多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「三崎城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

江戸湾海賊の歴史

image by PIXTA / 41597959

戦国時代の文献で「前海」「内海」という名で出てくる江戸湾(現・東京湾)は、房総半島南端の洲崎から三浦半島南東端の劔崎を結ぶ線から内側の海を指す。

この海には、戦国時代以前から「海夫」や「海部」と呼ばれる漁業や物資運搬といった海の仕事に携わる人々がいた。後の「海賊」である。

三浦半島の海夫は、平安時代から同地を支配していた三浦一族との間に緩やかな主従関係を築き、自らの権益を保護してもらう代わりに、三浦氏から依頼された兵員や物資の輸送、時には海上戦闘に参加することで、互いに持ちつ持たれつの関係を築いていた。

永正13年(1516)、扇谷上杉氏傘下の三浦氏を滅ぼして三浦半島を制した北条早雲が次に目指したのは、江戸湾そして「向地」と呼ばれた房総半島だった。早雲の狙いは江戸湾交易網を押さえることで、そのために房総半島に水軍拠点を築くつもりでいた。

すなわち、太日川(現・江戸川)、利根川(現・隅田川)、多摩川など多くの大河川が流れ込む江戸湾を押さえてしまえば、扇谷上杉氏の勢力圏である武蔵国内陸部への物資輸送が滞り、扇谷上杉氏は自然に立ち枯れると読んでいたのだ。

早雲は、三浦氏傘下の海夫と思われる出口・亀崎・鈴木・下里・三富氏らを自らの家臣団に組み入れることで水軍力の強化を図っていく。彼らは「三崎十人衆」と呼ばれ、平時には海運業を生業とし、戦時には北条水軍として戦地に赴くという独立性の高い家臣団となっていった。

さらに北条氏は「三崎十人衆」以外にも江戸湾海賊の掌握に努め、江戸氏や横須賀氏を傘下に収めて江戸湾支配に力を入れた。

ちなみに江戸湾ほど海夫勢力が育っていなかった伊豆半島西岸の防衛には、紀伊半島から海賊に近い国衆を招致し、知行地と港を預けて駿河湾東部の制海権を掌握しようとした。これが、梶原・愛洲・橋本・安宅といった傭兵的性格を持つ船手衆である。 

二代氏綱の時代になると、房総半島を根城とする里見氏との抗争が激しくなる。北条・里見両氏は互いの海賊勢力を駆使し、敵船の拿捕や略奪によって敵勢力に打撃を与えようとした。その一方、沿岸防衛と商船保護用の水軍、すなわち「警固衆」を随時出動できるようにした。

その後、江戸湾海賊だけでは手が足りなくなった北条氏は、紀州から招いた海賊的国衆や伊豆の有力海賊も江戸湾に回し、「浦賀定海賊」として組織化していく。

江戸湾をめぐる攻防

image by PIXTA / 39987522

陸戦では里見氏に優勢だった北条氏も、江戸湾をめぐる海戦では里見氏に後れを取っていた。というのも広大な房総半島の海賊衆を掌握した里見水軍は強力で、北条方の拠点を急襲するだけでなく、商船を襲い、沿岸の漁村に上陸し、そこに住む人々や財産を略奪することを頻繁に行っていたからだ。

とくに大永6年(1526)、里見氏に鎌倉まで攻略され、鶴岡八幡宮を焼き払われたことは、鎌倉の外護者を自認する氏綱にとって衝撃だった。

続く天文年間(1532〜1555)も、江戸湾の主導権争いは里見氏優位のまま推移していった。

弘治2年(1556)、突如として三浦半島に上陸した里見義弘が鎌倉まで攻め寄せ、許婚だった青岳尼を奪回するという事件が起こる。

実は小弓公方府健在の頃、義弘の父義堯は義明との間に盟約を交わし、まだ幼い義弘と青岳尼の婚約の儀を執り行っていた。

ところが天文7年(1538)の第1次国府台合戦において、北条氏綱・氏康父子によって小弓公方義明は討たれ、小弓御所に残されていた2人の姉妹は相模国に連行され、鎌倉尼五山筆頭の太平寺と次席の東慶寺の住持に据えられた。

そこで義弘は上陸作戦を敢行し、青岳尼を取り戻したのだ。後に青岳尼は還俗して義弘の正室となり、後嗣の義頼を産むことになる。

一方、青岳尼を奪還されて面目をつぶされた氏康は、住持不在となった太平寺を廃寺とするほど怒り狂った。青岳尼が自らの意志で海を渡ったと知ったからだ。

こうした戦いを通して、北条氏は里見氏の上陸作戦を阻止できる強靭な水軍拠点構築の必要性を痛感していた。その結果、取り立てられたのが浦賀城と三崎城である。この2つの城が、北条氏の江戸湾支配の要となっていく。

三崎城がいつ創築されたのは定かでない。おそらく三浦氏が支配していた時代から何らかの拠点があったはずで、徐々に拡大修築していったと思われる。

永禄10年(1567)、三崎城主に指名された氏康五男の氏規は、北条水軍の統括も兼ねることになり、三崎城の大改修に取り組んだ。この創築に近い改修は、天正5年(1577)まで続く。

三崎・浦賀両城が完成したことだけが原因ではないものの、同年11月、陸海からの北条氏の圧迫に耐え切れなくなった里見氏は、北条氏との間に降伏同然の和睦を結ぶことになる。実は9月、里見氏の本拠・佐貫城の沖で海戦があり、里見水軍を破った北条水軍は上陸作戦を敢行し、佐貫城を攻め上げていたのだ。

この時の海戦について詳しく書かれた記録はない。だが里見水軍に相応の打撃を与えない限り、北条水軍は上陸作戦を行えず、その後の補給もままならないので、里見水軍は壊滅的な打撃をこうむっていた可能性がある。

かくして40年余にわたった江戸湾をめぐる戦いは終息する。以後、浦賀城は江戸湾警固の城、三崎城は三浦半島の統治拠点となっていく。

水軍城の到達点

image by PIXTA / 35916985

三崎港は前面に城ヶ島が横たわっていることで、台風が来ても風波が穏やかな天然の良港になっていた。その三崎港を城ヶ島と共に守るかのように、北西から張り出した台地先端部に築かれたのが三崎城である。

城域は東西600m、南北360mで、水軍城としては比較的広い上、その縄張りは北条流築城術の粋を集めたと言ってもいい完成度を示している。

城域には本曲輪(現・青少年会館)などの主郭部と、南西の大堀切を隔てた出丸と呼ばれる領域があり、その分離性は高い。

まず入江(現・三崎港)を背にした断崖上に本曲輪を置き、その東端にあたる先端部に馬出状の伝笹曲輪(七曲輪)を設けている。この伝笹曲輪も断崖上だが、入江側からの登攀も可能なため、あえて本曲輪との間に土塁を設けて区画し、入江から登ってくる敵を、そこで食い止めようとしたのだろう。

本曲輪の西側には土塁を隔てて二曲輪(現・体育館)がある。研究家によっては、本曲輪と二曲輪を逆にしているケースもあるが、確かに東西両曲輪は同程度の高さにあり、城主がどちらにいたか分かりにくい。それでも入江に近い位置にあり、倍近い広さの東側の曲輪を本曲輪とするのが妥当ではないだろうか(里見氏と和睦後に本曲輪を変えた可能性はある)。それゆえ本稿では、東側を本曲輪、西側を二曲輪とさせていただく。

この二曲輪に通じる本曲輪の虎口は、二つ折れの桝形となっており、さらに北側の土塁上には櫓台があり、虎口を射程内に捉えている。

また二曲輪の南には現在、福祉会館のある六曲輪と呼ばれる小さな曲輪がある。この曲輪も断崖上にあるが、南から直接、二曲輪に入ることを防ぐために設けられた曲輪だろう。

二曲輪と本曲輪の北にあるのが二曲輪と四曲輪である。この両曲輪の間には、三崎城の最大の特徴である五角形の馬出がある。この馬出は二曲輪の北側に付けられた虎口を守る形になり、本曲輪と二曲輪内に、敵を一歩も入れさせないという強い意志を感じさせる。

三・四曲輪の北側には外曲輪(現・三崎中学校)が広がっている。この外曲輪にも、かつては土塁と堀が取り巻いていた。こうした緩衝地帯的曲輪を設けることで、緒戦の鉄砲攻撃から城の中核部を守ろうとしたのだろう。

北条氏の城は塁線を屈曲させて横矢を掛け、さらに寄手の侵入路にキルゾーンを設けることで寄手勢力を漸減し、寄手の攻勢が停滞した時に陣前逆襲によって撃退するという縄張りを取っていることが多い。

ところが三崎城は曲輪の高低差を利用し、通路に死角なく横矢を掛けることで、敵の侵入を押しとどめようとしている。ほかの拠点城と比べると、より縄張りの妙によって敵の損耗率を上げ、味方の損耗率を低下させようという意図がうかがえる。つまり杉山城のように塁線の折れによって横矢掛りを丹念に施していく方法とは違い、曲輪の位置関係によって横矢を掛けている。この方が塁線に余計な長さを生じさせないため、より洗練された縄張りだと言えるだろう。

天正期に入ると、北条氏の縄張りはより洗練され、それに比例するように守備兵の練度も上がったと思われる。つまり城兵の練度に自信があるから、これだけ無駄なく論理的な縄張りでも十分に機能させられたのだ。

堀切を隔てた西側には光念寺や本瑞寺、さらにその北には広大な五曲輪(現・三崎小学校)がある。これらの曲輪にも土塁や空堀跡が確認されており、増援兵がやってきた時の駐屯地として使われていたのだろう。

三崎城は、江戸湾における北条氏の水軍城の本拠だった可能性が高い。というのも西の相模湾側に新井城、東の江戸湾側に浦賀城があり、自らの前面には城ヶ島が横たわるという地形のため、三崎城自体が本曲輪のように守られていたからだ。

ただし浦賀城が対里見戦の出撃拠点として最適の場所にあるのに対し、三崎城は狭い湾の奥にあり、どちらかというと船溜り(係留地やドック)の要素が強い気がする。つまり対里見戦において、警固衆の出撃拠点である浦賀城と統治拠点兼船溜りを担った三崎城は、分業体制が取られていたと考えられる。

三崎城は入江を守る水軍城というよりも、陸からの攻撃を防ぐことを主眼にした城である。それは陸戦主体の北条氏の限界というよりも、里見氏との和睦後、三浦半島南部の支配を重視した改変が加えられたと考えるのが妥当だろう。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
" /> 江戸湾を守った水軍拠点「三崎城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #9】 – Study-Z
歴史歴史作家の城めぐり

江戸湾を守った水軍拠点「三崎城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #9】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「三崎城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

江戸湾海賊の歴史

image by PIXTA / 41597959

戦国時代の文献で「前海」「内海」という名で出てくる江戸湾(現・東京湾)は、房総半島南端の洲崎から三浦半島南東端の劔崎を結ぶ線から内側の海を指す。

この海には、戦国時代以前から「海夫」や「海部」と呼ばれる漁業や物資運搬といった海の仕事に携わる人々がいた。後の「海賊」である。

三浦半島の海夫は、平安時代から同地を支配していた三浦一族との間に緩やかな主従関係を築き、自らの権益を保護してもらう代わりに、三浦氏から依頼された兵員や物資の輸送、時には海上戦闘に参加することで、互いに持ちつ持たれつの関係を築いていた。

永正13年(1516)、扇谷上杉氏傘下の三浦氏を滅ぼして三浦半島を制した北条早雲が次に目指したのは、江戸湾そして「向地」と呼ばれた房総半島だった。早雲の狙いは江戸湾交易網を押さえることで、そのために房総半島に水軍拠点を築くつもりでいた。

すなわち、太日川(現・江戸川)、利根川(現・隅田川)、多摩川など多くの大河川が流れ込む江戸湾を押さえてしまえば、扇谷上杉氏の勢力圏である武蔵国内陸部への物資輸送が滞り、扇谷上杉氏は自然に立ち枯れると読んでいたのだ。

早雲は、三浦氏傘下の海夫と思われる出口・亀崎・鈴木・下里・三富氏らを自らの家臣団に組み入れることで水軍力の強化を図っていく。彼らは「三崎十人衆」と呼ばれ、平時には海運業を生業とし、戦時には北条水軍として戦地に赴くという独立性の高い家臣団となっていった。

さらに北条氏は「三崎十人衆」以外にも江戸湾海賊の掌握に努め、江戸氏や横須賀氏を傘下に収めて江戸湾支配に力を入れた。

ちなみに江戸湾ほど海夫勢力が育っていなかった伊豆半島西岸の防衛には、紀伊半島から海賊に近い国衆を招致し、知行地と港を預けて駿河湾東部の制海権を掌握しようとした。これが、梶原・愛洲・橋本・安宅といった傭兵的性格を持つ船手衆である。 

二代氏綱の時代になると、房総半島を根城とする里見氏との抗争が激しくなる。北条・里見両氏は互いの海賊勢力を駆使し、敵船の拿捕や略奪によって敵勢力に打撃を与えようとした。その一方、沿岸防衛と商船保護用の水軍、すなわち「警固衆」を随時出動できるようにした。

その後、江戸湾海賊だけでは手が足りなくなった北条氏は、紀州から招いた海賊的国衆や伊豆の有力海賊も江戸湾に回し、「浦賀定海賊」として組織化していく。

江戸湾をめぐる攻防

image by PIXTA / 39987522

陸戦では里見氏に優勢だった北条氏も、江戸湾をめぐる海戦では里見氏に後れを取っていた。というのも広大な房総半島の海賊衆を掌握した里見水軍は強力で、北条方の拠点を急襲するだけでなく、商船を襲い、沿岸の漁村に上陸し、そこに住む人々や財産を略奪することを頻繁に行っていたからだ。

とくに大永6年(1526)、里見氏に鎌倉まで攻略され、鶴岡八幡宮を焼き払われたことは、鎌倉の外護者を自認する氏綱にとって衝撃だった。

続く天文年間(1532〜1555)も、江戸湾の主導権争いは里見氏優位のまま推移していった。

弘治2年(1556)、突如として三浦半島に上陸した里見義弘が鎌倉まで攻め寄せ、許婚だった青岳尼を奪回するという事件が起こる。

実は小弓公方府健在の頃、義弘の父義堯は義明との間に盟約を交わし、まだ幼い義弘と青岳尼の婚約の儀を執り行っていた。

ところが天文7年(1538)の第1次国府台合戦において、北条氏綱・氏康父子によって小弓公方義明は討たれ、小弓御所に残されていた2人の姉妹は相模国に連行され、鎌倉尼五山筆頭の太平寺と次席の東慶寺の住持に据えられた。

そこで義弘は上陸作戦を敢行し、青岳尼を取り戻したのだ。後に青岳尼は還俗して義弘の正室となり、後嗣の義頼を産むことになる。

一方、青岳尼を奪還されて面目をつぶされた氏康は、住持不在となった太平寺を廃寺とするほど怒り狂った。青岳尼が自らの意志で海を渡ったと知ったからだ。

こうした戦いを通して、北条氏は里見氏の上陸作戦を阻止できる強靭な水軍拠点構築の必要性を痛感していた。その結果、取り立てられたのが浦賀城と三崎城である。この2つの城が、北条氏の江戸湾支配の要となっていく。

三崎城がいつ創築されたのは定かでない。おそらく三浦氏が支配していた時代から何らかの拠点があったはずで、徐々に拡大修築していったと思われる。

永禄10年(1567)、三崎城主に指名された氏康五男の氏規は、北条水軍の統括も兼ねることになり、三崎城の大改修に取り組んだ。この創築に近い改修は、天正5年(1577)まで続く。

三崎・浦賀両城が完成したことだけが原因ではないものの、同年11月、陸海からの北条氏の圧迫に耐え切れなくなった里見氏は、北条氏との間に降伏同然の和睦を結ぶことになる。実は9月、里見氏の本拠・佐貫城の沖で海戦があり、里見水軍を破った北条水軍は上陸作戦を敢行し、佐貫城を攻め上げていたのだ。

この時の海戦について詳しく書かれた記録はない。だが里見水軍に相応の打撃を与えない限り、北条水軍は上陸作戦を行えず、その後の補給もままならないので、里見水軍は壊滅的な打撃をこうむっていた可能性がある。

かくして40年余にわたった江戸湾をめぐる戦いは終息する。以後、浦賀城は江戸湾警固の城、三崎城は三浦半島の統治拠点となっていく。

水軍城の到達点

image by PIXTA / 35916985

三崎港は前面に城ヶ島が横たわっていることで、台風が来ても風波が穏やかな天然の良港になっていた。その三崎港を城ヶ島と共に守るかのように、北西から張り出した台地先端部に築かれたのが三崎城である。

城域は東西600m、南北360mで、水軍城としては比較的広い上、その縄張りは北条流築城術の粋を集めたと言ってもいい完成度を示している。

城域には本曲輪(現・青少年会館)などの主郭部と、南西の大堀切を隔てた出丸と呼ばれる領域があり、その分離性は高い。

まず入江(現・三崎港)を背にした断崖上に本曲輪を置き、その東端にあたる先端部に馬出状の伝笹曲輪(七曲輪)を設けている。この伝笹曲輪も断崖上だが、入江側からの登攀も可能なため、あえて本曲輪との間に土塁を設けて区画し、入江から登ってくる敵を、そこで食い止めようとしたのだろう。

本曲輪の西側には土塁を隔てて二曲輪(現・体育館)がある。研究家によっては、本曲輪と二曲輪を逆にしているケースもあるが、確かに東西両曲輪は同程度の高さにあり、城主がどちらにいたか分かりにくい。それでも入江に近い位置にあり、倍近い広さの東側の曲輪を本曲輪とするのが妥当ではないだろうか(里見氏と和睦後に本曲輪を変えた可能性はある)。それゆえ本稿では、東側を本曲輪、西側を二曲輪とさせていただく。

この二曲輪に通じる本曲輪の虎口は、二つ折れの桝形となっており、さらに北側の土塁上には櫓台があり、虎口を射程内に捉えている。

また二曲輪の南には現在、福祉会館のある六曲輪と呼ばれる小さな曲輪がある。この曲輪も断崖上にあるが、南から直接、二曲輪に入ることを防ぐために設けられた曲輪だろう。

二曲輪と本曲輪の北にあるのが二曲輪と四曲輪である。この両曲輪の間には、三崎城の最大の特徴である五角形の馬出がある。この馬出は二曲輪の北側に付けられた虎口を守る形になり、本曲輪と二曲輪内に、敵を一歩も入れさせないという強い意志を感じさせる。

三・四曲輪の北側には外曲輪(現・三崎中学校)が広がっている。この外曲輪にも、かつては土塁と堀が取り巻いていた。こうした緩衝地帯的曲輪を設けることで、緒戦の鉄砲攻撃から城の中核部を守ろうとしたのだろう。

北条氏の城は塁線を屈曲させて横矢を掛け、さらに寄手の侵入路にキルゾーンを設けることで寄手勢力を漸減し、寄手の攻勢が停滞した時に陣前逆襲によって撃退するという縄張りを取っていることが多い。

ところが三崎城は曲輪の高低差を利用し、通路に死角なく横矢を掛けることで、敵の侵入を押しとどめようとしている。ほかの拠点城と比べると、より縄張りの妙によって敵の損耗率を上げ、味方の損耗率を低下させようという意図がうかがえる。つまり杉山城のように塁線の折れによって横矢掛りを丹念に施していく方法とは違い、曲輪の位置関係によって横矢を掛けている。この方が塁線に余計な長さを生じさせないため、より洗練された縄張りだと言えるだろう。

天正期に入ると、北条氏の縄張りはより洗練され、それに比例するように守備兵の練度も上がったと思われる。つまり城兵の練度に自信があるから、これだけ無駄なく論理的な縄張りでも十分に機能させられたのだ。

堀切を隔てた西側には光念寺や本瑞寺、さらにその北には広大な五曲輪(現・三崎小学校)がある。これらの曲輪にも土塁や空堀跡が確認されており、増援兵がやってきた時の駐屯地として使われていたのだろう。

三崎城は、江戸湾における北条氏の水軍城の本拠だった可能性が高い。というのも西の相模湾側に新井城、東の江戸湾側に浦賀城があり、自らの前面には城ヶ島が横たわるという地形のため、三崎城自体が本曲輪のように守られていたからだ。

ただし浦賀城が対里見戦の出撃拠点として最適の場所にあるのに対し、三崎城は狭い湾の奥にあり、どちらかというと船溜り(係留地やドック)の要素が強い気がする。つまり対里見戦において、警固衆の出撃拠点である浦賀城と統治拠点兼船溜りを担った三崎城は、分業体制が取られていたと考えられる。

三崎城は入江を守る水軍城というよりも、陸からの攻撃を防ぐことを主眼にした城である。それは陸戦主体の北条氏の限界というよりも、里見氏との和睦後、三浦半島南部の支配を重視した改変が加えられたと考えるのが妥当だろう。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

IMAGE

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

Kindle版 > ジャンル別
コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

¥1,463Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
Share: