
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
鎌倉鎮護の王城

元弘3年(1333)、新田義貞率いる反幕府勢力の乱入により、鎌倉幕府は滅亡する。これにより鎌倉は歴史の表舞台から姿を消し、再び政治の中心に返り咲くことはなかった。
だが室町時代末期、鎌倉の北辺の城、すなわち玉縄城をめぐる戦いによって、歴史が大きな転換点を迎えたことは、あまり知られていない。この戦いで相模守護の扇谷上杉氏の没落が決定付けられ、北条早雲が台頭してくる。つまり一つの城をめぐる戦いが、関東における下剋上の端緒となったのだ。
鎌倉は東西北の三方を山に囲まれ、南の一方だけが海に開けた馬蹄形の地形をしていることから、九条兼実の日記『玉葉』では鎌倉城と呼ばれている。だが城という概念で鎌倉という中世都市が構築されたわけではないので、一括りにするのは注意が必要だろう。ただし外部から来た場合、鎌倉七口のいずれかを通らなければ中に入れないことから、旅人は城のような感覚を抱いたのかもしれない。
それゆえ一見、堅固に見える鎌倉だが、実は意外にもろい一面もある。
歴史上、鎌倉を舞台にした戦いは4度行われている。まず前述の新田義貞による鎌倉攻め、続いて建武2年(1335)の北条時行によるもの(中先代の乱)、建武4年(1337)の北畠顕家によるもの、そして文和元年(1352)の新田義興によるものである。いずれも鎌倉は落城ないしは自落しており、寄手方が勝利・占拠している。
最も激戦となったのは、初戦にあたる鎌倉幕府滅亡時の戦いで、軍記物の記載によると、鎌倉七口のうち化粧坂、極楽寺、巨福呂坂という3つの口をめぐって熾烈な攻防が展開されたという。だがこの時、稲村ヶ崎がいつもより広く干上がったため、そこから新田勢に乱入されて鎌倉は陥落した。その時の教訓からか、それに続く3度の戦いで、守備側はいくらも抵抗せずに鎌倉から自落している。
結論から言うと、鎌倉は七口を防衛するだけでは守れない。すなわち強固な前衛陣ないしは出城を築き、そこを拠点として、鎌倉を攻めようとする敵に損耗を強いる戦い方が必要になる。それにいち早く気づいた男こそ、北条早雲だった。
北条早雲の戦い

北条氏(伊勢氏)は「他国の兇徒」と呼ばれ、東国ではよそ者扱いされていた。それゆえ関東内でプレゼンスを確立するには、鎌倉を守るという形を取ることが最適であり、それによって御家人を祖とする者が多い関東国衆の認知を得ようとした。そのため早雲は、早くから鎌倉の大社大寺に多額の寄進をして、味方になるよう調略していったと言われる。
それでは早雲が、どのようにして相模一国を制圧したかを見ていこう。
永正7年(1510)、関東管領・山内上杉顕定が出征した越後国で討ち死にを遂げることで、南関東でも新旧の戦いが激しくなる。旧とは山内上杉氏と手を組む相模守護の扇谷上杉氏で、新とは北条氏である。
当初は上杉方が優勢だったが、永正9年(1512)6月、山内上杉氏の家督争いが勃発し、これが古河公方家の跡目争いを再燃させ、その結果、今度は山内上杉憲房と扇谷上杉朝良が仲違いし、干戈を交えるようになる。
これを見た早雲は同年8月、扇谷上杉方の最前線に位置する相模国中郡平塚の岡崎城に攻め寄せた。この城は朝良が2年前に取り立てたものだが、この頃は、三浦道寸(義同)が守っていた。
相模国の東郡は扇谷上杉氏の所有のままなので、朝良自らは関東北部で憲房と戦い、三浦道寸に中郡を与え、早雲の抑え役を託していたと思われる。
だが道寸の奮戦空しく岡崎城は落城する。この戦いに勝利した早雲は、三浦勢を追って鎌倉に迫る。一方、三浦勢は鎌倉を素通りし、逗子にある住吉要害まで撤退した。
双方は鎌倉を挟んで4カ月余もにらみ合いを続けるが、永正10年(1513)正月、鎌倉の材木座から由比ヶ浜の辺りで全面衝突し、北条方に凱歌が上がった。
早雲は三浦勢を追って三浦半島沿いに南下し、4月には三浦一族の本拠・新井城を包囲する。これを聞いた朝良は憲房と和解し、共に早雲を討つことにした。
一方の早雲は、鎌倉以南の三浦半島に扇谷上杉勢を入れないことを戦略目標とし、玉縄の地に城を築いた。つまり築城の直接的きっかけは、鎌倉を守るということよりも、扇谷上杉氏と三浦氏の間を分断し、各個撃破することにあった。
ちなみに玉縄築城の少し前、早雲は玉縄城の西6・7㎞の地点にある大庭城に駐屯している。この城は永正元年(1504)頃に扇谷上杉氏が築いたもので、廃城になっていたものを早雲が取り立てたのだ。ただし玉縄城に移った後は、再び廃城としたらしい。
早雲の玉縄築城からさかのぼること20年ほど前の明応3年(1494)、長享の乱の折、山内上杉顕定によって玉縄要害が取り立てられたという記録が残る。だが一時的な砦なのは明らかなので、玉縄城の創築は早雲と考えて差し支えないだろう。
やがて扇谷上杉勢が三浦半島への侵入を開始する。だが上杉方の先手を担った太田資康(道灌の嫡男、道寸の娘婿)は、相模の粟船 (後の大船)まで攻め寄せたものの、この地で撃退される(一説に、この戦いで資康は討ち死にする)。
さらに永正13年(1516)6月、玉縄近郊まで攻め寄せた朝良の養子・朝興が惨敗を喫することで、上杉方は万策尽き果てる。
玉縄という拠点城を持つ北条方と遠征してきた上杉方の差が、そこにはあったはずだ。城とは枕を高くして眠れる安全圏であり、それだけ将兵の心理を安定させる存在なのだ。
これにより同年7月、新井城は陥落し、三浦道寸は自刃した。かくして鎌倉御家人の代表的存在だった三浦一族は滅亡し、早雲は相模国の領有を成し遂げた。
結局、玉縄城ないしはその近郊で二度にわたる戦いが行われ、そのいずれも城方が撃退に成功し、鎌倉以南に敵を入れなかった。これまで誰も成し得なかった鎌倉防衛を、早雲は玉縄に城を築くことで成し遂げたのだ。これこそ早雲が、為政者としてだけでなく軍略家としても希有な存在だったことの証しになろう。
その後、玉縄城主は早雲次男の氏時、一族の為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝と引き継がれていくが、氏勝の時に小田原合戦が勃発し、降伏開城という形で豊臣方の徳川氏に引き渡された。
その結果、関東に家康が移封され、玉縄城には家康腹心の本多正信が入る。しかし、すぐに本多氏も転封となり、城主は長沢松平氏に代わった。その後、長沢松平氏も転封され、元禄16年(1703)、玉縄城は廃城となった。
「鎌倉鎮護の王城」(『快元僧都記』)も、遂にその役割を終えたのだ。
その構造と防衛構想

「いざ鎌倉」という言葉にもあるように、中世関東の道は鎌倉を起点として四通八達していった。御恩と奉公の関係から、幕府から招集が掛かった時、御家人たちは鎌倉へと馳せ参じねばならないからだ。
これらの道を総称して鎌倉街道と呼ぶが、鎌倉を発した街道は主に3つの幹線に分けられる。上道、中道、下道である。戦国期には小田原が相模国の中心になるため、いくつかの街道が小田原中心に造られるが、三道の優位は変わらなかった。
玉縄の地は、藤沢から江戸方面へと続く鎌倉街道下道と、三浦半島に向かう街道、さらに江戸湾に面する六浦湊へと続く街道が交差する交通の要衝にあった。また玉縄城の近くには、舟運拠点の粟船があり、相模国中央部への物資の供給を担っていた。
粟船は相模原台地と呼ばれる丘陵の東端にあたり(現在の大船駅西口から望める大船観音が、その突端部にあたる)、その台地突端付近の複雑な丘陵と谷を利用して造られたのが、玉縄城である。
その外堀の役目を果たしている柏尾川は、幾筋もの支流を作りつつ屏風ヶ浦から江戸湾に注いでおり、そこから運ばれてきた物資を内陸部に運ぶための中継基地が粟船だった。つまり粟船の近くに拠点城を築いたことは、早雲晩年の念願である江戸湾制圧・房総半島進出の布石と考えられるだろう。
また玉縄城の東には柏尾川が、南には境川が、西には滝ノ川が、北には大面川が流れており、それを外堀と見立てることができるので、玉縄は防御性にも優れた地だった。
東国の城に多いのは、舌状台地の背後を掘り切り、その先端部に至るまで串団子状に曲輪を連ねるという縄張りだが、玉縄城は全く異質だった。
この城は、たまたま自然地形としてあった火山の火口状の擂鉢地形を本丸とし、それを取り巻くように連なっていた小山を土塁に見立てて切岸し、その上にも曲輪を築くという構造をしている。
こうした外輪山状に尾根が360度めぐらされている地形は極めて珍しく、そうした地形に城を築いた類例もない。惜しむらくは城をめぐる攻防戦が行われなかったことだが、どのような戦いになったのかを想像するだけでも楽しい。
本丸は現在、女子校のグラウンドになっており、9000㎡もの広さがある。そこに城主の屋敷などがあったという。虎口は南北の2カ所に設けられており、大手は南側とされている。
また標高80m、本丸との比高20mの最高所にあたる本丸東側には、諏訪壇と呼ばれる曲輪があり、籠城戦をする場合、ここを指揮所にするつもりだったのだろう。
周囲には多くの曲輪が設けられていたが、宅地化が進むことで、現在は大半が消滅している。だが今、往時の玉縄城の姿を再現すべく、行政はもとより、地元の有志や地域史家の方々が努力を続けている。
筆者が最初に訪問した15年ほど前に比べれば、わずかに残っていた遺構の復元や緑地化が進み、女子校内に入れずとも、その周辺を回るだけで十分に楽しめる城となった。きっと早雲も喜んでいるに違いない。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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