多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「津久井城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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境目の城

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21世紀に至っても、自国の勝手な解釈によって領土や領海を広げようとする国はあるが、戦国時代もそれは同じで、ゆえなく他国に押し入り、その領土・収穫・人的資源を収奪することは日常的に行われていた。むろん実力しか拠り所のない時代には、自らの所領を広げることが即、自らの安全保障に結び付くという一面もあったので、こうした行動を一概に否定はできない。

むろん「侵略して奪う」という行為は、勢力伸長を図れるだけの実力を蓄えている場合で、そうでない場合、「奪われる」というリスクがある。そのリスクを軽減させるために、国境付近に、それなりの防御施設を築く必要が出てくる。

それが境目の城だ。

戦国時代の紛争の多くは、侵略軍と防衛軍との間で行われる。それだけ境目と呼ばれる国境は緊張が高く、堅固な城が築かれた。元々、街道は国境を度外視して造られているため、街道監視と封鎖ができる城を築く必要が出てくる。そのため境目の城の大半は街道の近くに築かれていた、ないしは北条氏の御坂城や山中城のように、城の中に街道を通していた。

また境目の城は、自国の勢力が国境を接している隣国に対し、相対的に強まった場合には侵攻拠点になる。これは軍事用語で言うところの策源地のことで、兵糧の備蓄や侵略部隊の駐屯地としての役割を果たす。

津久井城は、北条氏が武田氏の侵攻を警戒して築いたもので、典型的な境目の城と言えるだろう。

津久井城の成り立ち

image by PIXTA / 51029094

神奈川県の北西部、山梨県との県境に近い宝ヶ峰という独立峰にある津久井城は、津久井湖の南側を走る国道413号線の頭上にそびえているので、「ああ、あの山か」と思う人も多いのではないだろうか。

この城の歴史は古く、鎌倉時代に三浦一族の支族の筑井氏によって築かれたとされている。筑井氏は、衣笠城主の三浦義明の弟・義行が津久井(当時は奥三保と呼ばれていた)に入り、筑井氏を称したことに始まる。築城はその子の太郎次郎義胤だと言われるが、当時、これほど高い山頂に城を築くことはなかったので、史実とは認め難い。

この城は長らく扇谷上杉氏の支配下にあり、主に山内上杉氏との抗争(長享の乱)などで何度か記録に出てきている。とくに明応5年(1496)7月の戦いで、南下してきた山内上杉勢に対して、扇谷上杉方の長尾景春と伊勢弥二郎(北条早雲の弟)が防戦に当たったという軍記物の記載はあるが、この時は城を拠点としただけで、近郊での戦闘となったので、厳密には津久井城をめぐる戦いとは言えない。

その後、相模国は北条氏の支配下となり、津久井領と津久井城は元扇谷上杉氏家臣の内藤氏に託される。だが津久井の地は「半敵地」「敵地行半所務」と文書に出てくるように、北条領でありながら、武田氏の勢力も及んでおり、武田氏の滅亡までは、「半手」と呼ばれる中立的な立場に置かれていたことになる。

その内藤氏だが、以前は室町幕府の奉公衆をしており、最初に内藤氏の津久井領支配が文書で確認されるのが大永4年(1524)だったので、長らく早雲の誘いに応じて東国に下向したとされてきた。しかし扇谷上杉氏の家臣として、それ以前からこの地を預けられていたという説が、最近では有力になりつつある。いずれにせよ内藤氏は、北条氏の草創期からその滅亡まで歩を一にしていくことになる。

内藤氏は初代の大和入道に始まり、二代朝行(この朝の字が扇谷上杉朝良の偏諱ではないかという)、三代康行(康は北条氏康の偏諱)、四代綱秀(一族の田代内藤氏の出で、一時的な中継ぎか)、五代直行(直は北条氏直の偏諱)と続いた。

この一族の特徴としては、北条氏の外征に出た記録はなく、外征の軍役を課されていない防衛専門の軍団だった点だ。つまり常に緊張を強いられる武田氏(後には徳川氏)の境目防衛を託されていたので、常の国人よりも兵も武器も備えねばならず、そのコストが馬鹿にならないことから、外征の軍役を免除されていた可能性がある。

こうしたことから、北条家中において内藤氏は独立的立場を保証され、津久井領の一元的支配を任されていた。ただし次第に譜代家臣化が進み、所領が国役(軍役や普請役など)の賦課対象とされるなど、最後まで独立性の高かった忍領の成田氏、蒔田・世田谷領の武蔵吉良氏、松山領の上田氏などと比べると、その独立性は相対的に低いと言っていいだろう。

津久井城の戦い

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津久井城が大きな役割を担った合戦といえば、城の南3・5㎞ほどにある金谷台地で行われた三増峠の戦いだろう。

永禄12年(1569)、武田信玄は2万の兵を率いて武蔵国から相模国へと侵攻し、鉢形・滝山両城を攻撃した後、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ。だが多分に威嚇目的の外征でもあり、信玄は早々に囲みを解いて撤退に移った。

小田原から甲斐国に戻るには、いくつかのルートがある。この時、信玄は津久井から道志川沿いに甲州に戻る三増峠越えのルートを選んだ。それは北条方の予想とも一致し、北条方は氏照・氏邦兄弟を中心とした2万の部隊によって迎撃態勢を布いて待ち受けていた。それと同時に、当主の氏政率いる主力勢が信玄の追跡に掛かった。挟撃によって武田勢を殲滅しようというのだ。

一方、信玄は小幡重貞(憲重)率いる1200の兵を津久井城の抑えとして先行させ、さらに山県昌景の別動隊5000を三増峠の西方3・5㎞の志田峠方面に進出させた。

その頃、氏政率いる北条方主力勢は武田方の殿軍によって進軍を押しとどめられ、挟撃が困難になりつつあった。そのため迎撃部隊の主将である北条氏照は、武田勢に道を空ける形で、相模川西岸の三増宿、道場原、志田原といった低地に陣を移した。挟撃によって敵を殲滅できないまでも、追い落とすという形で勝利を得ようというのだ。

ところが信玄は高所を占めた時点で、方針を決戦に切り替え、北条方に襲い掛かった。当初は互角の戦いだったが、山県勢が伏兵として北条方の側背を突いたことで、北条方は総崩れとなった。この時、武田方が討ち取った首は3269、北条方が討ち取った首は900に上り、この戦いがいかに激戦だったかを物語っている。

この時、津久井城は何もできなかった。せめて撤退する小幡勢を追い討ちするくらいのことをしてもよさそうなものだが、内藤氏が北条氏から叱責されたという記録はない。つまりこの時の内藤氏は、かなり自己裁量を許された国人だったと思われる。

その21年後、小田原合戦が勃発し、津久井城は最初で最後の籠城戦を展開した末、最初で最後の落城を経験する。内藤氏の主力は小田原城に入っていたこともあり、津久井城に籠もっていた兵力は150騎で、足軽小者を入れても500程度だったと言われている。これに対して豊臣傘下の徳川方は1万2000もの兵力なので話にならない。

この時の戦いの経緯についての記録はない。しかし降伏開城ということはなく、ある程度は戦ったようだ。その証拠に、近隣の農村に様々な落城秘話が伝わっている。これ以降、津久井内藤氏の消息は途絶える。

津久井城の縄張り

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津久井城は相模国の北西部にあり、内藤氏の居城として、また小田原城と八王子城(その前は滝山城)という北条氏の2大拠点城をつなぐ支城として機能していた。

この城は眺望が利くのが特徴で、甲斐・相模両国が見渡せた。とくに津久井城の根小屋(城下町)から三増合戦の行われた金谷台地にかけての眺めは抜群で、武田・北条両軍の戦いが、大パノラマのように眺められたに違いない。

根小屋を持つ根小屋式山城の典型例としても、津久井城はよく取り上げられる。山城部と山麓部の遺構の残存状態も良好で、見どころの多い城となっている。

山城部は、宝ヶ峰の西峰と東峰という2つのピークに展開される曲輪、土塁、堀などから成り、西峰は本城曲輪群、東峰は飯綱曲輪群と呼ばれている。

西峰の本城曲輪群は、本城曲輪と大堀切を隔てた太鼓曲輪から成っている。こちらには3つの桝形虎口と無数の竪堀が見られる。とくに南端の畝状竪堀群は、相模国で唯一の貴重なものだ。

飯綱神社が鎮座する飯綱曲輪群にも2カ所の桝形虎口といくつもの竪堀がある。この飯綱曲輪には、宝ヶ池という水場がある。井戸なら分かるが、これだけ峻険な山城で湧水は極めて珍しい。

この城の山城部の特徴は堀切が2カ所しかないが、縦横無尽に竪堀が掘られていることで、山頂直下から北側に伸びる「トバボリ」や山頂南側から「牢屋の沢」と呼ばれる山麓部に伸びる2筋の竪堀は大規模である。

山城部の曲輪群は痩せた尾根筋に沿って造られており、最大でも500程度の兵しか籠もれなかったはずだ。当然、いざという時の詰城の役割を果たしており、平時、内藤氏は山麓部を城の中心としていたに違いない。

山麓部には、内藤氏の居館跡と言われる「御屋敷」「馬場」「新殿」「左近馬屋」と呼ばれる曲輪など多くの平場がある。発掘調査の結果、この一帯からも多くの堀や土塁が見つかっている。

また最近の発掘により、石敷き通路などの石垣ないしは石積みを使った遺構が多く出土してきている。

山麓部曲輪群の外側には城下集落の「根小屋」が広がり、そこには内藤氏の菩提寺の功雲寺もある。この寺は戦時には出撃陣地のような役割を果たしたのだろう。根小屋は西北にもあり、こちらは「北根小屋」と呼ばれる。こうしたことから、津久井城は広大な城郭都市として、この地域の要となっていたことが分かってきた。

全国的に見ても、中世の山城が根小屋ごと残っている例は少なく、津久井城の遺構は極めて貴重になっている。

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歴史歴史作家の城めぐり

武田氏の来襲に備えた北条氏の境目の城「津久井城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #8】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、神奈川県「津久井城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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境目の城

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21世紀に至っても、自国の勝手な解釈によって領土や領海を広げようとする国はあるが、戦国時代もそれは同じで、ゆえなく他国に押し入り、その領土・収穫・人的資源を収奪することは日常的に行われていた。むろん実力しか拠り所のない時代には、自らの所領を広げることが即、自らの安全保障に結び付くという一面もあったので、こうした行動を一概に否定はできない。

むろん「侵略して奪う」という行為は、勢力伸長を図れるだけの実力を蓄えている場合で、そうでない場合、「奪われる」というリスクがある。そのリスクを軽減させるために、国境付近に、それなりの防御施設を築く必要が出てくる。

それが境目の城だ。

戦国時代の紛争の多くは、侵略軍と防衛軍との間で行われる。それだけ境目と呼ばれる国境は緊張が高く、堅固な城が築かれた。元々、街道は国境を度外視して造られているため、街道監視と封鎖ができる城を築く必要が出てくる。そのため境目の城の大半は街道の近くに築かれていた、ないしは北条氏の御坂城や山中城のように、城の中に街道を通していた。

また境目の城は、自国の勢力が国境を接している隣国に対し、相対的に強まった場合には侵攻拠点になる。これは軍事用語で言うところの策源地のことで、兵糧の備蓄や侵略部隊の駐屯地としての役割を果たす。

津久井城は、北条氏が武田氏の侵攻を警戒して築いたもので、典型的な境目の城と言えるだろう。

津久井城の成り立ち

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神奈川県の北西部、山梨県との県境に近い宝ヶ峰という独立峰にある津久井城は、津久井湖の南側を走る国道413号線の頭上にそびえているので、「ああ、あの山か」と思う人も多いのではないだろうか。

この城の歴史は古く、鎌倉時代に三浦一族の支族の筑井氏によって築かれたとされている。筑井氏は、衣笠城主の三浦義明の弟・義行が津久井(当時は奥三保と呼ばれていた)に入り、筑井氏を称したことに始まる。築城はその子の太郎次郎義胤だと言われるが、当時、これほど高い山頂に城を築くことはなかったので、史実とは認め難い。

この城は長らく扇谷上杉氏の支配下にあり、主に山内上杉氏との抗争(長享の乱)などで何度か記録に出てきている。とくに明応5年(1496)7月の戦いで、南下してきた山内上杉勢に対して、扇谷上杉方の長尾景春と伊勢弥二郎(北条早雲の弟)が防戦に当たったという軍記物の記載はあるが、この時は城を拠点としただけで、近郊での戦闘となったので、厳密には津久井城をめぐる戦いとは言えない。

その後、相模国は北条氏の支配下となり、津久井領と津久井城は元扇谷上杉氏家臣の内藤氏に託される。だが津久井の地は「半敵地」「敵地行半所務」と文書に出てくるように、北条領でありながら、武田氏の勢力も及んでおり、武田氏の滅亡までは、「半手」と呼ばれる中立的な立場に置かれていたことになる。

その内藤氏だが、以前は室町幕府の奉公衆をしており、最初に内藤氏の津久井領支配が文書で確認されるのが大永4年(1524)だったので、長らく早雲の誘いに応じて東国に下向したとされてきた。しかし扇谷上杉氏の家臣として、それ以前からこの地を預けられていたという説が、最近では有力になりつつある。いずれにせよ内藤氏は、北条氏の草創期からその滅亡まで歩を一にしていくことになる。

内藤氏は初代の大和入道に始まり、二代朝行(この朝の字が扇谷上杉朝良の偏諱ではないかという)、三代康行(康は北条氏康の偏諱)、四代綱秀(一族の田代内藤氏の出で、一時的な中継ぎか)、五代直行(直は北条氏直の偏諱)と続いた。

この一族の特徴としては、北条氏の外征に出た記録はなく、外征の軍役を課されていない防衛専門の軍団だった点だ。つまり常に緊張を強いられる武田氏(後には徳川氏)の境目防衛を託されていたので、常の国人よりも兵も武器も備えねばならず、そのコストが馬鹿にならないことから、外征の軍役を免除されていた可能性がある。

こうしたことから、北条家中において内藤氏は独立的立場を保証され、津久井領の一元的支配を任されていた。ただし次第に譜代家臣化が進み、所領が国役(軍役や普請役など)の賦課対象とされるなど、最後まで独立性の高かった忍領の成田氏、蒔田・世田谷領の武蔵吉良氏、松山領の上田氏などと比べると、その独立性は相対的に低いと言っていいだろう。

津久井城の戦い

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津久井城が大きな役割を担った合戦といえば、城の南3・5㎞ほどにある金谷台地で行われた三増峠の戦いだろう。

永禄12年(1569)、武田信玄は2万の兵を率いて武蔵国から相模国へと侵攻し、鉢形・滝山両城を攻撃した後、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ。だが多分に威嚇目的の外征でもあり、信玄は早々に囲みを解いて撤退に移った。

小田原から甲斐国に戻るには、いくつかのルートがある。この時、信玄は津久井から道志川沿いに甲州に戻る三増峠越えのルートを選んだ。それは北条方の予想とも一致し、北条方は氏照・氏邦兄弟を中心とした2万の部隊によって迎撃態勢を布いて待ち受けていた。それと同時に、当主の氏政率いる主力勢が信玄の追跡に掛かった。挟撃によって武田勢を殲滅しようというのだ。

一方、信玄は小幡重貞(憲重)率いる1200の兵を津久井城の抑えとして先行させ、さらに山県昌景の別動隊5000を三増峠の西方3・5㎞の志田峠方面に進出させた。

その頃、氏政率いる北条方主力勢は武田方の殿軍によって進軍を押しとどめられ、挟撃が困難になりつつあった。そのため迎撃部隊の主将である北条氏照は、武田勢に道を空ける形で、相模川西岸の三増宿、道場原、志田原といった低地に陣を移した。挟撃によって敵を殲滅できないまでも、追い落とすという形で勝利を得ようというのだ。

ところが信玄は高所を占めた時点で、方針を決戦に切り替え、北条方に襲い掛かった。当初は互角の戦いだったが、山県勢が伏兵として北条方の側背を突いたことで、北条方は総崩れとなった。この時、武田方が討ち取った首は3269、北条方が討ち取った首は900に上り、この戦いがいかに激戦だったかを物語っている。

この時、津久井城は何もできなかった。せめて撤退する小幡勢を追い討ちするくらいのことをしてもよさそうなものだが、内藤氏が北条氏から叱責されたという記録はない。つまりこの時の内藤氏は、かなり自己裁量を許された国人だったと思われる。

その21年後、小田原合戦が勃発し、津久井城は最初で最後の籠城戦を展開した末、最初で最後の落城を経験する。内藤氏の主力は小田原城に入っていたこともあり、津久井城に籠もっていた兵力は150騎で、足軽小者を入れても500程度だったと言われている。これに対して豊臣傘下の徳川方は1万2000もの兵力なので話にならない。

この時の戦いの経緯についての記録はない。しかし降伏開城ということはなく、ある程度は戦ったようだ。その証拠に、近隣の農村に様々な落城秘話が伝わっている。これ以降、津久井内藤氏の消息は途絶える。

津久井城の縄張り

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津久井城は相模国の北西部にあり、内藤氏の居城として、また小田原城と八王子城(その前は滝山城)という北条氏の2大拠点城をつなぐ支城として機能していた。

この城は眺望が利くのが特徴で、甲斐・相模両国が見渡せた。とくに津久井城の根小屋(城下町)から三増合戦の行われた金谷台地にかけての眺めは抜群で、武田・北条両軍の戦いが、大パノラマのように眺められたに違いない。

根小屋を持つ根小屋式山城の典型例としても、津久井城はよく取り上げられる。山城部と山麓部の遺構の残存状態も良好で、見どころの多い城となっている。

山城部は、宝ヶ峰の西峰と東峰という2つのピークに展開される曲輪、土塁、堀などから成り、西峰は本城曲輪群、東峰は飯綱曲輪群と呼ばれている。

西峰の本城曲輪群は、本城曲輪と大堀切を隔てた太鼓曲輪から成っている。こちらには3つの桝形虎口と無数の竪堀が見られる。とくに南端の畝状竪堀群は、相模国で唯一の貴重なものだ。

飯綱神社が鎮座する飯綱曲輪群にも2カ所の桝形虎口といくつもの竪堀がある。この飯綱曲輪には、宝ヶ池という水場がある。井戸なら分かるが、これだけ峻険な山城で湧水は極めて珍しい。

この城の山城部の特徴は堀切が2カ所しかないが、縦横無尽に竪堀が掘られていることで、山頂直下から北側に伸びる「トバボリ」や山頂南側から「牢屋の沢」と呼ばれる山麓部に伸びる2筋の竪堀は大規模である。

山城部の曲輪群は痩せた尾根筋に沿って造られており、最大でも500程度の兵しか籠もれなかったはずだ。当然、いざという時の詰城の役割を果たしており、平時、内藤氏は山麓部を城の中心としていたに違いない。

山麓部には、内藤氏の居館跡と言われる「御屋敷」「馬場」「新殿」「左近馬屋」と呼ばれる曲輪など多くの平場がある。発掘調査の結果、この一帯からも多くの堀や土塁が見つかっている。

また最近の発掘により、石敷き通路などの石垣ないしは石積みを使った遺構が多く出土してきている。

山麓部曲輪群の外側には城下集落の「根小屋」が広がり、そこには内藤氏の菩提寺の功雲寺もある。この寺は戦時には出撃陣地のような役割を果たしたのだろう。根小屋は西北にもあり、こちらは「北根小屋」と呼ばれる。こうしたことから、津久井城は広大な城郭都市として、この地域の要となっていたことが分かってきた。

全国的に見ても、中世の山城が根小屋ごと残っている例は少なく、津久井城の遺構は極めて貴重になっている。

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