
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
石垣山城築城の経緯

天正18年(1590) 2月、小田原北条氏に宣戦布告した豊臣秀吉は3月1日、京都を出陣し、同月29日に北条氏の西の玄関にあたる山中城に攻め寄せた。この時、豊臣勢7万は、箱根口の要衝・山中城に猛攻を掛けて半日で落とした。
豊臣勢の戦意の高さに驚いた北条方は、屛風山・鷹巣・宮城野・塔ノ峰などの箱根山城塞群を放棄し、小田原の西北方面を守る深沢・足柄・浜居場・新の諸城からも兵を退去させた。
相次ぐ敗報に北条方は慌てふためき、近隣の農民・漁民・商人・僧侶から女子供までを小田原城内に収容し、籠城戦の準備を急いでいた。
4月3日には、先手を受け持つ徳川勢先遣隊が小田原近郊に姿を現し、6日には、秀吉が箱根山を越えてきた。箱根湯本の早雲寺に本陣を構えた秀吉は長期戦を見据え、小田原城を一望の下に望める標高257m(比高200m)の笠懸山に、総石垣造りの付城の構築を命じた。
ちなみに付城とは二つの意味がある。一つは、本城を補完する役割を持つ出城という意味で使う場合。もう一つは、敵の城を攻めるために寄手の陣として築いた城を指す場合である。もちろん後者の意味で使われるケースが圧倒的に多い。
なお付城と陣城の意味は異なる。陣城は陣としている城という意味で、城攻めでない場合にも使われる。長篠合戦を例に取ると、武田方が長篠城を包囲するために築いた鳶ヶ巣山砦は付城だが、武田勝頼が連吾川を挟んで、織田・徳川連合軍と対峙するために築いた設楽原の才ノ神本陣は陣城になる。また、それに対する織田・徳川連合軍の弾正山陣なども陣城になる。
小田原城攻めにあたり、秀吉はどこかに付城を築く必要があった。秀吉は小田原城を一望の下に見渡せる石垣山を一目で気に入り(距離は3㎞)、この地に豪壮な付城を築くことを命じた。ちなみにこの城のある山の名は、今は石垣山となっているが、当時は笠懸山と呼ばれていた。
これ以前、北条氏はこの地に出城を築いていたらしい。石垣山城となってからの堀切を隔てた最西端にある出丸と呼ばれる曲輪は、北条氏時代のものだという伝承がある。
石垣山城の築城記録は4月末頃から見えてくるが、当然その前に経始(設計や測量といった準備作業)は行われていたはずで、城造りの作業が本格化したのは4月下旬以降だろう。しかも驚くべきスピードで、同時並行的にすべてが進んでいたらしく、5月中頃には石垣普請どころか、秀吉の御座所(御殿)の作事まで終わる見込みだという書状が残っている。
同月14日付けの北政所あて秀吉書状には、「大どころはできた。やがて広間(御殿)と天守もできるだろう」と書かれている。実際に同月中、広間と天守の作事にも着手していたらしい。石垣普請は5月半ばに終わり、台所もでき上っていたという。
石垣山城におけるエピソードで最も有名なのは、6月9日の伊達政宗の出仕だろう。
政宗は秀吉の出した「関東・奥両国惣無事令」(奥両国とは陸奥・出羽のこと)を無視して蘆名氏を滅ぼし、その領国を自らのものとしており、秀吉は政宗を許すつもりはなかった。しかも明らかに様子見の遅参であり、当初、秀吉は政宗に会おうとしなかった。
それでも6月9日、千利休らのとりなしで秀吉は政宗を引見した。その時、政宗は鎧の上に純白の陣羽織を着て、髪の毛を禿刈り(ざんぎり頭)にして現れた。その奇抜な姿を見た豊臣政権の重鎮たちは一様に顔をしかめたが、逆に秀吉は一目で気に入り、拝跪する政宗の首筋を馬鞭で3度叩き、「もう少し遅かったら、この首が落ちていたところだぞ」と言って笑ったという。
この時、政宗は「奪い取った蘆名領は、すべて殿下に献上します」と言って平伏したので、秀吉は上機嫌となり、この場で伊達家の本領を安堵したという(異説あり)。
秀吉が奇抜で派手な演出を好むと誰かから聞いていた政宗は、異様な姿をすることで、秀吉の歓心を買うことに成功したのだ。
築城に関する話としては、9日に続いて10日にも伺候した政宗は、前日にはなかった白壁が完成しているのを見たが少しも驚かず、「白紙が貼り付けてあるだけです」と言って秀吉を感心させたという。
塀や壁に白紙を貼って白塗りにしたように見せかけたという話は、ほかの史料にも見られるので真実の可能性が高い。
14日には頑強な抵抗を続けていた武蔵国の鉢形城が降伏開城し、23日には主戦派の筆頭である前当主氏政の弟氏照の本拠・八王子城が壮絶な落城を遂げた。いまだ籠城を続けている城はいくつかあるものの、小田原城への惣懸りの条件は整った。
26日、秀吉は小田原城から見える東側の大樹を一斉に伐採させた上、鉄砲を盛んに撃ち、石垣山城の誕生をドラマチックに演出する。
29日には、落成を祝す盛大な大茶会が開かれた。大坂から側室の淀殿をを呼び、さらに公家、楽師、連歌師、能楽師などを招集していたので、賑やかな催しとなったはずだ。
秀吉の人生の頂点はここに極まった。その舞台装置こそ石垣山城だった。
これに北条方の将兵が度肝を抜かれ、戦意を喪失したというのは、軍記物の定番エピソードだが、あながち偽りとは言えない。
こうしたことからお手上げとなった北条氏は7月5日、当主の氏直が小田原城を出て、降伏開城することになる。
7月11日付けの文書には、近江国の石垣積みの技術者集団である穴太衆35人を帰したという記述が見られ、北条氏が降伏した時期と一致している。つまり小田原城を手に入れた秀吉は、石垣山城をこれ以上、整備拡張するつもりはなく、せいぜい中継基地として使うつもりだったと思われる(実際に奥羽鎮定の際に物資の中継基地として使われている)。
かくして後に「一夜城」と呼ばれることになる石垣山城は、一応の完成を見た。延べ人数で4万人が動員され、工期はおおよそ80日だった。
石垣山城の縄張りと構造

箱根外輪山南部から北西方向に下ってきた尾根の先端部に築かれたこの城は、北を除く三方の見晴らしがよく、また小田原城内の大半を視野に収められるので、城を築くのに理想的な場所にあった。
この城へのアクセスは、早川沿いに走る国道1号から脇道に入り、太閤道を東から西へと上っていく形になる。この道は、早川港から物資を石垣山城に運び入れるために造られたという。
山頂部の駐車場は広い平場(東曲輪)となっており、豊臣方の雑兵たちは、ここに宿営していたと思われる。
駐車場は城の東側にあり、ここにある東曲輪から大手を上っていくことになる。ただし城好きなら、まず左手にある南曲輪を見てから行くことをお勧めする。実は、この城は大正12年(1923)の関東大震災の時に石垣が激しく崩落し(震源地は小田原沖)、ほかの豊臣系城郭に見られるような高石垣が少ない。南曲輪から西曲輪にかけては当時の様子を残しており、一見の価値がある。
ただし「城破り」のあった肥前名護屋城を詳しく検分すると分かるのだが、この城も同様のことが行われたのではないだろうか。つまり石垣の一部で隅角部の破壊がなされているのだ。断定は避けたいが、廃城時に破壊された可能性がある。
関東大震災にも耐えた南曲輪の石垣の隅石が石垣山城では最大となるが、この城の石は城の西側斜面の石切場から切り出されたと分かっている。元々、笠懸山は箱根山の噴火で生じた溶岩流が冷えて固まった山なので、安山岩の岩盤が地下の浅い位置にあり、石垣用の石を採掘するには便利な場所だった。
さて、いったん駐車場前の東曲輪に戻って直登すると南曲輪に達する。しかしここは大石がごろごろしており、危険が伴う。そこから東曲輪に戻って直登すると南曲輪に達するが、大石がごろごろしており、このルートは危険が伴う。それゆえ右手の大手道を進み、二の丸(馬屋曲輪)から入る方がよいだろう。
ちなみに南曲輪からの登城路は南曲輪と二の丸からの攻撃を受けつつ屈曲を繰り返し、本丸に至るという複雑な構造になっている。
縄張りは比較的シンプルだ。最も高所になる山頂部に本丸(本城)と天守台を置き、尾根続きに二の丸(馬屋曲輪)と三の丸(北曲輪)が配される梯郭式と呼ばれる構造になる。城域は東西550m、南北275mに及ぶ。
不思議なのは、小田原合戦の翌年にあたる天正19年(1591)の銘が入った瓦が発見されていることだ。これは、北条氏滅亡後もこの城を使い続けるために、板葺きで暫定的に完成していた屋根を全面的に瓦に葺き替えたことを裏付けている。つまり北条氏滅亡後、関東に入部した家康には、この城を何らかの目的で使い続ける意図があったのかもしれない。
三の丸と井戸(後述)を見学してから二の丸に戻ると、眼前に本丸の石垣が迫ってくる。本丸北側の石垣は惜しくも崩落しているが、10mの高さだったとされ、小田原城からよく見えるように工夫されている。
一方、本丸の南西側には西曲輪を、その南東側に南曲輪を配し、双方にまたがる大堀切を隔てて出丸となる。
本丸には天守台を築き(現在は円墳状の小丘)、東と北に2カ所の虎口を設けている(桝形ではない)。本丸からは瓦が多数出土しているので、最終的には本格的な瓦葺天守があったと思われる。
最後に、二の丸と三の丸の間に掘られている巨大な井戸について触れる。この井戸は、野面積みの石垣を3段に張りめぐらせた堅固な造りとなっている。上辺部の一辺は20mほどあり、深さは10mほどだが、石垣をびっしりと積み上げた造りは壮観だ。
こうしたことから、当初は長期戦をにらんで本格的な拠点にしようとしていた石垣山城だったが、予想以上に北条方の崩壊が早く、途中から丁寧さよりも速度を重視した普請作事に変わったと思われる。
城は目的を持って築かれる。石垣山城の場合、当初は長期戦を想定した本格的な城を築くという目的があったが、予想以上に北条方の崩壊が早かったことで「見せる城」に変わり丁寧な造りの初期工程から、スピード重視の後期工程に変わるという変則的な城造りとなったのだ
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