教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします
歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
小田原合戦の歴史的意義
戦国時代最大の合戦は何かと問われれば、多くの人が関ヶ原の戦いと答えるのではないだろうか。確かに、この戦いで動員された兵数は両軍合わせて17万に上るという。ところが大坂冬の陣ではこれが29万となり、動員兵数で関ヶ原の戦いを大きく上回る。
大河ドラマの影響もあり、今は多くの方が「大坂の陣こそ戦国最大の合戦」と思われるかもしれないが、実は、これとほぼ同規模の合戦があった。関東に覇を唱えた北条氏が、豊臣秀吉率いる天下軍を迎え撃った小田原合戦である。この戦いで双方は、実に29万から30万もの兵を動員し(北条方5〜6万)、戦域は関東全域にわたった。
むろん秀吉の大軍を引き受けることができたのは、関東230万〜280万石という北条氏の国力の成せる業だが、精神面で支えたのは、北条氏の本拠の小田原城にほかならない。この巨大城郭が、よくも悪くも小田原合戦の帰趨を決定付けることになる。
小田原城の歴史
2016年5月1日、平成の大改修を終えた小田原城天守がリニューアル・オープンした。白亜の外観だけでなく、天守内の展示スペースの内装も一新され、展示方法にも工夫が凝らされるようになり、これまで以上に小田原城の全貌が摑みやすくなった。
では小田原城の歴史を紐解いていきたいと思う。
鎌倉時代初期、源頼朝に早くから付き従った御家人の大森氏は、平家追討戦で功を挙げ、恩賞として駿河国鮎沢荘を与えられた。
応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱では、関東公方に味方して勝利に貢献し、この時、「小田原関所の預人」として、相模国小田原一帯の所領を下賜された。これにより大森氏は小田原に本拠を移し、相模国守護の扇谷上杉氏を支える寄子国衆の一つとなっていく。
『鎌倉大草紙』によると、大森氏が小田原城を創築したのは、禅秀の乱から40年後の康正2年(1456)だという。この頃、鎌倉公方・足利氏と関東管領・山内上杉氏との間で享徳の乱が戦われており、扇谷上杉氏の被官である大森氏も、こうした緊張から無縁ではいられなかったのだ。
享徳の乱によって関東公方が鎌倉から古河に本拠を移した頃、相模国守護代の太田道灌らが江戸・河越・岩付の三城を取り立てている。これらの城は、それまでの城の概念を一変させるほど複雑な構造をしており、防御力も格段に高まっていた。
しかし、同時期に大森氏によって造られた小田原城が、どのような規模で、どのような縄張りで、どこに造られたかは定かでない。
長享元年(1487)、今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で長享の乱が勃発する。
この戦いに扇谷上杉方として参戦した大森氏だったが、途中で寝返り、北条早雲(伊勢宗瑞)の弟の弥二郎を殺してしまう。しかしこれに怒った早雲の攻撃を受け、明応5年(1496)6月から文亀元年(1501)の間に小田原から追われる。かくして小田原城は早雲のものになる。
この時、早雲がいかなる経緯から小田原を獲得したかは、残念ながら分かっていない。推定期間も5年と長いが、研究者の方々によると、残存文書の関係から、これ以上は絞り込めないという。
その後、大森氏は甲斐武田氏の食客になって命脈を保つが、いつしか歴史から消えていった。
北条氏二代氏綱は本拠を伊豆の韮山城から小田原城に移し、これ以降、小田原は東国の政治・経済・文化の中心になっていく。
その後、小田原城の実像ははっきりしないが、天文20年(1551)、小田原に滞在した京都南禅寺の僧・東嶺智旺の書状で、その姿が垣間見える。
これによると小田原の城は、「太守(三代当主の氏康)の塁(城)は喬木森々、高館は巨麗にして、三方に大池あり。池水は湛々として浅深はかるべからず」という有様だったという。
つまり当時の小田原城は、城内に巨木が鬱蒼と生い茂り、巨大で華麗な城館があり、三方に大きな堀を持つ城だったと分かる。
ここからは、防御力を重視する戦国後期の城とは異なる、神韻とした古刹の雰囲気を漂わせる戦国前期の城の姿が伝わってくる。
すでにこの時、二の丸を囲む蓮池と東と南にある水堀の存在が確かめられるが、注目すべきは城内に巨麗な高館があったという点だ。瓦葺ではないにしろ、京都に住む智旺が「巨麗」という表現を使うほど立派な館や高楼が、城内にあったのには驚かされる。
すなわちこの頃の小田原城は、足利将軍家の御所的な趣と、戦国後期の城の防御性を併せ持つ過渡期的形態にあったと考えられる。
智旺の頃から26年を経た天正5年(1577)の小田原城は、二曲輪の外側にさらに三曲輪をめぐらし、東西1300m、南北750mの規模に広がっていた。
後に造られる大外郭(惣構)は、城下町や農地を取り込むことを目的としていたので、この時に小田原城の中核部分は完成したことになる。
永禄3年(1560)には上杉謙信、永禄12年(1569)には武田信玄の侵攻を受けるものの、撃退に成功した北条氏は小田原城での籠城戦に自信を深めていく。
その後、小田原城が危機に晒されることはなかったが、織田信長の天下を引き継いだ豊臣秀吉が天下統一を模索し始めることで、北条氏が関東で独立独歩を貫くのは難しくなっていった。
そうした情勢の変化もあり、北条氏は豊臣政権との緊張が高まり始めた天正15年(1587)初頭から、総延長9㎞に及ぶ惣構(大外郭)の普請を始め、3年半後の小田原合戦の直前、戦国期小田原城を完成させる。
そして天正18年(1590)、小田原合戦が勃発すると、18万余の豊臣軍に包囲された小田原城は3カ月半の籠城に耐えたものの降伏し、北条氏は95年の歴史に終止符を打った。
定説では、籠城戦での成功体験が忘れられず、それにこだわったため墓穴を掘ったとされるが、一面、それは当たらずとも遠からずだろう。
小田原城が難攻不落であるという神話が、北条方の将兵に与えた影響は大きい。そうした心理が小田原城一個を頼むことにつながり、その結果、屏風山・鷹巣・宮城野・塔ノ峰といった箱根山城塞群や、深沢・足柄・浜居場・新といった小田原の西北方面を守る諸城で、敵の姿が見えれば小田原城に逃げ込むといった心理を生み出してしまった。まさに北条氏は、難攻不落の罠にはまってしまったと言えるだろう。
北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入部し、江戸を本拠に定めた。小田原城には大久保忠世が4・5万石で入ったが、次代の大久保忠隣の時、不始末から改易処分となり、稲葉氏が入った。その後、再び大久保氏が入ることで、小田原城は近世城郭として生まれ変わっていく。こうした変化の中、かつての本曲輪があった山地部分が次第に打ち捨てられ、より海に近い低地部分へと城の中心が移っていき、明治3年(1872)の廃城を迎える。
小田原城の構造と縄張り
小田原城は15世紀から19世まで500年近くにわたって、同一の場所で縄張りの改変と拡張が行われてきた城だ。そうした城は構造や縄張りを説明する際、極めて分かりにくいことになる。そこで今回は、戦国期小田原城に限定して説明する。
その占地だが、小田原城は箱根古期外輪山から延びる三条の尾根の上に築かれている。つまり城内(惣構内)には台地と谷底低地が入り組んでおり、それが小田原城の第一の特徴になっている。
最も北側の谷津山尾根は、桜の馬場、山の神台、岩槻台、谷津御鐘ノ台を経て大稲荷神社付近で消えるが、大外郭線に沿っているため、荻窪、久野、井細田の三口が設けられた。
八幡山尾根と呼ばれる中央の尾根には、八幡山古郭から近世小田原城の本丸までの中核部分が築かれている。
最も南側の天神山尾根は、小峯御鐘ノ台から早川二重戸張を経て早川口まで続くラインを構成している。つまり南北の2つの尾根は、惣構を構築する上で重要な役割を果たした。
さらに小田原城の北東から南西にかけて東海道が通っているため、城下町もできやすく、港に近いので交易も盛んだった。
要害性の面でも小田原は極めて優れている。小田原の地は西に箱根山と早川があり、東に酒匂川、山王川、渋取川が流れ、東は海に面している。そのため防御を固めるのは北だけとなるが、そちらは山岳地帯になっており、寄手は兵力を集中しにくい。
唯一の弱みは北西方面で、箱根山の塔ノ峰付近から小峯御鐘ノ台まで大きな尾根が延びてきており、そこから侵攻されるとひとたまりもない。
そこで、3本の尾根の根元部分に三重の大堀切を設けて尾根筋を断ち切ることで、城の独立性を高め、北西の尾根筋からの侵入を阻んでいる。
3つの大堀切の中でも、東堀は幅20〜30m、深さは土塁の頂上から地面まで12mあり、 堀の法面は50 度という急勾配で、空堀としては全国一の規模だ。
小田原城は平山城で、縄張り的には輪郭式になる。その特徴としては、戦国時代後期から本丸となった現在の天守のある一帯と、それ以前の時代の中心だった八幡山古郭群一帯の二極構造になっている点が挙げられる。
当初は八幡山古郭と呼ばれる場所に本曲輪が置かれ、背後に西曲輪・藤原平・鍛冶曲輪が、前衛として東曲輪と南曲輪が配されていたが、三代氏康の時代に、江戸時代の本丸や二の丸と同じ一帯に城の中心部を移した。
その後、四代氏政から五代氏直の時代にかけて、小田原城は改変と拡張を繰り返し、小田原合戦の直前、惣構を備える巨大城郭になる。しかも城内には膨大な武具や兵糧の備蓄があり、籠城戦を貫徹しようとすれば、数年は戦える余力があった。
ただし、そうした難攻不落というイメージが北条氏に籠城戦一辺倒という方針を取らせ、また近隣諸城に籠もる兵たちから「その場に踏みとどまって戦う」という意識を奪ってしまったことも否めない事実だろう。いかに難攻不落の名城であっても、人の心には勝てないのだ。
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