多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「小机城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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傲岸不遜な男

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小机はまず手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる

この狂歌は、太田道灌が小机城を攻めた際、陣所を構えた亀ノ甲山の南西に見える小机城を望んで詠んだ歌だという。味方を鼓舞するために詠んだとされるが、文意は、「小机城なんざ手習いの初めのようなもので、いろはにほへとと書くように落としてみせるさ」となる。

もちろん、この狂歌を道灌本人が詠んだかどうかは分からない。だが、これが後世の偽作だとしても、これほど道灌の性格を言い得て妙な歌もないだろう。

以前に『敗者烈伝』(実業之日本社)という歴史人物の評伝集を出した時、私は敗者の中に道灌を含め(厳密には、道灌は敗者でなく失敗者だが)、「己の手腕を恃みすぎた大軍略家」という副題を付けた。それほど道灌という男は、いい意味で己を恃むところが大きく、その自信は実績に比例するように巨大になっていった。

ところが文明18年(1486)7月、道灌は扇谷上杉氏の本拠である相模国の糟屋館で、主の扇谷上杉定正によって暗殺された。この事件の原因は過度の自負心と油断によるものとしか思えず、道灌にとって想定外のことだったと思われる。

なぜ道灌の性格が分かるのかというと、実は「太田道灌状」という長文の書状が残っており、そこには関東管領・山内上杉氏への不満や鬱憤が書き連ねられているからだ。それは当時の価値観からしても決して男らしいものではなく、ある意味、独善的で自己中心的な一面が垣間見られる。

その道灌に攻められて落城したのが、小机城である。

今回は道灌の戦いを追いつつ、小机城の歴史や構造に迫っていきたいと思う。

太田道灌の戦い

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太田道灌は永享4年(1432)、相模守護・扇谷上杉氏の家宰(執事)を務める太田氏の嫡男として生まれた。幼少時よりその才は傑出し、9歳から15歳まで預けられていた鎌倉五山の学所では、「五山無双」(『永享記』)と謳われるほどだった。また文学にも造詣が深く、とくに和歌や漢詩にその才を発揮した。

享徳3年(1454)、関東管領となっていた山内上杉憲忠が、公方の成氏に謀殺されることで享徳の乱が勃発する。

道灌が太田家当主となる享徳4年(1455)、成氏は鎌倉から下総古河に本拠を移した。それ以後、古河公方陣営と山内・扇谷上杉両陣営は、利根川を挟んで衝突を繰り返すことになる。

しかも文明8年(1476)6月、山内上杉氏の家宰職に指名されなかった長尾景春が、主君の関東管領・山内上杉顕定に反旗を翻す。景春の祖父と父は家宰職に就き、絶大な権力と権益を握っており、それを景春が世襲できると思い込んでいたところから生じた誤解が元だった。

この頃、道灌は駿河今川氏の家督争いを収めるため駿府に赴いており、景春は道灌の留守を狙って挙兵したのだ。

同年10月、道灌は江戸に帰還したが、顕定との間に不和が生じており、事態を静観していた。しかし翌文明9年(1477)1月、景春が顕定と定正のいる上州の五十子陣を襲い、これを攻略することで事態は緊迫する。

五十子陣から上野国まで敗走した顕定と定正は、江戸城にいる道灌に景春征伐を懇請した。これにより3月、ようやく道灌も重い腰を上げる。

道灌は見事な手際で、景春方を各個撃破し、翌文明10年(1478)正月、景春の援軍として駆け付けてきた古河公方を幕府に認めさせることを条件に和睦を成立させた。

かくして、関東に一時の平穏が訪れたかに見えたが、逃亡していた豊島泰経が武蔵国の平塚城(実際は練馬城か)で蜂起したため、道灌はこれを鎮圧し、さらに泰経が小机城に逃げ込むと、道灌は小机城に総懸りし、泰経を討ち取った。これにより、平安時代後期から西東京地域に根を張っていた豊島一族は滅亡する(ただし泰経は北方に逃れたという説もある)。

小机城を攻略した道灌は、敵方となっていた二宮城・磯部城・小沢城を落城に追い込むと、7月、景春の本拠・鉢形城を激しく攻め立て、遂に攻略を果たした。

だが周知の通り、道灌はその後、主君の定正のだまし討ちに合って命を絶たれる。

一方、道灌に落とされた小机城は、いったん廃城となったようだが、その後、南関東に勢力を伸ばしてきた北条氏の所有するところとなり、初代早雲と二代氏綱の重臣の笠原信為、さらに早雲の息子の一人・幻庵宗哲率いる小机衆の本拠となる。

おそらく北条氏は鶴見川水運の掌握という目的と同時に、本拠の相模国から武蔵国へ進出していくための兵站基地として、小机城を取り立てたのだろう。確かに小机城は、この頃の最前線拠点の江戸城と、背後の拠点城である玉縄城をつなぐ役割を果たす絶妙の位置にある。

なお一説に、道灌が落としたのは、小机城の南を東西に走るJR横浜線の線路を隔てたところにある金剛寺の裏山だという説がある。今は墓地となり、遺構は全く残っていないが、地元では「古城」と呼ばれていたという伝承もある。そうなると小机城自体は、後に北条氏によって創築されたことになる。

三代氏康期から四代氏政期にかけて、小机衆は玉縄衆と並ぶ北条氏を代表する戦闘集団となり、関東各地の戦いに投入された。しかし永禄12年(1569)12月、駿河国の蒲原城を守っていたところ、武田信玄の猛攻を受け、幻庵次男の氏信、三男の箱根少将長順ら名だたる武将が討ち取られて壊滅する(氏信は小机北条氏の現当主)。

2人の息子を失った幻庵は、氏康七男の三郎(後の景虎)を養子に迎え入れ、小机衆の再編を託すが、わずか2カ月後に三郎が越相同盟の証人とされたため、養子縁組を解消せざるを得なくなった。

氏政の代になると、小机衆はあまり戦場に出なくなり、その代わりに氏政の弟たちが率いる滝山衆や鉢形衆が戦闘集団となっていく。

小田原合戦において、小机城の攻防戦の模様は全く伝わっておらず、北条氏の時代から廃城になっていたか、捨て城にされていた可能性がある。

小机城の起源と構造

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横浜市内にあり、JR横浜線小机駅から15分ほど歩くだけで着くこの城は、首都圏に住んでいる方にとって、手軽に中世古城を楽しめる貴重な遺跡だ。

この城は、15世紀半ばに山内上杉氏が築城したというのが定説になっているが、元を正せば国人の小机氏の居城だったという説もある。しかし小机氏自体の記録がほとんどなく真偽は不明である。また山内上杉氏の家臣で、後に長尾景春に与した矢野兵庫助憲信の城とも伝えられるが、矢野氏の場合、一時的に駐屯していたと見るのが妥当だろう。つまり築城者は謎ということになる。

この城は、南から延びる標高42m、比高22mの台地が、鶴見川に張り出す突端部分に築かれた連郭式平山城で、当初は河川交通を掌握する目的で築かれたと思われる。

当時の河川は街道と同じくらい重要で、河川交通を押さえることで経済的にも軍事的にも優位に立てた。とくに鶴見川流域は古くから多くの人が住みつき、江戸湾へも迅速に出られるので、河川交通を管制できる小机城の位置は理想的だった。

また城の南側には、神奈川湊から武蔵府中へと続く飯田街道が走っており、江戸湾から武蔵国中心部への陸上交通路も押さえることができた。

つまり小机城は、城の北を流れる鶴見川と、南を通る飯田街道に挟まれた交通の要衝に築かれた城となる。

城の中心は東西二つの曲輪から成っており、その間に馬出状の細長い帯曲輪が挟まり(実はここが最高所になる)、周囲を堀で囲むという至ってシンプルな縄張りだ。

東曲輪は西側の一部に土塁が残され、南西には櫓台跡がある。南端に虎口跡もあり、西曲輪に通じているが、どのような虎口だったかは、現況では分からない。

一方、西曲輪は方形を成していることと、東曲輪以上に独立性が強いので、おそらく当初の小机城は、ここだけではなかったかと思われる。

定説では東曲輪が古く、西曲輪が中世後期の築造とされるが、西曲輪南面の食い違い虎口などは、平入り虎口から改変するのは難しいことではないので、実見した限りにおいては、こちらの方が古い気がする。

その根拠として、西曲輪は方形で、四面が東西南北で正確に取れており、居館城の延長線上で造られたと思われる一方、東曲輪は直下に城下町(家臣団屋敷)を抱えており、西曲輪の前衛を成す曲輪という感じがすること。さらに西曲輪の西は現在、南北に第三京浜道路が走っているが、それを隔てた西側にも尾根伝いに遺構があり、搦手を守る形になっているからだ。

ちなみに西曲輪を取り巻く堀は、最大幅12mで深さは10mという滝山城にも匹敵するもので、この曲輪を何としても守り抜くという強い意志が表れている。。

ただし、いかんせん都心に近い立地なので遺構の破壊が激しく、また第三京浜道路とJR横浜線の線路が遺構の中でクロスしている上、周囲も宅地造成が進んでいる状況なので結論を出すのは難しい。

面白いのは、第三京浜道路を挟んで「富士浅間」「出城」などと呼ばれる遺構から尾根が南に伸び、さらに直角状に東に曲がり、金剛寺の裏山に達している点だ(不整形な馬蹄状になる)。確かに、ここに一城別郭的な砦があってもおかしくない。

この城の全体の印象としては、グランドデザインのない古い城をベースに拡張していったという感じがする。その理由としては、例えば杉山城や山中城といった土の名城と比較すると、地形に任せて場当たり的に増築していった感が強く、曲輪間の連携が弱い気がするからだ。

この城は都心に近い城としては、土塁や堀をよく残している上、「小机城址市民の森」として整備も行き届いており、中世の雰囲気を手軽に味わうことができる。

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歴史歴史作家の城めぐり

太田道灌に落とされた河畔の要害「小机城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #11】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「小机城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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傲岸不遜な男

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小机はまず手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる

この狂歌は、太田道灌が小机城を攻めた際、陣所を構えた亀ノ甲山の南西に見える小机城を望んで詠んだ歌だという。味方を鼓舞するために詠んだとされるが、文意は、「小机城なんざ手習いの初めのようなもので、いろはにほへとと書くように落としてみせるさ」となる。

もちろん、この狂歌を道灌本人が詠んだかどうかは分からない。だが、これが後世の偽作だとしても、これほど道灌の性格を言い得て妙な歌もないだろう。

以前に『敗者烈伝』(実業之日本社)という歴史人物の評伝集を出した時、私は敗者の中に道灌を含め(厳密には、道灌は敗者でなく失敗者だが)、「己の手腕を恃みすぎた大軍略家」という副題を付けた。それほど道灌という男は、いい意味で己を恃むところが大きく、その自信は実績に比例するように巨大になっていった。

ところが文明18年(1486)7月、道灌は扇谷上杉氏の本拠である相模国の糟屋館で、主の扇谷上杉定正によって暗殺された。この事件の原因は過度の自負心と油断によるものとしか思えず、道灌にとって想定外のことだったと思われる。

なぜ道灌の性格が分かるのかというと、実は「太田道灌状」という長文の書状が残っており、そこには関東管領・山内上杉氏への不満や鬱憤が書き連ねられているからだ。それは当時の価値観からしても決して男らしいものではなく、ある意味、独善的で自己中心的な一面が垣間見られる。

その道灌に攻められて落城したのが、小机城である。

今回は道灌の戦いを追いつつ、小机城の歴史や構造に迫っていきたいと思う。

太田道灌の戦い

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太田道灌は永享4年(1432)、相模守護・扇谷上杉氏の家宰(執事)を務める太田氏の嫡男として生まれた。幼少時よりその才は傑出し、9歳から15歳まで預けられていた鎌倉五山の学所では、「五山無双」(『永享記』)と謳われるほどだった。また文学にも造詣が深く、とくに和歌や漢詩にその才を発揮した。

享徳3年(1454)、関東管領となっていた山内上杉憲忠が、公方の成氏に謀殺されることで享徳の乱が勃発する。

道灌が太田家当主となる享徳4年(1455)、成氏は鎌倉から下総古河に本拠を移した。それ以後、古河公方陣営と山内・扇谷上杉両陣営は、利根川を挟んで衝突を繰り返すことになる。

しかも文明8年(1476)6月、山内上杉氏の家宰職に指名されなかった長尾景春が、主君の関東管領・山内上杉顕定に反旗を翻す。景春の祖父と父は家宰職に就き、絶大な権力と権益を握っており、それを景春が世襲できると思い込んでいたところから生じた誤解が元だった。

この頃、道灌は駿河今川氏の家督争いを収めるため駿府に赴いており、景春は道灌の留守を狙って挙兵したのだ。

同年10月、道灌は江戸に帰還したが、顕定との間に不和が生じており、事態を静観していた。しかし翌文明9年(1477)1月、景春が顕定と定正のいる上州の五十子陣を襲い、これを攻略することで事態は緊迫する。

五十子陣から上野国まで敗走した顕定と定正は、江戸城にいる道灌に景春征伐を懇請した。これにより3月、ようやく道灌も重い腰を上げる。

道灌は見事な手際で、景春方を各個撃破し、翌文明10年(1478)正月、景春の援軍として駆け付けてきた古河公方を幕府に認めさせることを条件に和睦を成立させた。

かくして、関東に一時の平穏が訪れたかに見えたが、逃亡していた豊島泰経が武蔵国の平塚城(実際は練馬城か)で蜂起したため、道灌はこれを鎮圧し、さらに泰経が小机城に逃げ込むと、道灌は小机城に総懸りし、泰経を討ち取った。これにより、平安時代後期から西東京地域に根を張っていた豊島一族は滅亡する(ただし泰経は北方に逃れたという説もある)。

小机城を攻略した道灌は、敵方となっていた二宮城・磯部城・小沢城を落城に追い込むと、7月、景春の本拠・鉢形城を激しく攻め立て、遂に攻略を果たした。

だが周知の通り、道灌はその後、主君の定正のだまし討ちに合って命を絶たれる。

一方、道灌に落とされた小机城は、いったん廃城となったようだが、その後、南関東に勢力を伸ばしてきた北条氏の所有するところとなり、初代早雲と二代氏綱の重臣の笠原信為、さらに早雲の息子の一人・幻庵宗哲率いる小机衆の本拠となる。

おそらく北条氏は鶴見川水運の掌握という目的と同時に、本拠の相模国から武蔵国へ進出していくための兵站基地として、小机城を取り立てたのだろう。確かに小机城は、この頃の最前線拠点の江戸城と、背後の拠点城である玉縄城をつなぐ役割を果たす絶妙の位置にある。

なお一説に、道灌が落としたのは、小机城の南を東西に走るJR横浜線の線路を隔てたところにある金剛寺の裏山だという説がある。今は墓地となり、遺構は全く残っていないが、地元では「古城」と呼ばれていたという伝承もある。そうなると小机城自体は、後に北条氏によって創築されたことになる。

三代氏康期から四代氏政期にかけて、小机衆は玉縄衆と並ぶ北条氏を代表する戦闘集団となり、関東各地の戦いに投入された。しかし永禄12年(1569)12月、駿河国の蒲原城を守っていたところ、武田信玄の猛攻を受け、幻庵次男の氏信、三男の箱根少将長順ら名だたる武将が討ち取られて壊滅する(氏信は小机北条氏の現当主)。

2人の息子を失った幻庵は、氏康七男の三郎(後の景虎)を養子に迎え入れ、小机衆の再編を託すが、わずか2カ月後に三郎が越相同盟の証人とされたため、養子縁組を解消せざるを得なくなった。

氏政の代になると、小机衆はあまり戦場に出なくなり、その代わりに氏政の弟たちが率いる滝山衆や鉢形衆が戦闘集団となっていく。

小田原合戦において、小机城の攻防戦の模様は全く伝わっておらず、北条氏の時代から廃城になっていたか、捨て城にされていた可能性がある。

小机城の起源と構造

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横浜市内にあり、JR横浜線小机駅から15分ほど歩くだけで着くこの城は、首都圏に住んでいる方にとって、手軽に中世古城を楽しめる貴重な遺跡だ。

この城は、15世紀半ばに山内上杉氏が築城したというのが定説になっているが、元を正せば国人の小机氏の居城だったという説もある。しかし小机氏自体の記録がほとんどなく真偽は不明である。また山内上杉氏の家臣で、後に長尾景春に与した矢野兵庫助憲信の城とも伝えられるが、矢野氏の場合、一時的に駐屯していたと見るのが妥当だろう。つまり築城者は謎ということになる。

この城は、南から延びる標高42m、比高22mの台地が、鶴見川に張り出す突端部分に築かれた連郭式平山城で、当初は河川交通を掌握する目的で築かれたと思われる。

当時の河川は街道と同じくらい重要で、河川交通を押さえることで経済的にも軍事的にも優位に立てた。とくに鶴見川流域は古くから多くの人が住みつき、江戸湾へも迅速に出られるので、河川交通を管制できる小机城の位置は理想的だった。

また城の南側には、神奈川湊から武蔵府中へと続く飯田街道が走っており、江戸湾から武蔵国中心部への陸上交通路も押さえることができた。

つまり小机城は、城の北を流れる鶴見川と、南を通る飯田街道に挟まれた交通の要衝に築かれた城となる。

城の中心は東西二つの曲輪から成っており、その間に馬出状の細長い帯曲輪が挟まり(実はここが最高所になる)、周囲を堀で囲むという至ってシンプルな縄張りだ。

東曲輪は西側の一部に土塁が残され、南西には櫓台跡がある。南端に虎口跡もあり、西曲輪に通じているが、どのような虎口だったかは、現況では分からない。

一方、西曲輪は方形を成していることと、東曲輪以上に独立性が強いので、おそらく当初の小机城は、ここだけではなかったかと思われる。

定説では東曲輪が古く、西曲輪が中世後期の築造とされるが、西曲輪南面の食い違い虎口などは、平入り虎口から改変するのは難しいことではないので、実見した限りにおいては、こちらの方が古い気がする。

その根拠として、西曲輪は方形で、四面が東西南北で正確に取れており、居館城の延長線上で造られたと思われる一方、東曲輪は直下に城下町(家臣団屋敷)を抱えており、西曲輪の前衛を成す曲輪という感じがすること。さらに西曲輪の西は現在、南北に第三京浜道路が走っているが、それを隔てた西側にも尾根伝いに遺構があり、搦手を守る形になっているからだ。

ちなみに西曲輪を取り巻く堀は、最大幅12mで深さは10mという滝山城にも匹敵するもので、この曲輪を何としても守り抜くという強い意志が表れている。。

ただし、いかんせん都心に近い立地なので遺構の破壊が激しく、また第三京浜道路とJR横浜線の線路が遺構の中でクロスしている上、周囲も宅地造成が進んでいる状況なので結論を出すのは難しい。

面白いのは、第三京浜道路を挟んで「富士浅間」「出城」などと呼ばれる遺構から尾根が南に伸び、さらに直角状に東に曲がり、金剛寺の裏山に達している点だ(不整形な馬蹄状になる)。確かに、ここに一城別郭的な砦があってもおかしくない。

この城の全体の印象としては、グランドデザインのない古い城をベースに拡張していったという感じがする。その理由としては、例えば杉山城や山中城といった土の名城と比較すると、地形に任せて場当たり的に増築していった感が強く、曲輪間の連携が弱い気がするからだ。

この城は都心に近い城としては、土塁や堀をよく残している上、「小机城址市民の森」として整備も行き届いており、中世の雰囲気を手軽に味わうことができる。

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