台地城としては理想的な地勢にあった。

その縄張りだが、西から東に向かって本曲輪、二曲輪、春日丸、三曲輪等が直線的に並び、それらを補強するように、笹曲輪、太鼓曲輪、兵糧蔵跡、惣曲輪といった名の曲輪が取り囲んでいる。

基本は連郭式の縄張りだが、広い台地全体を城としているため、一見、無秩序に曲輪が配置されているように見える。しかし曲輪間の連携は考えられており、意味もなく曲輪の間に堀をうがっていったわけではない。

大手は三曲輪の北東部で、その先には根小屋曲輪(四曲輪)、さらに惣曲輪と呼ばれる外郭部が存在していたとされている。これが前衛部の家臣団屋敷地にあたり、寄手はここを制圧しないと、城の中核部に近づけない構造になっていた。

縦横無尽に切られた空堀

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松山城の特徴は、とにかく堀にある。この城の堀は曲輪面積を圧迫するかのように掘られており、曲輪の居住性は至って悪かったと思われる。その悪さは、いかに戦時だけ使用された城だろうが、兵が駐屯できたのかという疑問さえわくほどだ。

ちなみに、この城は東西1000m、南北500mという楕円形の形をしており、その城域2万7000㎡のうち、平坦地が48%に対して堀が52%となり、堀の方が平坦地よりも広い計算になる。

すなわち、この城は堀による防御に重点が置かれており、各曲輪の居住性を犠牲にしても構わないという城取り(設計者)の方針が貫徹されているのだ。ただし、さほどの兵数を守備に割けないのであれば、曲輪面積があっても意味がないわけで、こうした堀重視の縄張りも分かる気がする。

この城の城主である在地国人の上田氏の最大動員力は300から400と考えられるため、こうした堀に頼った防御法も、考えに考え抜かれた縄張りだったのかもしれない。

ただし曲輪上の平坦部を多く取りたいがために、この城には土塁が極めて少なく、切岸、折れひずみ、横矢掛り、馬出といった技巧の複合技で守っていくという方針が徹底している。土塁がなくても塀をめぐらせることはできるが、その塀さえも曲輪の面積を削減する要素であり、細長い形状の曲輪では、人が擦れ違うのさえ困難だったに違いない。

それでは、どのような攻防戦が行われたのだろうか。この城は三方に市野川がめぐっているため、寄手は東側の低地、すなわち大手側の緩斜面から攻め寄せることになる。

まず寄手は曲輪を制圧しつつ堀底道を進むことになるが、この城の堀はクランクが多くて先が見通せないだけでなく、どこをどう進めばよいのか分からない。中には行き止まりや隘路もあり、上方からの格好の標的とされてしまう。

そのため一つひとつの曲輪を制圧してからでないと、常に上方からの攻撃に晒され、相応の出血を覚悟せねばならなくなる。しかも各曲輪は90度近い角度で切岸されているため、曲輪に上ることは容易でない。つまり曲輪を制圧しながら進むということは、寄手が次第に損耗疲弊してくことであり、その攻撃が臨界点に達した時に城方に反撃されれば、ひとたまりもないはずだ。

つまり弱みとなる東側の緩斜面を補うには、ずたずたに堀を切り、堀をキルゾーンにするしかなかったのだ。

一方、東側以外から攻める場合、市野川を渡河できても、腰曲輪や竪堀が登攀を妨害するので、自然に堀底道に誘い込まれるという構造になっている。つまり、ここでもキルゾーンとなる堀が立ちはだかる。

まさにこの城は、堀の有効性を極限まで突き詰め、いかに寄手の損害を最大化するかということを考えた究極の「堀城」なのだ。

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城というのは不思議なもので、どんなに素晴らしい遺構を有していても、戦闘のなかった城がある。その一方で交通の要衝に築かれた城などは、幾度となく攻防戦の舞台となった。松山城は、そうした「戦う城」の典型例であろう。

この城は、応永年間(1394〜1428)に上田上野介という国人によって造られたとされるが、この城の存在が史料上で確認できるのは、15世紀後半になってからだ。

15世紀後半から16世紀前半にかけて、山内・扇谷両上杉氏の間で戦われた長享の乱において、松山城は扇谷上杉方の城として何度か史料に登場する。その後、天文年間(1532〜1555)初頭に武蔵国侵攻を開始した北条氏と、それを阻止せんとする山内・扇谷両上杉氏との間で、幾度か攻防戦が繰り広げられた末、天文15年(1546)の河越合戦に大勝利を収めることで北条氏が周辺一帯を手中に収める。この時、松山城も北条氏のものとなった。

だが翌天文16年(1547)、北条氏三代当主の氏康が房総半島の里見氏討伐に出向いていた隙に、氏康に領国を追われた太田資正が松山城の奪還に成功した。資正は元々の松山城主の上田朝直を入れるが、すぐに朝直は離反し、再び松山城は北条氏のものとなる。

その後も松山城は、北条氏と太田氏の争奪戦の舞台となっていく。

永禄4年(1561)には上杉輝虎(謙信)の助力によって、資正は松山城を回復し、城主には上杉憲勝(扇谷上杉朝定の弟)が据えられた。しかし翌年、氏康と武田信玄が協力して攻め寄せてきた。これを聞いた憲勝は輝虎に救援要請をする。輝虎も駆け付けてくるが、上野国の北条方国衆に行く手を阻まれ、あと一歩のところで後詰できなかった。結局、憲勝は永禄6年(1563)2月に降伏開城した。以後、松山城は北条氏の城となり、城主に上田朝直が復帰する。

しかし天正18年(1590)の小田原合戦で、前田利家と上杉景勝に攻められて降伏することで、さしもの松山城も、長い歴史に終止符を打つことになる。その後、徳川家康の関東入部によって一時的に使われたものの、慶長6年(1601)に廃城となった。

戦国関東でもこれだけ争奪戦が行われた城は少なく、それだけ武蔵国を制するためには松山城が重要だったのだ。

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